世界からすべての私やクオリアが消失することは理解可能か

■はじめに

 伊藤計劃の『ハーモニー』(2010、ハヤカワ文庫)という小説では、物語のラスト、世界中の人間から「わたし」が消失することになる。世界中の人間消えるのではなく、その人間たち“「わたし」は「わたし」である”という意識、いわば自己意識が消失するのである。しかし、はたして、そういった事態は理解可能なのだろうか。

 小説のなかでは、「わたし」が消失することで、一見感情があるようにふるまうが、内面がないので、それを実感することはできず、あるいは意志というものがなくなり、人々が同質となって、統一し、安定した社会が実現するとされている。それがユートピアなのかディストピアなのかはこのブログの興味の範囲外であるが、ただ、おそらく、ここには、誤解した形で、つまり、ある種のSF的に通俗化・一般化された形で、すべての人々がクオリアを欠いた哲学的ゾンビになるというような理解がなされているのではないかと推察することができる。

 詳細は後述するが、しかしながら、もし仮に、世界から「わたし」が消失しても、そして、クオリアが消失しても、哲学的ゾンビも(ひょっとすると作者は“ゾンビ”という言葉に引っ張られたようなところがあったのかもしれないが)、そのような行動やふるまいの面で違いを生じさせるものではないはずである。ゆえに、それによって社会や世界、人々の実存的なあり方が変化することはないと言い切ることができる。むろん、哲学的ゾンビでも、主人公の「わたし」の“報告書”という体裁をとる『ハーモニー』の物語を書くことも読むこともできるだろう。まさに、それは“哲学的”なのである。

 では、「わたし」の消失やクオリアの消失とは、具体的に、どういった事態なのだろうか。


■「わたし」の消失

 まず、「わたし」の消失から考えてみよう。「わたし」が消失した世界が示すのは、『僕だけがいない街』ならぬ“「わたし」だけがいない世界”とは、たとえば、デレク・パーフィットの“遠隔輸送”やドナルド・デイヴィドソンの“スワンプマン”のように、「わたし」のすべての性質を持つ存在者が世界に存在するが、しかし、それは「わたし」ではなく、その存在者と「わたし」との違いは、ただ「わたし」であるか、「わたし」でないかの一点だけであり、そして、その世界に、その存在者は存在するが、「わたし」は存在しないのである。

 つまり、これまでそうであったところの存在者としての「わたし」は、世界にそのまま存在し続けるが、あるとき以降、その「わたし」は「わたし」ではなく、それどころか、“「わたし」である”存在者はどこにも存在しなくなるのである。あるいは、より簡便化した言い方をすれば、「わたし」の死後、「わたし」のそっくりさんが「わたし」に成り代わって、そのまま「わたし」として生きていくようなものであるとも言える。そして、すべての人間の「わたし」が消失するというのは、それが「わたし」だけではなく、すべての人間に生じるということなのである。

 もちろん、「わたし」が消失した世界を想像しているのは、他ならぬその「この」「わたし」である。そのため、真に、「わたし」は「わたし」が消失した世界を理解することも、想像することもできない。ただ、三人称的な俯瞰する神のような視点を借りることで、仮想的に想定することだけが可能なのである。しかし、これは、あくまでも「わたし」に限られる。いわば、「わたし」が現に「この」「わたし」であるからこそ、その否定態としての“「わたし」のいない世界”を想定できるのである。つまり、「この」「わたし」がいてこその“もし「わたし」がいないならば”という反実仮想だったのである。

 ゆえに、それがすべての人間に生じるというのは、言語による安易な一般化・相対化・対自化として、ただ言葉の意味としてなんとなく理解はできるが、真に理解することはもちろん、想像することも不可能であり、想定するのも非常に困難である。それはちょうど、「わたし」以外の他者の死が、「わたし」の世界からのその他者の喪失を意味するのであって、その他者自身の死を、「わたし」の死のように理解することも、想像することもできず、まして、その他者の死後の世界をその他者自身が想像することを「わたし」が想像するのは、二重三重に「わたし」には想定が困難であり、理解できないようなものである。


■クオリアの消失

 次に、すべての人間からクオリアが消失する場合を検討するが、こちらはまた事情が異なってくる。「わたし」が「わたし」であるからこそ「わたし」の消失を想定できたのとは異なり、「わたし」は、「この」「わたし」において存在する「この」クオリアの消失というのが、どのような形であれ、「この」「わたし」には、理解することも、想像することもできない。「わたし」が「わたし」の「この」クオリアを持つからこそ、それを持たない“かもしれない”他者を“想定”することができるが、「わたし」の「この」クオリアを持たない「わたし」は、反実仮想によって想定することすらできないのである。

 たとえば、それまで「わたし」にクオリアがあったのに、あるときを境に消失してしまうという場合でも、厳密にはクオリアの消失ではなく、感覚や知覚の器官あるいは認知機能の異常であり、やはり“そのように感じている”という意味で、それは「この」「わたし」におけるクオリアの変容なのである。また、「わたし」の消失後に、「わたし」の性質のすべてを持つが「わたし」ではない存在者を想定し、その存在者にクオリアがないかもしれないと仮想することはたしかにできるが、しかし、それは、前提から明らかなように、「この」「わたし」ではなく、その意味で、やはり他者なのであり、だからクオリアの消失の想定が可能となっているのである。

 このように、哲学的ゾンビは、他者への想定としてはじめて意味を持つ。現に、デイヴィッド・チャーマーズの現象意識を欠いた哲学的ゾンビのオリジナルの議論も、それに続く議論も、類似の議論も、たいてい二人称の他者にかんするもののはずである。つまり、哲学的ゾンビとは、一人称の内省や直観にもとづき、人称的・存在論的断絶から一人称の「この」「わたし」とは違うかもしれない、あるいは、もし他者が「この」「わたし」のようでなかったならばという形での問いなのである。そして、ここから分かるように、クオリアは絶対的に一人称の概念である。つまり、一人称的内省や直観にもとづいて、それぞれの一人称たちが、それぞれに内省し、直観し、“うん。そうだ”と同意する形で、それのみによって形成されているのである。

 このように、クオリアは、それぞれに断絶された一人称がそれぞれの一人称的内省や直観にもとづき、また、哲学的ゾンビは、そのような一人称が他者に対する想定としてはじめて有意味となる。つまり、「この」「わたし」の一人称性から出ることはできず、クオリアはその内でのみ存在する。ゆえに、“「この」「わたし」はクオリアのない哲学的ゾンビである”という言明は、「わたし」にはそれがなく、(「わたし」の外に出て)他者にこそそれが正当にあるというような主張(認定)は、文法(人称)的に不可能な背理であり、語用として不適切であると言える。

 つまり、「わたし」は、“「わたし」の感じている「これ」を、他者は感じていないかもしれない”と言えても、これを単純に言語表現としてひっくり返した“「わたし」の感じていない「これ」を、他者は感じているかもしれない”とは言えず、想定としても意味不明なのである。「これ」は、常に、具体的なものであり、「わたし」において、「わたし」と密接に結び付いたものである。そして、その「これ」の否定態は、あるいは止揚された「これ」は、「この」「わたし」では“ない”他者に対しては可能でも、「この」「わたし」には不可能なのである。前者は人称的・存在論的断絶に則した文法的に自然な懐疑であり、後者は文法に反した不自然な懐疑なのである。

 ただし、“「わたし」が感じていない「何か」を、他者は感じているかもしれない”と述べることはできる。もちろん、このとき、この「何か」を「これ」のような具体的なものとすることはできず、「何か」が何なのかは決して言えず、それは「わたし」にとって、既知の「これ」に対して、あくまでも未知の・未知であり続ける「何か」なのである。その限りで、このような想定は有意味である。当然、クオリアは既知の「これ」であって、未知の「何か」ではない。しかし、この未知の「何か」を想定する場合も、よくよく考えてみれば、もともとの哲学的ゾンビや逆転クオリアの亜種でしかない。人称的・存在論的断絶によりこれらは検証不可能であるが、その当の断絶からこれらの想定や問い(懐疑)が生じているのである。

 蛇足ながら、念のため、さらに付言しておくと、他者論の文脈で問題となるような、他者の行動やふるまいから「わたし」にはなく、他者にありそうな感覚を推量する、あるいは、「わたし」が経験していないことを他者が経験しているのを見聞きし、そのときの感覚を推量するというような、状況の差異から付随して生じる内面の差異が問題なのではない。ここでは、純粋に内面性が問題となっているので、同じ状況で、一見、同じようにふるまっているにもかかわらず、“「わたし」の感じている「これ」を、他者は感じていないかもしれない”、あるいは“「わたし」が感じていない「何か」を、他者は感じているかもしれない”というように、外的な条件を統一し、そのうえでも生じているかもしれない内面の差異が問題なのである。

(さらに付言すると、今回は、時制という人称とは別の文法は考慮に入っていない。“「わたし」の感じていない「これ」を、他者は感じているかもしれない”の「これ」を、「わたし」が過去たしかに感じていた既知のものだが、いまや「わたし」にはなく、感じることができなくなり、しかし、他者はその「これ」を感じているかもしれないと想定することは可能である。時制による現在と過去の差異、時間による変容により、「この」「わたし」には不可能だった「これ」の否定態、止揚された「これ」が、可能となっているのである。しかし、前述のように、クオリアの消失をクオリアの変容のうちと考えるならば、あくまでも感覚・知覚する「いま、ここ」の「場」に引き付けるならば、いまや感じていない「これ」を、“ない”ものとして今感じている、あるいは、想起という別の形で今感じている、とすることもでき、それらをまとめて「これ」とみなすことも可能である。)

 こうして、すべての人間からクオリアが消失するというのは、あるときまで「この」「わたし」と同様であったのに、あるとき以降、「わたし」である存在者以外のすべての人間が、「この」「わたし」だけを例外として、「この」「わたし」のようではないかもしれないという形の想定でのみ理解できると結論付けることができる。

 しかし、それはまったく内面におけるものなので、前述のように、外的な行動やふるまいとして何か違いが生じるわけではなく、何かの徴候から推量できるわけではなく、つまり、認識論的な差として生じるものではない。すなわち、機能面での違いではないので、クオリアの有無によって外的な出来ること・出来ないことの差が生じることはない。だから、冒頭で述べたように、哲学的ゾンビであっても、『ハーモニー』をクオリアがあるフリをして書くことも読むことも可能なのである。それどころか、哲学的ゾンビですら、“本当は”一人称の内省や直観がないにもかかわらず、クオリア概念の同意形成に参加してくる・している“かも”しれず、それは、まったく可能であり、そして、その“虚偽”を見破ることは、人称的・存在論的断絶による検証不可能性ゆえに、決して、絶対にできないのである。「わたし」の「これ」を感じているのも、また、そのことを知っているのも、当の「わたし」だけである。そして、それぞれの当人がその当人自身のみを保証するのであって、そのことを、そのまま一般化することはできない。つまり、クオリア概念に同意し、その議論に参加することで、その人にクオリアがあるということが公共的に保証されるわけではないのである。

 ようするに、“「わたし」の”他者に対するそのような“想定”は、他者の行動やふるまいに関係なく、それがいかなるものであっても、できてしまうということである。また、同じ理由から、他者が哲学的ゾンビ“ではない”、「わたし」と同様である、ということも検証不可能である。さらに、前述のように、クオリアの有無以前に、それにかかわらず、“私はクオリアのない哲学的ゾンビである”と“正直に”告白することすら、言明として不可能であり、不適切なのである。それゆえ、あるとき以降、「わたし」以外のすべての人間のクオリアが消失し、哲学的ゾンビになったというのは、それ以前と以降とで何か感じられる・認識できる違いがあってことではなく、まさに根拠がない・ありえないということで、独我論と類似の、まったくの「わたし」の妄想ということになる。

 このように、「この」「わたし」を例外とし、そして、認識論的根拠のない妄想ということであれば、すべての人間からクオリアが消失するというのは、それを理解可能として良いのであれば、理解可能である。


■断絶、裏返し、変質:哲学的自作自演

 ついでに付言しておくと、この記事で書かれている「この」「わたし」とは、宙に浮いた誰でもないなどということはありえず、当然、このブログを書いている「この」「わたし」のことである。そして、ブログを書くということは、読者を想定し、その読者自身の「わたし」に読みかえてもらうことを期待している。ゆえに、記述として有意味となっているのだが、しかし、それは「この」「わたし」を例外として可能となるクオリアの消失という事態、いや、それ以前に、そもそもクオリアという概念自体が、比喩的な表現となるが、一人称(書き手)から二人称(読み手)へ、その二人称は二人称自身の一人称へと人称的・存在論的断絶を飛び越えて裏返し、その一人称の開けから確認してもらわないといけないのである。

 クオリア概念の同意による形成とは、このような事態なのであるが、まさにそこに、“裏返し”による変質の可能性が生じ、そして、くり返し述べているように、その変質は検証不可能である。いや、ある意味では、一人称から二人称自身の一人称へ“裏返し”された時点で、元のそれとはすでに異なるという点で変質であり、同意による形成はこの変質を前提とするとさえ言えるのかもしれない。ここには、人称的・存在論的断絶による問題の生成と、その問題の解決の原理的不可能性というアポリアがあるが、それはウロボロス的な構造をしており、つまり、哲学的なある種の自作自演である。

 また、このような欠陥は、一人称の内省や直観からの合意形成に頼るがために生じるのだが、そのような問題を抱えた概念はクオリアだけではない。意識、志向性、自由意志などなども同様である。このような本質的に私秘的なものに頼らざるをえないのは(いくら“超越論的”、“先験的”といった概念を導入して回避しようとしたとしても)、観念論や経験論と呼ばれるタイプの哲学の弱点であると思われる。

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