昭和53年 4月 工学研究科
情報工学専攻に入学.研究室は引き続き,系統工学講座.この講座は電気工学専攻と情報工学専攻の両方に定員があり,私は後者.
得意科目はソフトウェア系の科目.レポート課題で同期の友人達が作成したプログラムの実行時間が3時間を超えるのに対し,コンパイルも含めて数十秒で実行が終了するものを作成し,
田中 譲講師(その後,教授までなられ,定年退職)にほめられる.ちなみに,プログラミング言語は
ALGOLを自学して使った.(Cはまだ発明されていない.)
同期には,
金子俊一(現在,北大教授),
石井 裕(NTTを経て,現在,MITメディアラボ教授)などがいる.
修士1年(M1)のときには,
山口 忠講師の指導でコンパイラ・コンパイラ(プログラミングの経験がある人は,C言語などでプログラムを記述し,それをコンパイラというプログラムで機械語に変換して実行する.コンパイラ・コンパイラは,自分の作りたいプログラミング言語の設計情報を与えて実行すると,そのプログラミング言語用のコンパイラを出力するプログラム)の基礎を学び,自分でコンパイラの中核となる部分くらいは作成した.しかし,その後,山口先生は室蘭工業大学に転出されることとなり,この研究テーマはM1でおしまい.
最近,押し入れの中味を妻が整理していたら,「
酷文学」という同人誌が出てきた。私が
高校2年生のときに,授業中に執筆していた
長編推理小説が,6年間の時を隔てて,私がM1だったその冬に,そこに掲載されていたのであった。そういえば,高校生のときは,もし将来エンジニアになれなければ,医者か弁護士になろうと思っていて,もしそれも無理なら
小説家になろうと思っていたのであった。この小説に興味ある方は,下記のタイトルをクリックし,ダウンロードしてお読みいただきたい。
栗原正仁著:"
黄色い館(連載第1回)",酷文学,藤女子大学美術部出版班,vol.3,pp.67-84(1978年12月)
修士2年(M2)のときには,加地教授と玉川大学の中田勝啓教授の指導のもと,
マルコフ再生過程を用いて,新交通システムのトラフィック解析を理論的に行うとともに,数値計算やシミュレーションもやってみた.計算機は大型計算機センターという高額なのに使いずらいシステムをお金を払って使用し,数値計算は
FORTRANで,シミュレーションは
GPSSでやった.これが修士論文となり,後に学位論文の主要部分となる.
就職は2年間保留していた国家公務員で,
特許庁に内定していた.合格者相手に11月1日に一斉に採用面接を行うのだが,午前の第一希望面接でほとんど決まるので,第一希望を高望みしておいて午後の第二希望を滑り止めと考えるのは甘い.面接後,「
結果は後日連絡します」などと言われて退室し,交通費を受け取るために別室で待つのだが,じつは内定者はすぐ別室から呼び出され,
内定を告げられ,内定受諾書に署名させられた.
昭和55年 修士課程修了.たまたま所属している研究室の助手ポストが空いたということで,特許庁との約束を破って,4月からそのまま
助手として採用される.経済的に自立できたので,5年間付き合ってきた彼女と
結婚.
この頃,加地教授の紹介で,ある大学の情報系基礎科目の非常勤講師を務めていたが,女子学生から
愛を告白されたことも.
助手というのは,なんだ,かんだといろいろな研究を請け負う.(私の研究論文のリストを見れば一目瞭然.)
人工知能の研究をしはじめたのもこのころ.とりあえず人工知能用プログラミング言語と呼ばれていた
LISPを七転び八起きでマスターし,これがその後わかりやすいLISP入門書の執筆につながる.
C言語がこのころ米国より伝来.聖徳太子の保護のもと,普及する.C言語のコンパイラを購入せよとの加地教授の指示で業者に当たってみるが,「
Cってなあに」という時代だった.結果的に,私は日本で最初にCでプログラムを書いた100人以内の中には入っていると思う.
ちなみに,こんなジョークが有名だった.
電車でコンピュータの本を読んでいたら,周りの女子学生が,私をいやらしいものを見るかのように見ている.
気がつくと,その本は, 「初めてのC」 だった.
その当時,中高生の間で,異性の友達との関係の進み方を,
A→B→C という隠語で分類していた時代背景を知らないと,この「落ち」は現代では理解できないかもしれない.数年前のパーティで,このジョークをいまだに鼻高々に披露したおじさんに遭遇したときには,口に含んでいた,まずいワインを吹き出してやろうかと思った.
ともあれ,LISPを学んだあとでは,やはり
Cはつまらない. じきにやめた.加地教授の命でこのころ学んだプログラミング言語は他に
Pascal,
FORTH,
APL,
Modula-2,
Smalltalk,
Prolog がある.
C++ からは,何とか逃げ切った.
平成元年 講師に昇任.このころはちょうど情報工学科ができたばかりで,一期生がそろそろ教養部(いまでいう総合教育部)からこちらの専門に上がってくるころだった.一期生としては
山本雅人(現在,教授)がいる.彼は私が何年間か担当していた「記号論理学」でただ一人100点をとったせいか,後に私が他大学に転出しているすきに,新カリキュラムで「記号論理」の担当となった.
この翌年がちょうど
情報処理学会創立30周年記念だということで,そのイベントの一環で,創立30周年記念論文を公募していたので,応募したところ受賞.東京での授賞式に出席して
5万円の賞金をもらうが,飛行機代も同程度かかっていたので汗が出た.当時,マイレージサービスはまだない.
平成2年 助教授に昇任.この時代の研究が質的には最も高い.詳しくは別のページで.
この間に北大の大学院重点化という組織変えが実施され,情報工学専攻が改組される.私の所属は,
複雑系工学講座調和系工学分野となる.
それも,つかの間.そこには,大きな運命の分れ道が待っていた...
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