なろうぽくなってしまった、ライト文芸について。
「どうしても、なろう作品含め、現代の小説に感じる違和感について。」
で述べた違和感の正体について考察していきます。
前回述べた違和感は、
「ラノベどころかライト文芸までもがなろうっぽくなってしまった。」
ことからきていることが分かりました。
では、何が原因だったか調べてみます。
1 「君と泳ぐ、夏色の明日」を読んで現代のライト文芸について考察してみる。
直接的ネタバレは控えますが、批判的な内容になるので注意を。
私はこの作品を読んだ直後に思ったのは、この作品って思考できる限り一番王道じゃね?ってことだった。
・王道過ぎる
それはどういうことかというと、まぁそういう展開だよなぁ。と思うことしかなかったからだ。キャラクターも展開も王道過ぎるのだ。
当然、世の中の作品を広く知っている訳でないが、なぜか、これは思考できる限り一番王道しかない。と感覚的に思い、その作品を読ませた友人も同じように感じたのだ。
そして友人は、王道的要素以外が排除されているため奥行きがないと言っていた。
まず、これはあらすじに載っている内容でネタバレにならないだろうから話すが、
主人公は弟を亡くしているという、話を作る上では王道の逃げを行っている。
とりあえず、誰かを死亡させておくことで話を作るのを楽にするというのは、王道中の王道といえる。だからこそ、私はとりあえず殺しとけみたいな風潮が嫌いだ。
話を書いているからこそ分かるが、主人公が身の回りの誰かを亡くした状態で話をスタートすると話を作るのが凄く簡単になるのだ。
だから、話をつくるのが面倒だったら、誰かが亡くなった状態からスタートすればいいのだ。これは異世界系にも言えるが、これは作品のスタートラインをあらかじめ設定しておいてそこは確定として話を作るようなものと化している気がする。(だけど異世界系は、このすば、オバロみたいに面白いのはほんとに面白いから別に大っ嫌いではない。)
まぁとはいえ、君の名は。も母親を亡くしていた訳だしあれ程の大ヒットをするなら、家族のうち誰かが亡くなっていることが王道なのかも知れないが、それにしても作品の作り手は安易に使いすぎなのではないか。と思う。(君の名は。はそうじゃないと成立させられない内容なので問題なく見れているが)
かつての作品は、家族が亡くなっている場合はその背景を深堀するものだったが、現代の作品はむしろ家族死亡=設定にしか思えないのだ。当然そのことで主人公が悩む訳だが、それもよくありがちなパターンにしか見えないのだ(残念ながら)。
そして読ませた友人は、キャラクターも典型的すぎて無個性だと批判していた。
(つまり友人の評価は悪かった)
私は、ただ王道なだけでも売れるには武器になるんだな。あ、こんなに考え抜いた中の一番王道に忠実でもいいのね。と感じた。
・登場キャラの舞台装置化
君の名は。でもつまようじで文句を言ってきた男(君の名は。はブルーレイも買って何回もみたくせに、あのシーンは毎度飛ばした)や、三葉に文句を言って来た女子は舞台装置化していたが(あれはそうじゃないと成立しないので仕方ないが)、君の名は。におけるまぁ不満だけど仕方ないよね。って部分が現代の小説では完全に悪い部分として出ている気がする。というのも、現代の作品では登場キャラのモブで嫌味をつける側は結構、舞台装置化していることが多く、そのシーンで主人公にダメージを与えるためだけの装置となっているのだ。
ただ、だからといってするな。という訳ではなく、それ致し方なし。な状況にしろ。と言いたいのだ。君の名は。であれば、つまようじ野郎がいなければ、奥寺先輩のシャツを縫うシーンにつなげるのは不可能だし、その状況になることも現実社会で十二分に考えられるからだ。(まぁモブだし、モブまで舞台装置化させないでそこに居合わせた一人の人間として描くのは宮崎駿監督のような凄まじい技量を要する気もするが。)
(大して意味をなさないシーンは小説段階でも演出して引き算すべきと思う。)
・周りのレベルを低下させることで、普通のことをしても優しいにカウントされる。
友人は、本作にこの構図があるとし、異世界系の悪い部分(現在の知識をただ使っただけで天才扱いされる)と同じだと揶揄していた。確かに私も、敵キャラだからといって知能を低下させて普通のことをするだけで天才扱いされる作品は嫌いだ。なのでそういう構図の作品は個人的に作って欲しくない・・・。俺TUEEEもハーレムも大丈夫だけど、これが嫌い。
・知っているウジウジした世界と参考にせず想像した世界だけで構成する(取材しない)
これも現代の作品の悪い特徴のうちの一つだ。
周りをスクールカースト上位の嫌な奴にして、主人公側をスクールカーストの低位に置き自然と手を差し伸べる者を減らす。そうすることでごく普通のことをしているだけで主人公がまるで優しいかのようになる。というものだ。
そもそもスクールカースト?とやらがなんじゃそりゃて感じではあるが。狭いクラスの中の一人に対してマウント取るだけで良い気になるほど器が狭いというかなんというか。
そんなのが、日本中の学校にあったとは。いじめは昔からあったけど、スクールカーストって最近言われ始めたものな気がする。(霧島部活やめるってよ。でも見たが、スクールカースト上位?とやらはウザすぎると思った。そう思わせただけで霧島~は評価できるが。)
で、ここで大事なのはどうやら学校で作者が味わっているため、そこはすさまじく描写が丁寧でウザくてしょうがなくなるという点である。そして、これがまたウッジウジしているのだ。
そこは深いのに他のところの描写が取材に余り基づいておらずネットで調べた情報だけで得られるものになっている。というのも現代の作品の悪い部分だ。
昔の小説といえば、何かの題材を作るなら必ず徹底的に取材するものだと思っていたけど(例えハイファンタジーでも、科学や社会研究や経済学やらに基づいていてそこが面白かったのに)最近は取材しないで、その場で書き下ろしてる感が半端ないのはなんでなんだかなぁ。
とのことが違和感の原因だったと思います。
2 どこが「なろう系」と同じなのか。
次にどこがどのようになろうっぽいのか?について考えていきます。
考えられるのは以下の通りになります。
1 文章表現が簡素であり、深みを与え質を向上させることよりも手っ取り早さや書きやすさを優先している。
2 もはや、誰かが亡くなっているというのは話に深みを与えるための要素ではなく、むしろ設定。
なろう=異世界系、異世界転生=異世界に主人公が死ぬことで移動する。の設定のように、
作品を作りやすくし、また読者側に共有されるためのベースとしての機能を果たしている。
すなわち、家族の誰かが亡くなる(っている)か、ヒロインが亡くなるところは確定として、
そこから、どう話を作るかということにかけられている。ということが分かった。
3 周辺のレベルを下げ、現代の知識を使うだけで無双できるような俺TUEEEと同様に、周辺のレベルを 下げることで話を作りやすくしている。
4 取材をせず、自分の知っているウジウジした世界と知らない想像の世界だけで構成される。
なろう作品では、継続性と即効性が質以上に重要となるため、
作品作りのペースを落とす取材や調査をする必要のないという要素も
異世界系の強みになっているが、これと同様のことが起きている。
というのは、自分が読んでみた感想でいうと、ちゃんと調べてないと出てこないよなぁ。
ちゃんと調べてたら書かなきゃ気が済まないはずのものが書いてない。というものがあった。
聲の形や半分の月がのぼる空のような、実際の場所を取材したり見たりしていないと出てこなそうな ものが、作中に全くないのだ。
確かに異世界系ならば、それでいい。
しかし現代を舞台とし、クラスの中の雰囲気やスクールカーストはまるで取材しているかのような
リアリティがあるのに対し、舞台に奥行きがないのだ。
これも違和感を生み出しているとみて間違いない。
5 以上のことからキャラクターが舞台装置化している。
舞台を取材していないので、キャラクターが舞台となって話を推し進めているようなものか。
これが、ニコニコ動画内で「は?」とコメントする人々が感じていた想いと合致すると思った。
これは、最近のネットで最近のアニメは浅くといっている人の想いとも合致する。
あまりに典型的すぎて、かつ他にそのキャラをそのキャラクターたらしめる要素がないため、
主人公ヒロインまで舞台装置に見えてきてしまうというものだ。
例えば、君の名は。であればアナザーストーリーが作れるような、このすばであればスピンオフを
量産できるような。そういった、キャラクターの奥行きがなさすぎるのだ。
もう、これに関して言えばキャラを自由に作りこめる異世界系よりも深刻だと感じた。
いくらなんでも軽薄すぎやしないか。と既にみんな思い始めているのだ。
当然これがなろうのヒット作の一つ程度ならむしろ文化の発展と喜んだことだろう。
しかし、これが商用の作品でも当たり前のように出されているとしたらもう悲しむしかない。
このため、なろう系にある、読まれるための諸刃の剣的要素が、「感動系」にまで波及し、
「感動系」がもはや「感動ごり押し系」になってるよね。ということでした。
2自体は、なろう小説が文化の進んだ結果だというように、設定をあらかじめ決めて置きそこからスタートできることで作者側に掛かるハードルを下げることができるので、悪いことではないと思います。
それにしても最近は、「中身が無い。中身が欲しい。」という意見をちらほら聞きますよね。