アイヌ民族関連報道クリップ

アイヌ民族・先住民族関連の報道クリップです。各記事の版権は発信元にあります。

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「温室ガス削減、目標合意を」 NGO代表が福田首相と意見交換(北海道新聞)

2008-06-19 08:55:00 | アイヌ民族関連
「温室ガス削減、目標合意を」 NGO代表が福田首相と意見交換(06/19 08:55)

福田首相(中央)との意見交換を前に記念撮影する市民フォーラム北海道の秋山共同代表(左から2人目)らNGOメンバー

 北海道洞爺湖サミットを前に、国内外の非政府組織(NGO)代表が十八日、首相官邸で福田康夫首相と面会し、サミットの主要議題となる地球温暖化や貧困・開発問題などで意見交換した。

 「2008年G8サミットNGOフォーラム」の星野昌子代表、「G8サミット市民フォーラム北海道」の秋山孝二共同代表、海外の主要NGO代表ら十五人が出席した。

 NGO側は「日本が二〇二〇年までの温室効果ガス削減の中期目標を設定し、主要八カ国(G8)の合意に導くリーダーシップを発揮すべきだ」などと要求。秋山共同代表は、北海道の自然などを守ってきた先住民族、アイヌ民族への感謝の気持ちを、各国首脳と共有してほしいと求めた。

 福田首相は「NGOの意見を可能な限りサミットの議論に反映させたい」と述べたが、NGOの主張をサミット合意にどう生かすかの具体案は示さなかった。

 議長国首脳とNGOの意見交換は、近年のサミットで恒例となっている。
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マリモや自然に興味/海外プレスが阿寒湖視察(釧路新聞)

2008-06-19 00:00:00 | その他のニュース
2008年06月19日 マリモや自然に興味/海外プレスが阿寒湖視察



  北海道洞爺湖サミットを前に海外の報道関係者20人が18日、釧路市阿寒町阿寒湖温泉を視察した。国土交通省北海道運輸局の「サミットを契機とした北海道観光PR海外メディア招請事業」の一環で、サミットに併せ道内を実際に見てもらうことで、関心を持ち広く紹介してほしいと企画。韓国、香港、台湾、タイ、シンガポールとオーストラリアの関係者が参加した。 

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アイヌなど先住民族が差別体験訴え 東京でイベント(JANJAN)

2008-06-17 00:00:00 | 事件・差別問題・領土問題など
【G8洞爺湖サミット オルタナティブ】アイヌなど先住民族が差別体験訴え 東京でイベント
黒井孝明2008/06/17
アイヌ民族やアジアの先住民族の歴史についての講演が行われた。バングラデシュ、ミャンマーの日本に居るそれぞれの民族の代表者が身の危険を感じて来日した事や移動、結婚、教育で受けた差別や迫害の歴史を語った。






 日本のアイヌ民族やバングラデシュ、ミャンマー(ビルマ)の先住民族が受けた差別や迫害の歴史を知ってもらおうと、15日、東京・港区の明治学院大学で日本に住むそれぞれの民族から代表者を迎え、講演会が開催された。


アイヌ民族の音楽や伝統舞踊を紹介するグループ「アイヌレブルズ」による演技。男性陣による剣の舞「エムシ・リムセ」(15日午後、東京・港区の明治学院大学で筆者撮影)。
 冒頭、首都圏在住の若者を中心に結成された、アイヌ民族の音楽や伝統舞踊を紹介するグループ「アイヌレブルズ」(AINU REBELS)が演技を披露。従来は個別に行われていたク・リムセ(弓の舞)、サロルン・リムセ(鶴の舞い)を男女数人が踊った。

 ク・リムセとは、弓を携えたアイヌの男性が上空に鳥を見つけたが、あまりの美しさに射るかどうか逡巡し結局やめてしまう、という踊りで、女性が鶴のように舞うサロルン・リムセと合わせるのは、彼らがアレンジしたもの。現代風の歌とリズムにのせて会場を魅了した。

 バングラデシュ南東部のチッタゴン丘陵地帯に住む“ジュマ”(10ほどの少数民族の総称)からは、ディプティ・ションコル・チャクマ氏が講演した。

 バングラデシュ政府がチッタゴン丘陵地帯に古くから住む先住民族の土地を収奪するなどの同化政策をとってきたため、1970年代から政府と先住民族の武力衝突が起こった。1997年に和平協定が結ばれたが、ジュマのあいだでは和平を望む集団と協定に満足しない集団に分かれた。同氏は後者のリーダーだったという。「私たちは抵抗することによって文化や伝統を守ろうとした。これは本来法律が守るべきものだ」。

 身の危険を感じ、6年前に来日。当初は難民申請が下りず難民収容所で1年以上を過ごした。日本の難民支援団体の力を借り、裁判を通じて2007年に難民認定。自分で仕事を見つけ、現在は妻と子どもと日本で暮らしている。

 ミャンマーからは、ロヒンギャ族のゾーミントゥー氏とチン族のナンリアンタン氏が壇上にあがり、ミャンマー政府による被害を訴えた。ゾーミントゥー氏によると、ミャンマー政府が国内に存在を認めている135民族のなかには、ロヒンギャ族は含まれていない。「単に外国人として扱われているだけではなく、望まれない民族として扱われている」という。

 移動、結婚、教育の制限や強制労働の被害を受け、ミャンマー西側に国境を接す隣国バングラデシュへの難民が後を絶たない。こうした状況下、チン族のナンリアンタン氏は日本の若者に期待を寄せる。「日本の官僚や偉い人たちはビルマの実情を把握できていない」からだ。


約100人が会場を訪れた(同)。 最後に講演したアイヌ民族の長谷川修氏は、今月、日本の国会でアイヌ民族を先住民族と認定するよう政府に求める国会決議が採択されたことに関連し、「(アイヌ民族をめぐる状況が)一歩進んだとはあえて言わない」と述べた。「第一のステップとして(政府の)責任を明らかにすべきだ」としたうえで、過去に同化政策を進めてきた政府や議員の“後継者”である、現在の政治家らがまず謝罪をするべきだと訴えた。「アイヌ問題というけれど、これは日本社会の問題だ」。

 イベントは、ジュマの人々を支援している「ジュマ・ネット」や国際協力活動をしている「市民外交センター」などの共催。約100人が会場を訪れた。
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ブラジル移民、明日で100年(世界日報)

2008-06-16 21:56:00 | その他のニュース
ブラジル移民、18日で100年 
 【サンパウロ16日綾村悟】18日、最初の日本人移民を乗せた「笠戸丸」が、ブラジル南東部サンパウロ州のサントス港に到着してちょうど100年を迎える。国策としてのブラジル移民だ。
 当時のブラジルは、農業分野を中心として労働力を欲しており、日本だけでなく欧州その他の国々からも多くの移民が流れ込んできていた。

 日本での平均的給料の何倍にもあたる高給や開墾地譲渡などの言葉にあこがれて、「一旗揚げよう」と太平洋を渡った移住者も多かった。

 しかし、現実はアマゾンでの原始林開拓や低賃金でのコーヒー農園での労働、鉄道建設などに従事した移民も多く、言葉、文化、習慣が違う国での仕事と生活は言語を絶するものだったと伝わる。

 第2次世界大戦時、ブラジルは連合国として戦争に参戦、日系人は敵性国家として、日本語教育を禁止されただけでなく、ブラジル政府に農地を収奪されて収容所では食べるものにも困ったという。

 その日系人社会は、いまや150万人とも言われるまでに成長し、社会の中心はすでに2世や3世に移行、6世もどんどん育っている。

 日本ではあまり知られていないことだが、ブラジルは元宗主国のポルトガル系だけにとどまらず、イタリア、ドイツ、レバノン、アフリカ、アジアや先住民族系などが入り混じった他民族国家。日系移民は人口比率では1パーセントにも満たない。

 ブラジルでは、日系ブラジル移民100周年を記念した行事や記念事業が盛んに行われている。ルラ・ブラジル大統領も日系移民の記念式典ではその業績をたたえるなど、ブラジル日系移民100周年は官民挙げての行事となっている。

 その背景には、勤勉や誠実さで知られ、各界でブラジル社会に貢献してきた日系移民とその後孫への高い評価がある。

 ブラジルは今や、世界有数の食料・資源大国として注目を集めている存在。日本とブラジルは、移民100周年を記念として経済だけでなく、文化面などでの人的交流も深めようとしている。

 100年をかけて日本人移民が築いたブラジルと日本の架け橋は、両国間の友好関係に欠かせないものとして育っている。







2008/6/16 21:56

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雑記帳:アイヌの喜びを神々と先祖に報告(毎日新聞)

2008-06-16 00:50:00 | アイヌ民族関連
雑記帳:アイヌの喜びを神々と先祖に報告

囲炉裏の炎を囲み、国会決議を神に告げるアイヌ民族の男性たち=札幌市南区小金湯で2008年6月15日午後2時5分、鈴木勝一撮影 アイヌ民族の伝統儀式「コタンノミ」が15日、札幌市南区のアイヌ文化交流センターで行われ、アイヌを先住民族と認定する国会決議が可決した喜びを神々と先祖に報告した。

 儀式は北海道ウタリ協会札幌支部が実施。民族衣装を着た男性がイナウ(木幣)にお神酒を振りかけ、囲炉裏の炎に向けて祈りの言葉を唱えた。女性は見学者たちに伝統舞踊や歌を披露した。

 同協会の澤井アク国際部会長は「国会決議は長い歴史の中で画期的な出来事」と改めて喜びをかみしめ、囲炉裏で燃える炎に「ありがとう」と感謝の祈りをささげた。【鈴木勝一】

毎日新聞 2008年6月16日 0時50分(最終更新 6月16日 1時06分)

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樺太の悲劇(1) ソ連参戦で阿鼻叫喚の住民(世界日報)

2008-06-16 00:00:00 | アイヌ民族関連
平成20年6月16日
真実の攻防 沖縄戦「集団自決」から63年 第3部 <1>

樺太の悲劇(1)
ソ連参戦で阿鼻叫喚の住民
捨て身で娘たちを守る老女も
稚内公園に立つ「氷雪の門」。氷と雪の厳しい環境で生き抜いた人々を象徴する女人像と、樺太の方向を指す8メートルの望郷の門から成り、樺太で亡くなった人々の慰霊と望郷の思いが込められている
 札幌駅から特急に乗り換えて五時間半、稚内を訪ねたのは四月の下旬だった。ミズバショウの群生が遅い春の到来を告げていた。だが、“風の町”稚内を歩くとまだまだ肌寒かった。
 先の大戦で、国内で住民の集団自決が起きたのは、慶良間諸島のほかに樺太でも起きている。戦時中の集団自決の実相に迫るべく、この地を訪ねたのであった。

 両者は、いろいろと対照的である。地理的には、慶良間諸島と樺太は、日本の両端に位置する。米軍が本島に上陸した昭和二十(一九四五)年四月一日から沖縄戦は本格化するが、それ以前に、慶良間諸島の集団自決は起きた。戦争は日本がポツダム宣言を受け入れ、八月十五日で敗戦となるが、樺太の住民にとっての「戦争」は、その前後から始まった。ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄、侵攻したためだ。

 樺太の地は、アイヌなどの先住民族と日本人とロシア人が雑居する形で明治維新を迎えた。明治三十八(一九〇五)年のポーツマス会議で、北緯五〇度までが日本領となり、二年後にはコルサコフに樺太庁が発足。鉄道、道路、港などのインフラが整備され、漁業、林業、石油、石炭開発などで活況を呈した北の大地に、多くの日本人が移り住み、終戦時は約四十五、六万人までに膨れ上がっていた。

 そこにソ連軍が空、陸、海から一気に侵攻。住民は一瞬にして大混乱に陥ったのである。

 各地でわれ先に港に向かい、避難しようとする人々の群れ。そこに容赦なく、ソ連軍が攻撃した。樺太の北部、恵須取―内路間にある百六キロに及ぶ内恵道路にも、避難民は太い川のようになって南下したのだが――。

 <この避難民の流れをソ連機がしばしば襲った。多くは婦女子の列と知っての威かくとみられたが、逃げまどう人の群れに無差別な機銃掃射や爆撃が加えられたこともあり死傷者がでた。悲惨なのは機銃弾で死んだ母親の死体にすがって泣く幼児。子供を失って発狂する母親。若い人たちについて歩けないと自ら離れていき死を待つ老人。取り残されるかもしれない不安から足手まといの幼な子を断崖からつき落としたり、死が待つばかりの草むらにえい児を捨て、わずかなミルクを残していく母親などもいた。そして絶望的な逃避に疲れ、劇薬をあおり、手榴弾を胸に抱いて一家が自決する惨劇も相次いだ>(樺太終戦史刊行会編纂『樺太終戦史』より)

 日本軍は戦闘を避けようと、真岡市街でも住民の中にかなりの死傷者が出ていることを知りつつも、交戦を禁じ、停戦のための軍使派遣を命じた。

 八月二十日朝、ソ連軍の先兵が豊真山道入り口付近にいるのを確認、白旗を掲げた上等兵を先頭にして村田徳兵中尉が軍使となり、護衛兵とともに交渉に向かった。だが、ソ連兵は日本兵の武装を解かせ、軍犬を電柱に縛り付けるよう要求。その上でいきなり銃口を日本兵に向けて乱射したのだった。白旗を掲げた豊原市の駅前に殺到した避難民にも、ソ連軍は銃弾を浴びせた……。

 こうして、わずか二週間で住民・兵士ら約四千三百人が亡くなった。この間に、七万八千人が内地に引き揚げることができた。だが、樺太に残された人は殺されるか、占領下で強制労働をさせられるか、遠くシベリアに抑留され、二度と日本の地を踏めなかった人々も数多い。幸い命が助かった人も、それまで汗水流して築き上げた土地財産の一切をソ連に奪われてしまったのである。

 ある会社員は、妹を陵辱しようとするソ連兵を制止しようとして銃殺された。婦女子らが仮泊していた真岡町の小学校に、ソ連兵数人が押し掛けて「マダムダワイ(女を出せ)、マダムダワイ」と叫んで、女性を連行しようとした。その時、七十歳くらいの老女が立ち上がり、「私が行ってやる。ほかの者には手を触れるな」と兵士を外に追い出した。老女は輪姦(りんかん)され、翌日、死体となって発見された。

 入院していた重病者看護のために最後まで大平神社の防空壕(ごう)に踏みとどまっていた看護婦二十三人の近くにも、ソ連兵が迫った。八月十六日のことだ。避難する内恵道路にも既にソ連兵が立ちはだかっていることを確認した高橋ふみ子婦長は、「この若い看護婦たちを無事な姿で親元に帰せないならば、死を選ぶことよりほかにない」と覚悟。用意していた青酸カリを注射または飲み干した。致死量に足りず十七人が蘇生(そせい)したが、六人は死んでいった。

(編集委員・鴨野 守、写真も)

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サミット:記念歌発表会 アイヌ民族楽器とシンセサイザーが調和(毎日新聞)

2008-06-15 00:00:00 | アイヌ民族関連
サミット:記念歌発表会 アイヌ民族楽器とシンセサイザーが調和

雑記帳・サミット記念ソングを歌う長山智恵子さん(左)とアイヌ民族楽器演奏者のTOY‐TOYさん=札幌市中央区の大通公園で2008年6月14日 ◇北海道洞爺湖サミット(7月7~9日)の記念歌発表会が14日、札幌市中央区の大通公園野外ステージであり、歌手、長山智恵子さん=とアイヌ民族楽器演奏者のTOY-TOYさん=同右=が生演奏を披露した。
 ◇サミットへの期待とメッセージを託した記念歌は公式ソングではないが、市民有志の手作り。CDは1枚2000円で、洞爺湖周辺のホテルなどで販売している。
 ◇アイヌ民族楽器のムックリとトンコリが、シンセサイザーなど現代楽器と見事に調和。異文化への理解を深めて調和する精神はG8首脳にも見習ってほしい。【鈴木勝一】
2008年6月15日

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アイヌ問題(しんぶん赤旗)

2008-06-15 00:00:00 | アイヌ民族関連
2008年6月15日(日)「しんぶん赤旗」

アイヌ問題
「教育と経済に力を」
ウタリ協会理事長 紙議員に要望

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 日本共産党の紙智子参院議員は十四日、北海道白老町で、北海道ウタリ協会の加藤忠理事長と懇談しました。花岡ユリ子道議、宮内聡、さとう昭子両衆院比例候補、畠山和也道政策委員長、大渕紀夫白老町議らが同席しました。

 「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が、六日に衆参両院でそれぞれ全会一致で採択されたことについて、加藤理事長は、「政府から虐げられて百四十年、人権が保障された憲法ができて六十二年たち、ようやくアイヌ問題が課題に上がってきた」とのべました。

 加藤理事長は今後の課題として、高校に進学しても生活が安定しないため経済的にきつく卒業できない状況があることなどを紹介し「教育と経済の問題に力をいれてほしい」と要望しました。

 紙議員らは「アイヌ政策をさらに推進し総合的な施策の確立に取り組む」とする有識者懇談会について、「当事者であるアイヌの人たちも入っての議論が必要で、官邸につくれと求めたがそうはならず、『高いレベル』の会議として設置させた」と報告しました。

 加藤理事長は「アイヌは武器を持たない平和な民族であり、自然とともにはぐくんできた。このことを政府はみてほしい」と話しました。
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ひと:宇梶静江さん 「先住民族サミット」の共同代表(毎日新聞)

2008-06-14 00:03:00 | アイヌ民族関連
ひと:宇梶静江さん 「先住民族サミット」の共同代表
 心と体が宙に舞う。そんな感覚がまだ続く。アイヌの人々を先住民族と認めるよう政府に求めた今月6日の国会決議。先祖が受けた苦しみを思いながら、傍聴席で涙をぬぐった。

 北海道洞爺湖サミットに先立ち、平取(びらとり)町二風谷(にぶたに)と札幌市で開かれる「先住民族サミット」(7月1~4日)に共同代表として臨む。海外から約20人の先住民族を招いて環境や権利回復などの提言をまとめ、各国首脳にアピールする。「アイヌは明治時代の同化政策で自分たちの権利だけでなく、自然そのものも失った」

 北海道浦河町生まれ。家は農業。「兄と姉、3人の弟がいて生活は苦しかったけれど、集落ではみんなが助け合った」。外に出れば「アイヌか和人(日本人)か」で人々は態度を変えた。23歳で上京し、日本人と結婚。2人の子どもが小学生だった38歳のとき「ウタリ(同胞)よ、手をつなごう」と新聞の投書欄で呼びかけ、関東圏のアイヌ復権運動の草分けの一人になった。

 いつの間にか「長老」と呼ばれる存在だ。思春期に反発していた長男の剛士さん(45)は俳優として個性を発揮。子や孫の世代が歌や踊りを通じて「多文化共生」をしなやかに表現している。

 アイヌの先住地を舞台にする二つのサミット。「私にとっては民族の誇りと荒廃の道をたどってきた自然を取り戻すためのもの」

【明珍美紀】

 【略歴】宇梶静江(うかじ・しずえ)さん 千葉県鴨川市在住。現在はアイヌの伝統刺しゅうを古布にほどこす古布絵作家として活動。75歳。

毎日新聞 2008年6月14日 0時03分

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<取材日記>争いながらもやることはやる日本の国会(中央日報)

2008-06-13 18:16:00 | アイヌ民族関連
<取材日記>争いながらもやることはやる日本の国会

関連タグ 福田康夫国会

福田康夫首相は政治危機に陥っている。

昨年9月の就任当時に60%台だった支持率は現在20%台を下回っている。うまく進んでいることもほとんどない。公務員改革をはじめとする制度改革は線香花火に終わった。経済再生、公教育の再生など山積みされた政策課題は、野党と既得権の抵抗が足かせになっている。

野党は11日、日本憲政史上初めて参院で首相問責決議案まで可決させて首相をさらに窮地に追い込んだ。福田首相のリーダーシップが揺らぐ抜本的な背景は与党による国政混迷だ。

税金・年金・医療の3つだけを例に挙げてみよう。

道路公社の財源を作るために紆余曲折の末、ガソリン暫定税率は維持させ、国民の不満を買った。厚生労働省は5000万件の年金記録を紛失した後、納付事実を立証する責任を国民に転嫁し、75歳以上の高齢者に対しては十分な説明もせずに医療費の負担を増やした。

学生・市民デモが激しかった70年代以前だったら、すでに日本国中が沸きに沸いたはずの諸懸案だ。日本では、学園民主化・左翼学生運動で各種のデモが激化していた69年には東京大学でバリケード封鎖のあった安田講堂事件まで発生した。

しかしおよそ30年の歳月が流れた今、日本は重要な諸問題は街ではなく国会で処理している。国民の政治への関心が薄らいだという話もあるが、何よりも与野党が国会で政策対決を繰り広げるという原則を守り、代議制が本来の役割を果たしているためだろう。

自民党は12日、自党が多数の衆院で内閣信任決議案を可決させ、野党の首相問責決議案に応戦した。たとえ政策で多くの試行錯誤があるものの、総選挙の実施などで政局を揺るがすよりは政策対決で解決していくという趣旨だった。

日本の与野党は毎度争うばかりではない。最近では公務員法改正案と「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」を超党派的に協力、通過させた。戦いながらもやるべきことはやろうということだ。

日本政治には世襲・派閥など否定的な単語が付きまとう。しかし大勢の国民が街へ向かい1カ月以上も苦労し、互いに対立、分裂するよう刺激したり傍観したりすることはない。特に国会を放り出すことはほとんどない。

中央日報 Joins.com
2008.06.13 18:16:30
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