経  歴  (3/3)

前ページまでのあらすじ 助教授になった私は...

平成8年 北大を定年退官後に北海道工業大学(道工大.現在は北海道科学大学)に勤務されていた加地教授が,そちらでもまた定年となったので,その後任の教授として,私が同大学に勤務することとなった.

よく聞かれるのだが,北大は国立で道工大は私立なので,この異動は,北大を退職し,退職金を受け取って,新規に道工大に就職したということになる.企業などでの一時的な「出向」とは異なる.

この年,LISPに関する講演会が東京であったので参加したが,そのときに聞いた1本の講演がプログラミング言語 Java を紹介するものだった.Java が生まれたのはこの前年の 1995 年とされているので,私は Java が生まれた翌年にはそれを学んだことになる.Javaを開発した重要メンバーの中にLISPを開発した技術者もいたので,Javaは見かけはLISPと全然違うが,重要なコンセプトをLISPから引き継いでいる.

ちょうどこの当時,Windows95の普及とともにパソコンが普及し,さらに,インターネット(WWW)が爆発的に普及し始めていた.しかし,私の学科の教授で,NTTから採用されていた通信専門の教授は,あんなもの(インターネット)はすぐにすたれる,と言っていた.NTTはそれまでこれと同様の優れた技術を開発していたのに,まったく普及していなかったからである.この教授の誤算は,インターネットのコンテンツにはポルノがあるのに,NTTのシステムにはなかったことであり,これが判断ミスにつながった.



平成14年 公募に応募し,採用されたので,6年ぶりで北海道大学のキャンパスに戻った.

平成16年 全国の国立大学が法人化され,同時に,北大に情報科学研究科が新設され,私の所属はコンピュータサイエンス専攻数理計算科学講座知能情報学研究室になった.大学が国立ではなくなり「法人化」されたということの意味はピンとこなかったが,給料から「失業保険掛け金」が天引きされていたのでピンときた.つまり,公務員は失業することはないが,北大教職員には失業の可能性があるという意味だ.



平成18年 10月より複合情報学専攻複雑系工学講座表現系工学研究室に移籍.(これも公募に応募して採用されたもの.) 私がいなくなった後,知能情報学研究室の後任教授はしばらく空席だったが,最終的には東大柔道部出身の大酒豪,杉本雅則教授が採用され,古川正志教授の定年退職後に首位の座を守っていた小野哲雄教授は,情報系教授酒豪ランキング第2位に甘んじることとなった.

表現系工学研究室のルーツをたどると,初代教授は,日立製作所システム事業部長のときに札幌市の地下鉄東西線を作った
竹村伸一教授.第2代は,電力を勉強していたのにソフトウェア工学の専門となり,ビールは札幌クラシックしか飲まない宮本衛市教授(その後,はこだて未来大学教授).

北大のコンピュータを初めてインターネットに接続して,北大ドメイン(hokudai.ac.jp)を作り上げたのは,この研究室の三谷和史助手(現在,小樽商科大学准教授).また,現在情報基盤センターでサイバーセキュリティの責任者をしている南 弘征教授も,別な研究室でそのころからこのあたりをぶらぶらしていた.

第3代教授は人工知能の専門家,大森隆司教授.その後,玉川大学に転出後,脳科学ブームのときにテレビに出てクイズを出題していたこともあったが,真摯な研究者なので,テレビでは茂木健一郎氏には勝てなかったようだ.

私は第4代目となるが,ソフトウェア工学人工知能にまたがる専門なので,宮本先生と大森先生の両方の特徴を兼ね備えた研究室となる.また,准教授として機械学習などの専門家,小山 聡,助教として佐藤晴彦(現在,北海学園大学准教授)を採用.佐藤晴彦は私の教え子で,プログラミングの天才であり,私は彼が書いたプログラムのバグ(誤り)をまだ1つしか指摘したことがない.



平成26年 私は平成22年度から4年間にわたり,情報科学研究科長であったが,その任期最後の仕事として,研究科を改組して情報理工学専攻を設置し,自分の研究室名も知能ソフトウェア研究室に変更し,現在に至っている.

[続く]