木上さんが描いた「笠地蔵」の絵コンテ。丸みを帯びた、優しく素朴な筆致だった

木上さんが描いた「笠地蔵」の絵コンテ。丸みを帯びた、優しく素朴な筆致だった

「彼に描けないものはない」と言われた木上益治さん。「笠地蔵」を製作していた1998年に撮影された

「彼に描けないものはない」と言われた木上益治さん。「笠地蔵」を製作していた1998年に撮影された

 アニメの世界で「彼に描けないものはない」とまで評されたクリエーターがいた。京都アニメーション放火殺人事件で犠牲になった木上益治(きがみよしじ)さん=当時(61)。彼には、世に生み出そうと情熱を傾けながら、思いを果たせなかった作品がある。京アニ初のオリジナルアニメとすべく、2000年前後に製作された「笠(かさ)地蔵」だ。京都新聞社は1年に及ぶ取材の過程で、その設計図ともいえる絵コンテの複製を見つけた。京アニの礎を築いた逸材は、幻のアニメにどんな願いを託そうとしたのか。

 若い夫婦に訪れる奇跡の物語だった。男が風雪にさらされる地蔵をふびんに思い、妻に繕ってもらった笠とみのをかぶせてやった。その日、妻が病に倒れた。嘆き悲しんでいると、子供に姿を変えた地蔵が目の前に現れ、命を救ってくれた。男は涙をぽろぽろと流して喜んだ-。

 木上さんが民話に独自の脚色を加えて描いた678カット分の絵コンテは、素朴な筆致で、丸みを帯びたキャラクターには優しさがにじむ。「けいおん!」や「響け!ユーフォニアム」など、はつらつとした若者の青春群像を描くことの多い京アニ作品とは、趣が大きく異なる。

 1981年に創業した京アニの歴史は、セル画に着色する仕上げ工程の下請けから始まった。東京一極集中のアニメ業界にありながら、地方を拠点に国内随一のスタジオにまで駆け上がった希有(けう)な存在だ。そのシンデレラストーリーは、飛び抜けた才能を持つだけでなく、後進を育てる教育者の顔を兼ね備えた木上さんの存在なしには語れない。

 木上さんは目立つことを好まず、時に本名とは異なる別名義を使いながら、後輩が監督を務める作品を一スタッフの立場から支援した。京アニが元請け会社としての地歩を築いた2003年以降、監督を務めたのはオリジナル作品「MUNTO」と「バジャのスタジオ」の2シリーズ。この間、専門誌のインタビューを受けることはめったになく、製作に心血を注いだアニメーターの胸の内を知るのは容易なことではない。

 木上さんの思いに近づく手掛かりは、東京都西東京市にあるアニメ製作会社「エクラアニマル」にあった。