ハイデガーの「黒いノート」に記されていた、驚きの内容とは

ハイデガーは本当に「反ユダヤ」だったか
轟 孝夫

戦後の「黒いノート」

ハイデガーは戦後、ナチス加担の罪を問われて、教職停止の処分を受けた。これと同時に大学から書物の刊行などの公的活動も自粛するよう求められていたので、1940年代後半には彼の公刊著作はほとんど存在しない。

 

しかしハイデガーはこの時期にも「黒いノート」を書き継いでおり、つまり「黒いノート」は戦後の業績空白期にハイデガーが何を考えていたかを知るためのきわめて重要な手掛かりを与えてくれる。

彼はこの時期の「黒いノート」において、ナチスの崩壊は西洋形而上学の克服という観点からは何ら本質的な出来事ではない点を繰り返し指摘している。

つまり人々は戦争の終わりを歴史の大きな区切りと捉えるが、ハイデガーはそうした見方を否定するのである。

ナチズムが一般に言われるように「悪」だとして、その「悪」の本質は何だったのだろうか。

これに対するハイデガーの答えは、「悪」は存在者の支配の拡大のみを目指す主体性のあり方そのものだというものである。

そして現代国家が自由主義や共産主義といった表向きの体制の相違にもかかわらず、基本的にこのような主体性の形而上学に基づくものだとすれば、ナチスが崩壊した戦後においても「悪」はなお存続している。(技術の本質を「駆り立て‐組織(ゲ‐シュテル)」として規定するハイデガーの戦後の技術論は、まさにこの「悪」の本質の追求として展開されているのである。)

ハイデガーのこうした議論が、ナチズムの絶対的な悪を相対化し、ひいては自分自身のナチス加担の罪を矮小化する悪しき開き直りだという非難を招くことは容易に想像できる。彼もこのことをよくわかっていた。

今見たようなハイデガーの立場は「黒いノート」以外のテクストからも読み取れないわけではないが、1946年に書かれた次の覚書のようなあからさまな表現はやはり「黒いノート」に限定されたものである。

「ヒトラーとその共犯者がのし上がり、権力を奪取し、権力によって身を滅ぼすことがなかったと仮定したとき、そのことによってアメリカとロシアが今日そうであるような現実は(本質的に考えたとき)わずかばかりでも変わっていただろうか」(『注記I‐V ハイデガー全集第97巻』、150頁)。

「ユダヤ的なもの」をめぐる覚書もそうだが、ハイデガーは「黒いノート」に普通は表に出せない議論、「言ってはいけない」議論を世間的な常識を顧慮して抑制することなく率直に書き記している。

この「言ってはいけない」議論は基本的に「存在の問い」の政治性のストレートな表出に関わっている。公刊著作や講義でも「存在の問い」の政治的含意はまったく表現されないわけではないが、「黒いノート」ではそのときどきの政治的出来事に対する直接的なリアクションという形で彼の思索の政治性がきわめて明確に示されるのである。

ハイデガーは「黒いノート」を全集の最後に刊行することを指示していたが、このことは彼自身がこのテクストの「危険性」を認識していたことを示している。

彼は公刊著作や講義などのいわば「公教的な」テクストの刊行が「黒いノート」を理解するための準備となることを期待していたのだろう。これは逆に言うと、「黒いノート」において実践されている「存在の問い」の「超政治」をどこまで適確に解釈できるかによって、既刊著作に基づいた「存在の問い」の理解の正当性が試されるということだ。

しかし結局のところ、「黒いノート」に明確に現れた「存在の問い」の政治性はやはり誤解され、「存在の問い」の理解を深めるどころか、彼の哲学を厄介払いする格好の口実とされてしまった。

今年の夏、ドイツで数日間、猛暑が続いたときに(日本のそれと比べると大したものではないが)、これは地球温暖化の影響ではないかということが必ずセットで語られていた。

テレビを見ていても、飛行機で旅行するのはよくないとか、肉食を減らすべきだといったようなことがいつも議論されている。そうした環境意識の高まりもあって、緑の党の支持率はキリスト教民主同盟や社会民主党といった伝統的な国民政党を凌駕するに至った。緑の党は先ほど述べた右派政党(ドイツのための選択肢)の支持率も倍以上、上回っている。

ある種の反近代的なラディカリズムに突っ走るのはドイツのお家芸という感じもするが、ハイデガーであれば「環境保護」運動そのものが主体性の形而上学に基づいた一種の「ヒューマニズム」(「エコ」意識の高い人間という理想像の追及)にすぎず、今日の環境問題を真に引き起こしているものをまったく認識できていないという批判をするだろう。

これだけ環境問題に強い関心がもたれるのであれば、その淵源を明確に指し示すハイデガーの思索が今こそ再評価されるべきだとも思うが、それとはまったく逆に、極右政党と同じようにいかがわしい存在として誰も一顧だにしないのは何とも皮肉な事態としか言いようがない。

(ハイデガー哲学の政治的含意をめぐっては、上で述べたことも含めて、拙著『ハイデガーの超–政治(仮題)』(明石書店、近刊予定)で詳しく論じる予定である。興味のある方はご一読いただければ幸いである。)