連載「歴史の証人-写真による収蔵品紹介-」
江戸の食べ物屋ランキング
美食ガイドとして世界的に有名な『ミシュランガイド』の東京版がはじめて出版されたのは二〇〇八年のこと。星のついたレストランの総数がパリをはるかに上まわるものであったことは世界中を驚かせた。評価の手法に対する疑問や、そもそも飲食店数が世界最大であるという母数の大きさの問題も指摘されたが、バブル経済崩壊後の長い経済不況に苦しむ日本人にとって、失いかけた自尊心をくすぐる材料となったことは間違いない。ランクインした名店に足を運ぶ余裕もない薄給の身には指をくわえて見ているだけのものであったが、昨年暮れに出版された二〇一六年版でラーメン店が一つ星を獲得したとなると、俄然身近な話題に感じるから現金なものである。
高級なフレンチや懐石料理だけではなく、俗にB級グルメと呼ばれるラーメンにまで心血を注ぐ日本人の食へのこだわりは、欧米人にはいささか不思議なものに映るのかもしれない。一月二〇日の「ニューヨーク・タイムズ」電子版のグルメ記事では、日本のことをfood-obsessed nation(食に取り憑かれた国)と表現していたが、この遺伝子はすでに江戸時代後期には発現していたようだ。『ミシュランガイド』はフランス発祥のフード・ランキングであるが、江戸時代はなんでもかでも番付にしてしまう「番付文化」の時代であり、食い物やを格付けしたものも多数出版されている。
江戸末期の「八百善御料理献立(やおぜんおりょうりこんだて)」(図1)は、相撲の番付に模して江戸の料理茶屋(今日でいう料亭)をランキングしたもの。四代目主人栗山善四郎(くりやまぜんしろう)が『江戸流行料理通』という料理書まで刊行したことでも知られる江戸屈指の名店八百善が勧進元となって、江戸の文芸作品にもしばしば登場する有名店が行事や上段に位置づけられている。
「即席会席 御料理」(図2)は幕末の文久三年(一八六三)の刊。やはり料理茶屋を番付にしたもので、前図とは異動もあるが、勧進元や行事に名を連ねる店には共通するものも多い。
こうした江戸の有名な料理茶屋は、天保(一八三〇~四四)後期の歌川広重の「江戸高名会亭尽(えどこうめいかいていづくし)」(図3)のように錦絵に描かれることも多く、江戸の名所としても認識されていたのだろう。
当館の所蔵品は無年紀だが、文化一二年(一八一五)版の存在も知られている「江戸の華名物商人ひやうばん」(図4)も相撲の番付風に江戸の食い物屋をランキングしたものだが、最上段を占める高級料理茶屋はともかく、二段目から下には鮨屋や蕎麦屋、鰻屋、茶漬け屋といった店が目につき、最下段には麦飯や甘酒、居酒屋といった庶民向けの食い物屋が多くを占めており、当時の江戸の人々の食に対する関心の広さを物語っている。
「新版御府内流行名物案内双六(しんぱんごふないりゅうこうめいぶつあんないすごろく)」(図5)は、絵双六の一種である。サイコロを振り、マスの中に指示された数字にしたがってコマを進める「飛び双六」と呼ばれるタイプで、この種のものは「上がり」のマスが紙面上部中央にあり、マスの中に描かれる事物も紙面の上にいくほど価値が高くなっている。この絵双六では、上の方に江戸の名だたる料理茶屋が並び、下のマスほど蕎麦屋や団子屋、麦飯屋など、簡便な料理を供する店になっているのは、上述の番付と同じである(図6)。もちろん、絵双六になるほどだから、当時としてはいずれも有名な店であったことは間違いない。
下から三段目にある「本郷」の「らんめん」は、手の込んだ引札(宣伝ビラ)も出している(図7)。天保から安政にかけてのさまざまな引札や商品の袋、寄席の半券などを貼り込んだ『懐溜諸屑(ふところにたまるもろくず)』という画帖にあるもので、「閏五月十六日より」とあるから、弘化三年か安政四年のものだろう。江戸時代の蕎麦は俗に「二八蕎麦」で一六文などと理解されているが、この品書きを見ると、安いあんかけうどんやしっぽくにゅうめんでも三二文で、鯛麺ともなると二百文よりということは現在の貨幣価値に直すと数千円に相当するから、有名店だと到底下直な食い物ということはできないだろう。
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蕎麦屋といえども名の知られた店ともなると、名所絵の中にも描かれる。歌川広重が描く「名所江戸百景(めいしょえどひゃっけい) 日本橋通一丁目略図(にほんばしとおりいっちょうめりゃくず)」(安政五年・一八五八 図8)の画中、有名な呉服小間物問屋の白木屋の隣に描かれた「東喬庵」は、嘉永元年(一八四八)刊の江戸のグルメ案内『江戸(えど)名物(めいぶつ)酒飯手引草(しゅはんてびきぐさ)』に「東橋庵藤蔵」とある蕎麦屋である。通一丁目という一等地に位置するからには、それなりに値の張る店だったに違いない。この図では出前を運ぶ男の姿も描かれ、すっかり都市風俗の中に馴染んでいる。
なお、同書に出てくる蕎麦屋の数は実に二四軒にものぼる。東京のうまいラーメン屋を制覇しようと意気込む現代のラーメン通よろしく、評判の蕎麦屋を食べ歩く江戸っ子も少なくなかったのかもしれない。
大久保 純一(本館研究部/日本美術史)