東日本大震災から4年が経過、復興進む宮城県・女川町から福島県の「帰還困難区域」まで行って来ましたー。

2011年3月11日に東日本大震災が発生。そして翌3月12日には長野県北部地震が。それから早くも4年が経過。なかなか復興が思うように進んでいるとは言えない現状ながら、かつて足を運んだ懐かしい場所からは嬉しいニュースもちらほら聞かれるように。そんなん聞くと、ぼら、やっぱムズムズして来るもんなんすよね。

更新日: 2015年04月13日

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「女川丼」が有名な「おかせい」さん。
今回は、時間がなかったんで、お店の前を通過しただけなのでしたー。ざんねーん

2014年3月、上野松坂屋の「がんばろう東北‼︎東北物産展」にて、ペロリ。美味しかったなー

「果樹園CAFE ゆめハウス」に到着!ぜいぜい、げほげほ。
この「ゆめハウス」は、高白浜に残った唯一の建物を改築したもの。なんで周辺にはなんもなし。建物前に広がる果樹園には、津波にのまれながらもたくましく復活したイチジクの木なんかもあるっす。
ここでの収穫物を加工販売したり、カフェを運営したり。そうした多岐にわたる活動で、被災者の自立を支援してるところっす。

実はぼき、「ゆめハウス」の改修工事が行われる以前の2013年9月に、こん中に潜入していたのでしたー。
今回は、完成したここが、まーそのーチミ達うまくやれちょるのかな(偉そう)って思って、来てみたのでしたー。
詳細は以下を見よ!

イチジクやトウガラシなどを栽培

襖上部の黒い染みは、東日本大震災時の津波到達の跡。建物改修に際しても、この跡はあえて残した

ここで栽培した「とうがらし」を加工。辛さは「普通」と「激辛」の2種類。「普通」のほーを購入したんすけど、こっちでよかったわ。ヒー

栽培作業が出来ない雨天時に、こうした加工作業を行っている。最近はこうした作業に、若いお母さん方も参加し始めているとのこと

被災建物の天井部を外し、壁材を変えただけ。建物改修前と比べると、まるで別の空間に感じられる。外の竹も伐採し、見晴らしも良好

映っているのが代表の八木さん。こり、恥ずかしいんだって

「女川町ポスター展」に出せんのは、1団体1枚だったっつーことで、ほんとはこっちも出したかったんだけどなーっつー1枚。ポスター持ってんのは、代表の八木さん

今回はいきなり「ゆめハウス」を訪問しちゃったんすけど、たまたま八木さんがいらしたんで、色々お話を伺うことが出来たのでしたー。八木さんの次の目標は「キッチンカー」をつくること。それを使って、こちらの名物「さんまなたい焼き」なんかを移動販売していきたいって仰ってましたー。
現在、ここ「ゆめハウス」では「さんまなたい焼き」を作ってないんすよ。ぼきはこれ、残念ながらまだ一度も食べたことがないんで、是非「キッチンカー」を実現して貰って、焼き立てをいただきたいものだなーって思ったのでしたー。
そりと、毎年11月に横浜の山下公園で開催してる「復興支援まつり」にも参加してるっつーことなんで、そっちにも行ってみたいと思いまーす。
今後「ゆめハウス」は、他県での開催なんすけど、多くの支援してくれる方たちと共にコンサートも開催予定。あと、なんかここの歌もつくってCDも出すっつー話。
どこへ向かってるのか「ゆめハウス」!がんばれ「ゆめハウス」!「ゆめハウス」の明日はどっちだ!

「女川は流されたのではない。新しい女川に生まれ変わるんだ。」と書かれている

この日伺ったお話の中で、復興・再建に携わっていこうとする意欲がある者たちにさえ、ある「壁」が立ちはだかっているというものがありました。
嘗ては漁業に携わっていたんすけど、震災を経て、現在は女川町で建設関連の仕事に携わっている方から伺ったお話で、その「壁」によっては折角の意欲もそがれ、自らによる再建も諦めてしまうといったことがあるとも。
その方の視点から考察する「復興」についてのお話を伺い、「復興」といって思いうかべる形にも、個人差があるのだということにも気が付かされたっす。
ほんとそうしたのってのは、一括りに伝えられて来る「ニュース」では、感じ取れないもんっすよね。

明日も、朝から自転車で女川町を回る予定なんすけど、雨が心配。
まあ取りあえず、「エルファロ」の美味しい夕食をいただいて、ゆっくり過ごすことにすっか。
こまけーことは、明日朝起きてから考えよーっと。

中央から左に続くのは道路沿いの電灯。遠くに小さく見える灯りは、高台にある中学校などの施設のもの。他に灯りは見えない。嘗ては、この周囲一帯に住宅が建っていた

2015年4月7日(火) 目が覚めると雨!次第に晴れるとの予報っすけど、いかに!