Will be there
呼び出された上野駅前のバーは煙草の苦味に隅々まで満ちていて、ドアを開けた途端、派手にむせてしまった。場違いな黄昏色の世界を恐る恐る見回すと、長く伸びるカウンターの奥にうずくまるようにして、ポニーテール姿の彼女が手招きをしてきた。
「おー、
ずいぶん長く顔を見ていなかったというのに、しこたま飲んだ後なのが一目瞭然だ。わたしは挨拶代わりの嘆息を床に落として、赤らんだ彼女の顔を覗き込んだ。赤みの正体は酒ばかりではないようだった。
「……泣いてたの、
「聞いてよぉ! 彼氏が急に『お前めんどくさいから別れよう』とか言い出してさぁ……! そんで私の言い分も聞かずに着の身着のままでポイだよ! ひどいよね、あんまりでしょ……っ」
わたしの問いにはまともに答えてももらえないままに、マシンガンのような愚痴が始まった。言われてみると、丸い背中の向こうには衣類の詰め込まれた旅行カバンが見当たる。命の危機だ、などと脅し文句のようなメッセージに驚いて飛んできたのだけれど、確かにこうして寒空の下へ放り出されれば、命の危機を感じるのも無理ないか……。拍子抜けとやるせなさで重たくなった腰を、わたしはそっと彼女の隣の席に下ろした。
「お知り合いですか」
バーテンダーの男性が苦笑気味に声をかけてきた。わたしが来る前は、彼が愚痴の犠牲になっていたらしい。
恐縮しながら、私も苦笑した。
「そうですね。
知り合いだなんて他人行儀な言葉を使う必要、本当はなかった。ポニーテールの彼女──
もっともそれはわたしの側の認識で、星奈にとってわたし──
──もう仕事は始めてるの?
──東京のどこに暮らしてるの?
──身体の調子はどうなの?
尋ねたい文句は電車の中でさんざん並べ立てたはずなのに、顔を見た瞬間、真っ先に心を衝いたのは鈍色の後悔だった。来なきゃよかった──。そんな悔いが頭の隅をどうにも抜けなくなった。どうしてそんなことを思ってしまったのか、自分自身にも分からないまま。
バーテンダーの男性が言うには、星奈はすでに一時間以上も一人で酒を浴びていたらしい。すっかり泥酔して呂律も回らない彼女から、彼女の近況を聞き出すのには苦労した。
地元の福島県の専門学校を出て、今は渋谷の服飾店に勤務しているのだという。大学院に通うわたしは現在二十三歳で、星奈も同い年なので、彼女の東京歴は間もなく三年になるようだ。その三年間のうちに彼氏も転々としていて、直近の彼氏と付き合い始めたのはわずか二ヶ月前のことだった。上野に住む彼のもとへ転がり込み、上野駅始発の銀座線で通勤していたらしい。──もっとも、それも彼に振られてしまった今日までの話だ。
「家、遠いんだよぉ」
肩にもたれ掛かりながら星奈は嘆いた。
「住みたい街住みたい街っていうから
「そんなに嫌なら今までどこに住んでたの」
「ずっと彼氏の家を渡り歩いてた……」
聞けば上京してからの三年間、恋人の存在しない日はほとんど一日もなかったらしい。わたしは舌を巻きすぎて満足に言葉も返せなかった。わたしなど上京してからの五年間、誰と付き合ったためしもないのに。
「今夜、どうするの」
念の為を思って尋ねると、星奈は真っ赤になった鼻を派手に啜り上げた。
「……決めてない」
「吉祥寺には帰らないの?」
「そんなん無理に決まってんじゃん。もう電車なくなっちゃうよ」
「そりゃそうだけど」
「あーあ……私このままそのへんの公園のベンチで死ぬのかなぁ……孤独死だよ孤独死……だって誰も弔ってくれないもん……くれるはずの人、さっき……いなくなっちゃったんだもんっ……」
わたしの話を聞いているのか聞いていないのか、好き放題にまくし立てながら星奈は鼻を
星奈の言いたいことは分かっている。
わたしを呼び出した理由にも、ここまでくれば言外に察しがついていた。
「……うち、来る?」
我が意を得たりとばかりに、ポニーテールの彼女は夢中でうなずいた。飛び散った鼻水が頬に付いて、彼女の思い通りに動かされている自分に気付いて、わたしまで泣きたくなった。
数いる知り合いの中からわたしを呼び出したのも、星奈に言わせれば「中高の友達で東京に住んでるのは仁乃だけだったから」だという。星奈は初めからわたしの家を仮宿にするつもりだったのだ。見事に彼女の術中に嵌まった自分の情けなさがつくづく呪わしくて、久方ぶりの再会を喜ぶ気にもなれなかった。星奈が喜んでいるかどうかも疑わしかったけれど。
東京の北東に広がる下町、家賃の安い隅田川近くの中古アパートにわたしの家はある。最寄り駅を尋ねられたので「京成線の
「どこそれ。タピれる店あんの?」
「タピオカ売ってるお店ならあるけど……」
うまく流行に乗れない自分が物悲しくて、わたしは行ったことない、などと続けはしなかった。「意外に良い街じゃん」と星奈は
自分勝手なことを
──もともと彼氏には不満しかなかったこと。言い寄られて付き合ったはいいものの、実は酔うと平気で拳も振るう乱暴者だったこと。そのくせ悔しいほどにイケメンで、一緒に撮った写真を見せれば誰もが「よかったね」と笑ってくれるので、鼻高々に誇ってしまう自分がたまらなく嫌だったこと。見てくれがいいばかりに女子受けがよくて浮気性で、飲み会に赴くようなノリと勢いで女の子を引っかけてから帰ってくること。性交渉の時は自分ばかりが気持ちよくなりたがって絶頂もできないこと。疲れて帰った夜も容赦なく手を出してくること。最近はすっかり恋人というより性欲解消のためのセフレと化していたこと。云々。
物足りない両腕を枕に回して抱き締めながら、わたしは滝のように溢れ続ける星奈の愚痴を黙々と聴き続けた。あまりの虚しさに途中からは完全に上の空だった。それに何より、過去23年間、誰かと付き合ったことも誰かに身体を許したこともないわたしには、星奈の舐めてきたであろう辛酸は半分も理解できなかった。
実のところ、この愚痴大会に付き合わされるのも今回が初めてではない。星奈は中学や高校の頃からこういう子だった。誰かれ構わず知り合いの子を捕まえては、思いつくままに愚痴や文句を並べ立てて溜飲を下げる。控えめに言っても迷惑な習性だけれど、心の闇を独りで抱え込んで悪化させる
「もう寝る」
さんざんわたしの時間を犠牲にした末、丑三つ時を回る頃になってようやく星奈は話を打ち切り、勝手にわたしのベッドに潜り込んで寝てしまった。代わりの布団を用意する間も与えられなかったわたしは、ただただ途方に暮れつつ、仕方なく星奈の食べ散らかしたお菓子の後始末を済ませ、シャワーを浴び直して、それから取り出した来客用の布団をベッドの横に並べた。長い拘束から解かれたばかりの身体は水が染みたように重たくて、もはや横柄な星奈に不満を申し立てるような元気も、勇気も、どこからも湧いてはこなかった。
酒の臭いでちっとも寝付けない夜だった。
耳をすませば、星奈の寝息がしんしんと暗闇にこだましている。退廃的なアルコール臭の漂う寝室に、スタンドライトの豆電球に照らし出された星奈の横顔ばかりが浮かんでいる。
可愛い顔立ちだな、と思う。高校時代から星奈は美貌に恵まれていて、わたしの記憶が正しければ当時から恋人には事欠いていなかったはずだ。柔らかな輪郭を描く桃色の唇が、時おり唾の糸を引きながら開いては閉じて、また開いて、閉じる。その繰り返しが不思議と気に掛かって、わたしは星奈の寝顔から目を離すことができなかった。星奈に言い寄る男たちの気分が、少しだけ理解できた気がした。
可愛いって、正義だ。
星奈を見ていると毎度のように諦念が浮かぶ。
その身が振りまくフェロモンじみた魅力に身をほだされて、どんなに嫌なことをされても不愉快になりきれず、嫌いにもなりきれない。この世界にはそういう魔性を備えた人間が一定数いて、星奈もその一人なのだと思う。他者からの愛を当たり前に注がれるからこそ、相手を傷付けてしまうことも、はたまた反対に傷付けられることもたくさんあって、それゆえに思い悩む機会も多くなる。星奈の愚痴の多さは彼女の持つ特権の裏返しであり、同時に足枷の象徴でもあるのだろう。
わたしには縁のない話だな──。
花開いた諦念は胸を刺す小さな痛みに変わり、わたしの息を少しばかり苦しくする。もう寝よう、明日も忙しい。心の整理をつけて星奈に背中を向けた瞬間、
「……やだよ」
星奈が寝言を口にした。
寝言であることを疑いたくなるほど鮮明な声に、不覚にも再び星奈の方を向いてしまった。彼女は掛布団を抱き締めたまま、傾いた眉の下で悲しく呻いている。
「ひとりぼっちなんてやだよ、別れるなんてやだよぉ……。ずっと一緒だよって言ってくれたじゃん……手だって握ってくれたじゃんかぁ……」
その頬に一筋の光が煌めき、化粧を削るようにして流れ落ちてゆくのが、いやにゆっくりと網膜に映った。バーで泣きついてきた時のような、酒の勢いで
わたしは不意に目頭が熱くなるのを覚えた。
なぜだか急に星奈が可哀想に思えてきた。わたしとは無縁の煌びやかな世界で生きる殿上人、永遠に手の届かない星彩のようだった彼女が、にわかにわたしと同じ目線の高さに降りてきたような感覚がした。理解できない存在から、理解できる存在に変わった。
──そうだ。
星奈は今日、捨てられたのだ。
なんだかんだ文句を言いながらも、心も身体も投げ出せるほど愛し続けた人に、「面倒だから」というだけの理由で呆気なく見捨てられた。良心を根底から否定された星奈の心はどれほど痛んだことだろう。わたしにだってそれくらいの想像がつかないわけはない。つかないわけはなかったのに、その憐れな星奈をおざなりにあしらい、愚痴を聞き流してしまった後ろめたさが、じわじわとさざなみのように押し寄せてきて身体に染みた。
「やだよ……ひとりぼっちなんてぇ……見捨てないでよぉ……」
なおも星奈は夢の中で泣き続けている。刻一刻と涙で濡れてゆく彼女の左肩に、強い衝動が喉を駆け上がってくるのをわたしは覚えた。
その衝動の正体を深く考える前に、台詞が口をついていた。
「ひとりぼっちじゃないよ」
星奈の肩が動いた気がした。けれども寝息に変化がなかったので、わたしは胸を撫で下ろしながら畳み掛けた。
「ここにわたしがいる。星奈のこと、ひとりぼっちになんてさせないから」
このまま星奈に孤独の海の中へ堕ちていってほしくない一心だった。誰にも心を許せずに生きる世界の暗さは、このわたしが一番に知っている。星奈はここに来るべき人ではない。たとえ明日からの星奈が孤独の中で生きることになるのだとしても、せめて今夜だけはわたしが隣にいて、その痛みや苦しみを和らげてあげたい──。そんな無我夢中の憐れみを言葉に起こしたら、こんな台詞になった。
当然ながら星奈は返事をしなかった。もぞもぞと姿勢を変えて布団を抱き締め直した彼女は、やがて元のように桃色の唇を開閉させながら、淡々と静かな寝息を立てるばかりの深い眠りに落ちていった。これでよかったのだと自分に言い聞かせつつ、後ろを向いて目を閉じたら、ほのかに舞った甘いアルコールの匂いに睡魔を刺激されて、わたしの意識も瞬く間に闇の底へ引きずり込まれた。
意外にも星奈は早起きだった。スマートフォンの目覚まし機能を止めて起き上がると、空っぽのベッドが目に入って、同時にタオルを首にかけた星奈がふすまを開けた。
「おはよ、仁乃」
「……早いね」
「まあねー。勤務時間はもっと後なんだけどさ、中高時代の早起きの癖がまだ抜けなくて」
種目は忘れたが、当時の星奈は朝練を伴う運動部に入っていたと思う。二十歳の垣根を越えて法的にはオトナになり、自ら生計を稼ぐようになっても、ここにいる星奈は間違いなくわたしの知る中高時代の彼女の延長線上にいるのだ。そうと知ったら安心感が滲み出して、少し、星奈に向き合うのが怖くなくなった気がした。
「てかさ、昨日の私ヤバかったっしょ」
焼いたトーストを食卓に並べていると、星奈が苦々しげな声色でつぶやいた。否定しきる気にもなれなくて「んー」と生返事をすると、彼女は大袈裟な嘆息とともに食卓へ突っ伏した。
「元カレの愚痴とか死ぬほどまくし立てちゃった気がする。酔ってる間の記憶、けっこう飛びがちでさ。自分が何したのか分かんないからマジで怖いんだよね」
「何も覚えてないの?」
「うん。なんにも。今夜泊めてってお願いしたことだけは辛うじて覚えてるくらい」
となれば、わたしの口にした恥ずかしい台詞も覚えていないに違いない。落胆するやら安堵するやらで、肩の力が急速に抜けるのを感じながらわたしはトーストにかじりついた。やけに味のしないトーストだった。
「とはいえ、今日からどうすっかなぁ……」
ぼやきながら星奈もパンをくわえた。
「あんまり振られるの急だったから、乗り換え相手の男もいないしな……」
乗り換え相手を常に用意しておくという価値観が末恐ろしい。返す言葉が浮かばずに無言でいたら、頬杖をついた星奈が「ねぇ」と尋ねてきた。
「仁乃は彼氏とかいないの? 同棲相手は?」
「いるように見える?」
「見えない」
「そんなにはっきり言わなくても……」
「そしたらさ、私しばらくこの家で暮らしててもいい?」
わたしは手にしたトーストを取り落としかけた。藪から棒に何を言い出すのか。
「こう見えても家事は一通りできるし大丈夫! 仕事とかどうしてるのか知らないけど、仁乃の邪魔にはならないようにするからさ。次の彼氏ができるまでの間、お願い!」
情けなさげに笑いながら星奈は手を合わせ、ちら、とわたしの顔色を窺った。あまりのあざとさにわたしは声も出なかった。確かに、こんなにも素敵な笑みを鼻先へ押し付けられれば、誰だって星奈を泊めてしまう。彼女のような魔性はわたしには備わっていない。
「わたしのところでいいの?」
念のために聞き返すと、星奈は早くも要求が認められたかのような顔をしながら「全然OK!」とおっしゃった。
「ひとりで暮らすのが嫌なだけだもん。誰かと一緒なら寂しくないし」
その言い草からして、要するに星奈は転がり込む口実さえあれば相手が誰でも構わないのだろう。わたしは星奈に選ばれたわけではないのだ。当たり前の事実に今さら傷付いている自分に腹が立って、わたしは食べかけのトーストを一気に喉へ押し込んだ。
星奈を自発的に招き入れた手前、拒否することもできない。
「……いいよ」
そう応じると、星奈は「やった! ありがとう愛してる!」と瞳を輝かせた。古今東西これほど薄っぺらい『愛してる』もないものだと思いつつ、わたしも曖昧に笑って返した。中学生や高校生の頃の自分が同じ目に遭っても、たぶん同じように笑っただろう。昨夜バーのドアを開けた瞬間に鼻をついた『来なきゃよかった』という後悔の理由が、確かな実感を伴って全身に染みてゆくのを感じた。
家事はできると
かくして日暮里星奈は、何の前触れもなく、わたしの同居人になったのだ。
◆
わたしと星奈の関係は、友達と呼ぶにはいささか薄っぺらい。腐れ縁と呼ぶのは味気ないけれど、幼馴染みと呼ぶほど親しかったとも思えない。仲良しのベクトルは常にわたしから星奈に向かって伸びていて、その逆は相対的に見て弱かった。
福島県の二本松という市でわたしたちは生まれ育った。星奈とは幼稚園から高校に至るまで同じ学校に通い続けていたが、それは単に家の立地の都合によるもので、決してわたしと星奈が親密だったからではない。人気者の星奈はクラスでも部活動でも多くの友人や恋人に囲まれていて、わたしはいつも取り巻きの外側から星奈を見ていた。いっぱしの友達同然に宿題を教えてあげたり、遊びに誘われたりすることもあったけれど、その頻度はせいぜい月に一度がいいところで、わたしが他の友達よりも優先されている印象は皆無だった。幼馴染みだった名残など、それこそ下の名前で呼び合っていること程度しか浮かばない。幼少期から姫君に仕える執事のように、わたしと星奈の間には明確なヒエラルキーの身分差が生じていて、それは付き合いの長さではどうにもできない溝だった。
クラスメート同士の結びつきの強い高校生までの間は、気の弱いわたしにもそれなりに友達がいて、趣味の近い子とは楽しく雑談も弾んだものだ。けれども大学に入学して、固定のクラスという概念が消え去ってからは、ゆるく繋がっていられる同好の友達を見つけるのも難しくなって、今は親しい人もいない。仲良しの子を自ら見つけにゆけるだけの勇気もなければ、コミュニケーション能力もない。そんなわたしの弱さは、就活の時期になると面接官の前で徹底的に暴かれた。まともに社員と意思疎通を図ることもできないとみなされたのか、どれだけ努力しても内定は一社も出ず、公務員採用試験の面接でも落とされ続けた。今は大学院に身を置き、就職リベンジの時節を恐々と伺っている。
これが星奈だったら、わたしのような遠回りの人生は歩まずに済んでいることだろう。同じ
わたしは星奈と、どんな関係でありたかったのだろう。
星奈のことが好きだっただろうか。あるいは星奈に好かれたかっただろうか。
心の
星奈のシフトは朝の十時から夕方の七時までの連続九時間だ。雇用形態は正社員なのだそうだけれど、現場の店で働いていれば必然的にシフト制になる。いつか本社に乗り込んで服の製作を企画する側になれたら楽しいだろうなと、朝食のテーブルを囲みながら彼女は吞気に白い歯を見せていたっけ。
シフトが終わったからといって真っすぐ家に帰ってくるような子ではないことを、早速その日のうちにわたしは改めて思い知らされた。ぼんやりテレビを見ながら夕食の準備を進めていた午後八時、唐突にメッセージが送られてきた。
【飲んで帰りまーす!晩ご飯いらない】
わたしは真っ先に自分の認識の甘さを恥じた。人当たりが良くて人気者の星奈は、いつ何時も友人達から引っ張りだこなのだ。これからは夕食を作る前に要不要をきちんと尋ねなければならない。急な誘いで帰ってこない日も出てくるのだろうし、翌日まで保存しておけるような献立を選ばなきゃな──。反省の味をたっぷり吸ったポトフは、あまり素敵な味付けに仕上がらなかった。
日付を跨ごうという時刻になって、星奈はようやく帰宅した。しこたま酔ったせいでICカードの発掘に苦心して銀座線を逃し、京成線への乗り換えにも迷い、おまけに町屋駅に降り立ってからもアパートを探り当てるのに苦労したという。「なんで町屋なんかに住んでんの」「吉祥寺より街外れ」などと罵られたが、別に星奈のために家を選んだわけじゃない。じかに都会の風に当たるのが怖くて、わざと距離を取った場所に居を構えたのだ。
酔って言動がおかしくなりつつも、星奈はしっかり風呂に入り、水を飲んで酔いを醒まし、日課にしているというスマートフォンゲームのプレイを1ステージ分だけ進めていた。昨夜わたしのベッドを勝手に使ったことを謝られたので、つい出来心で「使っていいよ」と許したら、いたく満足した顔で彼女はベッドに潜り込んだ。元カレの家では床に布団を敷いていて、お世辞にも寝心地はよくなかったらしい。
一足遅れてわたしが布団をかぶると、暗闇の中でガールズトークの時間が始まった。
もっともガールズトークというより、星奈がわたしの近況を一方的に尋ねる時間といった方が正しかった。狙いを定めたネコのように瞳をらんらんと輝かせながら、星奈は矢継ぎ早に質問を繰り出してきた。
「今ってどこ通ってんの? 公共政策大学院って何?」
「何の仕事したいのさ?」
「泊まりに来るような友達っていないわけ?」
「大学で彼氏かセフレの一人くらいいたでしょ? ほんとにゼロ?」
ため息交じりにわたしは答えていった。公共政策大学院は主に自治体政策の研究をする専門職大学院の一つで、学部卒のときに公務員試験に落ちてしまった志望者が多く通う学校だ。地元の福島県庁にも二本松市役所にも落とされ、国家公務員一般職の試験も面接で落とされたわたしにとって、身を置くにはちょうどいい仮初めの就職先だった。逆に言えば、それほど熱心に学問を修めたいわけではない。給付型の奨学金を受け取れることになったから通っているだけで、そうでなければ普通に第二新卒での就職活動を模索していたと思う。
誰かの役に立ちたくて、公務員になりたかった。就活中も社会貢献度の高さで会社を選んでいたから、わたしの軸はよくも悪くもはっきりしている。「真面目だなぁ」と星奈には感心されたが、天邪鬼なわたしの耳には「理解不能」と切り捨てられたように聞こえた。無理もないことだった。誰かの役に立つことでしか生の実感を得られない人間など、普通の人にしてみれば理解不能に決まっている。特に、星奈には。
東京に引っ越してきて五年も経つのに、来客用の布団を使うのは今度が初めてだった。泊まりに来るような親しい友達もいないのに、誰かに心を許して恋仲に発展することなどあるはずもない。セフレに至ってはもってのほかだ。どちらも興味がないわけではないのだけれど、興味を持つだけで願いの叶う世界なら、わたしはとっくの昔に公務員として働き始めている。わたしに足りないのはいつも一歩を踏み出す勇気で、それさえあれば前に進めそうだった機会も、わたしはすべて無駄にし続けてきた。
「どんな男がタイプ?」
興味津々の顔で訊かれたので、少し悩んで、こう答えた。
「ありのままのわたしを好いてくれる人」
「何それ。顔とかで選ばないわけ?」
「顔で選ぶ資格なんてないよ。わたし、ブスだし」
「そんなことないでしょ。普通に可愛いなって思うけど」
本物の可愛さを持つ星奈に慰められても、劣等感が
「顔や性格なんて何でもいいな……。そもそもわたしのことを好きになってくれる人じゃないと、好きになるのが怖いや」
わたしから誰かに片想いをしたところで、何の魅力も持ち合わせていないわたしに彼が振り向いてくれることは絶対にない。確実に報われる保証を得られない限り、安易に慕情は注げない。実らぬ片想いばかりをいたずらに重ねて傷付くうちに、いつしかわたしの心はひどく偏屈になり、幸せを手に入れにくいカタチに変わってしまった。さらに
「前からあったよね、そういうとこ」
背中の向こうで星奈の声がした。前のわたしなんて知らないくせに、などと汚らしい本音がこぼれ落ちそうになって、わたしは慌てて口をつぐんだ。
星奈がわたしの近況を積極的に尋ねてきたのは、後にも先にもこれっきりだ。職場や出会いの場で毎日のように何かしらのトラブルを抱える星奈は、自分のことに大抵いっぱいいっぱいで、わたしのことを気に掛ける余地を日常的に持たない。言い換えれば、自分自身の過去や現在については盛んに語りたがるので、わたしは自ら質問を繰り出さなくとも、次第に星奈の遍歴に詳しくなった。
好みの男のタイプは高身長、高学歴、高収入のいわゆる3K。古典的な理想の男性像を求めるのにはそれなりの理由があって、たとえば星奈自身の背もそれなりに高いので、見合う男の身長も必然的に高くなる。学歴を求めるのは「バカと話しても楽しくないから」で、収入を求めるのは「ヒモになれるから」だという。要するに、星奈は甘えられる存在を恋人に求めているのだ。実際、それらの条件さえクリアできるのなら相手の年齢や性別は不問のようで、過去には二十歳も年上の男性や、一つ下の女の子と付き合った経験もあるらしい。
「顔とかは普通以上ならいいかなって思うし、童貞だの処女だのを気にすることもないし、こだわりはあんまりない方だな。分かりやすいっちゃ分かりやすいよね」
へらへらと笑った星奈は、「そういうとこは仁乃と似てるかもね」と付け加えた。わたしは飲みかけの紅茶を思いっきり噴き出した。
「だってさ、仁乃も自分のこと好いてくれるなら誰でもいいんでしょ。私以上にこだわり持ってないなんてびっくりだよね。普通はイケメンとか服のセンスとか、そういうもので容姿の好みを絞り込んだりするもんじゃん」
「そ、それは確かにそうだけど……」
「本当に誰でもいいわけ? ルックスも性格も性別も何もかもこだわらずに?」
瞳を覗き込まれるようにして深掘りされると、暗闇の奥に隠した真意までも見抜かれる気がして、肯定するのが恐ろしくなる。押し黙ってしまったわたしを見て、星奈は「博愛主義ってやつ?」と鼻を鳴らした。
「それって私もターゲットに入ってたりすんのかな」
込められた本音がこれほどあからさまに透けているのも珍しい。答える代わりにわたしは残りの紅茶を一気に飲み干して、さっさと席を立った。唐突に夜の予定を入れてくる無計画さよりも、酩酊した時の介抱を
星奈はわたしに愛されることを求めていないのだろう。
それならわたしも、星奈に愛されることを望まない。
判断基準はたったのそれだけ。星奈のそれ以上に分かりやすくて残酷なハードルだ。そして目下のところ、そのハードルを越えてきた人は誰もいない。博愛主義どころか、わたしはむしろ世界中の誰も愛することができないのだ。
「ま、でも妥協点は低いに越したことないよね。変に理想の高い女ってナルシストじみててキモいもん。こういうレスの時に相手してくれるやつも増えるし」
スマートフォンを片手に薄笑いをした星奈は、「お!」と叫んで急に端末を放り出した。
「……どうしたの」
「ちょっと今週の土曜デート行ってくるわ。いい感じの男と約束できた!」
わたしは今度こそ嘆息を隠さなかった。──享楽的というか動物的というか、こういう欲望に忠実なところも好きになれない。好かれたいとも彼女は思っていないだろうけれど。
星奈との同居があまりにも唐突だったものだから、生活スタイルの急激な変化は周囲にも一瞬で悟られた。授業の発表資料作りに割ける時間も減り、発表原稿の質も露骨に落ち、担当の教授には「バイトでも忙しくなりましたか?」と何重にもオブラートに包まれたお叱りを受けた。そのバイト先からは、逆に「最近シフト減ってるけど学校忙しいの?」と遠回しに
数少ない大学院の友達には、さらに踏み込んだところまで読まれていた。授業前の準備中に「彼氏できたの?」と尋ねられた時は心臓が止まるかと思った。寝癖も直さず、服にも普段以上に気を遣っていないわたしの姿を見て、彼氏の家から大学院に直行してきたのだと勘違いしたらしい。
「し、知り合いが泊まってるんだ。朝もばたばたしてるから準備の時間なくて」
泡を食って言い訳すると、彼女は「どこの知り合い?」と食いついてきた。とっさの癖で『知り合い』などと婉曲表現を用いてしまったことをわたしは後悔した。
「なんて言うのかな……」
「いつ知り合ったの?」
「幼稚園」
「じゃ、幼馴染みでいいじゃない」
常識的に考えればそうなる。不意に口をついた苦笑がそのまま剥がれなくなって、奇妙な笑顔のままわたしは「そうだね」と眉を傾けた。互いを特別な存在と認識していた時が一瞬もなく、今も家主と居候の関係でしかない星奈との間柄を、『幼馴染み』などという親しげな響きで言い表すべきではない。そうと分かってはいるのに、代わりになる言葉が今も見つからないでいる。まるで恋仲でもない相手のことを恋人呼ばわりしているようで、わたしって不遜だな、と思う。
同居生活を前提にした日々など送ってこなかったので、星奈に見つかりたくないものは押入れの奥深くに隠してある。罪悪感と違和感に苛まれながら星奈のことを『幼馴染み』と呼ぶたび、本当の答えが知りたくなって、いつしか家に帰ると昔の卒業アルバムを漁る癖がついた。小学校、中学校、高校、合わせて三冊。どれを開いても末尾の自由書き込み欄には星奈の名前があって、【これからもよろしくね】などと危なげない丸文字のコメントが踊っている。冴えない顔をした少女時代のわたしの写真に添えるには、こういう薄っぺらい言葉の方が存外しっくりくるものだ。星奈の目に触れないようにいそいそとアルバムをしまい込みながら、灰色のため息が口元を舞った。
ともに暮らした日数が増えてゆくにつれ、わたしの前に開かれる星奈の胸襟も次第に広がってきた気がする。男と会っても肉体関係より先に進めないだとか、化粧の厚いブスと罵られただとか、ちっとも新たな仕事が覚えられなくて凹むだとか、毎晩のように買い込んだビールの缶を片手にしては唾を飛ばしてくる。そのたびにわたしは言葉を尽くして、星奈の機嫌を直しにかかるのだ。「愛されキャラなんだからいい人に出会えるよ」「笑うと可愛いよ」「やるべきことはやれてるんだし、もっと自信持ったらいいよ」──。どうせ朝になればすべて忘れ去られているのに、いや忘れ去られるからこそ、生産性のない励ましを投げかけ続けた。当然、星奈からの見返りは何もない。
わたしは何のために星奈に優しくしているのだろう。
わたしは星奈に何を求めているのだろう。
何も分からない。分からないからこそ、考えたくない。考えたら最後、残酷な真実に辿り着いて傷付くような予感がするから。
わたしの処世術とはつまり逃げることで、事実、わたしは逃げることしか念頭に置いてはいなかった。今の生活スタイルに対する改善の必要性からも。星奈との関係性を見つめ直すことからも。見つめ直している間に星奈が新たな相手を作り、消えてしまう可能性からも。
◆
その日は呆気なく訪れた。
呆気なかったというより、わたしが到来を忘れていた。
「デート♪ デート♪」
朝から星奈は上機嫌だった。以前『今週の土曜』と言っていたデートの約束当日が、とうとうやって来たのだ。──もっとも今日に至るまでの毎晩、彼女は各地にいる友達やセフレと深夜まで出歩いていたようなので、わたしにとっては何の新鮮味もなかった。愛欲に忠実な星奈の夜遊び癖は、もはや一周回って彼女のアイデンティティであるとさえ感じられる。それがないとかえって薄気味悪い。
「帰ってこない?」
夕食の要否を尋ねるつもりで問いかけると、星奈は威勢よく「たぶんね」と応じた。
「付き合うところまで持っていけたらいいなぁ。そしたら彼のところに移り住むから、仁乃の家で暮らすのは昨日の夜で最後かも」
あっけらかんとした彼女の態度に、わたしとの日々を懐かしむ面影は少しも見られない。それでも星奈は「たくさん負担かけたから迷惑料ってことで」と言い、拒むわたしを無視して封筒を置いていった。中身は六万円もの現金だった。一日あたり三〇〇〇円の換算で、ホテル代のような感覚で渡そうとしたのだろう。
こんな現金に置き換えるくらいなら、感謝など伝えてくれなくてよかったのに。
またも頭をもたげる天邪鬼な自分に腹が立って、わたしは引っ掴んだ札束をコートのポケットにねじ込んだ。とても使う気にはなれなかったし、使途だって思い浮かばなかった。
賑やかな星奈の出勤していった後は、部屋の中が妙に広くなる。今日はそこに薄ら寒さまでもが加わって、鳥肌を撫でながらわたしもアルバイト先に向かった。都会らしい喧騒のない町屋の街並みを見上げるたびに、諦念にも似た感慨が心をくすぐった。
──そりゃ、星奈も彼氏のもとに行きたいと思うだろう。
味気ない街で味気ないわたしと暮らすには、彼女は華やかすぎるのだから。
お相手の話は、すでに星奈の口からさんざん聞かされていた。都内の有名私立大を出て自力で起業し、現在は取締役の地位にいるのだという。当然ながら年収も高く、さらに身長も高く、まさに星奈の望むところの“3K”を見事に備えている。彼自身も女の子に引っ張りだこなのだけれど、負けん気で告白したら何とかデートの約束を取り付けられたらしい。私の魅力の勝利だと星奈は鼻を高くしていた。
彼と出会ったのは、わたしとの同居を始めて六日後のこと。つまりはほんの二週間前に過ぎない。たった二週間で相手の本性や真贋など見極められるはずもないのに、幼稚園の頃から20年間も知り合いの地位にいるはずのわたしは、その正体すら怪しい彼に負けようとしている。
星奈にとって、わたしはそういう順位の存在なのだ。
今も、昔も。
そしてこれからも。
その事実が無性に悔しくて、塾講師のアルバイトにも一向に力が入らなかった。試験監督中だというのを忘れて物思いに耽り、試験時間を一分超過してしまい、教室長の先生に発覚して怒られた。教え子たちからは心配の目を向けられた。わたしよりも遥かに豊かな交際経験を積んでいそうな子に「先生大丈夫?」と哀れみの上目遣いで問われ、かえってわたしの側が反応に困る有様だった。
しっかりしろ、わたし。今まで通りの独り暮らしに戻るだけじゃないか──。そう言い聞かせて自分を奮い立たせ、なんとか仕事を終えて校舎を出ると、すでに町屋の駅前には夜の色が隅々まで染みていた。午後十時まで働いていたのだから当然だ。
わたしを
夕食を作る気力もないや。今夜はこれを元手に、思い切って外食でもしようかな。
途方に暮れたような頭で近所のファミレスを思い浮かべた。
スマートフォンが鳴動したのは、まさにその瞬間のことだった。
メッセージの着信らしい。何事かと疑いながら取り出した画面を点灯させると、そこには星奈の名前が浮かんでいて、わたしは二度びっくりした。わたしにメッセージを送る暇などないと思っていたのに。
恐る恐る、開いてみた。中身は至って簡素な一文だった。大急ぎで打ったかのように、漢字が一文字も見当たらなかった。
【えきまでむかえにきて】
──京成線の改札口に立つ星奈はぼろきれのようだった。可愛らしい紺色のワンピースも、その上に羽織ったグレーのパーカーも、コートも、しわまみれのくすんだ色に変じている。
異変を察して駆け寄ったわたしを認めるなり、星奈は固く結んでいた唇を震わせ、泣き出した。
「仁乃……仁乃ぉ……っ」
「どうしたの、泊まってくるはずだったんじゃ」
「嫌だ! あんなやつのところに泊まるなんて絶対イヤっ! あんな最低なやつだなんて思わなかったっ……!」
男遊びには慣れているはずの星奈がこれほど憤りを露わにするなんて、いったい彼女はどんな目に遭わされたのだろう。つい今しがたまでの歪んだ嫉妬も忘れて、わたしは食い入るように星奈の顔を窺った。自分でも驚くほどに素直な心境だった。
ぼろぼろと涙をこぼしながら、星奈は呻くように今日の出来事を話し始めた。
つい先日に生理を終えたばかりで妊娠の危険性が高いことは事前に話していたのに、中に出されてしまったらしい。嫌と言っても聞いてくれず、暴れると髪を掴んで「黙ってヤらせろ」と脅された。したくなかったことも色々とさせられた。昼間に表参道でデートをしていた時には乱暴さの片鱗も見られなかっただけに、あまりの態度の急変に星奈は無力に怯えるほかなかった。挙げ句の果てには行為の様子を動画で撮影されており、セカンドレイプを示唆した上で「誰にも言うなよ」と釘を刺されたという。
あまりの衝撃にわたしは絶句してしまった。自分が星奈の立場だったらと思うと、恐ろしさで今にも足がすくみそうだった。黙り込むわたしを見て誤解したのか、星奈は涙の乗った睫毛を伏せ、か細い声で「ごめん」と訴えた。
「こんなとこで愚痴っちゃった。迷惑……だったっしょ」
突き放されたような痛みがわたしを襲ったかと思うと、次の瞬間それは強い怒りに変じて、赤色の炎を高く吹き上げた。──信じられない。この期に及んで、この程度の迷惑を気に掛けねばならないほど、わたしたちの二十日間は淡泊なものだったのか。わたしが一体どれほどの善意を星奈に注いで来たか、その源が何だったか、本当に星奈は何も知らないのか。
コートのポケットには
「これで今から飲みに行こう。痛かったこと全部、忘れたいでしょ」
星奈はぐちゃぐちゃの顔を縦に振ってくれた。
酩酊して弛緩したヒトの身体は重たい。星奈の肩を引きずるようにして我が家に辿り着く頃、時計の針はすでに0の頂点を大幅に超えていた。酔いつぶれた星奈を風呂に放り込むのは怖かったので、本人の希望で乾拭き用のタオルを渡してやり、わたしはその間にシャワーを浴びた。もうもうと立ち昇るシャワーの湯気に、鼻につくアルコールの匂いも、汗も、ほんの少しの涙も、何もかもが溶け出してゆく。からっぽになった身体を丸めて湯船に沈めると、最後の一息とばかりに大きな嘆息がこぼれ落ちて、わたしはさらに小さくなった。
熱いシャワーと湯船に浸り、布団の温もりに溺れながら眠りに就くのがわたしのストレス解消法なら、星奈にとってのそれは記憶が飛ぶほど酒を浴びることらしい。
──『私さぁ……不器用だからさぁ……趣味で気を晴らせるほど何かに入れ込んだこともないし……こうやってバカみたいに酔って泣いて愚痴ってないと生きていけないんだよ……』
今しがた酒の席で星奈の口にした弱音が、頭蓋骨の内側でガンガンと反響する。ああ、痛い。わたしも少し飲みすぎたかな……。鼻の下まで湯に沈んで半目を閉じながら、ジョッキを片手に泣いていた星奈の姿を水面に思い浮かべた。
自分の口で訴えた通りだ。
日暮里星奈は、確かに不器用な女の子だった。
惚れっぽくて友好的な人だとは以前から感じていた。それはてっきり素晴らしいことだと思っていたけれど、実際にはその惚れっぽさのせいで、星奈は人間関係をリセットするたび、新たに知り合った人を簡単に好きになってしまう。なまじ顔も人当たりもいいので相思相愛になるのは難しくないものの、出会いの数だけ別れは存在するもので、手痛いしっぺ返しを食らって傷付くことも山のようにある。けれども人間関係以上に心を預けられる拠り所を星奈は持たないので、結局は一時しのぎのような形で酒に溺れ、酔って記憶をなくし、味わった痛みをなかったことにして次の依存先を探す。その途方もない自転車操業を、彼女は中学生や高校生の頃から延々と繰り返してきたのだ。──もっともそれも、今日、飲みの席で星奈が自ら話してくれたことで初めて知ったのだけれど。
わたしはこれまで星奈の何を見てきたのだろう。
湯の中で吐息をこぼすと、後悔の声が泡になって目の前に弾けた。享楽的だとか動物的だとか、そんな表層的な見方で星奈のすべてを理解し尽くした気になっていた自分が、急に恥ずかしくなった。情けなくなった。
情けなさですくむ胸を押さえながら、風呂を出た。部屋着をまとって寝室に戻ると、なんと星奈はベッドから布団を引きずり下ろそうとしていた。
「何してるの?」
尋ねたら、星奈はいっとき唇を結びながらうつむいた。
「……ベッドで寝るの、怖くてさ」
そうだ。星奈は今日、ベッドでレイプ
わたしの寝ていた布団を使うよう勧めても、星奈は頑として話を聞かず、とうとうベッドの上から落とした布団をわたしの隣に並べて眠ってしまった。ベッドが怖かったというより、独りぼっちで眠るのが怖かったのかもしれない。そう考えると、こんな酔っ払いでも不思議に可愛く見えてきて、わたしも文句を言わずに隣へ並んだ。星奈の酔った姿に好感を抱いたのは、わたしの記憶では初めてのことだったと思う。
なんとなく寝付けなくて、穏やかに上下する星奈の肩をぼんやりと見つめていた。
よれよれにちぢれたポニーテールの髪があまりにも憐れだったので、蒸したタオルと櫛を用意して
ものを壊すのは簡単でも、壊れてしまったものを直すのは難しい。
今、わたしは壊れてしまった星奈の心の修理をしている。
勢い余って心身を潰してしまうほどの情熱と、潰れたそれを優しく包み込んで癒せるほどの情愛、その二つが揃ったものを初めて「愛」と呼ぶのだろうか。もしもそうだとすれば、やっぱり今日の相手の男は星奈に愛など抱いていなかったのだろう。傷付いた星奈が涙を拭って立ち上がり、明日も、あさっても笑って生きてゆくために、わたしは自分の心をそっと削って配り、負わされた傷を埋める役を担っている。
目的意識があるわけではない。見返りを求めているわけでもない。
ただ、わたしがやらなきゃ、と思ったから。
星奈の「愛」を補完する役割を担えるのは、この広い東京の街でたったひとり、同じ屋根の下で暮らすわたしだけだと思ったから。
星奈がこの家に帰ってくる限り。
こうしてわたしを頼ってくれる限り──。
「……ねぇ」
眠る星奈の髪に櫛を入れながら、独り言ちた。
「わたしは星奈の味方だよ。悪いやつなんか絶対に近付けない。何べん星奈が傷付けられて帰ってきたって、こうして星奈の力になる。……だから、明日は笑ってよ。いつもの元気でお調子者な星奈に戻ってよ」
酔って寝ている間の記憶は星奈の頭には残らないから、こうして気恥ずかしい素直な本音も安心して口にできる。櫛を握る手にも温もりが
どこの馬の骨かもしれない男に、この子は渡せない。
何があっても渡したくない。
傷付いて泣く姿なんて見たくない。日頃どんなに憎たらしくても、言動に嫌気が差しても、やっぱりわたしはこの子に笑っていてほしいのだ。だから、
「ここにいてよ、星奈……」
思いがけない言葉が唇を転げ落ちた。その衝撃で我に返り、あたふたとタオルや櫛をしまいに走った。わたしったら何を口走ってしまったのだろう。混乱を誤魔化すつもりで麦茶を飲み干し、頭から布団をかぶって星奈に背中を向けたけれど、得も言われぬ胸の高まりはちっとも落ち着くそぶりを見せなくて、意識が飛ぶまでにずいぶん無駄な時間を浪費した気がする。
◆
──結論から言えば、星奈の男漁り癖は直らなかった。
喉元過ぎれば熱さを忘れるというのはよく言ったもので、酒と涙で痛みを洗い流した彼女は、早くも心の渇きを我慢できなくなってしまったらしい。翌日いきなり深夜に帰ってきて「セフレに会ってきた」と報告された時は、さすがのわたしも言葉を失った。昨日のわたしの心配りはなんだったの──と叫びかけたが、そもそも星奈は昨夜のことを覚えていないという事実に間もなく思い当たって、虚しくなってやめてしまった。
ただし、まるっきり何も変化がなかったというわけでもなかったようだ。
「遊ぶ頻度、下げようかなって思ってるんだよね」
ベッドの中でスマートフォンをいじりながら、星奈はぽつりと吐露していた。「やっぱり怖い?」と尋ね返してみると、彼女はどことなく心の欠けた瞳で天井を見上げた。
「まぁね。痛い目に遭ったばっかりだし、怖いものは怖いよ。……それにちょっと幻滅もしたっていうか」
「幻滅?」
「毎日のように遊び歩いてれば心の穴を埋められるかなって思ってたけど、そんなことはちっともなくてさ。砂漠に水を注いだって川にはならないじゃん。ほんの一瞬だけ喉を潤おせても、そのあとがひたすら虚しくなって、何度も何度も求めたくなる」
そもそも元をただせば、星奈が我が家に居候を始めたのは、元カレに振られて居場所をなくしたのがきっかけだった。寝食を共にしたいと願えるほど想い続けた相手を失った虚脱感から、まだ星奈は完全に逃れられていないのだろう。考えてみればそれも当然の話で、わたしは星奈の火遊びを制止できるだけの説得力ある言葉を持たない。けれども星奈は先日の一件を通じて、火遊びの持つ恐ろしさと虚しさにようやく気付いたのだ。
「暇つぶしにジョギングでもしよっかな」というので、近隣のジョギングコースを紹介してあげた。ここ町屋は墨田川や荒川の近傍にあって、土手まで行けば走りやすい道路が整備されている。服や靴も持っていないというので、大学入学時に買ってから一度も使っていなかったトレーニングウェアやジョギングシューズを探し出してきた。星奈に負けず劣らず、わたしもそれなりに背の高い方ではあって、試しにウェアを着てみると星奈の背丈にぴったりだった。一瞬、心の浮き立つような感覚が背骨を通った。
「これで痩せたらモテるかもなー」
星奈の笑顔は実に眩しかった。わたしはなぜだかあまり笑えなくて、スリムな星奈の腰を眺めながら「今さら痩せる必要あるの?」と苦笑したっけ。
ジョギングがストレス発散の手段として本当に有効なのか、詳しいことは知らない。男友達とのデートや性交渉さえストレス発散に用いていた節のある星奈のことだから、刺激の少ない河川土手のジョギングが気晴らしになるというのは、わたしにはどうにも半信半疑だった。──案の定、星奈は家に大量の酒を持ち込むことが増えた。帰りがけにスーパーに立ち寄って缶入りのチューハイやビールを何本も買い込んできては、それらを夕食の席で威勢よく開けるのだ。そうしてしこたま酔っぱらっては、仕事や上司や友人の愚痴をわたしの前でさんざん喚き散らして、満足げな顔で眠りに落ちてゆく。無論、酒を買い込んで喚いたことなど、翌日の朝にはケロリと忘れている。
わたしのことを便利な執事か何かだと思っていないだろうか? ──どこか腑に落ちない思いを隠し持ちつつ、わたしも二人分の晩ご飯を用意し、片付け、空き缶を処分し、酔って方角も覚束なくなった星奈を布団に誘導する。こうして甲斐甲斐しく星奈を甘やかしてしまうから、都合のいい執事の扱いを受けるのだろう。そうと頭では理解していても、酔いが回って弱った星奈の世話に奔走するのは不思議と嫌ではなくて、理不尽に振り回されるストレスも自然と霧散してしまうのだ。星奈が帰ってくると思うだけで、料理をしている時の気分も上がる。チャイムが鳴ると玄関まで出迎えに行って「ご飯できてるよ」と笑いかけるのを、いつしか心待ちにしている自分がいる。仕方ない、今日も愚痴を聞いてあげるか──。星奈の帰宅時間が近づくと、くたびれていても自然と頭が聞き上手モードに切り替わるようにまでなった。
すべては星奈に笑っていてほしいから。
二度とわたしの前で泣いてほしくなかったからだ。
男女関係のみならず、星奈の愚痴の話題は多岐にわたる。通勤中に痴漢を受けただとか、後輩のアルバイト店員の仕事の覚えが悪いだとか、嫌いだと拒否したのに言い寄ってくる男がいて気持ち悪いだとか。彼女の話を聞いていると、世の中にはこんなにも悲しみと怒りの種ばかりが転がっているのかと失望したくもなるけれど、きっとそれは星奈の感受性が豊かであるがゆえの弊害みたいなもので、その代わりに星奈はわたしの知らない美しさや楽しさ、喜びをたくさん知っていたりもするのだ。時には「帰りがけに撮ってきた!」と笑って、高いビルの窓から見える夜景や繁華街の道端をスマートフォンのカメラで切り取り、嬉しそうな顔でわたしに見せてくれたりもする。その嬉しそうな顔を一刻でも長く眺めていたくて、つい、いろいろなことを頑張ってしまう。
ただのルームメイトに過ぎないわたしでも、そのくらいのことは願っていいはずだ。
星奈がわたしの家で夕食を食べるのは、多く見積もっても週に三度か四度だ。残りの夜を、星奈はわたし以外の誰かと過ごしている。わたしは星奈の時間を独占しているわけではない。独占したくたって星奈自身がそれを望まないだろう。追い詰められた彼女の選ぶ最後の逃げ込み場所でさえあれれば、彼女にとって揺るぎのない──
いつしかそんな風に決め込む癖がついた。
そんな風に決め込んでいれば、自分の心は満たされていると思っていた。
そしてそれは間違ってはいなかったはずなのだ。
◆
「──私さ、仁乃の恋愛観がちょっと分かるようになってきた気がする」
缶チューハイを片手にそんなことを星奈が言い出したのは、翌日に控える公務員試験の面接対策講座に参加するべく、久々に取り出したスーツへ腕を通している最中のことだった。
「わたしの恋愛観って?」
「どういう人を好きになるのかって話」
そんな話をしたのは覚えている。羽織ったジャケットの形を整えながら、わたしは中空を見上げた。星奈が突然そんな話題を振ってきた理由には思い当たらなかった。
「自分のこと大事に想ってくれる人を好きになるって言ってたじゃん。私には縁のない考え方だなって思ってたけど、最近、そうでもないような気がしてきてさ。思い通りにならない相手に振り回されて苦しい思いするより、自分を好いてくれる誰かを大事にした方が、きっと幸せになれるよなーって」
酔っている割には妙に冷静な口ぶりで、星奈は淡々とつぶやいた。やけに奥歯にものが挟まったような言い方をするものだと思ったが、けれどもわたしにはすぐに、星奈が何を言おうとしているのかがピンと来た。どこかの誰かが星奈に片想いをしていて、星奈はその匂いを敏感に察知しているのだろう。もしくはすでに告白も受けていて、返事を保留している段階か。
「応えてあげる覚悟は決まりそうなの?」
流れを数段すっ飛ばして話を進めると、途端に星奈は「察し良すぎない?」と顔を赤らめてしまった。こんな顔もできる人だということをわたしは初めて知った。恥じらいとか葛藤とか、そういう面倒な感情は星奈の肌には合わなさそうだったのに。
「まだ……決め切れないんだよな。どんな風に応えたらいいのかも分かんなくてさ。今ある関係もすごく居心地よくて、下手に関係を前に進めたら居心地が壊れちゃうような気がして。相手も匂わせることしかしないから、うっかり本心も聞き出せない」
聞くからに堅実そうな人柄だ──。真っ先に浮かんだ相手の心象はそのくらいのものだった。星奈の好みそうな遊び人タイプの男性像とは上手く重ならない。先日のデートでの一件以来、星奈の男選びは明らかに慎重さを増しているから、タイプ外の男性の好意に応えてあげようという気も起きたのだろうか。
考え事に勤しみすぎたせいか、どうにもスーツのシルエットがしっくり決まらない。何度も肩の部分を入れ直していると、おもむろに腰を上げた星奈が「ちょっと見せて」といって手を伸ばした。しなやかな指がわたしの肩から上着を剥ぎ取り、着せ直し、見栄えがするように整えてくれる。「ありがとう」とはにかんだら、星奈はちょっぴり笑った。
これから好きになる誰かにも、星奈はこういう優しさをかけるのだろうな。
じゅく、と不穏な音を立てて、心の繊維が腐った。気付かないふりをしながら、わたしは「大丈夫だよ」と口角を上げた。
「本当に星奈のことが好きなら、どんな応え方したって受け入れてくれるでしょ。心配することないって」
「……ま、それもそっかな」
星奈も強張りかけの肩を崩した。その視線がゆっくりとわたしを外れて床に落ち、大きな瞳がわたしの姿を映さなくなるのが、やけに鮮明なスローモーションのように網膜に焼き付いた。
「──身が入ってないね」
模擬面接を担当してくれた先生は、今日のわたしの不出来っぷりを端的な一言で表した。
パイプ椅子の上でわたしは首をすくめた。面接はわたしにとって最大の難関で、学部時代の就活が失敗した最大の要因も面接だった。大学院の先生に模擬面接の機会を設けてもらうのも今度で数回目になるが、いまだに緊張で思うままに話が継げなくなる。
「いい。前回も話したと思うけど、質問への返答は漫然と行ってはダメよ。面接官は短い時間の中で、千住さんの返答から少しでも多くのことを聞き出そうとしてる。特に、自己アピールの文面に現れないようなあなたの価値観とか、ものの見方とか、どんなものに関心を向けるのかとか」
「はい……」
「あなたの返答は優等生すぎるのよね。質問者にとって理想的な答え方をしてはくれるけど、逆に言えば、あなた自身の色がない」
落胆で重みを増した目線が、手元に広げたノートの上を滑って転がり、床に落ちてゆく。返す言葉もなかった。当たり障りがなくて周囲に嫌われにくい言動を処世術にしてきたわたしにとって、もとより自分の独自性を発揮するというのは困難が過ぎるのだ。
それに、今日はなぜだか、うまく練習に没入できない。
油を吸って固くなった脱脂綿のように、身体も心も言うことを聞いてくれない。
沈黙するわたしを見て先生は嘆息した。それからおもむろに、「自己分析ってやったでしょう」と尋ねてきた。
「……学部時代にはやりました」
「近日中にやり直しておきなさい。あれはね、売り込むべき自分という商材を詳しく知っておくための方法論なの。いくらセールストークが上手いからって、売るものの中身を知らなければ営業は成り立たない。自分のことをよく知っていれば、より効果的な売り込みの方法を模索することもできるし、さりげない会話の端々に自己アピールを潜り込ませることもできるわけね」
自己分析の重要性くらいはわたしでも理解している。メモを取りながら、学部時代に受けたいくつもの性格診断の結果が脳裏をよぎって、わたしの気分はさらに悪くなった。主体性がないだの覇気がないだの、ないない尽くしの分析結果に悲しくなったことを思い出す。
星奈が同じ診断を受けたなら、きっと多くの項目で高い評価を得ていたのだろうにな。
「……売り込めるほど値打ちのない人間だったら、どうやって売り込めばいいんでしょうか」
おっかなびっくり聞き返すと、先生は「値打ち?」と白目を剥いた。
「そんなもの、絶対的な基準なんてあるわけないじゃない。特徴や特性は単なる偏りであって、そこに優劣なんて存在しない。恋愛だってそうでしょう?」
どきりと胸が鳴った気がした。何かを悟った様子もなく、先生は淡々と話を続けた。
「好きな人に求める条件ってあるでしょ。千住さんも何かしらの条件は持っていると思うけど、その条件は千住さんだけのもので、他の誰にも否定できるものじゃない。変わった趣向をしているからって『あの子には値打ちがない』なんて誰も言わないし、言っちゃいけないのよ。それと同じこと」
条件なんて何もありません、どんな人でも構いません、わたしのことを好きになってくれるなら──。そう素直に白状して先生に叱ってもらえたなら、どんなにか気持ちが休まったかもしれないなと思った。たとえばわたしは何か重大な見過ごしをしていて、本当は確固たる条件を持っているのに気付いていないだけだ、とか。
けれども今朝、星奈はわたしの恋愛観が分かるようになったと言ってくれた。たとえ地球上の誰もがわたしの恋愛観を否定しても、星奈にだけはわたしの真意の欠片が伝わっている。わたしを否定することは、星奈を否定することにもなる。不可思議な膠着状態に陥ったわたしは、いつまで経っても先生の前で言い訳の文句を持てなかった。
自分の求めるものが分からなければ、幸せを手繰り寄せることもできない。それは就活だろうと、学校選びだろうと、友達選びでも恋愛でも同じ。何かを選ぶということは結局、自分の中の価値判断の基準と向き合うことなのだ。
では、選ばれる側の人間は、いったい何と向き合えばいいのだろう。
たとえば──
分からない。生まれてこの方、わたしは星奈に選ばれたことがない。他に候補のない状況下での選択を「選んだ」とは見なさない。星奈が町屋の我が家を居候の拠点にしているのは、他に
だからわたしは常に怯えている。
明日、あるいは今日にでも、誰かの強引な介入でわたしたちの共同生活は呆気なく消滅するかもしれない。そしてそれを星奈が望むなら、わたしにその変化を拒む術はないのだ。
その日のアルバイトは大変だった。インフルエンザで仕事を休んだ同僚の子の分の担当を肩代わりしたら閉室の時間まで居残る羽目になり、さらにそこから社員の先生の手伝いを担わされた。断るという選択肢が存在しなかったのは言うまでもない。言われるがままにあわただしく奔走しているうちに時計の針は九時を跨ぎ、十時も跨ぎ、十一時を跨ぐ直前になってようやく教室を解放された。
肩代わりのために勤務時間の延長が確定した時点で、星奈には【帰り遅くなるから晩ご飯作れない】とメッセージを送ってある。アパートに帰り着くと、わたしの部屋に照明は灯っていなかった。今のところ特に報告は受けていないけれど、今夜も誰かと遅くまで遊んでいるか、あるいはそのままホテルにでも泊まってくるのかな。淡い諦めの
食卓の上には焼きししゃもの乗った皿と、味噌汁のお椀と、それから置き手紙があった。
【下手くそだけど夕食っぽいの用意したから食べたかったら食べていいよ 私は友達にお呼ばれしたので出かけてくる】
星奈の字だった。アルバムで見たのと同じ、書き手の印象を裏切らない丸みを帯びた可愛らしい癖の文字だ。ということはやはり、この晩ご飯は星奈が……。込み上げる感動をひとまず脇に置いて、下手くそだという料理のラインナップを見渡してみる。
残念ながら、確かに下手くそなのは事実だった。ししゃもは微妙に半焼けだし、味噌汁の具はどれもとびきり不格好で、おまけに啜ってみると味付けも薄い。炊飯器の中では白米が炊けていたが、お粥と見まがうほどに水気が多い。どれもわずかな調整で満足な食事になるとはいえ、星奈の料理下手をわたしはまざまざと見せつけられた。彼女は家事を一通りこなせるが、料理だけはどうにも上手くならないと以前から愚痴をこぼしていたのだった。
それでも今は、食事を用意しておいてくれるという心遣いだけでも十分に嬉しい。
再加熱や味の調整を済ませ、食卓について箸を取った。向かいに星奈のいないテーブルの片隅に、ひとりぶんの食器の音がおもちゃのように響いて散った。
BGM代わりに点灯させたままにしているテレビでは、先日オープンしたという渋谷駅前の大型商業施設の特集番組を流していた。町屋の街並みでは比較対象にさえなれない、眩しいネオンサインや街頭ビジョンに取り囲まれた繁華街の喧騒だ。星奈の職場はあの街にある。普段の遊び場も新宿や池袋、御徒町あたりだそうなので、いずれにしても町屋のように都会と定義しにくい街では勝負にもならない。
星奈は本来、あちら側の人間だ。
こんな浅い縁の幼馴染みと同居したり、こうして食事を残しておいてくれることが、すでに異例と言っていい。
もしも、例の好きな人に星奈がなびく決断をしたなら、わたしはこうしてまた孤独な食卓を囲むことになるのだろう。くたびれて帰ってきても出迎える声はなく、温かなご飯も肌に沁みる風呂もない。反対にわたしが世話を焼く相手もいなくなって、その分の苦労は宙に浮かぶ。とてつもなく平和で、とてつもなく閉塞的な、幸せも不幸せもなかった頃の日々。──けれども星奈にとってどちらが幸せなのかを思えば、やっぱりわたしには受け入れる以外の選択の余地は残されていないのだ。
不意に、ご飯に塩味がつき始めた。
黙々と箸を口へ運びながら、時おり情けなく鼻を啜り上げた。
星奈の残してくれた優しさの片鱗が、こんなにも心に堪えるとは思わなかった。嬉しいのに、寂しい。晩ご飯は確かに美味しいのに、美味しいねと笑い合える人がここにはいない。これでは生殺しだ。こんな形で中途半端にわたしに心を割いておきながら、きっと彼女は今頃、わたしの知らない街を歩いて、わたしの知らない人と笑い合って、心を通わせて……。
わたしはその相手には決して選ばれない。幼稚園の時分から星奈を見守り続け、今も一つ屋根の下でともに暮らしているのに。星奈の人柄も、苦しみも、喜びも、誰よりも近い場所で感じ取っているのに。こんなにも星奈の近くにいるのに、これ以上、近づくことができない。わたしの持つ「幼馴染み」などという肩書きは、星奈の愛する交遊や肉欲の前では何の値打ちも持たない。わたしは未来永劫、星奈の一番にはなり得ない。
今、はっきりと自覚した。
自分を好きにならない人のことは好きになれない、などというのは大間違いだった。
この胸の苦しさは、恋の病以外の何物でもない。わたしはちゃんと人を好きになれるのだ。それもよりにもよって、絶対に想いの届かない人にこだわりを持ってしまった。際限のない一方的な世話焼きを続ける日々にいつしか充足感を覚え、たまに垣間見せる彼女の不器用な優しさに戸惑うことにさえ、喜びを見出すようになってしまった。ただの幼馴染みの地位に大人しく甘んじていればよかったのに、越えてはならない一線を越えたいと願っている自分がいることに、こうして気付いてしまった。
悲しくて、悲しくて、泣きながら夕食を食べ終えた。
すぐさま風呂を沸かし、湯船の中で膝を抱えた。熱湯のシャワーに痛みを覚えて顔をしかめ、こびりついた涙を洗い落としては、星奈をこの家に迎え入れてしまった一か月前の自分の判断を、二度、呪った。
◆
星奈はそれから一週間もの間、わたしと夕食をいっさい共にしなかった。毎晩、渋谷の職場から戻らずに深夜の東京をうろついては、わたしが寝静まった頃に合鍵を使って戻ってくる生活を送っていたようだ。どこに行っていたのか、誰と会っていたのか、わたしには怖くて聞き出せない。星奈も自発的に白状することはなく、朝の食卓には決まって得も言われぬ気まずさが流れ込んだ。
もっとも、星奈が口にしなくとも推察は容易だった。例の想い人のところに通っているのだろう。星奈の今までの恋愛歴を考えると、付き合うところまで行けば自然と同居生活に突入するのだろうし、今はその予行演習みたいなものなのかもしれない。本当にそうなら荷物くらい引き上げてほしいものだと思うけれど、生来の臆病が祟って強い態度に出ることもできない。つくづく大家には向いていないな、と悲しくなる。
星奈がわたしの家に居着くはずのない子であることなど、彼女を受け入れた当初から明白だったはずだ。わたしは何を今さら傷付いているのだろう。醒めたふりをして自分を納得させながら、日々の勉強やアルバイトに夢中で向き合った。──忘れよう。一刻も早く忘れよう。星奈を好きになったところでわたしには何のメリットもない。さっさと想いを振り切って未来を見据えるんだ、本来あるべき距離感に戻るんだ。
ただ、ほんの少し長い時間と思い出を共有して、少しばかり思い入れが深いだけ。
それ以下でこそあれ、それ以上ではない。
どんなに美しい言葉で飾り立てても、それが幼馴染みという存在の内実なのだから。
ちょうど一週間が過ぎた日のことだった。昼過ぎ、星奈は珍しく【今夜は晩ご飯食べるわ】と職場からメッセージを寄越してきた。
星奈が帰宅しなくなって以来、夕食を作る気力をなくしていたわたしは、その日もすっかりコンビニ弁当で済ませる気を固めていた。あわてて冷蔵庫の中身を漁ったが、まともに食材も揃っていなかった。かといって新たに買い込んでくる元気もなかった。
わたしと晩ご飯を食べたがる日というのは、星奈が何かしらの愚痴を溜め込んでいる日でもある。経験則から導き出した仮定を念頭に、【外食しない?】と返信を送った。以前のレイプ事件の夜に二人で行った居酒屋は、今日も元気に町屋の駅前で営業している。
【いいけど……】
星奈からの折り返しメッセージはいくらか意外げだった。彼女が三点リーダをメッセージに使う姿を、わたしは初めて目にした気がする。
結局、星奈とは午後八時に町屋駅前で落ち合った。
ただの仕事帰りにもかかわらず、星奈の格好には妙に気合いが入っていた。早春らしい柔らかな印象を与えるベージュ色のテーラードジャケットに、体形の美しさを見る者の目に印象づかせる紺色のワンピース。夜遊び体質の気配など少しも悟らせない王道なコーディネートの可愛らしさを前に、わたしは我が身を顧みながら嘆息を隠せなかった。──この可愛い人を独占できる幸運を、どうして歴代の男たちは愚かにも手放してきたのだろう。
「デートでもしてきたの」
尋ねると、別に、と星奈は首を振った。
「なんとなく着たくなってさ。いいでしょ、これ。わざわざ吉祥寺の家まで戻って回収してきたんだけど」
これから好きな人の前で着るために、わたしに感想を聞きたいというのだろうか。そうというならわたしだってルームメイトの根性を見せてやる。不思議な意地が奥底で疼いて、「可愛いね」と笑ってみた。望む言葉をあげたというのに、星奈は変に照れるばかりで何の反応も示さなかった。
席についても星奈のおかしな態度は変わらなかった。いくら酒を
わたしもわたしで変に気が大きくなって、普段は飲まないような日本酒やワインに手を出しまくった。幸いにも酒にはそれほど弱くないので、星奈ほど深刻な酔い方をして周囲に迷惑をかけることもない。星奈が悪酔いして泣き上戸になるのは、単に彼女が酒に弱いからでもあるのだ。赤らんだ顔でぼんやりしている星奈を横目に、気の向くままに食べて、飲んで、せっかくの稼ぎを派手にぶちまけた。泣くこともなく、愚痴を垂れることもなく。
自暴自棄になったわたしを見て、星奈はつぶやいた。
「……仁乃って大人だよな」
「本当に大人だったら恋愛経験の一つや二つ持ってるよ」
「いや、そういうつもりで言ったわけじゃないんだけど」
「どういうつもりで言ったの?」
「なんとなく褒めたくなっただけ」
「わたしのことなんか褒めても何にもならないよ」
浮かべた苦笑は星奈にも感染した。赤ら顔をうつむかせ、わたしから視線を剥がした星奈は、耳に届くか届かないかの声量で「そうかもね」と口にした。その言葉の意味をわたしが推し量りかねていると、急に立ち上がった彼女は伝票を引っ掴んでレジへ向かい、わたしから一円も徴収しないまま勝手に会計を済ませてしまった。
「ねぇ、仁乃」
戻ってきた彼女の顔は爽やかだった。
「ちょっと外でも歩かない?」
町屋は東京都の荒川区というところにある地域だ。荒川区という名前なのに、荒川は区内を流れておらず、代わりに墨田川が街のはずれをうねっている。どうしてこんなことになっているのかというと、昔は現在の隅田川を「荒川」と呼称していたからだ。現在の荒川は放水路として人工的に整備されたもので、のちにそちらが「荒川」の本流扱いになり、今もなお隅田川のすぐ東側を悠々と流れ下って東京湾へ注いでいる。
わたしのアパートから墨田川までの距離は二百メートルほど。対岸に生える
「ここ、ジョギングのたびによく来るんだよね」
列をなす対岸の光の群れに目を細めながら、星奈は笑った。「ジョギング続いてるんだ」と聞き返すと、「続けてるよ」と不機嫌そうな反論が戻ってきた。
「今のところストレス解消には役立ってないけど、代わりにこのへんの街はだいたい理解できた気がするな。コンビニとかスーパーの位置、仁乃より詳しくなったかも」
「タピオカ店の間違いじゃなくて?」
「そんなもんどうでもいいよ。町屋で飲もうと思わないし」
心外な手のひら返しにわたしは声を失った。
「住めば都っていうか、暮らしてみると町屋も意外に便利なもんだね。ここの景色なんかはけっこうお気に入りになってさ。何べん走っても見飽きなくなってきた」
ついた後ろ手で草花を愛でる星奈の横顔に、嘘や冗談の気配は不思議と伺えない。遠くない未来に町屋を去るはずの星奈が、いったい何のつもりで街を褒めているのか理解できなくて、わたしは膝を抱えながら背中を丸めた。決して愛の言葉を受け取ってくれない意中の相手に、褒められたり、肯定されたり、優しく気をかけられるほど惨めなものはない。それこそ恋多き星奈には分からないのだろう。
どうせ帰着する結論が変わらないのなら、わたしから行動を起こしてすべてを終わらせたい。臆病な人間に特有の、変な行動力を伴った鈍い痛みが左胸を殴りつけて、わたしに否応なしの覚悟を決めさせた。
「星奈」
呼びかけると星奈はこちらを見た。
「前に言ってた人とは上手くいきそう?」
「え」
「星奈のこと好きになった人がいて、応えるべきか迷ってるって、前に言ってたでしょ」
なぜか星奈は呆気に取られたような顔をしている。そうか、この子は酔っている間に交わした会話を何もかも忘れてしまう子だったな──。今頃になって思い出してから、さらに数秒遅れて、今の星奈も酔っていることを思い出した。この場で何を偉そうに講釈しても、結局のところ明日には忘れられてしまうのだ。
それでも構わない。
せめて精一杯に背中を押してあげようと、わたしは決めたのだ。
大切な人の幸せを願うことに理由など要らない。ただ、その相手がわたしでは、星奈を幸せにするのに不足なだけ。決めつけた結論を噛み締めると、続きを切り出す勇気が生まれた。
「最近、あんまり家に帰ってこないのって、その人とのことも色々あるからなんでしょ。気遣いなんて要らないから、もっとデートにも行ったらいいよ。わたし、星奈とその人の関係、応援してる」
「仁乃、」
「星奈は可愛いし、人気者だし、ちゃんと向き合えばちゃんと愛してもらえる子だよ。きっと世の中って悪い男の人ばっかりじゃない。自信持って、好きになってあげなよ」
──そして結ばれた暁には、わたしを鮮やかに見捨ててよ。
さっぱりと後腐れなく、わたしに選択の余地を与えない形で。
常夜灯の光をゆらゆらと散らす川面に目を向け、頑なに星奈を目に入れぬまま言い切った。締め付けられた胸が痛んで、搾りたての涙が目尻を燃やした。けれども素振りには見せなかったから、きっと星奈には勘付かれなかったものと思う。
「星奈なら大丈夫だよ」
ダメ押しのつもりで言い添えても、星奈は呆気に取られた表情のまま動こうとしなかった。
不意に河原を吹き抜けた強い風が、わたしの長い髪と彼女のポニーテールを同時に吹き上げる。乱れた髪を嫌そうに直しながら、ようやく星奈は「え」と応答を発した。
「待ってよ。そんな急に突き放されたら普通に傷付くんだけど」
「なんで?」
「だってそれ、こっちの気持ちはあげるけど私の気持ちは要らない、って言ってるみたいじゃん」
たちまちわたしは
後悔に苛まれて押し潰されそうなわたしを前に、「だいたいさぁ」と星奈は眉をひそめる。
「さっきから仁乃の言ってる『その人』って、仁乃のことなんだけど」
何を言われたのか理解するまでに十秒は必要だった。
「あーあ。せっかく服も決めてさ、場所もそれっぽく選んだのにな。これじゃセッティング台無しじゃん……マジどうしてくれんのよ」
カバンを投げ出した星奈は土手へ寝転がり、大の字になる。一足先に爆発した羞恥心に顔を真っ赤に染められて、わたしは顔を両手の指で覆った。とても見せられた顔ではないと思った。
もしかして、もしかしなくても、わたしはとんでもない勘違いをしていたのか。
一体なぜ。どうして星奈は、わたしなんかのことを。疑問符ばかりが無数に湧き上がってきて、素直に星奈の意図を汲み上げることもできない。
「ていうか、わたし、星奈のこと好きだなんて一度も……」
「だから言ったでしょ。『相手も匂わせることしかしないから聞き出せない』って」
星奈は唇を尖らせた。酔って忘れていたはずの発言が彼女の口を平然と飛び出したことに、わたしは動揺を隠せなかった。
「あのさ。前に嘘ついた気がするけど、私って酔ってる間のこと割と覚えてるんだよ。恥ずかしいから忘れたふりしてただけで、基本的には何もかも覚えてる」
「えっ……嘘、そんな……」
「酔って泣いてた私に仁乃がかけてくれた言葉もみんな覚えてる。『ひとりぼっちじゃないよ』とか、『自信持ったらいいよ』とか、『星奈の味方だよ』とか。たくさん私のこと褒めて、支えようとしてくれてたでしょ。聞いてるこっちが気恥ずかしくなるくらいに」
いやだ。
聞きたくない。
わたしは両眼にかざしていた手で今度は耳を覆った。──いやだ、何も思い出したくない。最悪だ。ぜんぶ、ぜんぶ、星奈には伝わっていないはずだったのに。聞こえていないからこそ、甘ったるい本音も正直に口走れたのに!
「聞いて」
低い声を装った星奈が、わたしの手を勢いよく
「逃げたくなるだろうけど素直に聞いてよね。私だって、ここまで心の整理つけんの大変だったんだよ」
「うぅ……」
「この一週間、仁乃との向き合い方には本っ当に悩み続けたんだから。顔合わせるのが怖くて、毎晩遅くまで友達に無理言って付き合ってもらって時間潰して、たくさん相談にも乗ってもらった。同居してる子の好意に応えるにはどうすればいいだろう、って」
「そんな……わたし別に星奈に好意なんて……」
「ごちゃごちゃうるさいな! 好きなら好きってはっきり言えばいいじゃん。そんなに言いたくないなら私から言ってやる」
呆れ果てたとばかりに星奈は声を荒げた。
「私だって仁乃と一緒にいたい! この何週間か、仁乃の存在にはすっごく救われた! たくさん面倒も見てくれて、たくさん話して、一緒に眠って、そうやって仁乃の注いでくれた優しさがすっごくすっごく嬉しかった!」
わたしはもはや声を出すこともできない。否定したくたって、妨げたくたって、喉に絡まった痰と涙に邪魔されてしまう。
苦悶に顔を歪めるわたしを見て、星奈は「泣かないでよ」と柔らかに笑った。そっと後ろに回された彼女の手が、わたしの骨ばった背中を撫でてくれる。熱い触感が血を巡って、わたしの息をいよいよ詰まらせた。
「あーすっきりした。私、明日からはちゃんと家に帰ってくる。仁乃のこと独りぼっちにさせたくないもんね。そんで私がされて嬉しかったみたいに、仕事とか勉強の愚痴も聞きたいなって思ってる。仁乃が自分に自信をもって、強くなって、就活もばっちり終えられるように、何があっても仁乃の味方でいる」
背中に手を宛がったまま、星奈は意地悪っぽく口を歪めて、「でも可愛いって褒めるのは嫌だな」と
「それで下手に恋愛スキル上げられて出ていかれたら、今度は私が困るもんな」
「うっうぅ……ありがとう……星奈……」
やっとの思いで弾けた感謝が涙とともに口を滑り落ちた。解放された手をどれだけ頬に宛がっても、流れ出す涙はいっこうに止まってくれなくて、しゃくり上げながらわたしは腕に顔を埋めた。収まらない全身の震えが痛くて、心地よくて、このままいつまでも泣いていられたらいいのにとさえ思った。
これが、誰かに心の届くということなのだ。
ずっとずっと知らなかった。星奈に教えてもらった、生まれて初めての心境。
諦めが希望に塗り替わって輝いた瞬間、灰色の世界は根底から覆った。明日、わたしの隣には大切な人がいる。遥か前から知り合っていたのに手の届かなかった人が、手の届く人となって隣にいてくれる。わたしと星奈は今日、幼馴染みという天井を越えた新たな関係に躍り出てしまったのだ。そのはち切れそうな喜びを、どんな言葉で表したものだろう。
「ふふっ」
星奈が噴き出した。
「仁乃、ひどい顔。化粧めっちゃ落ちてるし」
「誰のせいだと思ってんの!」
「いや、なんていうか、ここまで泣かれるなんて思ってなかったから若干引いてる」
「ひどい……」
「でも安心したな。こんなに
ぽつりと吐露された言葉の重みは、涙が染みて重たくなったわたしの脳みそでは咄嗟に量りかねた。どういう意味かと聞き返しかけたが、遮るように立ち上がった星奈に「行こ」と手を引かれ、肌から伝わる彼女の温もりにすべては吸い取られて消えた。
◆
わたしと星奈の共同生活が再開した。
相変わらず、日中の生活サイクルは互いに重ならない。わたしは大学院とアルバイト、それに公務員試験の勉強。星奈は渋谷の勤務地まで延々と電車で通勤。一緒に過ごす時間は朝食時と夕食時くらいのもので、そのあたりは星奈の告白の前後で変わりはしなかった。
かといって、何も変化がなかったわけではなかった。星奈に言わせれば「急に性欲がなくなった」とかで、彼女がセフレとホテルに通うことはなくなったらしい。関係もろとも絶ってしまったそうだ。代わりに星奈がスキンシップを求めるようになってきたのは、わたしだった。──もっとも、そのスキンシップとは頭を撫でたり、ハグしたり、膝枕をする程度のことで、小動物よろしく甘えてくる星奈に相対しているとわたしまで気が大きくなって、同じものを求め返してしまう。積極的になってきたといって星奈には喜ばれたっけ。
どの段階でわたしの好意に気付き、どうしてそれに応える気になってくれたのか、いくら尋ねても星奈は黙して語ってはくれない。
ただ、いつだったか「安心が欲しくなったんだよね」と
遊び歩くばかりのスタイルを貫いていれば、やがて刺激に慣れ過ぎた身体や心が悲鳴を上げる。腰を落ち着けたいと願った星奈にとって、物心ついた頃からの知り合いで、今も同居生活を送っているわたしは、色々な意味で依存に都合のいい存在だったのだと思う。そういう下地のあったところに、わたしが淡い好意を寄せていることまで判明して、まさに星奈にとっては渡りに船だった。心を預けても傷付けられない、落ち着いて愛を注げる相手として、わたしは星奈に選ばれた。
たぶん、そういうことなのだろう。
わたしが納得できさえすればいいのだから、真実なんて聞かなくていい。むしろ知りたくもない。たとえ真実を知らなかったところで、今、わたしは世界の誰よりも大切な人の隣で、世界で一番の幸せを噛み締めている。その事実は決して揺らがないのだから。
隅田川に桜の華やぐ季節になった。
慣れないビジネスバッグを抱えてアパートへ帰り着くと、魚の焦げる臭いが玄関まで漂っていた。また今日も失敗している──。膨らんだ嘆息をドアの外へ置き去りにして、部屋に入った。星奈の料理の腕はいつまで経っても向上を見せない。
「お帰りぃ」
上機嫌の星奈がわたしを出迎えた。いっぱしにエプロンをしているが、背後のフライパンの中では二匹のアジが元気に焦げている。
「どうだった、面接」
「まあまあ……。御社が第一志望ですって言っても手応えなかったし、またダメかも」
「そりゃ、みんな第一志望ですって言うに決まってるし、向こうだって警戒するっしょ。いちいち気にしたらやってらんないぞ」
けらけらとわたしの不安を蹴散らした星奈は、「そんでさ」と話題を切り替えながら缶ビールを手にして
「今日、渋谷駅でナンパされたんだよ」
「また?」
「またっていうか、いつものことだけど」
こういうところで星奈は変な嘘をつかない。
「そんで男の方が何言い出すかと思ったら『お金ないでしょ? 出してやるから一緒にホテル泊まって行かない?』だって! バカじゃない? 誘うにしてももっとマシな文句があるって思わない? 本気で私を釣りたいならもっと台詞を選べっての! もうあんまりにもバカバカしかったから報告したくてしたくて……」
朗らかな愚痴が耳に触れて優しく膨らむ。適度に聞き流しながらカバンを置き、上着を脱ぐと、嘘のように身体が軽くなったことに気付いて、わたしは少しばかり心のゆとりを取り戻した。
今の愚痴は案外、面接で精力を使い果たしてきたわたしを励ますための、星奈なりの不器用な工夫だったのかもしれない。こんな具合に不必要な邪推を控えるようになってから、代わり映えのしない淡泊な毎日にも、ほのかに彩りが加わった気がする。
「だけど前の私だったら大人しくついてってたかもなぁ」
星奈はまだ渋谷で会った男の話をしていた。わずかないたずら心が働いて「今は?」と尋ねてみると、彼女は黒ずんだアジを皿へ出しながら鼻を鳴らした。
「こっちには大切な人と帰る家があんだよバーカ、って言ってやった」
「あ、それは本当に言ったんだ……」
「間違ったことは言ってないからね」
堂々と彼女は胸を張ってみせ、それからアジの乗った皿をミニテーブルに置いた。白米、味噌汁、主菜。すべてが揃ったのを確認して、二人して「いただきます」と手を合わせた。
星奈がわたしのことを『彼女』や『恋人』と呼んだことはない。『大切な人』と呼ぶのがお気に入りなのだそうだ。わたしもわたしで表現に困って、いつも星奈の真似をして『大切な人』という言葉を使ってしまう。わたしと星奈を結ぶ感情の正体が、恋と呼ぶにはあまりに純粋で美しすぎることを思えば、この呼び名の方が自然だという意見にもうなずける。『愛人』と呼んだら、別の意味になってしまうから。
とりたてて強い魅力を覚えるわけでもないのに、なぜか一緒にいると落ち着く人。
安心して、もっと寄り添いたいと願ってしまう人。
星奈はわたしへの愛を、そんな節回しで表現する。
わたしにとって星奈は何だろう。胸に手を当てて問えば、底を打った響きがたちまち返ってくる。──わたしにとって星奈は、だらしなくて、ポンコツな部分もあって、嫌な習慣も嫌いな挙動もたくさんあって、それなのに世話を焼かずにはいられない人。いつも笑顔を見ていたい人。他の誰かに心を配っているのを知ると、居てもたってもいられなくなる人。そばにいると元気をもらえて、明日を生きるのが楽しみになる人。
わたしは星奈が好き。
誰に臆することもなく言い張れる今が、輝かしくて、眩しい。
「仁乃」
──星奈の声で我に返った。「うん」と問い返すと、星奈はミニテーブルの向こうで微笑んでいた。
「ありがとね。いつも私の話、聞いてくれてさ」
「急にどうしたの」
「別に。なんとなく言いたくなっただけ」
「酔ってるんじゃないの」
「かもね」
さらりと目を逸らし、彼女は頬を掻く。星奈の照れ隠しは分かりやすくて好きだ。
わたしも黙って顔をそむけた。
赤くなりかけの耳を見られて笑われるのが、嫌だったから。
わたしは星奈のそばにいる。
星奈はわたしのそばにいる。
そうやって一日、一日、たくさんの思い出を積み上げよう。幼馴染みとして積み上げた十五年間の分よりも、もっともっとたくさんの記憶を交わそう。言葉を交わそう。愛を交わそう。
今は素直に、そう思える。
だってわたしも、星奈も、この広い都会の片隅で、独りぼっちではなくなったのだから。