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沖縄戦体験者の祖母の記憶を楽曲に 沖縄電子少女彩が新アルバム「互いを理解し合える世の中に」

2020-07-08 | ウチナー・沖縄
琉球新報 2020年7月7日 17:00
 沖縄市出身のミュージシャン沖縄電子少女彩(19)がこのほど、アルバム「NEO SAYA(ネオ・サヤ)」(インフォガレージ)をリリースした。ボーナストラック2曲を含む全14曲を収録。税込み2750円。
 アルバム名は、ロックや民謡などをミックスさせた楽曲を収録し一世を風靡(ふうび)した坂本龍一のアルバム「NEO GEO(ネオ・ジオ)」へのリスペクトを込めて付けた。
 表題曲「NEO SAYA」は、沖縄民謡とアイヌ民謡をミックスさせて彩が作詞・作曲・編曲。沖縄戦を体験した祖母の記憶を元に作った「幼い日の記憶」は、戦争体験者の負った悲しい記憶がいつか癒やされることを願う。型にはまらない個性豊かな楽曲が収録され、ワールドワイドな1枚となっている。
 彩は「人間の数だけいろいろな考えがあると思うが、いつか互いを理解し合える世の中になったらいいと思う」と多彩な楽曲を収録した背景を語る。「純粋に楽しんで聞いてほしい」とはにかんだ。
 アルバムの問い合わせはインフォガレージinfo@tincy.jp
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1151538.html

【アメリカ】子どもらに日本紹介 上原さん三線や琉球語伝える

2020-02-04 | ウチナー・沖縄
琉球新報2020年2月2日 14:26
日本文化などを伝える上原美奈絵さん
 国際交流基金が設立した日米センターの日米草の根交流コーディネーターとして、バージニア州のメアリー・ワシントン大学に派遣された那覇市小禄出身の上原美奈絵さんは、学生や子どもたちに日本への関心と理解を深めてもらおうと奮闘している。大学のクラスでは六つのテーマで日本文化を紹介。その一つの「日本伝統音楽」の講義では、沖縄から持参した三線を弾き、沖縄の伝統芸能を紹介した。「日本におけるマイノリティーグループ」の講義では、アイヌ民族と共に沖縄と琉球語についても伝えた。
 大学生だけでなく、地域の小中高校を訪問して日本文化を紹介している上原さん。書道は師範の腕前で、子どもたちにうちわに書を書かせるなど書道の魅力を伝えている。
 異文化理解について「米国ではさまざまな民族の人たちが共に働いている。今の職場でも半分以上は、異文化の人たちだ。一つの文化に融和するのでなく、個に重きを置くのでそれぞれの文化を尊重する異文化理解は自然のこと」と語る。
 米国で学んだのは「大切なのは意見をはっきり言うこと」という。「日本的な言わなくても伝わるだろうは通じない。互いに配慮しながら、なおかつ自分の意見を伝えるのが上手で、クッションのような言葉があると学んだ。最初は戸惑ったが2年目の今は、その環境に慣れ充実した毎日だ」と話す。
 上原さんは「将来は沖縄の若者が外に目を向け、外国で学ぼうという思いを後押しする仕事がしたい」と力強く答えた。
 国際交流基金が設立した日米センターは、2002年から日米両国の相互理解を目指すプログラムの一環として日米草の根交流コーディネーター派遣に取り組んでいる。これまで70人余が米国各地の日米協会や大学などに派遣され、日米交流の懸け橋の担い手として活動している。高い英語力が求められ、筆記試験と日本語と英語での面接で選抜される。 (鈴木多美子通信員)
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1067657.html

沖縄に広がる「台湾に学べ」——台湾展・島嶼音楽祭に見る日台交流の新しい姿

2019-12-30 | ウチナー・沖縄
Nippon 2019.12.29

「台湾に学ばなくては」。沖縄で最近、よく耳にする言葉だ。沖縄は2022年、日本復帰50年を迎える。文化の「日本化」が進む中で、伝統文化を守ろうという機運が高まっている。参考になるのが、島の文化を大切にする隣人、台湾なのである。今秋、沖縄県立博物館・美術館で「台湾展 黒潮でつながる隣(とぅない)ジマ」が開かれ、台湾と沖縄の文化交流イベント「島嶼音楽季(音楽祭)」の開催も重なった。内なる文化の見直しで先を行く台湾に学ぼうとする沖縄の姿から、日台交流の未来が見えてくる。
台湾・沖縄・日本の関係史を明快に解説した「台湾展」
2019年末、心待ちにしていた郵便物が届いた。沖縄県立博物館・美術館で9月6日から11月4日まで開かれた「台湾展」の図録(非売品)。会期に間に合わなかったのは残念だが、それだけ手をかけたのだろう。台湾と沖縄・日本の歴史が時代を追って関連付けられ、最後に展示資料一覧の写真が付く。日本語・中国語の併記には、日台で読んでほしいという思いがにじむ。序章「台湾の沖縄関係資料について」で、館長の田名真之が『隋書』の「琉求伝」に触れて「『琉求』は沖縄か台湾か、古くから論争があり、台湾説が有力と思われるが決着は付いていない」と指摘する。論争の行方はともかく、台湾と沖縄が昔から近い存在だったことは間違いない。
図録をめくりながら、展示の記憶がよみがえってきた。会場に入ると、まず狙いを説明した文章が目に入る。「世界がますます狭くなり、多様な言語、多様な文化、多様な価値観が存在する現代社会。その中にあって、昔から交流の深い隣人の本当の姿をまずは知ることから始めてみませんか。台湾は、黒潮でつながっている『隣のシマ』なのですから」
入場者が見入っていたのは、横幅16メートルの「台湾・沖縄・日本関連略年表」だった。それを見ると、17世紀初頭に薩摩が琉球に侵攻したころ、台湾ではオランダの支配が始まっていたことが分かる。そして日本の明治維新後、台湾出兵のきっかけは、宮古島の船が遭難して台湾に漂着し、乗組員が殺された牡丹社事件がきっかけだった。その後、琉球王国は解体されて沖縄県として日本に編入され、台湾は日清戦争後に日本の植民地になり、沖縄から渡る人も増えていく。太平洋戦争では沖縄戦のあと日本が降伏し、沖縄は米軍統治下に入り、台湾には国民党軍がやってきた……。私は大学で日本の植民地史を学び、新聞記者として沖縄や台湾の取材を続けてきたが、台湾・沖縄・日本の関係史をここまで分かりやすく図解した年表を見たことがない。
最後のコーナー「沖縄の湾生」にも感心した。「湾生」というのは戦前、日本統治下の台湾に渡った官吏、会社員、商人、漁民らの子どもとして現地で生まれ育った日本人のことだ。その人々が台湾のことを語るビデオが流れていた。例えば1927年に台中で生まれた川平朝清は、日本が戦争に敗れる1945年まで台湾に住み、戦後は沖縄へ。沖縄放送協会初代会長、昭和女子大学教授などを務めた。タレントのジョン・カビラ、川平慈英の父親でもある。日本の植民地だった台湾では「支配者側」、それが沖縄に戻ったら「被支配者」。初めて差別の構造や台湾人の気持ちが分かり、「いい教訓だった」と振り返る。今度の台湾展については「沖縄の人も沖縄一点主義にならずに、やっと台湾に気が付いてくれたかという気持ちでいっぱいです」。
生存者のビデオ証言で締めくくることで、展示「物」が証言「者」にリレーされて現在につながったかのようだった。この展示を企画した学芸員の久部良和子は「歴史の記録の最後に、記憶を置こうと思った」と語る。「川平さんの証言を聴くと、台湾も沖縄も歴史に翻弄されてきたことが分かる。日本が一流で、沖縄は二流、台湾は三流といった差別感を払拭することが出発点でしょう。今はむしろ、台湾の方が進んでいます。台湾が元気なのはなぜかと考えると、言葉と文化。台湾語を守り、先住民族の文化も大事にしている。台湾人だという意識、自信がエネルギーになっている。台湾展には、もっと台湾から学ぶべきだというメッセージを込めたつもりです」
久部良は琉球大学3年のとき、教授に連れられて初めて台湾に行った。「琉球史をやっていた自分がこんなに近い台湾のことを知らなかったことに衝撃を受けた」という。その後、台湾大学に留学し、文化人類学を学ぶ。「原住民博物館」の立ち上げなどに関わったあと、沖縄に戻って県公文書館の専門員になった。国立劇場おきなわを経て県立博物館・美術館に移って3年目、2020年春に定年を迎える。その直前にライフワークの集大成と言える台湾展を無事に終えたことになる。
台湾・沖縄で進む新しい文化交流の形
台湾展と会期が重なった「島嶼音楽季(H.O.T Islands Music Festival)」は、2018年に台湾で行われた5回目の模様をすでに報告した。Hは花蓮、Oは沖縄、Tは台東の頭文字で、台湾東部と沖縄の文化交流イベントとしてすっかり定着した。6回目は沖縄の番で、2019年9月19日から27日まで開かれた。台湾と沖縄で1年ごとに交互開催という試みもユニークだが、音楽を入口にして生活文化まるごと交流へと広げ、深めていく活動が軌道に乗った感がある。「隣人の本当の姿を知ろう」と呼び掛ける台湾展に通じる姿勢と言えるだろう。

2019年9月23日、沖縄県那覇市で開催された「島嶼音楽季(H.O.T Islands Music Festival)」の「島嶼音楽会」フィナーレ(筆者撮影)
台湾と沖縄から集った「音楽人ワークショップ」「島嶼音楽会」のあと、「地域訪問と文化体験」が開催された。沖縄県工芸振興センターを訪ねて紅型などの製作過程を見学したり、八重瀬町の具志頭歴史民俗資料館で旧石器時代の人骨化石「港川人」の発見までの経緯を説明してもらったり。「港川人はどこからやってきたの?」のコーナーでは、「2万年前、3万年前から、太平洋沿岸の地域で人々の行き来があったのかもしれない」という説明に、台湾と沖縄の近さを改めて感じた人が多かったようだ。7月には「3万年前の航海」再現を目指した丸木舟が、台湾東海岸から200キロを超える距離を航行して与那国島に漕ぎ付くことに成功したばかり。「隣人を知ろう」として、自らのルーツを考えることにつながるのが文化交流の面白さでもある。
島嶼音楽季の関連企画「島嶼工芸展」には、台東県の石山集落が伝統を復活させたアミ族の「月桃織」や、花蓮県のガヴァラン族の「バナナ織」などが展示されていた。島嶼音楽季を主催する「国立台東生活美学館」の李吉崇館長は、同じ建物内で開かれている台湾展を見学したあと、「年表を見て、台湾と沖縄がこんなに密接な関係があったのかと改めて驚くとともに、私たちがやってきた島嶼音楽季は間違いではなかったと確信した」とうれしそうだった。「交互に続ける基礎はできた。花蓮・台東は政府中心に民間を引っ張る形で官民一緒に議論、実行する組織ができているが、沖縄は民間中心。民間の力がしっかりしていれば、政府はサポートすればいいだけ。沖縄がそういう方向になって、交流が深まっていけば」と期待を込めた。
沖縄側のキュレーターで音楽プロデューサーの伊禮武志によれば、沖縄側行政の協力は、まだ台湾とバランスが取れていない。民間も力があるとは言いがたい。伊禮たちは沖縄で7月、民間でよりスムーズに継続した交流をし、アジア・島嶼地域の懸け橋となり、国際的なネットワークの構築を図るための「島嶼交流ネットワーク準備室」(仮称)の立ち上げに向けた説明会を開いた。「まずはネットワークをつくり、台湾に頼っている現状を変えていきたい」。そう語る伊禮は「一番近い外国だから」と台湾に通い始め、沖縄の文化を紹介するうちに現地に移住するまでになった。「台湾の特に東海岸は第二の故郷。人々がおおらかで昔の沖縄のような気がします」
島嶼音楽季に5回目から参加している沖縄のジャズサックス奏者、こはもと正たちは10月26日、南城市の野外ジャズ・フェスティバル「Jazz in Nanjo」と「宜野座村祭り」に台湾からブヌン族の母娘6人グループ「小芳家族」を招いた。1年前の島嶼音楽季で歌声を聴いて「ジャズっぽい。沖縄の人にも聴かせたい」と感動したからだ。宜野座の小学校や中学校の合唱コンクールにも参加した。12月14日には、台東市内で「Okinawa Night in 鐵花村」が開かれた。こはもとや、島嶼音楽季に2年連続で参加した沖縄民謡の仲村奈月らが参加。伊禮が仕掛けた「ミニ島嶼音楽季」で、パイワン族の集落訪問なども島嶼交流ネットワーク準備室の活動として実施された。
行ったり来たり。2020年の島嶼音楽季は台湾の番だが、双方で進む「島嶼プラットホーム」構築の動きを足掛かりに、沖縄でも何らかのイベントを催す方向だ。
明らかに新しい文化交流の形が、台湾・沖縄に着々とできあがりつつある。
バナー写真=「台湾展 黒潮でつながる隣(とぅない)ジマ」で横幅16メートルの「台湾・沖縄・日本関連略年表」に見入る入場者(沖縄県立博物館・美術館提供)
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g00790/

<金口木舌>「カムイ」と「ちゅら」

2019-12-20 | ウチナー・沖縄
琉球新報 2019年12月20日 06:00
 いろりの中に住む老女は6枚の衣をまとい、黄金のつえを持っている。アイヌ民族に伝わるアペフチカムイ(火の神)の姿だ。クマなどの動物から疫病に至るまで、自然界のものはカムイ(神の宿る物や場所)と恐れられる
▼寒い北海道で暮らす人々にとって暖かさをもたらす火は尊い存在だ。アペフチカムイは文字を持たないアイヌ民族が口承した叙事詩ユーカラに登場する
▼国立天文台は地球から410光年離れた太陽系外の恒星に「Kamui(カムイ)」、その周りを回る惑星に「Chura(ちゅら)」と名付けた。今年が国際先住民族言語年であることを考慮し、日常的に使う人の少ない言語に焦点を当てたという
▼アイヌ語とともに国連教育科学文化機関(ユネスコ)が消滅危機言語に指定しているのがしまくとぅば(琉球諸語)だ。国連の人種差別撤廃委員会は、しまくとぅばの回復などを日本政府に勧告している
▼「しまくとぅばの日」は制定されたが、県も国もしまくとぅば復興に向けた具体的な施策に取り組んでいるとは言い難い
▼しまくとぅばの継承に取り組む団体は、県に琉球諸語の第2公用語化や学校教育への導入を提言している。法的に可能なら県職員の採用試験にも導入した方がいい。日常や公の場面で土着の言葉が使える環境を県や国が整えれば、日本の豊かさを示すことにもなる。
https://ryukyushimpo.jp/column/entry-1045110.html

【お城探偵】沖縄・首里城火災を受けて 豊かな歴史、多様性映す象徴 千田嘉博

2019-11-19 | ウチナー・沖縄
産経新聞 2019.11.18 07:15
 10月31日未明に発生した首里城の火災は、正殿をはじめ北殿、南殿、二階御殿(ニーケーウドゥン)といった6棟を焼き尽くし、御庭(ウナー)への正門であった奉神門の北側部分などを焼いて、同日昼すぎに鎮火した。まず、沖縄の皆さまに心からお見舞い申し上げたい。そして首里城を守ろうと、懸命な消火活動に取り組まれた方々に感謝したい。
 私もあの朝、ニュース速報が伝える火災の様子を見て涙を流した。首里城は沖縄の歴史と文化を象徴するとともに、日本の城の多様性を物語るかけがえのない存在である。30年もの年月をかけて復元を進めた首里城主要部を火災で失ったことは残念でならない。
 一般に日本の城といえば「本土の城」を思い浮かべる人が多いだろう。日本列島には北海道を中心にアイヌの人びとが築いたチャシがあり、本州・四国・九州には大和スタイルの城、沖縄・南西諸島にはグスクがあった。ひとつの国の、重なり合う時代に、これほど多様な城があったのは世界的にもまれで、城は私たちの国の歴史の豊かさをみごとに反映している。
 グスクは名護市の名護城(ナングスク)のように、もともとは土造りで、14世紀頃に琉球石灰岩を用いた石垣の城へと進化した。同時代の大和スタイルの城は、楠木正成(くすのき・まさしげ)が築いた千早(ちはや)城や赤坂城などのように土造りの山城で、大和スタイルの城が石垣を導入したのは16世紀。日本列島最初の石垣の城は、織田信長や豊臣秀吉のはるか以前のグスクなのである。
 14世紀から15世紀にかけた石垣のグスクの発達は目覚ましく、今見る主要なグスクはこの時期に成立した。グスクは建物配置や石垣の壁で守った点に、東アジアの大陸の城との共通性をもつが、決して大陸の城の模倣ではなかった。
 大陸の山城は土や石の壁で城を囲んで守ったが、壁と城内の平場は一体ではなかった。それに対し、グスクは基本的に城壁とそれで守った城内平場が一体化していて、本州などの大和スタイルの城と共通した。
 つまり、グスクは東アジアの大陸の城と、大和スタイルの城の優れた点を併せ持つ城だったのだ。そして琉球を統一した尚(しょう)氏が、石垣のグスクの集大成として15世紀に首里城を築いた。首里城は安土城や大坂城、江戸城と並ぶ、もう一つの天下人の城だった。
 首里城は正殿に至るまでに、歓会(かんかい)門、瑞泉(ずいせん)門など多数の門を連ねたが、これらは「枡形(ますがた)」と呼ぶ、門と広場を組み合わせた防御施設だった。中枢部を守った連続枡形の防御空間は、江戸城にも認められた。つまりグスクと大和スタイルの城は守りの方法にも共通性も備えた。そして、注目すべきは首里城が江戸城よりもおよそ100年も前に、複雑な連続枡形を実現した先進性である。
 火災で失われた首里城の再建は、決して沖縄だけのことではなく、城を通じて私たちの国の歴史の多様性と豊かさを取り戻すことだと思う。一日も早い首里城の復興を願いたい。 (城郭考古学者・千田嘉博)

【用語解説】首里城
 標高100メートルほどの珊瑚礁の丘の上に築かれた琉球王朝の王府。15世紀に琉球を統一した尚巴志(しょうはし)が付近を首都に定めたころから、現在の規模になったとされる。1879(明治12)年の琉球処分で王国が途絶えた後も建物は残り、1925(大正14)年には正殿が当時の国宝指定を受けた。太平洋戦争ですべての建物が焼失。1958(昭和33)年に守礼(しゅれい)門が復元され、1992(平成4)年以降、正殿などの主な建物が甦った。2000(同12)年に城跡を含む「琉球王国のグスクおよび関連遺産群」が世界文化遺産に登録された。
https://www.sankei.com/life/news/191118/lif1911180005-n1.html

彼女はなぜ、イレズミを焼いたのか? 沖縄女性がタトゥーを「汚い」と蔑まれた悲しい理由

2019-10-14 | ウチナー・沖縄
BUZZFEED JAPAN 10/12(土) 6:04配信
かつて、沖縄の成人女性の大半が「ハジチ(針突)」と呼ばれるタトゥーを入れていた――。
沖縄のハジチと台湾原住民のタトゥーを紹介する企画展「沖縄のハジチ、台湾原住民族のタトゥー」が、沖縄県立博物館・美術館で開催されている。
会場を借りたインディペンデント展とはいえ、タトゥーへの偏見が根深く存在する日本では、公立の博物館や美術館での展示は非常に珍しい。
企画者で『イレズミと日本人』などの著書もある、都留文科大学教授の山本芳美さんは「ここでやらなければ、向こう10年はできない。かつてハジチは若者の文化でもあった。展示を通じて『郷愁のハジチ』というイメージを刷新したい」と語る。【BuzzFeed Japan / 神庭亮介】
水草の花のような美しさ
沖縄や奄美の女性たちが、両手の甲に墨で深青色の文様を施したハジチ。その歴史は、少なくとも16世紀までさかのぼる。
初潮を迎えた印、婚姻の証、あの世へ渡るための「パスポート」…。地域によって様々な意味合いがあったとされる。
山本教授は言う。
「水草の花のようだ〈ミジクサヌ ハナヌ ゴトシ〉と歌に詠まれるほど、美しいもの。女性であるからには、絶対入れなければいけないものだと考えられていました」
「ハジチによって初めて完璧な人間になる。痛みを乗り越えることで出産も乗り越えられ、喜びになるという発想。入れずに死んでしまった場合、不完全でかわいそうだからと、亡くなった女性の手に墨で描いてあげたという話もあるぐらいです」
明治の「ハジチ禁止令」
明治に入ると、日本政府のイレズミ規制が沖縄にも及び始める。
1872年、東京に違式かい違条例(※「かい」はごんべんに圭)が施行され、彫師がイレズミを彫ること、客として入れることの両方が禁じられた。同条例は旧刑法の違警罪(1882年)、警察犯処罰令(1908年)へと引き継がれていく。
1879年の「琉球処分」によって「県」となった沖縄では、内地から時間をおいて1899年にイレズミ禁止を含む違警罪の全法令が施行された。今年は「ハジチ禁止令」から120年の節目でもある。
「内地並みの法律をすぐに適用すると混乱が起こるからと、延び延びになっていましたが、この年にようやく施行された。実質的な同化政策ですね」
塩酸でハジチを焼く
イレズミの摘発は、内地以上に苛烈を極めた。
1899~1903年の5年間、東京での違警罪によるのべ検挙者数は40人にとどまる一方、同期間に沖縄では692人が検挙された。実に17倍だ。
それ以前から野蛮な習俗としてハジチを忌む風潮は広がりつつあり、なかには教師に迫られ塩酸でハジチを焼いた女生徒もいた。
さらに禁止令が決定打となり、タブー意識は抜きがたいものになっていく。ハジチを理由に結婚が破談になったり、移住先の国の日本人社会で非難の対象となり、送還されたりした人もいたという。
「人間としてあるのが当たり前だったハジチが、恥ずかしいもの、隠さなければいけないもの、遅れた社会の遺物のようになってしまった。外的な圧力もあったし、沖縄の人たち自身が内側から『風俗改良運動』を推進し、変えていこうとした面もありました」
「汚い」「気持ち悪い」と蔑まれ
「美」から「恥」への転換。
かつては水草の花にたとえられ、男性から「あんなきれいな手でご飯をつくってくれたら、さぞおいしいだろう」と羨望の眼差しで見られたハジチだが、規制によって「汚い」「気持ち悪い」と疎んじられるようになっていく。
山本さんが注目するのが、「ヤマトンチュ」(内地人)や「アメリカー」(米国人)など、外部の男に「連れていかれる」「妻にされる」という理由でハジチを入れた女性たちの存在だ。
ハジチを入れれば連れていかれずに済む――。
そう考えること自体、ハジチが傍目には「醜く」映るという価値観を、当時の沖縄女性が半ば内面化していたことを意味する。
「女性として綺麗になるために入れていたはずが、『身を守るため』という風に意味合いが変わっていった。ある種の防衛反応ではないかと考えています」
ハジチはおばあの文化?
こうして、ハジチは廃れていった。
専門の施術師は次々に廃業。子どもが友人同士で指にごく小さなハジチを突き合う「ハジチアソビ」と呼ばれる風習が、かろうじて昭和初期まで命脈を保っていたと言われる。
現在でも、「ハジチアソビ」を経験した高齢者はいるものの、完全な形のハジチを持つ女性はほぼ存命していないとみられる。山本さんが調査を行なった1990年代の半ばの時点でさえ、対象者は100歳前後の高齢者ばかりだった。
「ハジチ=おばあの文化」。そんなイメージを変えることも、今回の展示の狙いのひとつだ。
タトゥー用品のサプライヤーから提供を受けたシリコン製の腕に、彫り師が実際に施術することで、若い女性がハジチを入れていた往時の様子を再現しようと試みる。
展覧会のポスターにも、沖縄と台湾のパイワン族の若い女性を描いたオリジナルイラストを使っている。
「現在では、おばあさんが入れているところしか見たことがない、という人がほとんど。でも、ハジチはそもそも若い人たちの文化でもあった。シリコンの展示やイラストを通じて、イメージを刷新したいですね」
異例のタトゥー展
入浴施設でのタトゥー禁止をはじめ、日本社会ではタトゥーに対するアレルギー反応が依然として強い。
公立博物館・美術館での展覧会は大きなチャレンジだが、地元メディアに相次いで報じられ、10月5日の初日から3日間で来場者はのべ1000人を超えた。
開催に先立って運営資金を募ったクラウドファンディングでも、218人から178万円が集まった。
「ハジチを知らなかった」「企画してくれてありがとう」といった声も寄せられており、山本さんは確かな手応えを感じている。
「国内ではどこの美術館・博物館でも、『タトゥー展はあり得ない』という反応が大半で、これまで議論の俎上にもあがりませんでした」
「今回の展示を東京や大阪で観たい、台湾に持っていきたいという声もあがっているので、今後は巡回を目指していけたら。イレズミやタトゥーを語ることすらはばかられる閉塞的な状況に、風穴を開けていきたいです」
山本芳美(やまもと・よしみ) 1968年生まれ。文化人類学者。都留文科大学文学部比較文化学科教授。修士論文で沖縄女性の手のイレズミであるハジチ(針突)を取り上げ、博士論文では沖縄・台湾・アイヌ・日本の各地域のイレズミ史をまとめた。著書に『イレズミと日本人』(平凡社)、『イレズミの世界』(河出書房新社)など。沖縄県立博物館・美術館で11月4日まで「沖縄のハジチ、台湾原住民族のタトゥー 歴史と今」を開催中。クラウドファンディングは終了したが、会期末まで運営資金を募っている。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191012-00010000-bfj-soci

沖縄女性の入れ墨「ハジチ」禁止令から今年で120年 法令で「憧れ」が「恥」に変わった歴史【WEB限定】

2019-08-27 | ウチナー・沖縄
沖縄タイムス 8/26(月) 17:24配信
那覇市の100歳を迎えた女性=1973年9月15日撮影(筆者が白黒写真を「ニューラルネットワークによる自動色付け+手動補正」でカラー化した)
 沖縄にはかつて、女性が手に入れ墨を彫る「ハジチ」の文化があった。1899年、日本政府が入れ墨を禁止したことで、ハジチは「憧れ」から「排除」の対象に変わった歴史がある。禁止されてから今年で120年。専門家は「ハジチを通して、歴史や差別の問題を知ってほしい」と話す。(デジタル部・與那覇里子)
ハジチ禁止令は「文明開化」の一環
 ハジチは、琉球王国の時代から沖縄にあった。ハジチを入れることは、女性として当たり前で、厄払い、婚姻、内地に連れて行かれるのを防ぐなどの意味があった。結婚を前提として突いたハジチには、痛さを我慢するように、姑付き合いも辛抱できるようにとの意味も込められていた。
 ハジチを入れた女性たちの調査をしてきた都留文科大学の山本芳美教授は「『あんなきれいな手でご飯をつくっていたら、さぞおいしかろう』と男性たちがハジチのある女性の手に憧れも持っていました。女性たちは誰が一番美しい仕上がりか勝負もしていました。女性たちもあこがれていたようです」。
 しかし、日本政府は1899年(明治32年)、入れ墨を禁止する「文身禁止令」を出した。山本教授によると、ちょんまげやお歯黒なども禁止された日本の「文明開化」政策の一環だったという。「明治政府は、入れ墨が欧米の人の目に触れることを気にして、庶民の行動を規制しようとしていたことが背景にあると思います」と指摘する。
あこがれから排除の対象へ
 この禁止令を機に、ハジチはあこがれから排除の対象に変わる。山本教授によれば、違反者は罰せられ、学校でハジチをして登校すれば、教師にしかられ、塩酸で焼くようにしたこともあったという。ハジチを理由に離婚されるケースも出てきていた。
 「インタビューでも、『前はすごくきれいな風に見えたけど、今はものすごくきたないね』という言葉がありました。制度によって、価値観がガラリと変わってしまいました」
 ハジチはタブー視され、恥の文化になり、差別を受けることもあった。ハジチを入れた女性はカメラに収まる時、手を隠すため、正面から写ることを避けたという。
世界から見たハジチの位置づけ
 山本教授は、海外のタトゥーの研究者たちが日本の入れ墨について話す時、アイヌの入れ墨と東京の彫り物の話に集中していることを危惧している。
 「アイヌや東京は、英語の論文で触れられていたりするんですが、沖縄は全くない。でも、ハジチほど、調査がされているものもないんです。調査の蓄積や厚みが違う。1980年代、ハジチを入れたおばあさんたちが亡くなろうとしてしたころ、行政が細かく記録を残しているんです。1982年の報告書だけでも読谷村は772人も調査していて、ほかの教育委員会でも調査がされています。世界最大級の規模だと考えられます」
自由民権運動の謝花昇の実の妹=1973年9月13日撮影(元の白黒写真)
 そんなハジチの歴史を見つめ直すため、山本教授は10月から沖縄で「沖縄のハジチ、台湾原住民族のタトゥー」と題した企画展を始める。なぜ、台湾かと言えば、台湾にも原住民族は入れ墨の文化がありながら、沖縄と同じように施術を禁止された歴史をたどったからだ。一方で、台湾ではさまざまな形でタトゥーが復活しつつある。
 「沖縄と台湾の歴史と今から、現代日本のあり方を考えたいと思っています」
生々しさがないからこその企画展
 しかし、ハジチをしている女性がいなくなった今、なぜこのタイミングでの開催なのか。
 「ハジチをしている知り合いや生き証人がいないということは、歴史的な生々しさがない状態です。模様をロマンチックに思うかもしれない。差別の話も冷静に受け入れ、考えられるかもしれない。フラットな状況で、もう一度、沖縄のことを見つめ直したいんです」
 企画展では、ハジチを身近に感じてもらえるように、レプリカも用意した。ハジチは、おばあさんの手の写真しかなく、若い女性の手に入っているイメージがつきにくい。また、黄色人種は、墨を差すと肌では青色になるので、色も青で着色した。
 「急ピッチで準備を進めているところです」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190826-00010000-okinawat-oki

「遺骨を返せ」 京大に持ち出された「琉球人遺骨26体」返還訴訟始まる 京大は争う姿勢(栗原佳子・新聞うずみ火)

2019-05-22 | ウチナー・沖縄
アジアプレス 5/21(火) 11:50配信
球人の遺骨返還を求める初めての訴訟が京都地裁で始まっている。旧京都帝大の人類学者が1929年、沖縄県今帰仁村にある「百按司墓(むむじゃなばか)」から遺骨を持ち出した問題で、子孫ら5人が遺骨を保管する京都大学に返還と損害賠償を求めているもので、京都大側は全面的に争う姿勢を示している。 (新聞うずみ火・栗原佳子)
◆琉球王朝の子孫らが訴え
「百按司墓」は琉球式の風葬墓で、今帰仁城(ぐすく)に拠点を置いた琉球統一前の北山王国時代や、統一王朝を建てた第一尚氏時代の貴族らを葬ったとされる。原告は第一尚氏の子孫の玉城毅さん、亀谷正子さんの2人と、照屋寛徳衆院議員、沖縄出身で琉球民族遺骨返還研究会代表の松島泰勝・龍谷大教授、彫刻家の金城実さんの合わせて5人。
訴状などによると京都帝大助教授だった金関丈夫氏(故人)は子孫や地域住民の了解を得ず、百按司墓から遺骨を持ち出し、26体を「人骨標本」として京都帝大に保管。原告は京都大に返還や情報開示を求めてきたが拒否され、昨年12月、提訴した。
原告側は、第一尚氏の子孫は墓の所有権を有する民法上の「祭祀承継者」と主張、沖縄出身の3人の原告とともに所有権、憲法に基づく民族的、宗教的自己決定権があり、それらを侵害する京都大の対応は違法だとしている。
原告団長の松島教授は、「琉球民族は遺骨を親族の墓で埋葬し、先祖供養の儀礼で祖霊と交流して先祖と子孫との絆を強めてきた。琉球民族にとって遺骨は先祖のマブイ(霊魂)が宿るもの。遺骨そのものが『骨神(ふにしん』として崇拝の対象とされている。博物館の冷たい棚に置かれ、DNA調査で破壊される恐れがあるご先祖の遺骨を我々のやり方で再風葬してマブイ(霊魂)を供養したい。子孫としての義務であり権利」だと訴える。
◆京都大学は「違法な盗掘ではない」と主張
今年3月の第一回口頭弁論で、被告の京都大は、当時の沖縄県庁等から許可を得たことなどを根拠に「違法な盗掘ではない」と主張、請求の棄却を求めた。原告が主張する「祭祀承継者」についても、「百按司墓の祭祀葬祭者は絶えていた」などとした。
これに対し原告側は5月17日にあった第二回口頭弁論で反論、「一族の血縁の人々による『今帰仁上り(ヌブイ)』という聖地の巡拝が行われており、百百按司墓は重要な巡礼地である」などと主張した。
この日は原告の玉城さんの意見陳述も行われた。玉城さんは「何の疑いもなく百按司墓に参拝してきたが、祖先の遺骨がなくなったことを知り、心に穴が開いたような気持ちで手を合わせている。大変屈辱的で虚しい。遺骨の返還は、琉球人の尊厳、誇りを取り戻すこと」などと訴えた。
玉城さんは、国立台湾大(旧台北帝国大)が3月、金関氏が持ち出した33体を含む63体の遺骨を沖縄に返還したことに言及、「琉球人骨を子孫に返還するのが世界の潮流。京都大も台湾大を見習い、先祖の遺骨を返還すべき。遺骨を取り戻し、百按司墓で心安らかに休むことができるようにしたい」とも述べた。
遺骨の持ち出しは、1879年の琉球併合後、警察を含む行政、教育関係の上層部の大半を日本人が占めるという体制下で行われた。
アイヌ民族の遺骨についても同様で、文部科学省の調査では12大学で1600体を超す遺骨が保管されているという。アイヌ民族の遺骨をめぐっては北海道で2件の返還訴訟が提起され、北海道大は和解し、遺骨返還に応じている。
閉廷後、原告らは報告集会を開催。丹羽雅雄弁護団長は「戦後も継続する歴史的、構造的な差別、植民地主義を撃つ訴訟だ」とあらためて訴訟の意義を強調した。(栗原佳子・新聞うずみ火)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190521-00010001-asiap-soci

京都大学が盗掘した琉球人骨を返さぬワケ

2019-04-26 | ウチナー・沖縄
プレジデントオンライン2019.4.25
政府や旧帝大関係者も絶対認めない
明治以降、政府の意向を汲んだ人類学者たちは、琉球やアイヌといった先住民族の墓から遺骨を盗んだ。その遺骨はいまも京都大学などに保管されている。遺族らは返還を求めているが、各大学は最近まで存在すら認めていなかった。なぜなのか――。

琉球人の人骨が盗まれた沖縄本島北部・今帰仁村の風葬墓「百按司墓」。(写真提供=筆者)
京都大が「琉球人の人骨」を返還しない理由
今年3月、台湾台北市の国立台湾大学(旧台北帝国大学)がおよそ90年前に沖縄から持ち出されていた遺骨63体を沖縄県に返還した。
なぜ、国立台湾大学が琉球の人たちの遺骨を多数所有していたのか。その背景には、明治以降の日本において旧帝国大学の研究者らが担った役割を考える必要がある。
台湾大学は遺骨を返還したが、京都大学(旧京都帝国大学)は遺骨を返還していない。琉球民族遺骨返還研究会の松島泰勝代表(龍谷大学教授)ら5人は昨年末、遺骨を保管している京都大学に対して遺骨返還と損害賠償を求める訴えを京都地裁に起こした。
返還を求める遺骨は、京都帝国大学の助教授だった人類学者の金関丈夫(1897~1983年)が、1928~1929年に沖縄本島北部・今帰仁(なきじん)村の風葬墓「百按司(むむじゃな)墓」から研究目的で持ち出した26体である。
原告らは京都大学に情報開示と遺骨返還を求めたが、拒否されたため提訴に踏み切り、遺骨が本来あるべき場所にないため、憲法が保障する信仰の自由や民族的、宗教的「自己決定権」が侵害されたと主張している。
求めた損害賠償は原告一人あたり10万円。金関が墓を管理する親族らの許可を得ずに盗掘し、京都大学が人骨標本の研究材料として権限なく占有している、と訴えている。
文科省は旧帝国大が保管の琉球人遺骨の調査・返還をしてない
この問題を取材してきた琉球新報編集委員の宮城隆尋はこう解説する。
「琉球人の遺骨については、すでに遺骨返還を勝ち取ったアイヌ民族と連帯して活動する市民団代などが数年前から問題視してきました。先住民族の遺骨返還を求める権利は、2007年の国連総会で決議した『先住民族の権利に関する国連宣言』で認められており、欧米各国は近年、先住民への遺骨返還に取り組んでいます」
衆参両院はこの「先住民族の権利に関する国連宣言」を踏まえ、08年にアイヌが「先住民族とすることを求める決議」を全会一致で採択。文部科学省は「北海道大学や東京大学など全国の12大学に1600体以上のアイヌ民族遺骨が保管されている」と発表した。
他方、琉球人が先住民族であることは国連自由権規約委員会が08年に認めており、国連人種差別撤廃委員会も日本政府に対して権利保障を勧告した。ところが、日本政府は琉球人を先住民族と認めておらず、文科省も旧帝国大学に保管されているとみられる琉球人遺骨について調査や返還を行っていない。
「遺骨を収集し、人骨標本とし京都帝国大学に寄贈した」
宮城は琉球新報(2017年2月16日付)の一面トップと社会面、特集で百按司墓から持ち出した琉球人遺骨が京都大学に少なくとも26体、国立台湾大学にも33体の琉球人遺骨が保管されていると報じた。
宮城が続ける。
「いずれの大学も琉球新報の取材に答えていませんが、金関氏の著書に『遺骨を収集し、人骨標本とし京都帝国大学に寄贈した』との記載があります。また、今帰仁村教育委員会の04年の調査報告書にも、『百按司墓から研究目的として持ち出された遺骨が京都大学と台湾大学に寄贈されている』との記載がありました。台湾大学の遺骨は、金関氏が当時日本領だった台北帝国大学医学部教授に就任したことで、同墓や沖縄県内で採取したとみられる遺骨が持ち込まれたのでしょう」
なぜ、アイヌや琉球の人骨は盗掘されたのか
では、なぜ、アイヌや琉球の人骨は盗掘されたのか。宮城は言う。
「アイヌ民族や琉球人の遺骨が全国の大学に長期間にわたり保管されている背景には、人骨を標本として収集することが盛んだった時代の人類学研究をめぐる状況がある。19世紀に欧州で比較解剖学や形質人類学が生まれ、研究者が世界中の人骨の主に頭蓋骨を計測し、比較して人種の違い、進化の道筋を論じる動きが広まりました。受刑者や先住民の骨も研究の対象とされたのです」
アイヌ民族は容姿が欧米人に似ているとされ、研究の的になったことから、許可を得た発掘を含めて明治の初めから100年近くにわたって墓地が掘り返された。
だが現在、こうした当時の研究に学術的意義は見出されていない。宮城がその背景を語る。
「遺骨の収集には多くの研究者が関わり、アイヌと琉球だけでなく全国各地の日本人や朝鮮人、中国人、台湾先住民、東南アジアの先住民なども研究の対象とされました。その成果は、学術誌の論文や一般誌の記事として幅広く発表されました。多くの論文は、日本人以外の体格的な特徴や文化的風習を挙げて、日本人の優秀さを裏づける根拠とした。こうした研究が戦前の植民地主義的な国策を支える役割を果たしたことを、複数の研究者が批判しています」
論文は、アジアの人々と日本人のルーツは同じで、日本人が優秀だから日本が統治する、といった趣旨で、日本の対アジア侵略戦争や「大東亜共栄圏」を正当化する当時の政権側に極めて都合のいい内容だった。
京大が琉球人骨を保管していることを初めて認めた
日本政府は2020年の完成を目指す北海道・白老(しらおい)町の民族共生象徴空間に、全国の大学に残るアイヌ民族の遺骨を集めて慰霊する施設の建設を計画している。他方、アイヌはコタンと呼ばれる集落をつくり、先祖の霊を遺族だけでなくコタンごとに弔う。
多くのアイヌは掘り起こした場所に遺骨を返さず、違う場所に集めることに反発している。「盗んだものは土に還せ」と遺骨返還を求める裁判が道内で次々と起こった。ところが、日本の民法は遺骨の引き取りを遺族(祭祀継承者)に限定し、アイヌが求める集団や地域への返還を認めていない。このことが裁判を長期化させる最大の要因となっている。
宮城がさらに続ける。
「日本の国内法は国際法に追いついていない。近代国民国家や植民地主義が形成されていく過程で、北(アイヌ)と南(琉球)を侵略したことを国家として全く無視し顧みないからこうした矛盾が生じるのです。裁判所は民法に従って返還できないとする判決しか書けない。そうした判決を下すと国際法に反する。だから和解という形で2016年に遺骨が返還されることになりました」
沖縄でも琉球人遺骨の返還を求める動きが広がり、照屋寛徳衆院議員が翌2017年9月、国政調査権に基づき、京都大学への照会を文科省に請求。同大学総合博物館の収蔵室で琉球人骨を保管していることを初めて認めたのである。さらに冒頭でも触れたように、国立台湾大学は今年3月、沖縄から持ち出された遺骨63体を沖縄側に返還した。
「琉球処分」から140年の節目の今年、政府が実行すべきこと
宮城は言う。
「琉球人遺骨の返還問題は、琉球併合や沖縄戦、戦後の米国統治、現在の在沖米軍基地問題などにより、国家によって琉球人の自己決定権が侵害されてきたことと地続きの問題であり、全国各地の旧帝国大学に保管されているとみられる琉球人遺骨の全容が明らかにされ、その全てが返還されるまで人権が侵害された状態は続く。日本政府や旧帝国大学の関係者はこの問題に正面から向き合い、応える必要がある」
沖縄は今年、琉球国が日本に併合された1879年の「琉球処分」から140年の節目を迎えた。
宮城が指摘するように「琉球処分」以降、沖縄の人々は沖縄戦やその後27年に及ぶ米軍統治、米軍基地を抱えたままの本土復帰など苦難の道を歩んだ。そして今、県民投票で7割超が辺野古埋め立てに反対したが、日本政府は民意を一顧だにせず、新基地建設工事を続けている。(文中敬称略)
https://president.jp/articles/-/28508

奄美の風 東京お台場に 朝崎さんらミニライブ タワーレコード企画

2019-04-18 | ウチナー・沖縄
奄美の南海日日新聞 4/17(水) 13:40配信
 東京都江東区の商業施設内にあるCDショップで14日、鹿児島県奄美群島の唄者らによるミニライブが開催された。「アイヌと奄美」と題したCD集の発売記念イベント。CD集に自身の唄が収められている朝崎郁恵さん、森田美咲さん、里歩寿さんが特設ステージで収録曲などを披露した。都内の人気観光スポットお台場に隣接した会場は観光客や買物客でにぎわった。
 ライブを主催したCDショップチェーンのタワーレコード(株)で統括部長を務める真井純也さん(龍郷町出身)は「約10年前に新宿で朝崎さんのインストアライブを企画したのが始まり。昨年は川崎市や鹿児島市で牧岡奈美さん、指宿桃子さんにも出演いただいた。演奏後に聴衆から寄せられた『感動した』『涙が出た』との声がライブ企画の原動力となっている」とイベントを振り返った。
 富山県から来場した40代女性は「偶然聞こえてきた三味線と歌声に足を向けた。説明を受け、演奏が奄美の唄だと知った。私のように予備知識やなじみのない者でも、心で聴き、心で感動することができた。私の中に奄美からの風が吹いた」と興奮を隠せない様子だった。
 ライブ後は今年3月に発売された「アイヌと奄美」(5枚組CD、=アイヌ編31曲、奄美編34曲、コラボレーション編)が販売され、出演者らにサインを求める姿が見られた。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190417-00010002-nankainn-l46

最初に住み着いたのは欧米人、ハワイの先住民だった 「ボニンアイランド」と呼ばれる小笠原諸島

2019-04-14 | ウチナー・沖縄
琉球新報 4/12(金) 14:44配信
 日米に翻弄されてきた太平洋の島<小笠原と沖縄―返還50年の先に>3
 小笠原諸島は英語圏で「Bonin Islands」と表記する。「ボニン」は「無人(ぶにん)」のなまりとされる。長く無人島だった小笠原諸島に最初に住み着いたのは、1830年にやってきた欧米人やハワイの先住民らの二十数人だった。76年に明治政府が領有を宣言し、島民は「帰化人」となる。太平洋戦争後の23年間の米国統治を経て、1968年に日本に返還された。
 「新島民も増えて、新しい文化もどんどん入っている。欧米系島民も負けないようにしないとね」
 小笠原村役場の総務課長、セーボレー孝さん(61)がそう笑ってみせる。1830年に父島にたどり着いた米マサチューセッツ州出身のナサニエル・セーボレーさんの子孫で、5代目に当たる。1968年の返還時に「孝」に改名したが、島民は今も英名の「ジョナサン」や「ジョナ」と呼ぶ。
 小笠原では、19世紀から島にいた欧米人のルーツを持つ「欧米系島民」、明治から戦前に日本本土や伊豆諸島から移住した「旧島民」、68年の返還後に住み着いた「新島民」と便宜上使い分けることが多い。現在では人口の9割が新島民だ。
 欧米の捕鯨船や貿易船が太平洋に進出した19世紀、米国は寄港地を確保しようと日本に着目した。1853年、米海軍のペリー提督は徳川幕府との交渉を前に、琉球や父島に立ち寄っている。父島で対応したのがナサニエルさんだった。セーボレーさんの自宅には、当時ペリー提督とナサニエルさんが結んだ土地売買契約書のコピーが保管されている。
 明治以降は本土や伊豆諸島から多くが小笠原に移り住み、戦前に人口は8千人近くまで膨らんだ。しかし、太平洋戦争で小笠原を占領した米軍が島に居住を認めたのは、欧米系の住民約130人だけだった。
 米統治下で生まれたセーボレーさんは家庭では日本語が中心で、学校では英語を話した。島の映画館で西部劇を楽しみ、独立記念日やクリスマスを盛大に祝う。米国流の生活スタイルだったが「米国人という意識はなかった」という。「ハワイのハワイアン、グアムのグアメニアンのように、島の先輩は自分をボニン・アイランダーと言っていた。僕もそうなのかなと思っていた」
 小笠原で生まれた子どもは小中学校を卒業後グアムの高校に進学した。だがセーボレーさんが10歳だった68年6月に返還が訪れ、生活は日本式にがらりと変わる。学校で教わる内容も「ABC」から「あいうえお」になった。
 返還を機に日本語を学ぶため日本本土に転校してから、セーボレーさんは自身のルーツを強く意識するようになった。太平洋を渡って小笠原に来た祖先は何者だったのか。その足跡を調べ始め、島に戻って役場に就職してからも祖先の出身地を訪ねたり、資料を集め続けたりしてきた。
 返還から半世紀。かつての小笠原を知る証言者は少なくなった。セーボレーさんは「小笠原の歴史は教科書に出てこない。それをしっかり残し、伝えていきたい」と語る。(當山幸都)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190412-00000023-ryu-oki

<書評>大学による盗骨

2019-04-09 | ウチナー・沖縄
北海道新聞04/07 05:00

松島泰勝、木村朗編著
研究利用の問題を告発
評 大塚茂樹(ノンフィクション作家)
 考古学・人類学での人骨の発見は、列島の歴史像を書き換える。近年の沖縄での発見は市民の知的好奇心を揺さぶる。
 一方で、墓を無断で暴くことは犯罪である。最大の屈辱を関係者に与えることになる。
 「一将功なりて万骨枯る」という実態が世の通弊として存在している。だが骨は沈黙し続けない。時に疑義を呈するのだ。
 このように本来はありえないことが、あたかも現存するかのような緊張感を醸し出す、衝撃力ある1冊だった。
 キーワードは民族差別と植民地主義。骨に対するゆがんだ対応とそれらが連関していた。道内ではアイヌ民族からの告発が長年報道されてきた。だが全国でこの主題が広く知られているとはいえない。
 本書はアイヌ民族の遺骨返還問題のほか、琉球、台湾、朝鮮ほかで墓を無断に暴いて、埋葬品とともに骨を持ち帰った学者たち、その骨を今も所蔵し続ける公的機関の責任を告発する。
 愚かな一部研究者の所業ではない。偉大な功績を持つ人が問われている。人類学の金関(かなせき)丈夫、解剖学の小金井良精も代表的な存在で、著名人が数多い。
 各地で遺骨を遺族に返還せよ―と提訴されている。法律の問題以前に、この主題は日本の歴史・地理・文化などに関心を持つ人たちに、従来抱いてきた社会観と学術文化像の見直しを迫っているといえよう。20人を超す寄稿者の論考が、問題の所在を明らかにする。
 本書の立場と異なる議論も一部紹介されている。形質人類学の専門家は先住民族への遺骨返還は「歴史の抹殺」につながる行為だと反論している。
 本書を読んで、かつて研究利用として容認されたことが今や通用しない時代であることをまず実感した。植民地主義を抽象的に論じず、先住民族の遺骨返還という主題を見つめれば、新たな歴史像が浮かび上がる。
 アイヌ民族と誠実に向きあった松浦武四郎も再読したい。歴史への真摯(しんし)な姿勢こそが求められているに違いない。(耕文社 1944円)
<略歴>
まつしま・やすかつ 1963年生まれ。龍谷大教授
きむら・あきら 1954年生まれ。鹿児島大教員
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/294351

社説:京大の琉球遺骨 学問の誠意が問われる

2019-03-23 | ウチナー・沖縄
京都新聞 2019年03月22日 11時52分
 沖縄県今帰仁(なきじん)村に伝わる地元の有力首長の墓から90年前に学術研究の名目で持ち出された琉球人の遺骨を返すよう、子孫らが京都大を訴えている。
 沖縄で先祖の遺骨は信仰の対象である。それが墓にないため、憲法が保障する信仰や宗教の自由が侵害された、と原告は主張している。
 京大は裁判で遺骨の保管を認めたが、「(当時は)違法でなかった」と争う姿勢を見せている。
 重要な学術研究とはいえ、それが遺族らに遺骨を返さなくていいという理由にはなるまい。京大のかたくなな姿勢は残念だ。
 京都地裁に訴えた首長の子孫らによると、1929年に当時の京都帝国大助教授が首長を葬った「百按司(ももじゃな)墓」から26体の遺骨を持ち出し、現在も研究材料として保管しているという。
 子孫らは遺骨が持ち出されていたことを知らずに長年、祭祀(さいし)を継承してきた。「むなしい」という訴えは悲痛である。
 裁判を起こされる前に、返還に動くのが道理ではなかったか。
 同様の訴訟としては、北海道でアイヌ民族が北海道大を相手に起こしている事例がある。
 人骨の研究は戦前、京大や北大を中心に盛んに行われていた。「民族の系統」の研究が名目で、沖縄やアイヌ民族の墓から骨を持ち出していた。
 こうした研究は、日本が大陸や南方に領土拡大を目指す中で行われた。学問が国策のために利用されたが、学問自体も国策に乗じた権威主義的な姿勢が強かった。
 墓から遺骨を持ち去るなどという行為はその典型といえる。
 京大は、当時の沖縄県などの許可を得ており、合法的な取得だったと反論している。だが、当時の帝国大学の権威の前に、沖縄県側が抵抗できなかった可能性は十分にある。
 対等ではない関係の中で持ち去られた文化財などの返還を求める動きは、現在、世界的な潮流になっている。
 米国では先住民の遺骨を収集していた大学に対し、返還を義務づける制度が1990年に施行された。北大も一部返還を始めている。
 京大は訴えられるまで、子孫に対し遺骨の存否さえ回答しなかった。提訴を受け遺骨の存在を認めたが、遺骨が原告の先祖のものかを証明するよう求めている。京大の管理があいまいだったのに、あまりに冷淡な対応だ。
 遺骨は本来の場所に戻すのが筋だ。学問の誠意が問われている。
https://www.kyoto-np.co.jp/education/article/20190322000071

台湾大保管の遺骨、沖縄に返還 63体、昭和初期に持ち出し 京大にも

2019-03-21 | ウチナー・沖縄
琉球新報2019/03/21 06:30

台湾大学から返還された遺骨。1体ずつ段ボール箱に梱包されている=18日、西原町の県立埋蔵文化財センター(県教育委員会提供)
 昭和初期に旧帝国大学の人類学者らによって沖縄から持ち出された遺骨63体が20日までに、保管されていた台湾の国立台湾大学から沖縄側に返還された。遺骨を受け入れた県教育委員会によると、遺骨は県立埋蔵文化財センターに保管されている。県教委は遺骨を歴史的な資料として保管することにしており、調査などを行うかどうかは「今後検討したい」としている。一般への公開は現在のところ予定されていない。
 返還された遺骨には、人類学者の金関丈夫氏が1929年に今帰仁村の百按司(むむじゃな)墓から研究目的で持ち出した遺骨も含まれているとみられる。琉球民族遺骨返還研究会の松島泰勝代表(龍谷大教授)らは遺骨が遺族の了解を得ずに持ち出されたとして違法性を指摘しており、遺骨の尊厳を回復するためには風葬地に戻して「再風葬」するよう求めている。ただ県教委は「現在のところ再風葬は考えていない」としている。
 台湾からの遺骨は1体ずつ段ボールの箱に梱包(こんぽう)されて輸送され、18日までに沖縄に到着した。現在、輸送時の箱に収めたまま埋蔵文化財センターの収蔵庫に収められている。県教委は遺骨を木製の箱に移し替え、温湿度を一定に保って保管することを検討している。担当者は「戻ってきたばかりなのでまずはしっかり保管したい」と話す。
 金関氏が沖縄の各地から持ち出した遺骨は台湾大のほか、京都大学にも保管されている。京都大は返還するかどうか明らかにしていないため、研究者らが昨年12月に返還を求めて京都地裁に提訴した。
 研究目的で持ち出された先住民族の遺骨は、世界各地の大学や博物館などが相次いで返還している。国内でも北海道大学などがアイヌ民族の遺骨を遺族らに返還した。
https://news.nicovideo.jp/watch/nw5023379

<訪問>「新しいアジアの予感」を書いた 安里英子(あさと・えいこ)さん

2019-03-18 | ウチナー・沖縄
北海道新聞 03/17 05:00
沖縄のアイデンティティー自問
 日本にとって沖縄とは何か。そうした問いを繰り返しながら、基地が過度に集中する沖縄の怒りや悲しみ、琉球孤の精神世界、戦時下の朝鮮人強制連行などに向き合ってきた。
 敗戦から3年後、米軍占領下の那覇市・首里で生まれた。かつての琉球王朝のお膝元で、首里城跡には琉球大学があった。10代のころは「60年安保闘争」の真っ盛り。近所のキャンパスから学生運動のざわめきが伝わってきた。文学少女だった著者は愛読する太宰治と決別した。
 「沖縄が置かれている厳しい状況と合わないわけ。それからは社会科学への関心が高まっていきました」
 太平洋戦争末期、沖縄は地上戦の戦場になり、住民の4人に1人が犠牲になった。戦後は銃剣とブルドーザーで土地を奪われ、基地に占有された。女性への強姦など米軍人の犯罪が連日のように起こった。
 「沖縄で生きる自分自身のアイデンティティーが分からなくなったんです。アメリカでもなさそうだし、復帰運動では日本へ向かっている。政治的な矛盾の中で悩みました」
 首里は琉球の権力を象徴する場所だった。そのため、1879年(明治12年)の明治政府による琉球併合後は文化的な抹殺が首里から始まった。20代後半になった著者は沖縄的なものを求め、ミニコミ誌「地域の目」を発行した。創刊号のテーマに「戦後自治」を選び、沖縄生まれの書き手として聞き書きによる証言を重ねていった。
 沖縄戦で生き残った人たちは戦後、収容所に入れられ、村に戻ってみると家々は金網に囲まれて基地に取り込まれていた。だから、基地の周辺にテント小屋を作り、それが次第にかやぶきやトタン、瓦ぶき、コンクリートの家へと変化していった。
 住民がいち早く力を合わせて集落ごとに公民館を建て、相互扶助の拠点にした。同時に伝統信仰の場「御嶽(うたき)」も精神的よりどころとして再生されていった。「復帰後も変わらぬ現実に自分が向かえば向かうほど、私は沖縄の精神世界を追求していきました」
 本書にはこれまで発表した論文やエッセーなどを収録した。琉球の聖地を巡り、古層に触れた後は、アイヌ民族、台湾、朝鮮半島とたどった。アイヌ民族の萱野茂さんやチカップ美恵子さん(いずれも故人)との出会い、魂の交流が語られる。
 書名は「新しいアジアの予感」。いま沖縄で暮らし、直観的に“風”を感じている。「朝鮮半島は統一へ進むと思う。その時に日本はどう向き合うのか。それが問われているし、変わらざるを得ないでしょう」
編集委員 伴野昭人
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/287438