旧帝一工国公立医の合格実績で二高の方が断トツ。
東大は今後二華が盤石になりそうだし、東北大も一高が迫ってきてるな。
>歴史的な格は仙台一高>仙台二高
二高と一高の前身の旧制二中と旧制一中は尋常中学校を2つに分けてできたから同格。
>今後逆転する可能性も有りそうですね。
数十年前に一高が二高を上回っていた時期が20年近くあったが、目ぼしい人材はほとんど出なかった。
歴史を見ると全国区の人材を輩出して圧倒しているのは二高。
仮に進学実績が二高を上回るようになったとして、人材まで含めて一高が二高を上回るには数十年かかる。
>東北大も一高が迫ってきてるな。
5年くらい前だったか、一高の東北大合格が二高とほとんど並んで次は逆転するのでは?と言われてよね。
結局は、翌年以降二高にまた離されているのが現状では?
京大などの超難関は一高。
国立などの難関は二高で良い。
旧帝一工国公立医は二高の優位は揺るがない。
一高は東北大に傾注するんだろうな。
三高は大半は地方国公立大に傾注している。
旧帝一工国公立医の進学実績は二高が長年トップ。
内緒さん@一般人[2017/09/04]
進研
模試でもs1は二高10名以下。
ナンバー最下位の二華でさえ30名以上。
やはりトップ層は名前のカッコいい一高や中高一貫の青陵や二華に行く。
本当かどうかはわからないが、これが事実なら二高はもう終わりだね。
1年生とはいえ今までこれだけ差が付くことは無かった。
進学実績が落ちたら二高は良いところ無し。
今年の二華の1年生って5期生だっけ?
定員も105名と増えたし、予備校が充実して受験者レベルが上がったのもここら辺からと聞いたな。
これは3年後に今以上の大波乱があるかもね。
2年前はたしか
二高12名
二華10名
一高0名
だった気がする。
今回は二華が昨年の宮城県全部足したより多くなった。
ちなみに宮城県トップはウルスラで、全国2位。
昨年のセンター同日
模試でもウルスラ中と二華中が高校生を抑えて上位。
ウルスラは二華中、青陵中落ちを上手く拾ってるようだね。
二高はこれをされるとヤバイな。
内申の条件を一高と同じにすれば、旧帝一工国公立医志望者は二高志望が多いだろうな。地方国公立大志望なら、他の高校でもいいと思うが。
×一位の一高は不変だが2位以下は常にかわる。
○一位の二高は変わらないが、二位以下は常に良く変わる
最近は何寛大で二華が一高と逆転、東北大では三高が一高との逆転を虎視眈々と狙っている
内緒さん@一般人 [ 2015/01/08(木) ]
以下、東大合格者を巡る話)
「今年の合格者を見ても、首都圏の一貫校が強い結果となった。高校別ランキングトップは33年連続で開成だった。合格者数は158人で、昨年より12人減。2位は筑波大付駒場と灘がともに104人で、この3校が3ケタの合格者数だった。以下、麻布、駒場東邦、聖光学院、桜蔭と続き、ここ3年ベスト10の顔ぶれは全く一緒だ。すべて中高一貫校で、一貫校のベスト10独占は21年連続になる。」
よほどの田舎者でない限り宮城の高校入試のひどさは十分わかってる。だから二華中人気は高止まりだ。宮城の高校入試を受けてまで二高に行く価値はないからな。当然来年の大学受験からは二高のトップ層が薄くなるのは避けられない。
という指摘が2年前からあったにもかかわらず、
現実が見えていない掲示が多いからでは?
真面目な話し
もし将来自分に子供ができたら中高一貫校に入れるだろ?
ここの住人なら本当は中高一貫校の方が有利な事くらい知ってそうだけど?
だから俺は数年前から
二高は仙台駅前に引っ越して、中高一貫校にして校舎も二華中より高層校舎にしろと言ってきた。
今さらか?
S54仙台一高卒だが、それまでは学校郡のしばりもなく、仙台一高が圧倒的に優秀だった。民本主義の吉野作造、今の現 慶応義塾長谷山塾長、優秀な人物を数多く輩出している。現在は二高が
偏差値は高いのだろうが、一高には独立自尊の精神がある。
はい、そうだと思います。S54仙台一高卒ですが、当事は学校郡制度ができる前で、
偏差値だけでいえば、一高がその以前から長い年数 上でした。民本主義の吉野作造、現慶応義塾の長谷山塾長、一高は優秀な人材を多く輩出している。
> だから俺は数年前から
二高は仙台駅前に引っ越して、中高一貫校にして校舎も二華中より高層校舎にしろと言ってきた。
今さらか?
二高は仙台駅の近くには来られないw
一高や二華だけ仙台駅から歩いて通える
また高層校舎も二高には似合わない一高や二華だけだ
>今の現 慶応義塾長谷山塾長
玉手英利 山形大学学長
遠藤保雄 仙台大学学長
川上伸昭 宮城大学学長
佐々木隆之 宮城学院女子大学副学長
>歴史的な格は仙台一高>仙台二高というのは本当ですか?
そんなことどこに書いてあった?
歴史的には二高の方が大事だろう。
二高の初代校舎は仙台藩養賢堂だったのに対して、一高の初代校舎は私立東華中学校。
藩校vs私立では比較にならない。
一高卒の学長は仙台周辺のローカル大学ばかり
仙台二中・仙台二高卒業の大学学長
(Wikipediaに載っている人物だけ)
山川民夫 東京薬科大学学長
鈴木邦雄 横浜国立大学学長
渋谷正史 上武大学学長
和田義郎 名古屋市立大学学長、医学部長
仙道富士郎 山形大学学長、医学部長
>>歴史的な格は仙台一高>仙台二高というのは本当ですか?
>
>そんなことどこに書いてあった?
>歴史的には二高の方が大事だろう。
>二高の初代校舎は仙台藩養賢堂だったのに対して、一高の初代校舎は私立東華中学校。
>藩校vs私立では比較にならない。
二高の管理教育を受けると歴史に無知になる。今がこうだから昔もそうだと考えるようになり、竹島を占拠しているのは韓コロだから韓コロの言うように2000年前から韓コロの領土だと考えるようになる。
戦前は家督制度というのがあって、親の財産は(よほどの事情でもない限り)長男が全部相続した。だから今のように兄弟姉妹間で親の相続財産を争うなどということは起こらなかった。
家督制度についていえば戸籍謄本は今と戦前のものは全然違う。戸主(つまり長男)が筆頭で、その下にすべての親族が書かれている。甥や姪の家族まで出ている。だから曾祖父の戸籍謄本を取り寄せると10数枚になる(今は夫婦子供単位だからせいぜい2枚)。
一高は1892年に尋常中学校として創立された。初代校長には一代の碩学、文学博士大槻文彦先生が任命された。1900年に創立された二高の初代校長は一高の第三代校長の兼任だった。一高には大槻校長の写真も胸像も飾ってあるし、校歌も大槻校長の作詞によるものである。尋常中学校創立に至るまでの経緯は『仙台一中、一高百年史』に9ページにわたって詳しく書かれている。二高には養賢堂を偲ぶものは何も残されていない。
創立から30年後の大正11年(1922年)には創立30周年記念式典が盛大に挙行された。式には宮城県知事、東北帝国大学総長、文部大臣、満州鉄道総裁らも列席した。そのあとで初代校長大槻文彦博士が「学術研究上の注意」と題する約1時間の記念講演をおこなった(『仙台一中、一高百年史』)。
終戦後には東北帝大名誉教授の宮城音五郎氏が校長に迎えられた。
「旧制一中」というブランドは今でも取り上げられることがある。
/* 『週刊朝日』2017年5・5-12合併号
【旧制一中の系譜を受け継ぐ公立名門校の実力】
かつて、戦前のこと。各都道府県には「第一中学校」と名の付く学校があった。文字通り「地域ナンバーワン」の学校として、「真のエリート」を育てる役割を担う「官立」の学校だった。「将来の日本を背負って立つエリートたるもの、せこい点取り虫では困る。幅広い教養を修め、身体を鍛え、文武両道を目指すべき」。それが旧制一中にほぼ共通する教育理想。その伝統と矜持を今に受け継ぐ、全国の公立高校を訪ねた。
・・・・・
*/
/* 『週刊朝日』2017年5・19号
【旧制一中の系譜を受け継ぐ公立名門校の実力】
【「旧制一中」とは】 戦前の旧学校制度において「中学校」とは、主に12歳から17歳までを過ごす男子校だった。中でも大半の都道府県にあった「第一中学校」と名の付く中学校が旧制一中。入学には厳しい試験が課され、受験浪人もいた。戦後、学校制度が改められ、「新制の高等学校」へと姿を変えた。本連載は旧制一中を中心とした公立名門校を紹介する。
【第2回 進学実績以外でも全国レベルの活躍を見せる「旧制一中」】
・・・・・
*/
/* 『週刊朝日』2017年5・26号
【旧制一中の系譜を受け継ぐ公立名門校の実力】
【第3回 歴史的文化人や世界に誇る財界人ら多彩な人材が輩出する「旧制一中」】
・・・・・
*/
「旧制二中」について特集が組まれることはない。
>一中一高出身教授(旧帝大+一工+海外)
日本語が理解できないのか?教授のことなど書いていない。
一中一高出身の学長はローカルの大学だらけだと書いている。
>一高は1892年に尋常中学校として創立された。初代校長には一代の碩学、文学博士大槻文彦先生が任命された。
1900年に創立された二高の初代校長は一高の第三代校長の兼任だった。
良く知らないくせに、一高自慢ばかりしている。
二高は1900年「創立」ではない「創設」だ。
「創設」だから、二高(二中)は1900年に全く新しくできたわけではない。
二高の元となるのは、1890年に設立された日進学舎だ。
尋常中学校の1892年より歴史は古い。
大槻文彦氏は日進学舎にも大きく関係していて、尋常中学校仙台分校設立の基礎を作った。
日進学舎は1896年に尋常中学校仙台分校となる。
>歴史に無知になる。今がこうだから昔もそうだと考えるようになり・・・
一高卒の大学落第は意味不明なことばかり書く。
>二高の管理教育を受けると
二高に管理教育などない。一高の落ちこぼれは嘘を撒き散らす。
>戦前は家督制度というのがあって
一高を卒業し大学をやっとこ卒業したレベルでは、家督制度と旧制中学校の設立をゴチャゴチャにする程度の頭しかない。
>歴史的な格は・・・
二高の初代校舎…仙台藩養賢堂
一高の初代校舎…私立東華中学校
普通の県外の人が見たら、歴史的には二高の方が格上だと思うだろう。
>>一中一高出身教授(旧帝大+一工+海外)
>
>日本語が理解できないのか?教授のことなど書いていない。
>一中一高出身の学長はローカルの大学だらけだと書いている。
「上武大学」はローカルではないのか?
仙台一高出身の東北大学教授
【東北大学(学部不詳)】
小倉強、高橋英次、早川典久、新津泰孝、関内隆(高等教育開発推進センター)
【東北大学教養部】
林五郎、阿刀田研二、蟻坂仲明、伊藤徳男、飯沼勇伍、大内義一、北村仁、原二郎、菅野喜八郎、半田恭雄、壱岐泰彦、国分振、大友義勝、萩原敏朗、松本秀明
【東北大学文学部】
千葉胤成、伊東信雄、関晃、輪田稔、丸山欣哉、入間田宣夫、高城和義、畑山俊輝、野家啓一、三浦秀一、後藤斉、佐藤研一、行場次朗、佐藤弘夫、斎藤倫明、川合安、鈴木道男、沼崎一郎
【東北大学法学部】
斎藤秀夫、岡本勝、井上義比古
【東北大学経済学部】
日野秀逸
【東北大学教育学部】
不破和彦、荒井武、上埜高志
【東北大学医学部】
笹野伸昭、佐藤彰、佐藤正二郎、和田正男、宍戸仙太郎、石田名香雄、成澤邦明、水柿道直、佐々木毅、佐々木巖、林富、仁尾正記、佐々木啓一、笹野公伸、虫明元、山家智之、目黒謙一、半田康延、高橋昭喜、斎藤秀光、松岡洋夫、野田哲生、加藤正人、根東義明、谷内一彦、一迫玲、齋木佳克、井樋栄二、阿部高明
【東北大学歯学部】
加賀山學、越後成志、高橋哲、笹野泰之、高橋信博、佐々木啓一
【東北大学薬学部】
小笠原國郎、菱沼隆則、加賀山學、安斉順一、根東義則、大江知行
【東北大学理学部】
野副鉄男、加藤多喜雄、加藤愛雄、加藤陸奥雄、平井越郎、加藤豊明、伊藤翼、国井暁、森岡昭、菊地永祐、工藤博司、尾田太良、岩崎俊樹
【東北大学工学部】
須田熈、永井健三、大泉充郎、武田信男、萱場孝雄、渥美光、槌川武男、岡田克巳、島田平八、八嶋三郎、南日朗、猪苗代盛、只木禎力、樋口龍雄、小幡充男、太田照和、小沢泉太郎、井上克己、飯淵康一、小濱泰昭、庄子哲雄、江刺正喜、横堀壽光、川崎亮、井樋慶一、曽根秀昭、猪股宏、厨川常元、根元義章、佐藤滋、庄子哲雄、川崎亮、静谷啓樹、田中和之、西澤松彦、芳賀洋一、吉岡敏明、金子俊郎、升谷五郎、伊藤邦明、若林利男
【東北大学農学部】
今井丈夫、玉手英夫、石田昌彦、大森迪夫、小原嘉昭、西田朗、佐藤実
【東北大学金属材料研究所】
磯部満武、武藤芳雄、小川四郎、和泉修、四竈樹男、今野豊彦、加藤秀実
【東北大学高速力学研究所】
斎藤清一
【東北大学流体科学研究所】
西山秀哉
【東北大学電気通信研究所】
山之内和彦、中島康治、鈴木陽一、枝松圭一
【東北大学非水溶液化学研究所】
鳥海達郎、岩泉正基
【反応化学研究所】
加藤紀元
【東北大学抗酸菌研究所】
佐藤三郎、岡捨巳、鈴木千賀志、斎藤達雄、新津泰孝、本宮雅吉
【東北大学加齢医学研究所】
仁田新一
【東北大学多元物質科学研究所】
佐藤幸紀、大塚康夫、及川英俊、柴田浩幸、北村信也
【東北大学選鉱製錬研究所】
南条道夫
(176人)
>>一高は1892年に尋常中学校として創立された。初代校長には一代の碩学、文学博士大槻文彦先生が任命された。
>1900年に創立された二高の初代校長は一高の第三代校長の兼任だった。
>
>良く知らないくせに、一高自慢ばかりしている。
>二高は1900年「創立」ではない「創設」だ。
>「創設」だから、二高(二中)は1900年に全く新しくできたわけではない。
誰もそんなことは気にしていない。同じ意味で使われている。「ただ、意味としてはどれもほぼ同じ「新たに作る」なので、気楽に使っていきましょう」と書いているサイトもある。
http://whatimi.blog135.fc2.com/blog-entry-637.html実際二高の資料でもいたるところで「創立」が使われている。
/*『仙台二中二高百年史』8~9ページ
本校は明治33年(1900)4月、宮城県第二中学校として創立された。
創立の翌年明治34年には、本校の第1回卒業生113名を送り出し、
創立当時の生徒の大多数が第一中学校分校より来たので、…、本校が明治33年に創立された後、
創立当時は生徒を収容できる専用校舎がなかったので、
*/
>
>二高の元となるのは、1890年に設立された日進学舎だ。
>尋常中学校の1892年より歴史は古い。
一高の元となるのは1886年に設立された東華学校だ。
>大槻文彦氏は日進学舎にも大きく関係していて、尋常中学校仙台分校設立の基礎を作った。
>日進学舎は1896年に尋常中学校仙台分校となる。
大槻文彦氏と日進学舎との関係など『仙台二中二高百年史』には何の記述もない。
わずかに『宮城県教育百年史』に大槻文彦氏と日進学舎との関係があるのみ。
/*『宮城県教育百年史』
その学科、程度は尋常中学校に準じ、中学校に入学できなかった者は、おおむねここに入り、後日中学校の相当の級に入る準備に励んだのである。26年には生徒数が倍増、校舎が狭隘を告げたため、勾当台通の旧宮城師範学校の校舎に移るとともに、大槻文彦、和達孚嘉、大童信太夫、遠藤庸治ら各界の代表者を結集、改革を行なった。これは後日の県立の移管に備えるためであったとみられる。
*/
要するに日進学舎を将来尋常中学校に組み入れるために日進学舎生徒の学力を尋常中学校レベルに引き上げるための改革を行なったということだ。
/*『仙台一中一高百年史』
【日進学舎併合】本校における教育体制の整備に伴って、明治29年3月には、東北学院と並んで私立中学校の雄である日進学舎を本校に吸収して、これを分校とした。日進学舎は明治23年飯淵七三郎等によって東二番丁に設立され、後に勾当台通りに移された。その学科程度は尋常中学校の初歩を教授するものであったが、尋常中学校に入り得なかった者は概ねここに投じ、生徒数は年々多くなり、明治27年には生徒総数150名に達した。そこで翌28年県会においては1500円の補助を決し、29年3月、これを更に本校の分校としたのである。
*/
>>歴史に無知になる。今がこうだから昔もそうだと考えるようになり・・・
>
>一高卒の大学落第は意味不明なことばかり書く。
二高の管理教育を受けると昔も今と同じだと考えるようになる。
昭和24年新制大学の初めての入試は3月でなく6月に行われた。合格者は1804人で、今よりはるかに少ない。そのうち新制高校の出身者は345人でわずかに19%。新制高校で合格者の一番多かったのは日比谷高校(この時はまだ第一高校という名前)の36人。
内緒さん@一般人 [ 2020/05/25(月) ]
>>最高点をとったものは毎年一高に集中していた様子。
>
>昭和24年は一高から6人東大に入ってるし、
6人なら全国第10位になる。常識から考えてあり得ない。
>>二高の管理教育を受けると
>二高に管理教育などない。一高の落ちこぼれは嘘を撒き散らす。
これが管理教育でなかったら何が管理教育だ?
/* 『朝日新聞宮城版』昭和38年6月7日
【仙台二高で19人を謹慎処分】
【授業放棄して応援】
【バスケットの試合 団員の反省求める】
仙台二高(小圷洋校長)は県高校総合体育大会最終日のさる3日、仙台市の聖和学園で行われたバスケットの対仙台一高決勝戦に授業を休んで応援に出かけた同校応援団員19人(3年18人、2年1人)に「学校に無断で授業放棄した」として、5日午後は自宅で、6日午前中は同校図書館に謹慎を命じ、反省を求めた。また5日には、団員の父兄も学校に呼び、注意を促した。小圷校長の話だと同校では3日の月曜日は平常授業を行うが、大会出場選手。部員だけが「公認欠席」という形で、出席の取扱いとし、学級担任を通じて事前に生徒に知らされていた。ところが応援団員19人は無断で応援に出かけ、しかも、一部の応援団員が試合開始前に学校へ戻り、黒板に「間もなく試合開始」とチョークで大書、他の生徒の応援参加を呼びかけた。
このため3年生のほとんど約300人が、授業途中から大会場に出かけてしまった。そこで、先生が「帰るように」と呼び戻しに行ったところ、応援団員だけがこれを聞かず、最後まで応援を続けた。
約300人の生徒が授業放棄した間は、残っていた生徒だけで、一応授業をしたが、ほとんど正規の授業にはならなかったという。
【小圷校長の話】
愛校心から出た行為であることはわかるが「ルール違反」だったので一応反省を求めた。近年、各校の応援合戦が派手になって来ているが、応援のためなら授業を休んでもいいという考え方はやはり間違っていると思う。生徒たちも父兄もこの点をよくわかってくれた。
【同校応援団長(3年生)の話】
「ルール違反」は確かにいけなかった。反省しています。
*/
一高ならせいぜい校長室に呼ばれて口頭で注意を受けるくらいのものだ。
>>戦前は家督制度というのがあって
>
>一高を卒業し大学をやっとこ卒業したレベルでは、家督制度と旧制中学校の設立をゴチャゴチャにする程度の頭しかない。
戦前戦中は長幼の別は厳然としてあった。家督制度において親の財産は(よほどの事情でもない限り)長男が全部相続した。だから今のように兄弟姉妹間で親の相続財産を争うなどということは起こらなかった。
長男たる旧制仙台一中と次男以下の旧制仙台二中の学校差は厳然としてあった。
/*『河北新報』昭和28年3月2日(月)
【高校入試あれこれ(中)】
出席者
二中 …
五橋中 …
宮城野中 …
上杉山中 …
仙台二高 増田治雄
県教育研究所 …
県教委学務課 安倍辰夫
同指導課 …
・・・・・
【安倍】これは仙台一高と仙台二高の例もみてもわかる。設備は仙台二高が一高よりはるかによい。教員はまあ同じだ。しかし志願者の成績は最高点をとったものが毎年一高を受けている。最低点は差がない。こうした結果はどこから生まれるか父兄が反省してほしい。
【増田】学校差の問題は高校側としては全く受け身だ。成績のいいのだけよこせといっているわけではない。これは50年、70年の伝統として生まれてくるもので学校差はいろんな意味で自然に生まれる。
・・・・・
*/
>>歴史的な格は・・・
>
>二高の初代校舎…仙台藩養賢堂
>一高の初代校舎…私立東華中学校
>
>普通の県外の人が見たら、歴史的には二高の方が格上だと思うだろう。
雑居ビルとして一角がたまたま空いていたから入居しただけで何年か後には退去した。何の関係もない。だから養賢堂の名残は二高には何も残されていない。
>星はなんでも知っている@一般人
一高卒二高コンプ君、二高の掲示板を荒らすな。
>仙台一高出身の東北大学教授
学長の話をしているのに、教授のことなど話題にしていない。
>>二高は1900年「創立」ではない「創設」だ。
>>「創設」だから、二高(二中)は1900年に全く新しくできたわけではない。
>誰もそんなことは気にしていない。同じ意味で使われている。
同じ意味なわけがないだろうが。
二高が1900年に「創立」されていたなら、1901年に旧制仙台二中の卒業生がいるわけがない。
>実際二高の資料でもいたるところで「創立」が使われている。
それは「創立」と「創設」の区別ができない教師が書いたからそうなっだけのことだろ。最近記述されたものは「創設」で統一されてきている。
>大槻文彦氏と日進学舎との関係など『仙台二中二高百年史』には何の記述もない。
その仙台二中二高百年史を監修していた中に一高卒の二高教師がいたから、どうせ書きたくても書けなかっただけだろ。それともその教師に反対されたか。
事実関係は、宮城県教育百年史に書いてあるから問題はない。
>これが管理教育でなかったら何が管理教育だ?
>/* 『朝日新聞宮城版』
>仙台二高(小圷洋校長)は
それは小圷校長時代限定だと何回同じことを書いたらわかるんだ?
何度注意しても、また同じことばかり繰り返す。
>>二高の初代校舎…仙台藩養賢堂
>>一高の初代校舎…私立東華中学校
>>
>>普通の県外の人が見たら、歴史的には二高の方が格上だと思うだろう。
>雑居ビルとして一角がたまたま空いていたから入居した
官立の師範学校が雑居ビルの一角?
一高卒の落ちこぼれには雑居ビルと養賢堂内に設置された官立師範学校(二高の初代校舎)の区別もできない。
二高の初代校舎は養賢堂、一高と二華の初代校舎は東華中学校。
歴史上の事実は変わらない。
>雑居ビルとして一角がたまたま空いていたから入居した
いや、たまたま空いていても尋常中学校(1900年から本校部分は仙台一中となる)は入居できなかった。
宮城県教育百年史に書いてある。
>>仙台一高出身の東北大学教授
>学長の話をしているのに、教授のことなど話題にしていない。
「宮城県仙台第二高等学校人物一覧」に地方国立大学(名誉)教授、私立大学(名誉)教授まで載せるなよ。
一高卒(訂正版)
田辺武次 本州製紙社長
武田豊 新日本製鐵社長(元国際鉄鋼協会会長、元日本鉄鋼連盟会長、元経団連副会長、元日経連副会長、大脳生理学研究で著書に『自己開発法』)
清野智(せいの・さとし) 東日本旅客鉄道社長
中村千尋 声の教育社社長(第2・3回朝日アマ将棋名人)
内ヶ粼贇五郎(うちがさき・うんごろう) 東北電力初代社長
岩越忠恕 日産自動車社長
菊地庄次郎 日本郵船社長(元経済同友会副代表幹事、元日経連常任理事)
山田三郎太 凸版印刷社長
赤坂武 日本鋼管社長
手代木功 塩野義製薬社長
早川種三 日本建鐵社長(会社再建の神様)
山田鉄之助 オリエント時計社長
庄司昊明 リンテック社長
武内浩一郎 安田生命社長
奥田新三 セントラル硝子社長
西山雄一 興国人絹社長
杉谷武雄 三井信託銀行社長
石塚幸次郎 大阪特殊製鉄所社長
(順不同)
>>>二高は1900年「創立」ではない「創設」だ。
>>>「創設」だから、二高(二中)は1900年に全く新しくできたわけではない。
>
>>誰もそんなことは気にしていない。同じ意味で使われている。
>
>同じ意味なわけがないだろうが。
>
>二高が1900年に「創立」されていたなら、1901年に旧制仙台二中の卒業生がいるわけがない。
誰も意味の違いなど気にしていないから混在して使われている。言葉に関する識者も「ただ、意味としてはどれもほぼ同じ「新たに作る」なので、気楽に使っていきましょう」と書いている。
http://whatimi.blog135.fc2.com/blog-entry-637.html実際二高の資料でもいたるところで「創立」が使われている。
/*『仙台二中二高百年史』8~9ページ
本校は明治33年(1900)4月、宮城県第二中学校として創立された。
創立の翌年明治34年には、本校の第1回卒業生113名を送り出し、
創立当時の生徒の大多数が第一中学校分校より来たので、…、本校が明治33年に創立された後、
創立当時は生徒を収容できる専用校舎がなかったので、
*/
1901年に旧制仙台二中の卒業生がいたのは変則学校だったから。
/*『仙台二中二高百年史』
本校は明治33年(1900年)4月、宮城県第二中学校として創立された。…、本校は、この年募集した1年生210名のほかに5年生125名を宮城県尋常中学校分校(明治33年(1900年)、第一中学校分校)より編入して、1年生と5年生とからなる変則的な生徒構成で発足した。
*/
>>実際二高の資料でもいたるところで「創立」が使われている。
>
>それは「創立」と「創設」の区別ができない教師が書いたからそうなっだけのことだろ。最近記述されたものは「創設」で統一されてきている。
「創設」に何か特別な意味を持たせようとしても無駄だ。二高は落第生の受け皿だった。
/*『仙台一中、一高百年史』
清水小路の分校は明治37年(1904年)3月末日限廃止されることになった。その生徒の処分については分校の生徒数は第3学年132名で、これを3学級に編成していたが、2学級の生徒数凡そ85名は本校に、残りの1学級生徒凡そ40名は落第生と共に二中に収容することになった。
*/
>大槻文彦氏と日進学舎との関係など『仙台二中二高百年史』には何の記述もない。
>
>その仙台二中二高百年史を監修していた中に一高卒の二高教師がいたから、どうせ書きたくても書けなかっただけだろ。それともその教師に反対されたか。
>事実関係は、宮城県教育百年史に書いてあるから問題はない。
二高の管理教育を受けると妄想に支配されるようになる。
一介の教師に編集委員長を超えた権限があるわけがない。
一高には大槻校長の写真も胸像も飾ってあるし、校歌も大槻校長の作詞によるものである。創立から30年後の大正11年(1922年)には創立30周年記念式典が盛大に挙行された。式には宮城県知事、東北帝国大学総長、文部大臣、満州鉄道総裁らも列席した。そのあとで初代校長大槻文彦博士が「学術研究上の注意」と題する約1時間の記念講演をおこなった(『仙台一中、一高百年史』)。
二高には大槻文彦氏を偲ぶものは何も残されていない。
>>これが管理教育でなかったら何が管理教育だ?
>>/* 『朝日新聞宮城版』
>>仙台二高(小圷洋校長)は
>
>それは小圷校長時代限定だと何回同じことを書いたらわかるんだ?
>何度注意しても、また同じことばかり繰り返す。
管理教育で洗脳されると管理教育を受けていたという認識がなくなる。二高は旧制中学時代から管理教育が伝統だった。
/* 『仙台二中二高百年史』56ページ
二中の思い出 中30回卒 佐藤喜代治
私は大正14年に仙台二中に入学した。将来のことは何も分からなかった。ただ勉強がしたくて進学した。入ってみて、第一に感じたのは、規律が特にきびしいことであった。外出する時は制帽をかぶれとか、夜間に外出した時は届けよとかいった具合である。夜、銭湯へ行く場合などは、どうしていいか、困った。そば屋へ入って、処分を受けたという話もある。学校の中でも同様で、登校から下校までゲートルを着けていなければならない。夏休みに入る前の学期試験の時、蒸し暑い日などは、教室におふれが回って来て、今日はゲートルをはずしてもいいとか、制服の第一ボタンをはずしてもいいとか言われる。
*/
/*『仙台二中二高百年史』
【座談会 わが学舎(まなびや)の青春】
【阿部(寿)】阿部(陸)先輩が出られた2年後の昭和5年(1930年)に入学した私たち35回生は、いわば河合体制が整った時期の生徒だったんですね。その表われなんでしょう。例えば、うちの玄関を出る時から帰宅するまで、絶対にゲートルを取ってはいかん-というんです。脚気でゲートルを巻けない、といっても、正規の医者の診断書がない限り許さない。それから「夜間外出をしちゃいかん」。デパートにも入っちゃいかんし、食堂に入るのもダメ。禁止事項だらけでした。
*/
自由な校風の一高は違った。
/* 『青春のうた 仙台一高』98ページ */
このころ、小平は軍部ににらまれていた。原因はゲートルである。
大正末ごろから他中学校では登下校時にゲートルを巻き始めた。しかし、小平は一中生にはゲートルを巻かせなかった。「成長盛りの生徒の足にゲートルを巻き、血管を圧迫するのは、健康上よくない」と判断したかららしい。
しかし、「ノーゲートル」で通学する一中生の姿は、軍部にとって気に入らないことであった。軍部は再三にわたって、小平に対して「ゲートルを巻かせるように」と指示するが、小平はガンとして首をタテには振らなかった。
一高と同じ「自由主義陣営」に属する麻布高校でも同様だった。
/* 『名門高校ライバル物語』講談社、2009年
(106ページ)麻布生たちは、いつの時代も既成の概念や規範を疑い、自分たちの思考や尺度をもって舵を切ることを誇りとしてきた。麻布は戦時中、ゲートルを巻くことがどの学校よりもおそく、敗戦後はどこよりも早く取り去ったといわれる。自由を大切にし、希望を失うまいとする気風は、軍国主義のただなかでも、絶えることはなかったのだ。
*/
>>>二高の初代校舎…仙台藩養賢堂
>>>一高の初代校舎…私立東華中学校
>>>
>>>普通の県外の人が見たら、歴史的には二高の方が格上だと思うだろう。
>
>>雑居ビルとして一角がたまたま空いていたから入居した
>
>官立の師範学校が雑居ビルの一角?
>一高卒の落ちこぼれには雑居ビルと養賢堂内に設置された官立師範学校(二高の初代校舎)の区別もできない。
>
>二高の初代校舎は養賢堂、一高と二華の初代校舎は東華中学校。
>歴史上の事実は変わらない。
二高に管理教育を受けると歴史をねつ造するようになる。
「二高の初代校舎は養賢堂」などとは『仙台二中二高百年史』のどこにも書かれていない。
/* 『仙台二中二高百年史』
(2ページ)宮城県第二中学校として、南町仮校舎及び清水小路一中分校校舎を使用
(6ページ)尋常中学校(明治32年2月、中学校令改正により4月宮城中学校と改称)は、入学志願者の増加にともなって校舎新築の話が具体化し、明治32年(1899年)7月第二高等学校の東南隣の南六軒丁に新校舎を建ててここに移転した。これにともなって、同年8月には、勾当台通の中学校分校が清水小路の旧校舎に移転した。
*/
出てくるのは「勾当台通」だけ。
>>雑居ビルとして一角がたまたま空いていたから入居した
>
>いや、たまたま空いていても尋常中学校(1900年から本校部分は仙台一中となる)は入居できなかった。
>宮城県教育百年史に書いてある。
「東華学校」は最優秀だったからできるだけそのまま引き継いだ。
/*『仙台一中、一高百年史』
東華学校は明治19年富田鉄之助(日本銀行総裁・東京府知事となった本県出身者)と仙台区長松倉恂が設立者となり、当時の宮城県知事松平正直を始め書記官和達孚嘉、遠藤敬止等と相謀って設立したもので私立中学校の中で最優秀の学校であった。…
…しかも本校は実にこの東華学校の校地校舎及び器具一切を借用して創立され、更に職員生徒も多く引継がれたのであって、この意味に於て東華学校は本校直接の母体をなすものであることを銘記しなければならぬ。
*/
日進は劣っていたから心機一転する必要があった。
/*『仙台一中一高百年史』
【日進学舎併合】本校における教育体制の整備に伴って、明治29年3月には、東北学院と並んで私立中学校の雄である日進学舎を本校に吸収して、これを分校とした。日進学舎は明治23年飯淵七三郎等によって東二番丁に設立され、後に勾当台通りに移された。その学科程度は尋常中学校の初歩を教授するものであったが、尋常中学校に入り得なかった者は概ねここに投じ、生徒数は年々多くなり、明治27年には生徒総数150名に達した。そこで翌28年県会においては1500円の補助を決し、29年3月、これを更に本校の分校としたのである。
*/
/*『仙台二中二高百年史』
【5】宮城県尋常中学校(再建)
県立の尋常中学校に入学できないものの多くは、私立の東北学院や日進学舎に入ったのである。
*/
>星はなんでも知っている@一般人
一高卒落ちこぼれの管理教育マニア君
いつまでも二高の掲示板を荒らすな
>二高に管理教育を受けると歴史をねつ造するようになる。
>「二高の初代校舎は養賢堂」などとは『仙台二中二高百年史』のどこにも書かれていない
>出てくるのは「勾当台通」だけ
二高に管理教育などない、管理教育があるのは一高卒落ちこぼれのお前の脳内だけだ。
一高卒の大学落ちこぼれともなると、二高の歴史を語るのが許されるのは、仙台二中二高百年史だけと思い込む。
しかも、仙台二中二高百年史や仙台一中一高百年史の明治初期の記述は、宮城県教育百年始が元になっているということすら知らない。
だから、意味不明のトンチンカンなことばかり書くようになる。
二高の初代校舎(=尋常中学校仙台分校)は養賢堂内にあったと、
宮城県教育百年史にはっきり書いてあるだろうが。
尋常中学校仙台分校は旧官立師範学校校舎利用し、官立師範学校は養賢堂の中にあった。
仙台二中二高百年史にも、養賢堂を表に出してはいないが、尋常中学校仙台分校は(養賢堂内に設置された)旧師範学校校舎を利用したと明確に書いてある。
どこ読んでるんだ。
【六】日進学舎
日進学舎は、明治23年(1890年)4月飯淵七三郎他数名の発起
により、東二番丁(のち勾当台通の旧宮城師範学校の校舎に移転)
に設立され・・・
県では、明治29年度から私立日進学舎を県立に移管し、宮城県尋常中学校分校とし勾当台通りに設置した。
>>いや、たまたま空いていても尋常中学校(1900年から本校部分は仙台一中となる)は入居できなかった。
>>宮城県教育百年史に書いてある。
>「東華学校」は最優秀だったからできるだけそのまま引き継いだ。
いくら注意しても荒らしをやめず、掲示板利用のルールを無視して荒らし続けるお前のように、尋常中学校には手癖の悪い奴が多かったんだろ。
だから当時は私立の東華学校の校舎を使うしかなかった。
尋常中学校を再興してみても、仙台二高(二中)の初代校長を兼任した3代目の下條校長が6年続いた以外は、2代目、4代目の校長とも一年も続かずに辞めている。
自分から辞めたのか辞めさせられたのか知らないが。
2代 湯目補隆(1895年9月17日 ~ 1896年7月16日)0年10ヶ月
3代 下條幸次郎(1896年7月25日 ~ 1902年10月1日)
4代 西谷虎二(1902年10月6日 ~ 1902年12月19日)0年2ヶ月
だから、仙台藩から引き継がれた格式ある養賢堂の利用など認められず、泣く泣く私立の東華中学の校舎を利用しただけのことだろ。恐らくな。
>日進は劣っていたから心機一転する必要があった。
その劣っていた生徒は、仙台一高の卒業生になる。
尋常中学校に入れず日進学舎に入学した生徒は、尋常中学校(本校は仙台一高に引き継がれる)の卒業生だ。
入学年度を調べればそうなる。
仙台二高(仙台二中)の初代卒業生以降、尋常中学校を落ちて日進学舎に入学した生徒はいない。
仙台二中としての初代卒業生は、養賢堂内に設置された尋常中学校仙台分校に最初に入学した生徒。
>>二高に管理教育を受けると歴史をねつ造するようになる。
>>「二高の初代校舎は養賢堂」などとは『仙台二中二高百年史』のどこにも書かれていない
>>出てくるのは「勾当台通」だけ
>
>二高に管理教育などない、管理教育があるのは一高卒落ちこぼれのお前の脳内だけだ。
>
>一高卒の大学落ちこぼれともなると、二高の歴史を語るのが許されるのは、仙台二中二高百年史だけと思い込む。
>しかも、仙台二中二高百年史や仙台一中一高百年史の明治初期の記述は、宮城県教育百年始が元になっているということすら知らない。
>だから、意味不明のトンチンカンなことばかり書くようになる。
✕ 宮城県教育百年始
○ 宮城県教育百年史
ほうら、言わんこっちゃない。二高の管理教育を受けると歴史をねつ造するようになる。だから、意味不明のトンチンカンな漢字ばかり書くようになる。
>二高の初代校舎(=尋常中学校仙台分校)は養賢堂内にあったと、
>宮城県教育百年史にはっきり書いてあるだろうが。
>
>尋常中学校仙台分校は旧官立師範学校校舎利用し、官立師範学校は養賢堂の中にあった。
>
>仙台二中二高百年史にも、養賢堂を表に出してはいないが、尋常中学校仙台分校は(養賢堂内に設置された)旧師範学校校舎を利用したと明確に書いてある。
>どこ読んでるんだ。
明確に書くほどの価値もないから表に出していないんだろうが。
>【六】日進学舎
>日進学舎は、明治23年(1890年)4月飯淵七三郎他数名の発起
>により、東二番丁(のち勾当台通の旧宮城師範学校の校舎に移転)
>に設立され・・・
『宮城県教育百年史』によれば日進学舎は尋常中学校に入学できなかった者の受け皿だったようだな。
/*『宮城県教育百年史』
日進学舎は飯淵七三郎、久保寺豊太郎らが明治23年3月、仙台市東二番丁に設立した私塾である。26年ごろには私学の雄として東北学院とならび称せられ、常時7、80名の生徒を擁し、その後も増大する傾向にあった。その学科、程度は尋常中学校に準じ、中学校に入学できなかった者は、おおむねここに入り、後日中学校の相当の級に入る準備に励んだのである。
*/
>県では、明治29年度から私立日進学舎を県立に移管し、宮城県尋常中学校分校とし勾当台通りに設置した。
日進学舎の「学科程度は尋常中学校の初歩を教授するものであった」ようだな。
/*『仙台一中一高百年史』
【日進学舎併合】本校における教育体制の整備に伴って、明治29年3月には、東北学院と並んで私立中学校の雄である日進学舎を本校に吸収して、これを分校とした。日進学舎は明治23年飯淵七三郎等によって東二番丁に設立され、後に勾当台通りに移された。その学科程度は尋常中学校の初歩を教授するものであったが、尋常中学校に入り得なかった者は概ねここに投じ、生徒数は年々多くなり、明治27年には生徒総数150名に達した。そこで翌28年県会においては1500円の補助を決し、29年3月、これを更に本校の分校としたのである。
*/
>>>いや、たまたま空いていても尋常中学校(1900年から本校部分は仙台一中となる)は入居できなかった。
>>>宮城県教育百年史に書いてある。
>
>>「東華学校」は最優秀だったからできるだけそのまま引き継いだ。
>
>いくら注意しても荒らしをやめず、掲示板利用のルールを無視して荒らし続けるお前のように、尋常中学校には手癖の悪い奴が多かったんだろ。
>だから当時は私立の東華学校の校舎を使うしかなかった。
二高は新制高校になっても手癖の悪い奴が多かった。
(1)昭和24年5月
前進座の一行の会場の前に「前進座歓迎、共産党仙台二高細胞」と書いたプラカードが立てられたのが宮城軍政府の注目するところとなり、軍の通報に驚いた仙台二高が三名の生徒に謹慎を命じた(結局退学処分)。
(2)昭和24年7月
落第点を心配した仙台二高野球部員が試験問題を盗み出した。
(3)昭和25年3月
先生に落第を言渡され悲観のあまり仙台二高生3名が家から大金を持ち出し家出した。
(4)昭和44年11月
二高職員室から事務書類が二高生の手によって持ち出され、職員の懸命の探索によって北稜会館わきのやぶから発見された。
>尋常中学校を再興してみても、仙台二高(二中)の初代校長を兼任した3代目の下條校長が6年続いた以外は、2代目、4代目の校長とも一年も続かずに辞めている。
>自分から辞めたのか辞めさせられたのか知らないが。
>
>2代 湯目補隆(1895年9月17日 ~ 1896年7月16日)0年10ヶ月
>3代 下條幸次郎(1896年7月25日 ~ 1902年10月1日)
>4代 西谷虎二(1902年10月6日 ~ 1902年12月19日)0年2ヶ月
>
>だから、仙台藩から引き継がれた格式ある養賢堂の利用など認められず、泣く泣く私立の東華中学の校舎を利用しただけのことだろ。恐らくな。
新制高校になってからの二高の初代校長は不適格とみなされ整理されたようだな。
/* 『宮城県教職員組合運動史』*/
一方、二高の田淵校長は、戦前から軍国主義的協力者との評判もあり、最初の教員適格審査では不適格となり再審査で適格と認められた人物であり、この秋の行政整理による異動では教育研究所に転職が発令された。
*/
>>日進は劣っていたから心機一転する必要があった。
>
>その劣っていた生徒は、仙台一高の卒業生になる。
>尋常中学校に入れず日進学舎に入学した生徒は、尋常中学校(本校は仙台一高に引き継がれる)の卒業生だ。
>入学年度を調べればそうなる。
分校独立のあかつきに、落第生徒は分校にくれてやった。
/*『宮城県教育百年史』第4巻資料編646ページ
427 第一中学校分校廃止および生徒は2校に編成の件「明治37年 学校」宮城県図書館蔵
…3組およそ47名および元学年3学年に停むべき落第生徒は県立宮城県第二中学校生徒に編成し…
*/
>仙台二高(仙台二中)の初代卒業生以降、尋常中学校を落ちて日進学舎に入学した生徒はいない。
>
>仙台二中としての初代卒業生は、養賢堂内に設置された尋常中学校仙台分校に最初に入学した生徒。
落第生は二中にくれてやった。
/*『仙台一中、一高百年史』
清水小路の分校は明治37年(1904年)3月末日限廃止されることになった。その生徒の処分については分校の生徒数は第3学年132名で、これを3学級に編成していたが、2学級の生徒数凡そ85名は本校に、残りの1学級生徒凡そ40名は落第生と共に二中に収容することになった。
*/
>星はなんでも知っている@一般人
一高卒落ちこぼれの二高コンプ君、いつまでも二高の掲示板を荒らすな。
>?宮城県教育百年始 ○宮城県教育百年史
>意味不明のトンチンカンな漢字ばかり書くようになる。
ほうら、言わんこっちゃない。一高卒大学落第の落ちこぼれは、たまたま漢字ミスをみつけるとすぐつけ込んでくる。
無能にはその程度のことしかできない。
俺が今まで漢字の間違いなどせずに「宮城県教育百年史」と何回書いたか調べろ。
>明確に書くほどの価値もないから表に出していない
適当なこと書くな。
一高にとって都合悪いことになるから、控えめに書いてあるだけだろうが。
>『宮城県教育百年史』によれば日進学舎は尋常中学校に入学できなかった者の受け皿だったようだ
だから尋常中学校仙台分校として県立になったときに引き継がれたそのできの悪かった生徒の大部分は、一高の卒業生になってると書いたろうが。
>二高は新制高校になっても手癖の悪い奴が多かった。
二高ではなく一高だろ。いくら注意しても他校の掲示板を荒らし続けるお前がその具体例の典型。
>落第生は二中にくれてやった。
>分校の生徒数は第3学年132名で、これを3学級に編成していたが、2学級の生徒数>凡そ85名は本校に、残りの1学級生徒凡そ40名は落第生と共に二中に収容することになった。
仙台一中一高百年史は、肝心な所でウソデタラメもあるからいちがいには信用できない。
宮城県教育百年史、仙台二中二高百年史どこにもそんなことは書いてない。
くだらないことを書いてあるのは、ホラ吹き仙台一中一高百年史だけ。
第三者がソースの確認できないことを書くな。
自分たちも生まれていない100年前の歴史を語って、何か意味があるのかな?
創立が早いことに意味があるなら、仙台発祥の元禄寿司=平禄寿司が日本一じゃなければならないが、そうじゃなく、スシローが今は日本一。
今の受験生は、
自由奔放な校風より、真面目な校風を、
新幹線が通っていて、低地のごちゃごちゃした環境より、
広瀬川の湖畔で静かな環境を
選択してるんじゃないかな?
読むと、
最初に、一高の自慢話と二高の批判を出して
そいつを、汚い言葉で否定しているような形式。
自作自演でしょう。
>二高は新制高校になっても手癖の悪い奴が多かった。
二高ではなく一高だろ。いくら注意しても他校の掲示板を荒らし続けるお前がその具体例の典型。
↑↑↑↑↑↑↑
一高の自慢や二高の悪口を
最初に持ってきて、
汚い言葉で反論する形式がほとんど。
一人芝居でしょう。
>>?宮城県教育百年始 ○宮城県教育百年史
>>意味不明のトンチンカンな漢字ばかり書くようになる。
>
>ほうら、言わんこっちゃない。一高卒大学落第の落ちこぼれは、たまたま漢字ミスをみつけるとすぐつけ込んでくる。
>無能にはその程度のことしかできない。
>俺が今まで漢字の間違いなどせずに「宮城県教育百年史」と何回書いたか調べろ。
中下位層はこれまで何十回も漢字ミスを指摘されながら「たまたま」だとうそぶく。
二高の管理教育を受けるとそうなってしまう。
>>明確に書くほどの価値もないから表に出していない
>適当なこと書くな。
>一高にとって都合悪いことになるから、控えめに書いてあるだけだろうが。
養賢堂とはつながりがないから素直に「旧師範学校校舎を利用した」と書いてある。
>>『宮城県教育百年史』によれば日進学舎は尋常中学校に入学できなかった者の受け皿だったようだ
>
>だから尋常中学校仙台分校として県立になったときに引き継がれたそのできの悪かった生徒の大部分は、一高の卒業生になってると書いたろうが。
落第生は二中のレベルに合っているからだ。つまり二中なら落第生にならずに済むということだ。
/*『宮城県教育百年史』
その学科、程度は尋常中学校に準じ、中学校に入学できなかった者は、おおむねここに入り、後日中学校の相当の級に入る準備に励んだのである。26年には生徒数が倍増、校舎が狭隘を告げたため、勾当台通の旧宮城師範学校の校舎に移るとともに、大槻文彦、和達孚嘉、大童信太夫、遠藤庸治ら各界の代表者を結集、改革を行なった。これは後日の県立の移管に備えるためであったとみられる。
*/
>>二高は新制高校になっても手癖の悪い奴が多かった。
>
>二高ではなく一高だろ。いくら注意しても他校の掲示板を荒らし続けるお前がその具体例の典型。
二高出身者には「手癖の悪い」という認識がないようだな。
(1)昭和24年5月
前進座の一行の会場の前に「前進座歓迎、共産党仙台二高細胞」と書いたプラカードが立てられたのが宮城軍政府の注目するところとなり、軍の通報に驚いた仙台二高が三名の生徒に謹慎を命じた(結局退学処分)。
(2)昭和24年7月
落第点を心配した仙台二高野球部員が試験問題を盗み出した。
(3)昭和25年3月
先生に落第を言渡され悲観のあまり仙台二高生3名が家から大金を持ち出し家出した。
(4)昭和44年11月
二高職員室から事務書類が二高生の手によって持ち出され、職員の懸命の探索によって北稜会館わきのやぶから発見された。
>>落第生は二中にくれてやった。
>>分校の生徒数は第3学年132名で、これを3学級に編成していたが、2学級の生徒数
>>凡そ85名は本校に、残りの1学級生徒凡そ40名は落第生と共に二中に収容することになった。
>
>仙台一中一高百年史は、肝心な所でウソデタラメもあるからいちがいには信用できない。
>宮城県教育百年史、仙台二中二高百年史どこにもそんなことは書いてない。
>くだらないことを書いてあるのは、ホラ吹き仙台一中一高百年史だけ。
>第三者がソースの確認できないことを書くな。
「宮城県教育百年史」にちゃんと書かれてある。前に2回も引用している。二高の管理教育を受けるとすぐ知らんぷりをするから始末が悪い。
/*『宮城県教育百年史』第4巻資料編646ページ
427 第一中学校分校廃止および生徒は2校に編成の件「明治37年 学校」宮城県図書館蔵
…3組およそ47名および元学年3学年に停むべき落第生徒は県立宮城県第二中学校生徒に編成し…
*/
>星はなんでも知っている@一般人
一高卒落ちこぼれ管理教育マニアの二高コンプ君
いつまでも二高の掲示板を荒らすな。
>何十回も漢字ミスを指摘されながら「たまたま」だとうそぶく
大部分は漢字ミスではなく変換ミスだ。
一高卒の落ちこぼれは、漢字の間違いと漢字の変換ミスの区別もできず、朝から晩まで管理管理と騒ぎ立てる。
二高関係者は理性があるから、重大な間違い以外は相手の変換ミスなどいちいち取り上げない。
一高卒の大学落第落ちこぼれは、このあたりからレベルが違う。
>>一高にとって都合悪いことになるから、控えめに書いてあるだけだろうが。
>養賢堂とはつながりがないから素直に「旧師範学校校舎を利用した」と書いてある。
一高卒の大学落ちこぼれには、このあたりのことは全く理解できない。
ちょっと調べれば一高は養賢堂とは何の関係もないことは明らかだが、一高が俺たちは養賢堂、養賢堂と得意になっている所に、二高側からあえて水をさすようなヤボったいことを書かなかったというだけのことだ。
二高はつまらないことにはいちいち波風を立てず控えめにしていただけ。
>落第生は二中のレベルに合っているからだ
二中ではなく一中だろ。
おまえのような落第生は一中のレベルに合っている。
大学を落第して仕事でも落ちこぼれたから、いくら注意しても他校の掲示板荒らしを続ける。
>尋常中学校仙台分校として県立になったときに引き継がれたそのできの悪かった生徒の大部分は、一高の卒業生になってる
尋常中学校に入れなかった落第生の大半は一高の卒業生になっている。
仙台一中は落第生だらけだったから、実力試験でも一中には得点の低い生徒が多かった。
次の実力試験の得点分布表はその証拠
大正9年 県下一斉学力試験
仙台一中・仙台二中得点分布
得点 一中 - 二中
80 -0人 --5人
70 -4人 --6人
60 17人 --8人
50 17人 -15人
40 18人 -12人
30 37人 -26人
20 16人 --6人
10 -4人 --0人
-- -3人 --1人
合計116人 80人
>星はなんでも知っている@一般人
一高卒落ちこぼれ管理教育マニアの二高コンプ君
↑↑↑↑↑↑↑
「戦後のどさくさの時代」っていうけれど、
「青葉繁れる」よりも、もっと前の時代でしょう。
>(3)昭和25年3月
>先生に落第を言渡され悲観のあまり仙台二高生3名が家から
>大金を持ち出し家出した。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑
真偽の程は、不明だが、家出するなら、当然、家から金を持っていくほかは、ないでしょう。
「青葉繁れる」の前の、戦後のどさくさの時代なら、笑い話で済んだんじゃないか?
自分の家から、金を持ち出すくらいで、ドロボー扱いするなんて、
「星はなんでも知っている」コンプ君
誇大妄想狂なのかしら。
>星はなんでも知っている@一般人
>>二高は新制高校になっても手癖の悪い奴が多かった。
>>二高出身者には「手癖の悪い」という認識がないようだな。
>>(1)昭和24年5月
前進座の一行の会場の前に「前進座歓迎、共産党仙台二高細胞」と書いたプラカードが立てられたのが宮城軍政府の注目するところとなり、軍の通報に驚いた仙台二高が三名の生徒に謹慎を命じた(結局退学処分)。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
「星はなんでも知っている」@一般人 は、
「手癖が悪い」っていう日本人が一般常識として使用する
国語的意味を知ってるのかな?
日本人が、一般的に「手癖が悪い」という言葉を使う意味は、
「ドロボー」「盗み」をする癖がある
という意味よ。
これも、真偽の程は、わからないが、
共産党を支持するプラカードを掲げて、退学になったことと、
「手癖が悪い」という意味がつながらない。
やっぱり、
「星はなんでも知っている」コンプ君
誇大妄想狂なのかしら。
>なにー・・・
学院未満が掲示板を荒らすな
>星はなんでも知っている@一般人 [ 2020/07/05(日) ]
>>二高は新制高校になっても手癖の悪い奴が多かった。
>
>二高ではなく一高だろ。いくら注意しても他校の掲示板を荒らし続けるお前がその具体例の典型。
>二高出身者には「手癖の悪い」という認識がないようだな。
>(1)昭和24年5月
>前進座の一行の会場の前に「前進座歓迎、共産党仙台二高細胞」と書いたプラカードが立てられたのが宮城軍政府の注目するところとなり、軍の通報に驚いた仙台二高が三名の生徒に謹慎を命じた(結局退学処分)。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
二高出身者の「手癖の悪い」の例を挙げてくれて
アリガトねぇ。
じゃ、こっちもお返しとばかり、
一高出身者には、
(1)2007年(平成19年)8月に防衛省を退職のち、
在任中の収賄などによって逮捕され、有罪判決を受けた一高出身の防衛事務次官がいたわねぇ。
(2)2005年(平成17年)仙台市長に就任したが、
私邸の引越しに仙台市職員を手伝わせたり、8ヶ月間に行った5回の海外出張(うち3回に夫人同伴)が問題にされたほか、タクシーチケットの不適切な使用を問題とされた一高出身の市長がいたねぇ。
こういうのは、「手癖が悪い」という範疇にはいるのかねぇ???
>>何十回も漢字ミスを指摘されながら「たまたま」だとうそぶく
>大部分は漢字ミスではなく変換ミスだ。
>
>一高卒の落ちこぼれは、漢字の間違いと漢字の変換ミスの区別もできず、朝から晩まで管理管理と騒ぎ立てる。
>
>二高関係者は理性があるから、重大な間違い以外は相手の変換ミスなどいちいち取り上げない。
>一高卒の大学落第落ちこぼれは、このあたりからレベルが違う。
学区分割前の二高生は変換ミスに気づけない。このあたりからレベルが違う。
>>>一高にとって都合悪いことになるから、控えめに書いてあるだけだろうが。
>>養賢堂とはつながりがないから素直に「旧師範学校校舎を利用した」と書いてある。
>
>一高卒の大学落ちこぼれには、このあたりのことは全く理解できない。
>ちょっと調べれば一高は養賢堂とは何の関係もないことは明らかだが、一高が俺たちは養賢堂、養賢堂と得意になっている所に、二高側からあえて水をさすようなヤボったいことを書かなかったというだけのことだ。
>二高はつまらないことにはいちいち波風を立てず控えめにしていただけ。
二高は養賢堂とは関係ないから、尋常中学校分校から独立したらたちまち旧養賢堂の建物から追い出された。
>>落第生は二中のレベルに合っているからだ
>
>二中ではなく一中だろ。
>おまえのような落第生は一中のレベルに合っている。
>大学を落第して仕事でも落ちこぼれたから、いくら注意しても他校の掲示板荒らしを続ける。
学区分割前の二高生は本当のことを言われるとすぐにキレる。
/*『東大合格高校盛衰史』2009年、光文社新書
【旧制一高の旧制中学別入学者(1934~1942年累計)】
67~80位 仙台第一 6人
93~106位 仙台第二 4人
*/
>>尋常中学校仙台分校として県立になったときに引き継がれたそのできの悪かった生徒の大部分は、一高の卒業生になってる
>
>尋常中学校に入れなかった落第生の大半は一高の卒業生になっている。
分校生は毎年変則学校に放り出した。
/*『仙台一中、一高百年史』
清水小路の分校は明治37年(1904年)3月末日限廃止されることになった。その生徒の処分については分校の生徒数は第3学年132名で、これを3学級に編成していたが、2学級の生徒数凡そ85名は本校に、残りの1学級生徒凡そ40名は落第生と共に二中に収容することになった。
*/
/*『仙台二中二高百年史』
本校は明治33年(1900年)4月、宮城県第二中学校として創立された。…、本校は、この年募集した1年生210名のほかに5年生125名を宮城県尋常中学校分校(明治33年(1900年)、第一中学校分校)より編入して、1年生と5年生とからなる変則的な生徒構成で発足した。
*/
>仙台一中は落第生だらけだったから、実力試験でも一中には得点の低い生徒が多かった。
>
>次の実力試験の得点分布表はその証拠
>
>大正9年 県下一斉学力試験
>仙台一中・仙台二中得点分布
>
>得点 一中 - 二中
>80 -0人 --5人
>70 -4人 --6人
>60 17人 --8人
>50 17人 -15人
>40 18人 -12人
>30 37人 -26人
>20 16人 --6人
>10 -4人 --0人
>-- -3人 --1人
>合計116人 80人
旧制高校入学者数
昭和 旧一中 旧二中
03 -----49
04 76○ ●49
05 56○ ●44
06 85○ ●59
07 70● ○76
08 68○ ●37
09 47● ○49
10 49● ○63
11 45= =45
12 54○ ●26
13 32○ ●27
14 66○ ●49
15 36● ○43
16 47● ○52
17 75○ ●61
18 57-----
平均 57.5○ ●48.6
出典 『仙台一中、一高百年史』『仙台二中二高百年史』
>>星はなんでも知っている@一般人
>一高卒落ちこぼれ管理教育マニアの二高コンプ君
>
>↑↑↑↑↑↑↑
>
>「戦後のどさくさの時代」っていうけれど、
>
>「青葉繁れる」よりも、もっと前の時代でしょう。
>
>>(3)昭和25年3月
>>先生に落第を言渡され悲観のあまり仙台二高生3名が家から
>>大金を持ち出し家出した。
>
>↑↑↑↑↑↑↑↑↑
>
>真偽の程は、不明だが、家出するなら、当然、家から金を持っていくほかは、ないでしょう。
>
>「青葉繁れる」の前の、戦後のどさくさの時代なら、笑い話で済んだんじゃないか?
>
>自分の家から、金を持ち出すくらいで、ドロボー扱いするなんて、
>
>「星はなんでも知っている」コンプ君
>
>誇大妄想狂なのかしら。
/*『河北新報』昭和25年3月25日(土)朝刊
【仙台二高生3名が家出 先生に落第を言い渡され悲観】
【「勉強する自信失う」大金を所持、書置残す】
・・・・・
…君は家の金庫から3千円、…両君はそれぞれ1万円(*)近くの現金を持って行方をくらましたもの。…
・・・・・
【密輸に入りたいと語る 3君の同級生某君談】
…君は突然「僕は学校をあきらめて密輸入の仲間に入ろうと思うが君はどう思うか…」と問われた…また…君も…君と同じように「僕の友達に密輸入者がいるので仲間に入りたいと思うが…」と不気味なことをきっぱりいい放ったこともあります。…
【落第いい渡さぬ 島田教官、書置を否定】
・・・・・
【追試を考慮中 山下校長談】
・・・・・
【成績苦にしていた …君の母…さん談】
・・・・・
*/
(*)昭和25年の1万円は大金(当時の河北新報の1か月の購読費は53円、今は4400円)。
https://www.youtube.com/watch?v=m17UQstMvQw
>>星はなんでも知っている@一般人
>
>>>二高は新制高校になっても手癖の悪い奴が多かった。
>
>>>二高出身者には「手癖の悪い」という認識がないようだな。
>
>>>(1)昭和24年5月
>前進座の一行の会場の前に「前進座歓迎、共産党仙台二高細胞」と書いたプラカードが立てられたのが宮城軍政府の注目するところとなり、軍の通報に驚いた仙台二高が三名の生徒に謹慎を命じた(結局退学処分)。
>
>↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
>
>「星はなんでも知っている」@一般人 は、
>
>「手癖が悪い」っていう日本人が一般常識として使用する
国語的意味を知ってるのかな?
>
>日本人が、一般的に「手癖が悪い」という言葉を使う意味は、
>
>「ドロボー」「盗み」をする癖がある
>
>という意味よ。
>
>これも、真偽の程は、わからないが、
>
>共産党を支持するプラカードを掲げて、退学になったことと、
>
>「手癖が悪い」という意味がつながらない。
「口から出まかせ男」の使用例
>内緒さん@一般人 [ 2019/11/11(月) ]
>コンプまみれで他校の掲示板荒らしばかりやっている手癖の悪い一高に対して、他校には無関心の二高
>内緒さん@一般人 [ 2020/02/10(月) ]
>手癖が悪いのはいつでも一高だろうが
>内緒さん@一般人 [ 2020/06/22(月) ]
>いくら注意しても荒らしをやめず、掲示板利用のルールを無視して荒らし続けるお前のように、尋常中学校には手癖の悪い奴が多かったんだろ。
「口から出まかせ男」とは暴言・妄言・虚言など委細承知の上でやりあっている。
>やっぱり、
>
>「星はなんでも知っている」コンプ君
>
>誇大妄想狂なのかしら。
/*
内緒さん@一般人 [ 2019/02/12(火) ]
さらに詳しくは、お前の好きな『宮城県教職員組合運動史』に書いてある。
211~219
3 仙二高事件の発生
1949年(昭和24年)5月31日、前進座の一行が仙台にやってきた。演し物はビクトル・ユーゴーの「レ・ミゼラブル」を脚色した「噫、無情」で、会場は東北劇場であった。その会場の前に「前進座歓迎、共産党仙台二高細胞」と書いたプラカードが立てられたのが宮城軍政府の注目するところとなり、軍の通報に驚いた仙台二高が三名の生徒に謹慎を命じたというのが事件の発端である。
内緒さん@一般人 [ 2019/02/12(火) ]
仙台二高は、6月7日、田淵校長名をもって「生徒処分に関する報告」を県教委教育長に提出した。それによると、「昭和23年秋10月直接校内に於ての政治活動と認められる檄文貼布の所為が起り」「さらに本年の4月初旬に至り日本共産党仙台二高細胞の名に於て再び学内の政治活動をなした」、これらに対して学校側は誠意をこめて説諭したが、「それにも不拘4月中旬3度日本共産党仙台二高細胞の名により不穏当なる行為に出でた」ので、4月下旬講堂に全校生徒を集めて、校長が文部次官通牒にもとづいて訓示をおこない、日本共産党仙台二高細胞などの名によっての政治活動は校の内外を問わず厳禁することも附言した。
しかし、かれら生徒は5月中旬前進座公演のポスターを校内に貼るなど、4度活発な学内政治活動をおこない、5月31日には、仙台二高細胞の名を冠したプラカードを掲げるが如き行為に出た。
*/
https://www.youtube.com/watch?v=Au7m3NhOOaE
>>星はなんでも知っている@一般人 [ 2020/07/05(日) ]
>>>二高は新制高校になっても手癖の悪い奴が多かった。
>>
>>二高ではなく一高だろ。いくら注意しても他校の掲示板を荒らし続けるお前がその具体例の典型。
>
>>二高出身者には「手癖の悪い」という認識がないようだな。
>
>>(1)昭和24年5月
>>前進座の一行の会場の前に「前進座歓迎、共産党仙台二高細胞」と書いたプラカードが立てられたのが宮城軍政府の注目するところとなり、軍の通報に驚いた仙台二高が三名の生徒に謹慎を命じた(結局退学処分)。
>
>↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
>
>二高出身者の「手癖の悪い」の例を挙げてくれて
>
>アリガトねぇ。
>
>じゃ、こっちもお返しとばかり、
>
>一高出身者には、
>
>(1)2007年(平成19年)8月に防衛省を退職のち、
>
>在任中の収賄などによって逮捕され、有罪判決を受けた一高出身の防衛事務次官がいたわねぇ。
>
>(2)2005年(平成17年)仙台市長に就任したが、
>
>私邸の引越しに仙台市職員を手伝わせたり、8ヶ月間に行った5回の海外出張(うち3回に夫人同伴)が問題にされたほか、タクシーチケットの不適切な使用を問題とされた一高出身の市長がいたねぇ。
>
>こういうのは、「手癖が悪い」という範疇にはいるのかねぇ???
/*『河北新報』昭和44年11月5日(水)夕刊
【二高の職員室荒らさる】
【テスト採点表盗難】
【「ケイサツニシラセルナ…」】
4日夜から5日朝にかけて仙台二高の職員室が荒らされた。金品の被害はなかったが、ロッカーの中から先月行なった3年と補習科生(大学浪人組)600人分の実力考査の教科ごとの採点表などがそっくり盗まれた。
・・・・・
また、職員室内の高橋清久教頭の机の上に、ブルーのマジックで「イチジ アズカッテオク ケイサツニ シラセルナ マモラナイト ゼンブヤクゾ」と書き残してあった。このため同校や警察では、実力考査の点数を苦にした在校生のしわざではないかとみて調べている。
・・・・・
*/
https://www.youtube.com/watch?v=XEj9Qw-NFcw
>星はなんでも知っている@一般人
一高卒落ちこぼれの二高コンプ君、二高の掲示板を荒らすな。
>学区分割前の二高生は変換ミスに気づけない。このあたりからレベルが違う。
俺はド近眼で、変換した文字もいちいち確認せずアバウトのまま投稿することが多いと前に書いた重要なことも、お前は何も覚えていない。
このあたりから、一高卒の落ちこぼれのお前とはレベルが違う。
>二高は養賢堂とは関係ないから、尋常中学校分校から独立したらたちまち旧養賢堂の建物から追い出された。
仙台一高卒の落ちこぼれでは何も理解できない。
二高が養賢堂に残ったまま独立したら、外部からは養賢堂内にあった二高>>私立東華の一高に思われるだろうが。
すると、何も知らずに他の地域から仙台に来た家族の師弟などは、一中など無視して二中に集中するようになってしまったかもしれない。
それは困るから、仙台一中と仙台二中のバランスを取りたかっただけだろ。
>二高生は本当のことを言われるとすぐにキレる。
いくら注意しても、一高卒のお前がいつまでもどうでもいいような事、それも同じことばかり書き続けるから怒鳴ってるだけだろうが。
一高卒でも落ちこぼれの荒らしでは何も理解できない。
>「口から出まかせ男」とは暴言・妄言・虚言など委細承知の上でやりあっている。
「口から出まかせ男」は一高卒大学落第のお前のことだ。
「やりあっている」のではない、お前がかってに絡んできているだけだ。
お前が二高の掲示板をいつまでも荒らし続けるから、注意して怒鳴り続けているだけだ
二高の掲示板を荒らすな。
>星はなんでも知っている@一般人 [ 2020/07/12(日) ]
>二高は新制高校になっても手癖の悪い奴が多かった。
>/*『河北新報』昭和44年11月5日(水)夕刊
>【二高の職員室荒らさる】
>【テスト採点表盗難】
>【「ケイサツニシラセルナ…」】
>このため同校や警察では、実力考査の点数を苦にした在校生のしわざではないかとみて調べている。
・・・・・
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
へーーーーー!
昔の河北新報って、犯人が分からなくても、犯人が捕まっていなくても、
「在校生のしわざではないかとみて調べている」
って、書くんだぁ!
今だったら、犯人がわからなければ、「何者かが侵入して」と書くでしょうし、ねぇ。
だから、事実としては、犯人がわからくて、捕まっていないのなら、誰がやったのかは、わかりませんので、「手癖の悪い」ことの証拠として、ここに出すということは、今の時代では、できないでしょう。
昔は、別に問題ない表現でも、今は、ちょっと問題がある文章表現ってあるからねぇ。
仙台一高出身の井上ひさしの名作「青葉繁れる」は、
井上ひさしの「ぼっちゃん」、仙台一高生の青春のバイブルとして、今も評価が高いし、映画化、テレビドラマにもなっている。
そこでは、主役の一高生・稔とその同級生たちが、二女高の女子生徒を松島呼び出して、襲った後に、二女高の先生が一高に押し掛けてきた、くだりで、「青葉繁れる」の162ページには、
「校長先生、もうおわかりでしょう、あのならず者です、二女高の生徒を襲ったのは。山の中へ連れ込んで、いきなり飛びかかり、悲鳴をいそれて、口の中にこの手拭を押し込んだんです。ああ、なんておそろしい!」(原文そのまま)
とありますが、当時の時代背景を勘案して、単なるフィクションとして、楽しむべきものでしょう。
だから、昔の河北新報、その他の資料を読む場合は、当時の時代背景を勘案して、資料を解析しなきゃ、だめでしょう。
昭和44年当時の河北新報も、昭和48年に出された、井上ひさしの「青葉繁れる」も、今、同じ表現を出したら、当然、今の時代の表現とは、ずれているから、当時の世相を考えて、フィルターをかけて、資料を解読しなきゃ、ダメでしょう。
すみません。
上で、引用した「青葉繁れる」の162ページの原文にワープロの打ち間違いがありました。
「悲鳴をいそれて」→「悲鳴をおそれて」でした。
「校長先生、もうおわかりでしょう、あのならず者です、二女高の生徒を襲ったのは。山の中へ連れ込んで、いきなり飛びかかり、悲鳴をおそれて、口の中にこの手拭を押し込んだんです。ああ、なんておそろしい!」(原文そのまま)
でした。
>>学区分割前の二高生は変換ミスに気づけない。このあたりからレベルが違う。
>
>俺はド近眼で、変換した文字もいちいち確認せずアバウトのまま投稿することが多いと前に書いた重要なことも、お前は何も覚えていない。
>このあたりから、一高卒の落ちこぼれのお前とはレベルが違う。
それは見苦しい言い訳だな。こちらもド近眼で、裸眼での視力は「10のマイナス2乗台」だ。
>>二高は養賢堂とは関係ないから、尋常中学校分校から独立したらたちまち旧養賢堂の建物から追い出された。
>
>仙台一高卒の落ちこぼれでは何も理解できない。
>
>二高が養賢堂に残ったまま独立したら、外部からは養賢堂内にあった二高>>私立東華の一高に思われるだろうが。
>すると、何も知らずに他の地域から仙台に来た家族の師弟などは、一中など無視して二中に集中するようになってしまったかもしれない。
>
>それは困るから、仙台一中と仙台二中のバランスを取りたかっただけだろ。
二高の管理教育を受けるとすぐに「だろ」と作り話をするようになる。
一高は出自からして格上だった。
/*『峰秀で水澄みたり―仙台二高青春讃歌』村上辰雄著
旧制二高と仙台一中の創立母胎となった東華学校は、仙台藩士の富田鉄之助、福沢諭吉、新島襄、森有礼など当代の代表的な教育者が手を貸して、東京にしかない大学予備門に相当する機能を持って創立された。
*/
二高には新校舎が用意されていなかった。
/*『仙台二高八十年のあゆみ』
創立当時は生徒を収容できる専用校舎がなかったので、南町通(南町通東三番丁角)の仮校舎に1年生を収容し、さらに第一中学校分校の一部を借りて5年生を収容した。清水小路の分校は現在の専売公社用地内に位置し、正面の一棟は白ペンキ塗のモダンな2階建であったが、後方の2棟は長屋建の民家の荒廃したものを修繕し、内部を改造したにすぎない粗末なもので、生徒控所のごときは軒はかたむき壁は落ち、常に薄暗くて一種の異臭さえただよっていたと言われる。南町通の仮校舎にいたってはさらにはなはだしく、講堂はもちろんのこと運動場もなかった。
*/
>>二高生は本当のことを言われるとすぐにキレる。
>
>いくら注意しても、一高卒のお前がいつまでもどうでもいいような事、それも同じことばかり書き続けるから怒鳴ってるだけだろうが。
>一高卒でも落ちこぼれの荒らしでは何も理解できない。
学区分割前の二高生は隠していたことをばらされると取り乱す。
昭和29年高校別東大合格者数(朝日新聞宮城版)
1.仙台一高 3人
2.仙台二高 2人
3.白石高 1人
3.黒川高 1人
3.石巻高 1人
昭和30年高校別東大合格者数(河北新報)
1.仙台一高 4人
1.東北学院高 4人
3.仙台二高 1人
3.築館高 1人
3.気仙沼高 1人
昭和31年高校別東大合格者数(河北新報)
1.仙台二高 8人
2.仙台一高 1人
2.東北学院高 1人
昭和32年高校別東大合格者数(河北新報)
1.仙台一高 10人
2.仙台二高 3人
3.石巻高 1人
3.気仙沼高 1人
3.古川高 1人
昭和33年高校別東大合格者数(河北新報)
1.仙台一高 7人
2.古川高 2人
3.仙台二高 1人
3.東北学院高 1人
昭和34年高校別東大合格者数(河北新報)
1.仙台一高 3人
2.仙台二高 1人
2.東北学院高 1人
2.古川高 1人
>>「口から出まかせ男」とは暴言・妄言・虚言など委細承知の上でやりあっている。
>
>「口から出まかせ男」は一高卒大学落第のお前のことだ。
>「やりあっている」のではない、お前がかってに絡んできているだけだ。
>
>お前が二高の掲示板をいつまでも荒らし続けるから、注意して怒鳴り続けているだけだ
>二高の掲示板を荒らすな。
学区分割前の二高生は世の中怒鳴りさえすればいいと思っている。
東北大学以外の仙台一高出身学長(最新版)
長谷山彰 慶応義塾大学塾長
林道倫 岡山大学学長
玉手英利 山形大学学長
遠藤保雄 仙台大学学長
川上伸昭 宮城大学学長
佐々木隆之 宮城学院女子大学副学長
>>星はなんでも知っている@一般人 [ 2020/07/12(日) ]
>>二高は新制高校になっても手癖の悪い奴が多かった。
>
>>/*『河北新報』昭和44年11月5日(水)夕刊
>>【二高の職員室荒らさる】
>>【テスト採点表盗難】
>>【「ケイサツニシラセルナ…」】
>
>>このため同校や警察では、実力考査の点数を苦にした在校生のしわざではないかとみて調べている。
>・・・・・
>
>↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
>
>へーーーーー!
>
>昔の河北新報って、犯人が分からなくても、犯人が捕まっていなくても、
>
>「在校生のしわざではないかとみて調べている」
>
>って、書くんだぁ!
>
>今だったら、犯人がわからなければ、「何者かが侵入して」と書くでしょうし、ねぇ。
>
>だから、事実としては、犯人がわからくて、捕まっていないのなら、誰がやったのかは、わかりませんので、「手癖の悪い」ことの証拠として、ここに出すということは、今の時代では、できないでしょう。
>
>昔は、別に問題ない表現でも、今は、ちょっと問題がある文章表現ってあるからねぇ。
>
>仙台一高出身の井上ひさしの名作「青葉繁れる」は、
>
>井上ひさしの「ぼっちゃん」、仙台一高生の青春のバイブルとして、今も評価が高いし、映画化、テレビドラマにもなっている。
>
>そこでは、主役の一高生・稔とその同級生たちが、二女高の女子生徒を松島呼び出して、襲った後に、二女高の先生が一高に押し掛けてきた、くだりで、「青葉繁れる」の162ページには、
>
>「校長先生、もうおわかりでしょう、あのならず者です、二女高の生徒を襲ったのは。山の中へ連れ込んで、いきなり飛びかかり、悲鳴をいそれて、口の中にこの手拭を押し込んだんです。ああ、なんておそろしい!」(原文そのまま)
>
>とありますが、当時の時代背景を勘案して、単なるフィクションとして、楽しむべきものでしょう。
>
>だから、昔の河北新報、その他の資料を読む場合は、当時の時代背景を勘案して、資料を解析しなきゃ、だめでしょう。
>
>昭和44年当時の河北新報も、昭和48年に出された、井上ひさしの「青葉繁れる」も、今、同じ表現を出したら、当然、今の時代の表現とは、ずれているから、当時の世相を考えて、フィルターをかけて、資料を解読しなきゃ、ダメでしょう。
/*『仙台二高八十年のあゆみ』
昭和44年…11月4日、本校職員室から事務書類が、本校生の手によって持ち出され、職員の懸命の探索によって北稜会館わきのやぶから発見されるという事件がおこり、…
*/
https://www.youtube.com/watch?v=m17UQstMvQw
>すみません。
>
>上で、引用した「青葉繁れる」の162ページの原文にワープロの打ち間違いがありました。
>
>「悲鳴をいそれて」→「悲鳴をおそれて」でした。
>
>「校長先生、もうおわかりでしょう、あのならず者です、二女高の生徒を襲ったのは。山の中へ連れ込んで、いきなり飛びかかり、悲鳴をおそれて、口の中にこの手拭を押し込んだんです。ああ、なんておそろしい!」(原文そのまま)
>
>でした。
/* 『年表 仙台一中一高の百二十年』176ページ
【井上ひさし小伝】
・・・
ひさしはもう一つ誓いを立てた。仙台に来る映画を全部観る、というのである。ひさしは担任の先生(注5)に言った。僕は物書きになりたいので、図書館の本を全部よみたい、仙台に来る映画も全部観たい、だから午後の授業には出られない、と。すると先生は、「わかった。その代わり、学校には三分の二は必ず出てこいよ」と、あっさり許した。お墨付きをもらったひさしは、映画館に通いつめる。午後どころか、朝から行くこともあった。ある日、早朝割引で映画を観ていると、隣の席に若い女性が座る。胸をときめかせるひさしの手を、彼女はぐっと握りしめた。それは婦人警官だった。ひさしは警察に連れて行かれる。学校に電話してもらうと、担任が出て、こう言った。「その生徒は、映画を観るのが授業になっています。」
名作「青葉繁れる」を髣髴とさせる逸話である。往時を顧みて、ひさしは語る。「決して放任じゃない。ちょっと距離をあけて子供のことを見ながらバックアップしてくださっていた。僕はこの高校には本当に感謝しています。」「いまからでももう一度あそこへ戻りたいと思うような、至福の時でした。」
『青葉繁れる』は、虚実綯い交ぜの小説ではあるが、そこに横溢する自由の息吹は、一高の校風そのものである。この校風が、ひさしの生涯と作品に与えた影響は、計り知れないものがある。
・・・
注5 地学の藤川武臣教諭。「映画もサボるようではきみの未来はない」と、映画を観たら半券と感想を提出するよう命じた。
・・・ */
>>星はなんでも知っている@一般人 [ 2020/07/05(日) ]
>>>二高は新制高校になっても手癖の悪い奴が多かった。
>>
>>二高ではなく一高だろ。いくら注意しても他校の掲示板を荒らし続けるお前がその具体例の典型。
>
>>二高出身者には「手癖の悪い」という認識がないようだな。
>
>>(1)昭和24年5月
>>前進座の一行の会場の前に「前進座歓迎、共産党仙台二高細胞」と書いたプラカードが立てられたのが宮城軍政府の注目するところとなり、軍の通報に驚いた仙台二高が三名の生徒に謹慎を命じた(結局退学処分)。
>
>↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
>
>二高出身者の「手癖の悪い」の例を挙げてくれて
>
>アリガトねぇ。
>
>じゃ、こっちもお返しとばかり、
>
>一高出身者には、
>
>(1)2007年(平成19年)8月に防衛省を退職のち、
>
>在任中の収賄などによって逮捕され、有罪判決を受けた一高出身の防衛事務次官がいたわねぇ。
/*『河北新報』昭和28年10月13日(火)朝刊
【大石氏に懲役1年求刑 選挙違反】
衆議院宮城二区落選候補大石武一(*)氏(43)=仙台市北三番丁=の公職選挙法違反事件公判は」12日午後3時から仙台地裁古川支部で羽田裁判長係、長島検事立合で開廷、長島検事は懲役1年、公民権停止を求刑した。…
*/
/*『河北新報』昭和28年10月27日(火)朝刊
【「公民権は停止せず」】
【大石氏に禁固1年の判決】
衆議院宮城二区落選候補大石武一(*)前代議士(44)=仙台市=にかかる公選法違反判決公判は26日午前11時仙台地裁古川支部で開廷、羽田裁判長は禁固1年、執行猶予2年、公民権停止せず(求刑懲役1年)の判決を言渡した。
*/
(*)旧制仙台二中(現仙台二高)出身
>星はなんでも知っている@一般人
一高卒管理教育マニアの二高コンプ君、二高の掲示板を荒らすな
>それは見苦しい言い訳だな。こちらもド近眼で
だから、画面の前に異常に近づいて入力したり、メガネをかけて入力するのは避けているということだ。
一高卒の落ちこぼれには、その程度のこともわからないのか。
>一高は出自からして格上だった。
私立が公立より格上なわけがないだろうが。
何を言い訳して書いてみても、当時の私立は私立でしかない。
お前は頭のネジがすっ飛んでいる。
>創立当時は生徒を収容できる専用校舎がなかったので、南町通(南町通東三番丁角)の仮校舎に1年生を収容し、さらに第一中学校分校の一部を借りて5年生を収容した。
一中分校の一部を借りたのではない。
一中分校の3~5年生までは二中に進学した。
実態は一中分校ではなく二中本校仮校舎(3,4,5年生)+二中一中の1,2年生だ。
二中の新校舎ができると同時に「一中分校」という良くわからないものは廃止された。
「一中分校」は二中創設のために仮校舎としてあっただけだ。
>在任中の収賄などによって逮捕され、有罪判決を受けた一高出身の防衛事務次官がいたわねぇ。
仙台一高卒、某防衛事務次官
2008年(平成20年)11月5日、東京地方裁判所にて懲役2年6月の実刑判決。
2009年(平成21年)12月22日、東京高等裁判所で控訴棄却。
2010年(平成22年)8月27日に最高裁判所への上告を取り下げ懲役2年6月、追徴金約1250万円の実刑が確定した。
9月21日、収監。栃木県さくら市の喜連川社会復帰促進センターで服役後、2012年(平成24年)7月に仮出所。
>それは見苦しい言い訳だな。こちらもド近眼で
何勘違いしてるんだ?
お前は一高卒の荒らしだ。ここは二高の掲示板だから荒らすなと注意している。
何回注意したらわかるんだ?
くだらないことをいつまでもやってないでさっさと出ていけ。
>衆議院宮城二区落選候補大石武一(*)前代議士(44)=仙台市・・・
一高卒の大臣は一人もいない。
それに対して二高卒の大臣は何人かいる。
一高卒の落ちこぼれは、それが悔しくてたまらない。
大石武一…初代環境庁長官(環境大臣)・農林大臣
1948年(昭和23年)5月21日に行われた宮城2区の補欠選挙に立候補、初当選して衆議院議員に就任した。
大石氏はこれ以降、通算10回当選
自由民主党では河野一郎派、河野の死後は中曽根康弘派に所属した。
中曽根派内では、桜内義雄、稲葉修、山中貞則とともに「四天王」と呼ばれ、憲法改正の主張など、タカ派とされた河野、中曽根に対して、自然保護、軍縮や平和運動に積極的だった大石はハト派として知られた。
1971年(昭和46年)7月5日に組閣された第3次佐藤内閣改造内閣において環境庁長官として初入閣。
環境庁はその4日前の7月1日に新設されたばかりであり、その長官は山中貞則総理府総務長官が兼務していたものの、実質的な初代長官は大石であった。
長官在任中に大石は、四日市ぜんそくの対策にあたり、また、観光客増加によって自動車道路の建設が計画されていた尾瀬を長蔵小屋の平野長靖の工事中止の直訴を受けて視察し、建設促進派の田中角栄通産相、福島、新潟、群馬の三県知事の反対に抗して建設の中止を決定した。また、水俣病の患者認定基準作成においては、「疑わしきは認定する」として、救済対象を広げた。さらに、野鳥の保護など環境行政の基礎を固めた。
1972年(昭和47年)6月にストックホルムで開催された国際連合人間環境会議に政府代表として出席した。
1976年(昭和51年)に組閣された三木内閣改造内閣では、農林大臣として2度目の入閣。
大石武一…初代環境庁長官(環境大臣)・農林大臣
元東北大学医学部助教授
仙台二中(仙台二高)のOB
>>星はなんでも知っている@一般人 [ 2020/07/19(日) ]
>>>二高は新制高校になっても手癖の悪い奴が多かった。
>>
>>二高ではなく一高だろ。いくら注意しても他校の掲示板を荒らし続けるお前がその具体例の典型。
>
>>二高出身者には「手癖の悪い」という認識がないようだな。
>
>>(1)昭和24年5月
>>前進座の一行の会場の前に「前進座歓迎、共産党仙台二高細胞」と書いたプラカードが立てられたのが宮城軍政府の注目するところとなり、軍の通報に驚いた仙台二高が三名の生徒に謹慎を命じた(結局退学処分)。
>
>↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
今まで、(1)の例の、ほかに出した例にも、反論しているが、
「根拠のないもの」、「悪意のある、こじ付け」
ばかりで、
「星はなんでも知っている」コンプ君の人格を
疑ってしまうよなぁ。
やっぱり、誇大妄想狂なのかしら。
それとも、「手癖の悪い」ことにつながらない事を承知で、故意に「悪意のある、こじ付け」をして、他校をおとしめているのかな?
しかしながら、コンプ君の「使用している資料」は、
『仙台二中二高百年史』、『仙台二高八十年のあゆみ』
『峰秀で水澄みたり―仙台二高青春讃歌』村上辰雄著
『仙台一中、一高百年史』『青春のうた 仙台一高』
『宮城県教職員組合運動史』
『東大合格高校盛衰史』2009年、光文社新書
『名門高校ライバル物語』講談社、2009年
『週刊朝日』2017年5・5-12合併号
『週刊朝日』2017年5・26号
『朝日新聞宮城版』昭和38年6月7日
『河北新報』昭和25年3月25日(土)朝刊
『河北新報』昭和28年10月13日(火)朝刊
『河北新報』昭和28年10月27日(火)朝刊
『河北新報』昭和44年11月5日(水)夕刊
『宮城県教育百年史』
『宮城県教育百年史』第4巻資料編 宮城県図書館蔵
などみたいだけど、教職関係者でないと、なかなか手に入らない資料を多数使っているし、また、最後の資料は、わざわざ、「他校をおとしめるために」、図書館通いして、資料を集めをしているんだろうから、やっぱり、「性格の悪どさ」を感じるねぇ。
また、使用している資料には、『宮城県教職員組合運動史』なんて、一般人では、まったく思いつかないような資料もあるけど、もし、コンプ君が、教職関係者もしくは、高校の先生だったら、一高以外にも赴任していただろうし、「自分の母校仙台一高、可愛さに、他校を貶める」んだから、宮城県の教育の発展を阻害する悪徳教師だっただろうねぇ。
ま、今でも、一般人仙台一高卒業生として、十分「悪どい人間性」を示しているけどねぇ。
ところで、7月12日には、
一高出身者には、
(1)2007年(平成19年)8月に防衛省を退職のち、
在任中の収賄などによって逮捕され、有罪判決を受けた一高出身の防衛事務次官がいたわねぇ。
(2)2005年(平成17年)仙台市長に就任したが、
私邸の引越しに仙台市職員を手伝わせたり、8ヶ月間に行った5回の海外出張(うち3回に夫人同伴)が問題にされたほか、タクシーチケットの不適切な使用を問題とされた一高出身の市長がいたねぇ。
と、投稿したけど、
「星はなんでも知っている」コンプ君とは、
共通する「性格の悪どさ」を感じるけど、
そういう校風なのかなぁ?
なお、「星はなんでも知っている」コンプ君は、
(1)に対抗する事例として、
>*『河北新報』昭和28年10月27日(火)朝刊
>【「公民権は停止せず」】
>【大石氏に禁固1年の判決】
>衆議院宮城二区落選候補大石武一(*)前代議士(44)=仙台市=にかかる公選法違反判決公判は26日午前11時仙台地裁古川支部で開廷、羽田裁判長は禁固1年、執行猶予2年、公民権停止せず(求刑懲役1年)の判決を言渡した。
>*/
を出していますが、罪を犯すことなく過ごしたならば、この刑の言い渡しそのものが無効となり、公選法違反も無かったことになるみたいだし、公選法違反は「手癖の悪い」例には入らない。
ちなみに、(1)の一高出身者は、上で、詳しく説明していただいてるように、懲役2年6月、追徴金約1250万円の実刑が確定し、9月21日、収監され、臭い飯を長い間、食ったみたいねぇ。
また、(2)の一高出身者は、「2017年(平成29年)2月11日、同年7月告示の仙台市長選挙への出馬を検討していることを公表した」だって!
よっぽど、市民の税金での海外出張、タクシー券の使い放題が楽しかったみたいねぇ。
ま、いずれにしても、(1)、(2)は、「手癖の悪い」例に、加えられるし、平成19年、平成17年の事例で、ほとんどの仙台市民は知ってる。
コンプ君は、60年以上前の資料を切り札だとして、鬼の首でも取ったように自慢されてもねぇ、
一高生の「悪事のごり押し」と「性格の悪どさ」をこの世に曝すことになるんじゃないかしら?
高校受験ナビさんの「仙台一高校(掲示板)」を
見てたら、
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
>放任主義はダメだよ
/* 『別学を考える』仙台一高同人誌「一翔」、平成22年
私が教員として一高に赴任した時(1977年)は運動祭と同様に一高祭も発起人制をとっていた。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
「 /* 」
資料を引用田た時の、独特な 「/* 」
もしかして、一高の先生だったの?
非常に歴史にお詳しいから、
日本史の先生という推理は、当たっているだろうか?
今日を生きよう@卒業生 [ 2018/06/17(日) ]
>放任主義はダメだよ
/* 『別学を考える』仙台一高同人誌「一翔」、平成22年
【プレイバック】山崎勝弘(高10回)
・・・・・
(126~128ページ)【あゝ一高祭】
一高在職中の校務分掌に生徒指導部などのほかに教養部というものがあり、私も部長をつとめたことがあった。これは生徒の学芸部活動や一高祭を担当し、教養講演や芸術鑑賞などを主催する分掌であった。「一高祭」は私が一高3年生の時(1957年)に「仙台一高文化祭」という名称を改め、実施時期を夏休み明けとしたのが始まりである。その後、県内の各高校がこれを真似て「○○高校祭」と改名し、夏休み明けに文化祭を行うようになったのである。
私が教員として一高に赴任した時(1977年)は運動祭と同様に一高祭も発起人制をとっていた。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
一高の掲示板には、
>>>>放任主義はダメだよ
という人がおります。
だから、コンプ君、
>>二高の管理教育を受けると歴史に無知になる。
なんて、言ってはいけない。
いろいろな意見がある!
なんで英検4級の学院くんがいばっているんだ
一高なら英検4級でいばってる人いない