夢の中でも全然描けてなくて責められる夢を見て落ち込んでた(アホ)
しばらくあまりにも描けない商業漫画作業から逃げたいから朝から日記を書きます。
近況
昨日久々にちん活たるちん活をした、3ヶ月ぶり。
コロナのこともあり首都圏は利用しないで車で郊外のちっさなホテルにいったけど
郊外のホテルってかなり綺麗で広めの部屋休憩5000円くらいで入れる
(使用前だしあまりホテル味ないので載せ)
少し真面目な話と性的な話混じってるけど、総じて真面目ではあるので表に。
ちん活をするときに私は得られる多幸感と同時に本当はやらずにいられればと思う気持ち
両方を書くけど、私みたいな自己肯定が低い人間がちん活をする時に得られる多幸感ってのは
他人から認められているという似て非なる存在感の獲得なんだと思う。
普通人間は生まれて子供の時、一番近い他人である親から無条件で存在を肯定してもらうことで
自己という存在、自尊心、自己肯定が生まれ社会に属する喜びや時には義務と責任感を得て、
それが第二次成長を経て自我が芽生え自分なりに考えを展開していくんだけど、
一番近い他人に認められなかった人間というのは、自己という存在がおぼろげになり、
付随して自己肯定する能力や自尊心も育たず、
よって大人になるまでに自分1人では自分の存在というものが確立せずに
他者と自己の混同を避けるために対価を払って他人に自分を認めさせたり、
また否定されればされるほど、過剰な努力への強迫観念で自己の存在を確立させる。
私がいつも自分の努力が足りないだとか、頑張るしか言えないのもここに近い。
また否定されることを恐るあまり、失敗を酷く恐るからこそ自らを先に否定したり諦めることも多い。
こういった存在が浮き彫りになるのは、割と個人の尊重が叫ばれるようになった近代だから
というのも大きいというのは何より感じます。
戦前、の日本の全体主義や社会主義的な価値観こそ私が抱いていたような
個人を蔑ろにした根性論が主流の世界で、皆が自己というものを蔑ろにしたところで
周りが皆同じだからそれを疑問に思ったりストレスに感じたとしてもそれが当たり前なので
仕方ないと思うしかなかったんだと思う。
だけど近代、世の中に選択肢が増え、他人をスケールで見ることができ、
多種多様を認めようとする動きの陰で、
こういった自己という存在がうまく形成されなかった人間が足掻いているだけなんだけど
本当に今、自分を愛するという当たり前だけど当たり前にならなかった、当たり前のことを
改めて当たり前にしようと世界中が訴えていても、
それを実行するには、いかに難しい世の中かなと思う。
私は10年こういうことを考えて1人で生きるために自分を見つめ直したけど、
全然自分を好きになれるようになったことはないし、毎回言うけど、
成人後の人間が自分を変えるためには、必ず、外部の力、誰かの力は必要だと思う。
それがないとしたら、何十年、という時間がとにかく必要。
努力でどうなるもんじゃない。それくらい環境というものの作用は大きい。
嫌いな食べ物を好きになることと同じ、どんなに個人の努力じゃ好きにならないとしても、
意外なきっかけや年月がかかったら全然違うように感じられたのと同じだと思う。
で、自分が自分のことを本当に否定しかできない私は、
自分を他人に認めてもらうために、居場所を得るためにやったことのほとんどが
勉強と穴になることだったんですが、
穴になることは父のモラハラネグレクトが酷く家に居場所がなかった10代前半から半ば
居場所を得るために払った対価ではあるんですが、
またちょっと勉強と種の違うものなので最後に自分なりの読解を書きます。
弟が死んで一度家が崩壊したのち
10代の途中までは弟の代替えになりたいと親の前では言われた通りの勉強をしたのだけど、
10代の終わりに言われた大学に行かないで自分のお金で別の大学を受験してから
リセットされて、そこで初めて他人に認めてもらうためにやってきたことから
反抗したり逃げた、結果としては惨敗だったけど自分としてはやり切った現実だったと思う。
絵というかオタクという世界もそんな失敗から友達に声を掛けてもらって出会い、
自分が他人に認めてもらう以外でただ楽しいから、
好きだからという理由ですごく楽しく、ちょうど10年過ごしている。
ここまで来てなんとなくわかると思うんだけど、
今商業で過剰にかけない、と思い悩み、何回も書き直しては
落ち込んでいるのは、おそらく過去と同じで、
認められたい、と過度に考えているからなんだと思った。
私は認められたいけど、でも自分のことが好きじゃないから、
自分で描いたものに対して評価ができない。
だから何度描いても駄作に見えるし、他の人と比べてはダメなのは承知でも、
ダメなのは自分の努力が足りないからと苦しんでしまう。
そういう状況なのかな、と今日見た夢で思いました。
確かに絵を描くのは楽しいけど、人の目を見るたびに
自分が認められなかった過去の苦しみと恐怖で過剰に自分を追い込む。
すごく苦しい。
ストレスで体は原因不明に苦しいし、肌は荒れるし、体重は落ちるし、いいことは何もない。
でもそれでも、ずっとずっと他人に認められたい、
受け入れられたい、そう思って苦しんでしまう。
ただ他のこが他の親にされているように、一言褒められたかった。
だからお前はダメだ、と人蹴りされたり、無視されたり、お前が死ねば良かったみたいな
言葉を掛けられたくなくて、ずっとずっと頑張ってしまい、
頑張っても終わりが見えず、それは自分が頑張っていないからと自分の首を絞め、
ずっとずっと頭抱えているんかなと思いました。
今初めてここまでしつこく言語化してみたけど、どうせ言語化したとこで
私は自分をすぐに変えることはできません。きっと落ち込んで商業をまた描き直します。
ただ、また体調不良にならないよう、落ち込まないよう、あえて言葉にしたし、
あえて目の見えるところに長々書きました。自戒です。
最後に、初めのうち穴になること、ちん活が自分にとって他人に認められる要素の
一つだったと書きましたが、どうして私が性依存というものに大きく頼っているかと
いうのは、勉強と違い、性依存が「ありのままの自分を他人が肯定してくれる」
要素を孕んでいるからだと思う。もちろん勉強と違い、とは描いたけど
セックスも他人の様子を伺っていろんなことをしたり学んだり、努力をしたりはしている。
だから全然違うわけじゃないけど、それでも生まれたままの姿の、
裸の自分を、たとえたかが穴であっても受け入れてくれるというのは、
親に否定されて育った人間には、本当に救われるものです。
私は特に母親に、頭の悪さも容姿も趣向もあらゆる自分の要素を否定されました。
だから私自身自分を評価する上で、否定的なものしか捉えられません。
絵だけは唯一幼少期というよりも大人になってから己の価値観で得たもので
純粋な自己評価として素直に受け止められるし、
親と接触していないからこそ害されてない部分はあります。
だからそれがまやかしでも、一時のものであるとわかっていても、
以前からいってるけど遠くの真実より近くの嘘、インスタントが欲しいと思い
もうずっと性依存をやっているわけです。
自分自身ではどう頑張っても自分を肯定できないからこそ
誰かがありのままの自分の体で喜んでくれるというのはとても嬉しい。
ただ同時に、すごく情けない、抜け出せない惨めな罪悪感もある。
でもその罪悪感もある意味で、親に対して与えてもらった体を
無碍に扱っているという自虐的な幸福もある。
自分が推測しうる、自己肯定できない人間の恐ろしい性依存のスパイラルです。
私がよくいう、メンヘラとは違う壊れた女が性依存にむいているというのは
これが原因。メンヘラは自分本位で他人を利用するタイプ、
自己肯定や自尊心は大きく育ってる子も多い(もちろん壊れてる子もいる)
おそらくメンヘラは母親もヤリマンでそれを模倣してる子が多いが
壊れてる子は割と普通家庭で親が厳格、宗教や政治に親が傾倒したり
私みたいに同性親に否定、または親に支配されてる子が多い。
だから性依存で救われるし、性依存で破滅する。
そういう推測を自分でしています。これが正解だとは思いませんが、
あくまで渦中の自分から見た現時点での答えはこれです。
去年ホアキンのジョーカーを見に行った時に、アーサー(ホアキン)が
負の感情が昂ると笑ってしまう病にかかってしまったという話があったが
あれ本当で、私は泣きながらヘラヘラ笑うことがよくある
あれは自分が情けなくて笑いたくなるのか、
人に弱いところを見せたくなくて自虐して無理に笑うのか、
笑ってないと自分がしんどいからなのか色々考えてしまうことがある。
同業にセクハラされた時、一度は相手と仲良くなろうと
下ネタで絡んだ時もそういう感じだった。
悔しくてたまらないけど頑張って自分は何も感じていないように
ヘラヘラするしかないとあの時は思っていた。
だけど私はまだ、本当に本当に辛い時には涙が出るので良かった。
他人の前で涙を見せるのがしんどいから笑いがちなり平気ぶったりしがちだけど
こういうのもありのままの自分が愛せていないからなんだろうなと思う。
長々語ってしまってすみません。
このブログはもうあとで整理するといってあるし、
ピクシブをプラットフォームにしてるからそれなりに真面目な話しても
嫌ならブラウザバックしてくれるかなと思うからいつもすまんこ。
今日も一日元気で過ごせるようにお絵かき頑張ろ~