密(になれない)です!

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masking954
2020/07/13

ここで述べる内容である以上当然だが、表題が示すのはソーシャルディスタンスの事ではなく精神的な距離の事である。昔から自分にとって、人並みに誰かとコミュニケーションを取る事はとても高いハードルの様に感じられた。しかも近年で物を理屈っぽく考える傾向が輪を掛けて強くなっていて、それが更にこの状況に拍車をかけている。

では自分にコミュニケーション上の枷をかけている要因は何だろうか?答えは単一ではないが、直ぐに思い当たるのは『周囲と共有できる共通の話題の乏しさ』である。本質を突いた答えかどうかは別として、一旦ここに着目して掘り下げたい。

当時小学生だった90年代は様々なゲームや玩具が子供達を席巻したが、自分の趣味生活はそれらと密着しておらず、精々テレビでの面白い番組を共有し合う程度であった。その様にして、他人との共通の話題が乏しい状態が早くも自分の前提となってきた訳ではあるのだが、その分守備範囲がかなり重なる人に出会った時の喜びはとても大きかった。今でも付き合いがある程に親友と呼べる人達と出会えたのは、高校時代最後の年だった。

だが裏を返せば、それ以外はその場をやり過ごす為の付き合いが殆どであった。時を経て社会人になってからも様々な人と会話する状況が訪れるが、その度共通の話題を必死に探し出そうとする自分を自覚して溜息が出る。流石に現在の新型コロナ感染症や大規模災害の様に強烈なトピックであれば幾分か話は出来るものの、これがスポーツや芸能人等世間的なカルチャーの話題となると途端に地蔵と化す。雑談が求められている時は、先述の災害等といった『皆が知っていて自分も生活の為に知らざるを得ない』話題のみで時間を潰せる事の方が相対的に望ましいのだ。

では現在は、仕事を除いて日常における自分の頭の中を何が満たしているのだろうか?軽くそれらを反芻する限り、『他人』に関する内容や『世間で話題となっている何か』のウェイトがとても低い。その一方で自分の関心は、物や自然現象等というややアカデミックさが漂う要素が大部分を占めていたのである。

自分は本屋や図書館に通うのがとても好きで、最近は素粒子物理やら軍事学やらを勉強し出したりしている(特にそれを何かに生かすという目的がある訳ではない)。しかし、こうした話題をカジュアルに持ち出せる機会などどれだけあるだろう?幸いそれが全く無い訳ではないのだが、少なくとも様々な人がいる飲みの席で簡単に取り上げられる様なトピックではない。無理やり言及しても困惑されるか適当なリアクションを返されるだけなのは目に見えている。尤も、そもそも誰かとそうした話題を共有する事を第一義として勉強してきた訳ではない。単に知的好奇心に基づいて動いているだけである。

そしていざその様な世間話の舞台に置かれた時、余りにも自分が『他人』に関する話題についていけないが為に、「貴方はもう少し他人への興味を持つべきだ」という旨の言葉をかけられた事が何度かある。しかし何も人そのものに全く興味が無い訳ではない。ただ関心を持とうとする事で、自分を含む誰かの情動的な要因に根差した何かに心や生活を掻き乱される様な状況に陥りたくないのである。

また、上記で述べた『物や何か』が話題となっていた時であっても同様の考えを抱く事がある。言及されている物自体が話の主体とならず、参加する人々の感情を共有する為だけの単なるコミュニケーションの肴としてしか使われていないのならば、やはり心が遠ざかろうとしてしまう。

要は現在でさえも、簡単に共有できる話題を持つのが難しいという状況はそれ程変わっていないのだ。

元々日常的なコミュニケーションへの耐性を低くする要因があった為に人に興味を向けにくくなったのか、それとも上記の様な日常生活を送っていく内に人へのアンテナが段々と朽ちていったのか。正直今となっては卵と鶏どちらが先かの比較である。確実に言えるのは、今はそんな性格を持っている自分と、それに『最適化』した生活スタイルがあるという事である。

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