日本刀の歴史

平安時代~南北朝時代

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日本刀の姿は「戦」(いくさ)の発生に応じて変化してきました。日本刀の反りが生まれた優美な平安時代、日本刀の黄金期を築き上げた鎌倉時代、豪壮な作りが勇ましい南北朝時代と、その時代によって様々な魅力があるのです。ここでは、各時代の戦と日本刀の特徴についてフォーカスを当ててご紹介します。

平安時代

反りのある鎬造の「太刀」が現れるのは、平安時代中期。まさに武士が出現する、「承平天慶の乱」(じょうへいてんぎょうのらん)の頃です。戦闘様式が「徒歩戦」から「馬上戦」へと変化し、騎乗して戦う武士にとって抜刀がしやすく、斬って、刺せる太刀は待望の代物でした。栄華を極めた平家の滅亡と共に発展した、日本刀の変化を見てみましょう。

平安時代中期・後期の主な戦い

平将門

平将門

794年(延暦13年)に、桓武天皇が都を京都・平安京に遷都したことから、この時代が「平安時代」と呼ばれました。

平安時代中期になると、天皇の強い権力が揺らぎはじめ、天皇をとりまく貴族の中でも、朝廷の職務の中心は藤原氏(平家の貴族)が独占。要職に就けない貴族は武士となり、不満を募らせていきました。

地方農民の中には、大量の米や銭を所有する有力農民が出現。勢力を伸ばして武装し「武士団」を結成します。武士は、この武士団と手を組んで連合体を作り、朝廷に刃向うようになるのです。

平将門(たいらのまさかど)は、武士でありながら桓武天皇の孫にあたる人物。武士団と手を結び、935年(承平5年)、伯父・国香を殺害。939年(天慶2年)に自らを「新王」と称し、関東で朝廷に反旗を翻す「平将門の乱」を起こします。

平氏と源氏

 藤原純友

藤原純友

同時期に、藤原姓でありながら、出世の道を絶たれて地方官となっていた藤原純友(ふじわらのすみとも)は、瀬戸内海の海賊を率いて「藤原純友の乱」を起こすのです。この2つの戦を総称して、「承平天慶の乱」と言います。どちらの戦も失敗に終わりますが、地方武士団の強さが明らかに。朝廷は彼らを「侍」として、治安維持に当たらせるようになるのです。

武士や武士団が地方で力を付けていくと、さらに下級武士同士の間で抗争が起きるようになりました。それを抑えようとした2大勢力が、平氏と源氏です。

平氏の平清盛は、1156年(保元元年)「保元の乱」にて、後白河天皇と崇徳天皇の王位継承をめぐる対立を平定。また1159年(平治元年)「平治の乱」にて、院政をはじめた後白河天皇と近臣間の対立も平定し、武家の棟梁として地位と権力を高めました。

しかし、1180年(治承4年)、後白河天皇の皇子の以仁王(もちひとおう)は、その平清盛専制に不満を持ち、平家打倒の命令書を出すことに。この以仁王の命を受けて、源氏である源頼朝と源義仲をはじめ、地方の武士団が兵を挙げ、全国的に反乱が起こるのです。その結果、畿内・西国を中心とする大飢饉や、平清盛の病死などの悪条件が重なって、ついに1185年(文治元年)「壇ノ浦の戦い」で平家が滅亡します。この一連の戦いを「源平の争乱」と言います。

平安時代中期・後期の日本刀

平安時代中期、姿は「直刀」から、太刀へと変化します。

太刀

太刀

騎乗して戦う武士にとって、直刀は抜刀しにくく、斬るのが不便という欠点がありました。そこで、反りが付いた太刀が誕生します。茎(なかご)から腰元のあたりで強く反る腰反りで、馬上で抜刀しやすく、刃を下にして腰帯の左側にぶら下げて付けるスタイルに。刃長は2尺5、6寸(75.8~78.8cm)と長くなり、馬上から相手を目掛けてなぎ払うのに十分な長さとなったのです。先に向かって細くなる姿で、鋒/切先(きっさき)部分は小さく、刺突にも適していました。

平安時代後期には日本刀の需要が高まり、作刀に適した良質な砂鉄が採れる地域(伯耆国:鳥取県、山城国:京都府、大和国:奈良県)に刀工達が集まりはじめます。刀工が集団化し、流派が生まれ、日本刀の様式と性能はさらに発展しました。

また、武士の持つ日本刀と貴族の持つ日本刀では、見た目や目的で違いが表れはじめます。

武士が持つ物は、柄と刀身が一体という特徴がある「毛抜形太刀」で、実戦に向けて、衝撃を緩和する毛抜形の透かしが施されています。

一方、貴族が持っているのは「剣」または「飾剣」と言われ、刀装に金銀や螺鈿(らでん)など贅沢な装飾が施され、宝刀として持たれるようになるのです。

平安時代中期・後期の日本刀の特徴

年代 935~1184年 小鋒 身幅
刃長 2尺5、6寸
(75.8~78.8cm)
反り 腰反り 重ね
  • 鋒/切先(きっさき)…日本刀の先端部分。
  • 身幅(みはば)…棟(むね:刀身における刃の反対側に当たる背の部分)から刃先までの長さ。
  • 刃長(はちょう)…棟区(むねまち:上身と茎の境目で、棟の側にある部分)から鋒/切先までの長さ。
  • 反り(そり)…棟区から鋒/切先までを直線で結んだときに、棟と最も離れている部分の長さ。
  • 重ね(かさね)…刀身の厚さのこと。

鎌倉時代

源頼朝によって、鎌倉幕府という本格的な武家政権が始まります。鎌倉時代初期の日本刀は、平安時代後期の高尚で優美な姿を継承。それが、鎌倉時代中期になると、後鳥羽上皇による倒幕「承久の乱」を、執権・北条義時が鎮圧する大乱が起こり、日本刀は豪壮な姿へと様変わりします。さらに、鎌倉時代後期は「元寇」を受け、戦闘様式がそれまでの「一騎打ち」から「集団戦」へと変化。日本刀の欠点が明らかとなり、さらなる進化を成し遂げるのです。

鎌倉時代初期の主な戦い

頼朝と義経

頼朝と義経

1185年(文治元年)、源頼朝が鎌倉幕府を開くと、頼朝は、弟・源義経と不仲に。義経は、頼朝の家臣を自分の家臣のように扱ったり、後白河法皇から官位を授かったり、後白河法皇の命で頼朝を追討しようとして失敗するなど、勝手な行動を繰り返し、逃亡。奥州藤原氏に助けを求めます。

「奥州藤原氏」とは、陸奥国(現在の東北地方)の平泉を本拠とし、金脈など巨万の富を持つ大豪族。中尊寺を建立するなど、藤原清衡、基衡、秀衡、泰衡の4代で100年栄華を誇りました。結局、藤原泰衡は頼朝に逆らうことができず、義経を殺害。しかし、1189年(文治5年)、源頼朝は義経をかくまったとして泰衡を許さず「奥州合戦」を引き起こし、奥州藤原氏を滅ぼします。源頼朝は、陸奥国も支配。武家の棟梁としての地位を揺るぎないものとします。そして、1192年(建久3年)征夷大将軍に任命されるのです。

鎌倉時代初期の日本刀

 菊御作

菊御作

武士が政治の実権を握ることで、日本刀の需要は必然的に高まり、刀鍛冶が急増します。

鎌倉時代初期の日本刀は、平安時代後期からの腰反りで鎬造の太刀が継承され、さらに美術的にも美しい刃文が加わるのも特徴。高位の武士は豪華な装飾の太刀を身に付けて、威厳を示すようになるのです。

源頼朝を任命したのが、当時12歳だった後鳥羽天皇です。後鳥羽天皇は19歳になると、院政を開始。上皇となり、自らも焼刃をするほど、日本刀を好むようになります。そして「御番鍛冶」(ごばんかじ)として、月代わりで刀工を招聘し、「菊御作」(きくごさく)と呼ばれる菊花紋を彫った太刀を鍛造させるようになるのです。後鳥羽上皇が好んだのは、力強くて美しい作風。いつか朝廷の勢力を挽回させたいという、高貴な野心が込められているようでした。

これが鎌倉時代初期の代表的な3流派の誕生に繋がります。鉄が澄んで美しい京都の粟田口派(粟田口国安・国友)、直刃に優れて小乱れの刃文と小沸が付く備前福岡一文字派(一文字則宗・延房・宗吉・助宗)、板目肌でのたれ刃に小乱れの小沸が付く備中青江派(青江貞次・恒次)。それぞれの作風が生まれ、日本刀が開花します。

鎌倉時代初期の日本刀の特徴

年代 1185~1199年 小鋒 身幅
刃長 2尺5寸~2尺8寸
(75.8~84.8cm)
反り 腰反り 重ね
  • 鋒/切先(きっさき)…日本刀の先端部分。
  • 身幅(みはば)…棟(むね:刀身における刃の反対側に当たる背の部分)から刃先までの長さ。
  • 刃長(はちょう)…棟区(むねまち:上身と茎の境目で、棟の側にある部分)から鋒/切先までの長さ。
  • 反り(そり)…棟区から鋒/切先までを直線で結んだときに、棟と最も離れている部分の長さ。
  • 重ね(かさね)…刀身の厚さのこと。

鎌倉時代中期の主な戦い

北条政子

北条政子

1199年(正治元年)に源頼朝が死去すると、後継者をめぐる激しい争いが起こります。

2代将軍・源頼家が重病になると、頼家の弟・源実朝が3代将軍となります。その結果、実朝は頼家の子・公暁によって殺害されてしまうのです。源氏の将軍は3代で途絶え、執権として北条義時が幕府の実権を握ります。

初代将軍・源頼朝の妻が、北条政子です。北条義時は、政子の弟。後鳥羽上皇は、この北条義時が気に入らず、これにより朝廷と幕府の関係が悪化。北条一族を追悼して、今こそ朝廷の勢力を挽回させようと企て、1221年(承久3年)に「承久の乱」を起こします。しかし、大失敗。後鳥羽上皇は隠岐島に配流となり、厳しく処罰されるのです。

義時の子、北条泰時が執権に就くと、執権は北条一族によって世襲され、幕府の体制は安定します。泰時は、執権を補佐する「連署」や「評定衆」を選び、合議制に基づいて政治を行なうように。1221年には、武家独自の最初の法典「御成敗式目」を制定し、武家政権による統治を法制化。全国にその支配体制を示すのです。

鎌倉時代中期の日本刀

猪首鋒

猪首鋒

鎌倉時代中期の日本刀は、実戦重視なのが特徴です。

身幅が広くなり、重ねが厚く、平肉も豊か。反りは中反り。中鋒で猪首風(いくびふう)となります。猪首風とは、身幅が広く鋒が詰まっていて、猪の首に見えることから名付けられた物。鎌倉武士の質実剛健(飾り気がなくまじめなこと)な気風と共に、頑丈な大鎧をも断ち切れる、いかにも豪壮な姿へと変化しました。

政権の中心、鎌倉:神奈川県で、日本刀の需要が増大。北条時頼は、鎌倉に名匠を置く必要を感じます。そして、山城国:京都から粟田口国綱、備前国:岡山県から三郎国宗、一文字助真、新藤五国光を招聘。相州鎌倉鍛冶の源が築かれるのです。

また、太刀の差し添えとして、短刀も登場します。反りはないか、わずかに内反り。茎(なかご)は反りがない物と振袖形の物が制作されています。

鎌倉時代中期の日本刀の特徴

年代 1200~1273年 中鋒
(猪首風)
身幅
刃長 2尺5寸~2尺8寸
(75.8~84.8cm)
反り 中反り 重ね
  • 鋒/切先(きっさき)…日本刀の先端部分。
  • 身幅(みはば)…棟(むね:刀身における刃の反対側に当たる背の部分)から刃先までの長さ。
  • 刃長(はちょう)…棟区(むねまち:上身と茎の境目で、棟の側にある部分)から鋒/切先までの長さ。
  • 反り(そり)…棟区から鋒/切先までを直線で結んだときに、棟と最も離れている部分の長さ。
  • 重ね(かさね)…刀身の厚さのこと。

鎌倉時代後期の主な戦い

元寇

元寇

13世紀はじめ、チンギス・ハンが頭角を現し、モンゴル民族を統一して中央アジアから南ロシアを征服します。日本にも、チンギス・ハンの孫、フビライ・ハン率いる元(蒙古軍)が襲来。1274年(文永11年)の「文永の役」、1281年(弘安4年)の「弘安の役」と言われる「元寇」(蒙古襲来)が起こるのです。

それまでの日本の戦闘様式は、位の高い戦士同士が1対1で戦う「一騎打ち」が主流でした。ところが、外国人である元人には一騎打ちは通用せず、前触れなく多数で包囲してくる「集団戦」を仕掛けられたのです。

北条時宗政権は、神風・暴風雨という天候の助けもあって、何とか元を追い払うことに成功。けれどもこの元寇によって、鎌倉時代後期における日本刀の欠点、文字通り「太刀打ちできないこと」が明らかとなるのです。

鎌倉時代後期の日本刀

元寇にて、日本刀の欠点が3つ判明しました。ひとつ目は、重ねが厚く平肉が厚いと、重くて振り回すことができないということ。2つ目は、焼き幅が広いこと。焼き幅が広いと硬度が高く裁断力も高いが、それだけ欠けやすく、何度も太刀を合わせると折れてしまうのです。3つ目は、刃こぼれをした場合に研ぎ直しができないこと。鋒/切先の短い猪首鋒では、研ぎ直しができず、太刀自体が駄目になってしまうのです。これらの欠点を補う新しい鍛錬法の改革に迫られ、ついに新藤五国光、国光の弟の国広、正宗によって「相州伝」と呼ばれる流派が生まれます。

相州伝は、硬軟の地鉄を組み合わせて、地肌を板目鍛という鍛え方にすることで軽量ながらも強度アップを実現。正宗の代で「折れない、曲がらない、甲鎧をも断ち切る」鍛錬法が完成します。正宗は地景や金筋といった沸(にえ)による美しい意識的な表現をし、のたれ文を創始。

つまり、鎌倉時代後期の日本刀は元(蒙古軍)が使用していた大きな青龍刀に感化されて豪壮さを増しながらも、身幅の細い、軽量化に成功します。鋒/切先が伸びたことで、西洋刀のように突き刺しに優れ、反りも中反りに変化。技術的にも美術的にも昇華した、無二の日本刀が創り上げられるのです。

青龍刀

青龍刀

しかし相州伝は、鎌倉幕府の滅亡と共に衰退。強く鍛えた鋼を高温で熱し、急速に冷却するという、技術的にとても難しい鍛錬法の技術は伝承されず、現在ではもうその製法を知ることはできません。

鎌倉時代後期の日本刀の特徴

年代 1274~1333年 中~大鋒 身幅
刃長 2尺5寸~2尺8寸
(75.8~84.8cm)
反り 中反り 重ね
  • 鋒/切先(きっさき)…日本刀の先端部分。
  • 身幅(みはば)…棟(むね:刀身における刃の反対側に当たる背の部分)から刃先までの長さ。
  • 刃長(はちょう)…棟区(むねまち:上身と茎の境目で、棟の側にある部分)から鋒/切先までの長さ。
  • 反り(そり)…棟区から鋒/切先までを直線で結んだときに、棟と最も離れている部分の長さ。
  • 重ね(かさね)…刀身の厚さのこと。

南北朝時代

南北朝時代は、わずか60年です。南北両朝の対立から激しい戦乱が起こり、それと共に日本刀の需要が高まります。槍や薙刀など長柄武器が使用され、個人の腕力、武芸の腕が大きく物を言うことに。「バサラ」と呼ばれる実力主義の気風が流行し、武将の日本刀は、どんどん豪快に長大化します。己の力量を示す格好の道具となるのです。

南北朝時代の主な戦い

 後醍醐天皇

後醍醐天皇

鎌倉時代中期以降から、皇室は「持明院統」と「大覚寺統」に分かれて対立。幕府が両統を交代で皇位に就かせる方式「両統迭立」(りょうとうてつりつ)を定めていました。

1333年(元弘3年)に鎌倉幕府が滅亡すると、大覚寺統の後醍醐天皇は、自らが新しい政治を行なおうとします。ところがそれは、幕府も院政も摂政も関白も否定した、天皇親政の理想を実現する「建武の新政」でした。そのため、大勢の武士から不満を持たれることになります。

1335年(建武2年)、北条時行は鎌倉幕府の再建をめざし「中先代の乱」を起こしますが失敗。鎌倉幕府滅亡の大将を務めた足利尊氏が、この戦を鎮圧させます。けれど、尊氏も恩賞の少なさから新政権に不満を持ち、ついに反旗を翻します。大覚寺統の後醍醐天皇に譲位を迫り、持明院統の光明天皇を擁立。この結果、建武の新政はたった3年で崩壊しました。

尊氏は、1338年(延元3年)征夷大将軍に任じられ、室町幕府を設立します。しかし、後醍醐天皇は吉野に逃げて、自分の正当性を主張したため、朝廷が二分。京都の北朝と吉野の南朝は、約60年に亘り対立を続けます。

さらに、足利尊氏と弟・直義も、それぞれを支持する家臣により政権争いへと化し、「観応の擾乱」という骨肉の戦を起こします。結局、1392年(元中9年)尊氏の孫の足利義満が和平を呼び掛けることによって終結。この一連の争いを「南北朝の動乱」と言い、この時代を「南北朝時代」と呼びます。

南北朝時代の日本刀

鎧通し

鎧通し

南北朝時代の日本刀は、とにかく巨大化したことが特徴です。

鎌倉時代後期に完成した相州伝が全国に普及したことがその理由。「折れない、曲がらない、良く切れる」技術を活かし、刃長が3尺から5尺(91~150cm)にもなる大太刀を作ることが可能になったのです。ただし、この長さでは腰に付けても抜くことができないので、背中に背負うスタイルか、侍従に持たせていたのではないかと考えられます。

また、新しい武器として槍や薙刀、鎧の上から打撃を与える金破棒(かなさいぼう)も誕生。倒れた武士の鎧の隙間から突き刺すことを目的とした「鎧通し」という短刀も出現します。当時はバサラと呼ばれる、実力主義の豪快な気風が流行。このように、長大で派手な武器を扱うことは、かつての貴族が刀装の豪華さでその権力を誇示したのと同様に、武士にとってのステータスだったと考えられます。

そして、この時代の日本刀は、多くの物が戦国時代以降に大磨上げされ、無銘の打刀に仕立て替えられるようになるのです。

南北朝時代の日本刀の特徴

年代 1334~1392年 大鋒 身幅
刃長 3尺~5尺
(91cm~150cm)
反り 中反り 重ね
  • 鋒/切先(きっさき)…日本刀の先端部分。
  • 身幅(みはば)…棟(むね:刀身における刃の反対側に当たる背の部分)から刃先までの長さ。
  • 刃長(はちょう)…棟区(むねまち:上身と茎の境目で、棟の側にある部分)から鋒/切先までの長さ。
  • 反り(そり)…棟区から鋒/切先までを直線で結んだときに、棟と最も離れている部分の長さ。
  • 重ね(かさね)…刀身の厚さのこと。

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