「かける」は第七期から制作を続けている仮名書体です。

おそらく前例のないであろうテーマをとにかく形にするだけで精一杯だった前期。その反省と、わずかばかりの手応えをもとに、今期はもう一度制作方針を練るところから始めました。

思い通りにいったことも、いかなかったことも全部ごちゃ混ぜにして、その始終を 25 枚のスライドに収めました。

文字好きの皆さまにも、成人済の同志の皆さまにも興味を持っていただけたら嬉しいです。

前期の制作時は、武骨さや筋肉感をキーワードにして BL の世界観を演出しようとしました。ところが、BL というよりむしろ古風に感じる、不自然な運筆が目に引っかかって読みにくいというご意見を沢山いただいてしまいました。そもそも「演出」しようなどというおこがましい意図があった時点で、本文用書体の作り方としては失格だったといえます。
そこで、今期はまず制作方針を練り直す時間を取り、BL に求められる書体とは何かを言語化するところから始めました。その結果として得た結論が上記のスローガンです。
BL は男同士でさえあればあとは何でもありと言えるほど、登場人物や舞台の設定がバラエティに富んでいます。読者の解釈を妨げない自然な字形を目指すことは、BL の様々なストーリーに対応することにも繋がると考えています。

「滾る」は「たぎる」と読みます。
「かける」という書体そのものに萌えるのではなく、「かける」で組まれた小説を読んで尊いと感じられるようしたいと考えました。
以上の基本方針のもとで、すべての字種を下書きから作り直すことにしました。

20mm 原字とやらに 2019 年 8 月から翌年 1 月、実に半年も要しています。一体何があったのでしょうか。

画像中の青字は、鳥海塾長に口頭で言われたことを後から自分で書き足したものです。

前期は時間がなくて鉛筆の 20mm 下書きを直接アウトライン化したのですが、自然な形を作るためにはどうしても筆書きの過程が必要だと思ったので、今期は絶対に筆を使おうと決めていました。
トレース台に下書きを置き、方眼紙を重ねて下から光を当てて写経用の筆でなぞっていきます。前期はスマートフォンの画面をトレース台代わりに使っていましたが、さすがに限界を感じたので今回は本物を購入しました。

塾長からは「起筆で押さえて、細く引っ張って、また終筆で押さえる」という書き方を奨められました。この筆法は機械的であると同時に活字的でもあるとのことです。上のスライドでは「あ」「な」の 2 画目にその実践の跡が見られます。 しかし、僕自身が筆の扱いに慣れていなかったこともあり、何度書いてもうまくいった気がせず、意味もなくただ書き続けるドツボにはまってしまいました。
その一方で、何度か筆で書いてみることで「これじゃあ!」という形を掴んだ字もあります。

塾長から再び「一発で仕上げようとしなくていい。とにかく五十音を書いて、修整できれいにしていこう」とアドバイスをいただきました。
書きまくるのも大事だとはわかっているのですが、自分の場合はそれで行き詰まってしまったので、今度は短期間で五十音を書き切ること、1 枚の紙で完結させることを重視しました。
なお、端にメモしている日付はその紙に手を加えた日を表します。作業の最中に日付を跨いでしまった場合は前の日だけ記入してあります。

五十音を書き上げたら、「品印」という極細の筆に持ち替えて、墨とそれから漫画などで使うホワイトを使って修整していきます。
この「さ」は修整前のものです。

最も多くの時間と労力を費やした紙です。
この時点で「あ」「お」「き」には納得がいっていませんでしたが、完成を優先することにして深入りは避けました。

実際の手順はこちらです。
僕は Photoshop を使ったことがないので、墨、ホワイトと Mac のプレビューアプリで進めました。

【50mm 原字】
1. 家庭用プリンタを使用し、20mm 原字を 300dpi でスキャン
2. プレビューアプリで 5×4 字ずつトリミングして 250% に拡大
3. 印刷してさらに墨入れ、修整

【アウトライン化準備】
Glyphs では 72ppi の 1000px が全角に相当するので、クラスメイトに教わった方法で調整します。
1. 50mm 原字を 300dpi でスキャン
2. プレビューアプリでボディの 1 辺が 1000px になるように拡大(自分の場合 167-168%)。このとき解像度を 72ppi に変更
3. 1 字ずつ選択して Glyphs にコピペ

当時は自宅でアナログ原字→出来上がったものから順次通勤の電車内でトレースのルーティンを回していました。両者を並行して進めたことで、どこに注力したらトレースが楽になるか考えながら墨入れできるようになりました。
なお、スライドにあるのは割と初期のアウトラインの取り方です。水平鉛直の極点はここまで律儀に入れてない文字も沢山あります。

Glyphs 上での修整時は、手本にした秀英明朝の仮名のほか、半年前にボツにした 20mm 墨入れの中で出来が良かったものも参考にしました。
カタカナは最初焦っていきなり Glyphs で作ろうとしたのですが、5 文字くらい作ったところで「あ〜こりゃ無理だ(^^)」と悟り、とりあえず 50mm で下書きだけ書いてそれをトレースすることにしました。

ここに掲げた 3 字を選んだ意図は次の通りです。
さ:比較的順調に完成した字の代表例
き:制作に苦労し、何度も形を変更した字の代表例
ヌ:カタカナの典型的な修整過程

「き」は、作っている最中ずっと「なんか違うな〜」という感覚が付いて回っていたので、アウトライン化して心に余裕ができたタイミングで大胆に直しました。1 画目から 2 画目をつなげたかったのですが、そうするとどうしても 2 画目の始まりが右へ行ってしまうので、2 画目の長さを確保しつつ、1 画目から違和感なく繋げるのに非常に苦労しました。最終的には、イワタオールドと秀英とヒラギノが混ざったような形になりました。おそらくいちばんコストをかけた字だと思います。
「ヌ」は、アウトライン化直後の字形を見ると、打ち込みが大げさな一方で折り返しはなんとなくだらしなく、また全体的に大きくて太さのムラも目立ちます。それらを 1 字ずつ修整していきました。

字形は後からいくらでも変わるし、組んでみて初めて気付くことも多いので、限られた期間内で制作するには、各工程に完璧を求めすぎず、早くアウトライン化して文章を組める状態にしたほうがあとあと楽だし、結局品質も良くなるのかなと思いました。

乗算記号は交差部を丸めるか丸めないか迷いました。丸めなければいけない論理的な理由は見つからなかったのですが、ただ線を 2 本重ねただけではどうしてもしっくり来なかったため、ここは主観で丸めたものを採用しました。デザインの意図を言語化することの難しさを痛感した場面の一つです。

読みやすさを最重視しながら、組まれた文章を読んだときの萌えを意識して作った「かける」ですが、要所要所に他の書体ではあまり見られない手法を採り入れることで、BL 書体としての実用性や希少価値を高めようとするアプローチも行なっています。
「あ」行と「つ」「や」「ん」をいやらしくしたのは、扇情的なシーンの擬音語や喘ぎ声に頻出することを踏まえたものです。
またハートマークは既存書体との差別化を念頭に膨らみの大きな形を探っていたところで、筑紫丸ゴシックのそれを見てビリビリビリィッ!! と衝撃を受け、現在の形に至りました。
これらの一部は、前期の発表時にいただいたご要望を採り入れたものです。

腹が減っては戦ができぬ……これは文字作りとて同様です。僕は長丁場となる書体制作の合間に BL 小説や漫画を読み、腐男子には欠かすことのできない、萌えという名の栄養素を摂取しながら制作に取り組みました。海野幸先生、久我有加先生、素敵な作品をありがとうございます! また掲載許可をいただき心より感謝申し上げます。

「あ」「お」「き」はアウトライン化後に大きく形を変えました。
「お」は当初 3 画目がもっと下側にありましたが、小さいサイズで組んだときにバランスが悪かったので少し上に上げました。
前期の「た」の 2 画目のハネはかなりこだわって付けていたのですが、引っかかって読みにくいので思い切って削除しました。
「む」やはり 2 画目から 3 画目への繋がりが不自然に見えるのでもう少し考えます。

2 年間で起きた変化として、前期は全体的に縦長のプロポーションだったものが、今期は扁平に設計し直したことで安定感が増したと思います。
また、前期の書体はひたすら鬱屈とした雰囲気ですが、今期の書体を見ると僕はわずかに明るさが加わったように感じます。

ここで、影響を受けた書体についても述べておきます。
まず混植相手とした秀英明朝は最も参考にしました。
「お」「き」「は」はイワタ明朝体オールドを参考にしています(「は」は筑紫アンティーク明朝も)。全体的に扁平気味なプロポーションにしたのもイワタオールドの影響が大きいです。
「た」「や」は Font-Kai の春の海という仮名書体からヒントを得ました。また「な」「の」は秀英 3 号から出発したと記憶しています。
もちろん、参考にさせていただいただけであって字形を真似たわけではなく、結果として既存のどの書体とも異なる立ち位置を獲得したと思っています。

今年は展示会場で直接お会いすることができないので、僕の書体に限らず文字塾展をご覧になってのご感想やご質問など、ぜひ SNS 等で発信していただけると嬉しいです。
雲を掴むようだった前期に比べて、今期は全体のバランスを見ながら意思を伴って手を動かせるようになりつつあるのを実感しています。まだまだ序の口ですし、果たしてこの書体が BL 読者の方々に歩み寄れているのかどうかは正直僕にもわかりませんが、今後も改良を重ねて、BL 書体としての説得力を高めていきたいと思います。
文字塾で得た学びや出会いや思い出は、すべて掛け替えのないものです。2 年間本当にありがとうございました。

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