(韓国語原文)
メディア・ウォッチ2018年4月14日
「従北」文在寅のための「嘘つきハルモニ」、日本軍慰安婦李容洙(2)
日本軍将校のために霊魂結婚式までしてやった李容洙、さらに年齢、結婚、職業まで全部虚偽の疑い
シン・ギュヤン記者
李容洙のケースは、たんに日本軍慰安婦になった経緯についての証言があいまいなだけではない。
台湾での日本軍慰安婦としての生活についての証言、そして本人の現在の年齢、結婚、過去の職業についての証言も、すべてあいまいである点は同じだ。
1日4~5人の軍人の相手をしたと言っていたのが、一日最低20人、多いときは70人?
李容洙は1993年の『強制的に連行された朝鮮人軍慰安婦たち1:証言集』(ハンウル)での最初の証言では、日本軍慰安婦として、一日平均4~5人の軍人の相手をしたということを伝えている(129ページ)。
一日平均四、五人の軍人を受け入れた。軍人たちは入ってくると、次々にすることをして出て行った。泊まっていくことはほとんどなかった。月経のときは、古着を洗って使った。月経で、軍人の相手をした。お金は見たこともなかった。空襲がひどくて、一日に何度も避難しなければならないときもあった。爆撃があると、山や洞窟に隠れた。そして、しばらくして静かになると、畑だろうが田だろうが、どこでも幌を張って軍人を受け入れた。風が吹いて張っていた幌が倒れても、軍人たちは気にせず、すべきことをして帰って行った。犬や豚にも劣る生活だった。外に出て、診断を受けた記憶はない。サックというものも知らなかった。
先に引用した「ハンギョレ」1997年9月6日付の「慰安婦ハルモニ、泣かないで!―台湾新竹基地前/恥辱の現場を訪ねたハルモニの涙... 慟哭」というタイトルの記事でも、こうした内容は繰り返されている。
去る8月30日朝5時30分、台湾の台北から1時間ほど離れた新竹空軍基地の前。李容洙ハルモニ(72・大邱市達西区サンイン洞ピドゥルギアパート107棟113号)は、胸を押さえて座り込んだ。 「まさかと思ったが... 、ここが本当に」
「新竹」というおぼろげな記憶を頼りに探しに来た、身の毛もよだつ50年前の慰安婦生活は、空軍基地と基地の横を流れる小川、部隊の周りの防空壕は、戦時20数人の女性がいたという基地のそばの70代の老人の証言によって、生々しくよみがえった。「部隊の中だったと思う。最初は建物だったが、爆撃で崩れたので、板で仮設の建物を建てた」
第二次大戦が大詰めだった45年1月にここへ連れてこられた李ハルモニは、ここがどこかもわからないまま、日本の敗戦まで一日5~6人の日本兵を相手にしなければならなかった。
しかし、李容洙が、2007年6月12日に放映されたEBS「時代の肖像―慰安婦と言わないで」ではどんな証言をしたのか見てみよう。(リンク:「私は慰安婦ではない、日本軍の性暴力被害者だ」)
強要に逆らえず、一日少ないときで20人、多いときは70人の日本軍に性的暴行を受けた。生理中も日本軍を受け入れなければならなかった。要求を拒否しでもすると、刀で切りつけるような残忍な暴力を受けて、殺されることもあった。このような被害者に、自分の意志で体を売ったという意味の慰安婦という呼称は、とんでもない。
一日に相手をした日本軍が、少ないときで20人だそうだ。突然、数が4倍に増えたわけだ。何が真実なのか。
5人とか20人とか、そういうことが重要なのではなく、いずれにしてもそれが「強姦」、「虐待」という性格をもっていたということが重要なのだから、つっこむな、と言うなら、何も言いようがない。ただし、そうした抗弁は、いずれにしても「強制連行」という性格が重要なのだから、1940年なのか1945年なのかなんて、重要ではないというふうに聞こえる。
日本軍慰安婦問題は、われわれが今、日本という一つの国家に公式謝罪を要求している問題だ。その内容は、どんな人が見ても厳正ではなくてはならず、国際社会が見たとき、悪ふざけを越えて中傷謀略を行っているという感じを与えるなら、まかり間違えば、逆に公式的な宣戦布告を受けて当然だという指弾を受けかねない。
(写真)
キャプション▲2007年6月12日のEBS「時代の肖像―慰安婦と言わないで」には、ショッキングな内容が多い。同じ年の米国議会証言では、なぜそのような内容を証言しなかったのか、不思議だ。証言に、それぞれ国内向けと国際向けがあるのだろうか。
(写真)
キャプション▲李容洙は、飲み屋の店員、家政婦など、どん底の生活をしていたが、60歳のときに75歳の老人の後妻になり、婚姻届も出したという内容の、「ハンギョレ」1993年の記事。
婚姻届まで出したというのに、結婚せずずっと独身生活?
日本軍慰安婦の生活が終わった後の李容洙の生活も、どこかしら不思議に聞こえるのは同じだ。「ハンギョレ」の1993年1月20日付「「ひどい記憶」歯ぎしりしながら自虐と涙」という見出しの記事を見てみよう。
慰安婦出身の女性は、このようにほとんどが過去ことのせいで、おのずと結婚を避けて一人暮らしをしたり、たとえ結婚しても離婚したり、子を産めずに夫の親せきからもらい受けた子を育てたりすることもあり、最初から後妻になって前妻の子供を育てることもある。しかしこうしたケースも、成功より失敗の事例が多い。
台湾に2年間いた李容洙さん(66)は、帰国後、飲み屋の店員、家政婦などのどん底の生活を転々とし、家族の度重なる勧めで、1987年、60歳のとき8人の子持ちの75歳の老人の後妻になった。遅きに失したけれども、白いベールもつけてみたいと思い、婚姻届を出すのも初めてで、また最後のチャンスとも思って、決めたことだった。しかし、5年間に暮らして別れたのは、認知症にかかった夫の横暴と暴力、家族からの冷たい扱いを受けたからで、昨年3月、慰謝料を一銭ももらえないまま離婚してしまった。
飲み屋の店員、家政婦などのどん底の生活のあと、60歳で75歳の老人の後妻になったが、それさえも離婚をされたという内容だ。
だが、その内容が、1999年の「連合ニュース」の記事では、突然、今まで結婚をせずに保険会社などに勤めていたという内容に変わる。(リンク:〈話題〉挺身隊ハルモニ、名誉大学生課程を修了)
日帝当時、初等学校を中退して夜学で漢文などを学んだ李ハルモニは、1943年、16歳の年齢で、強制的に日本軍慰安婦として台湾に連れて行かれ、苦労をしたが、解放の翌年の46年に故国に帰ってきた。
その後、ハルモニは結婚をせず、保険会社などに勤めて、一人暮らしをしていたが、1992年、日本軍挺身隊被害者として申告した後、毎週ソウルの日本大使館前で開かれる水曜集会に参加し、地域の被害ハルモニに会うなど、日本政府の蛮行を糾弾するために活発な社会活動を行っている。
2007年6月12日に放映されたEBS「時代の肖像―慰安婦と言わないで」でも、やはり李容洙は結婚したことがない言った(リンク: 「私がなぜ慰安婦か、日本軍性暴力被害者だ」)。
彼女は母親にも事実を言わなかった。結婚もせずに45年間胸に秘めて生きてきた。けれども1991年、現在は故人となった金学順ハルモニが最初に「日本軍慰安婦だった」と証言し、これを見た彼女も被害の事実を知らせなければと考えて、申告をした。
ただの結婚ではなく、はっきりと「婚姻届」まで出した結婚と言っていた。しかし、後になって、結婚についての内容が2回否定されたのだ。
どちらが真実なのか。毎回、証言がマスコミに公開されるたびにひっくり返されるなら、そんな証言をする人の話を、第三者が信じることができようか。
(写真)
キャプション▲李容洙のようなケースはあまりにも極端なので、現実社会では似た事例を見つけるのが難しい。ドラマの中でも「ミスリプリー」や「火車」のような極端なドラマにしか出てこない事例だ。
日本軍慰安婦李容洙の年齢は、いったい何歳なのか
李容洙は、1993年の証言で1928年生まれだ言ったことがあるが、マスコミも李容洙の正確な年齢をまるで推測できずにいる状況だ。
「ニューヨーク中央日報」の次の記事を見てみよう。李容洙の年齢を、2011年に86歳と言った。ならば李容洙は1925年生まれ(2011-86=1925)になる。したがって、1944年は19歳だ。(リンク:歴史の証人に会った、慰安婦たちニューヨークを訪問...ホロコーストの生存者との邂逅)
ユダヤ人大虐殺(ホロコースト)の生存者エデルキャッツ(89)は、13日、クイーンズボロコミュニティカレッジ(QCC)で会った慰安婦ハルモニ李容洙(86)氏とイ・オクソン(88)氏を抱きしめこう言った。
「プレシアン」は、2005年に李容洙の年齢を78歳と書いた。すると1927年生まれ(2005-78=1927)という計算になる。1944年は17歳だ。(リンク:「日本は今、自らの墓穴を掘っている」)
李容洙ハルモニ(78)は、「胸がはりさけそうで我慢できない」、「お前たちは、思うままに慰安婦だと言って捕まえていき、性奴隷にしたあと、私は今まで一人で苦労しながら生きてきた。
「中央日報」は、1998年に李容洙の年齢を69歳と書いた。すると1929年生まれ(1998-69=1929)という計算になる。1944年に15歳だ。(リンク:慰安婦出身ハルモニ、日本軍将校と「霊魂結婚式」)
69歳の慰安婦ハルモニが戦場で出会った日本軍将校と、遅ればせながら「霊魂結婚式」を挙げた。1944年、16歳で日本軍慰安婦として台湾に引っぱられて行った李容洙(大邱市達西区サンイン洞)ハルモニは、去る20日、54年ぶりに地獄のようだった台湾の従軍慰安所を再訪した。
「統一ニュース」という、挺対協に好意的な極左民族主義系のメディアを見てみよう。李容洙の年齢を2004年に70歳と書いた。すると1934年生まれ(2004-70=1934)ということだ。1944年は10歳に過ぎない。(リンク:キム・ヒソン議員、「政府は恥ずかしい」)
一方、大邱で水曜デモに参加してきた慰安婦被害者の李容洙ハルモニ(70)は、600回目の感想を尋ねる記者たちの質問に「慰安婦被害者ハルモニたちが次々に死んでいく」、「ハルモニが死ぬことを望んでいるのか、水曜デモが600回になるまで解決できないなんで、話にならない」と激憤し、泣きそうになった。
このように、李容洙の年齢がメディアごとに異なるのは、李容洙本人の行ったり来たりする証言のせいでもあるが、慰安婦問題でどうにかして国民感情を昂(たかぶ)らせなければならない挺対協と主なメディアの責任が大きいと思われる。
つまり、現在の慰安婦たちはとにかく高齢に見せたい、その慰安婦たちが若い頃、慰安婦として連行された年齢は、できるだけ低く見せたい、という誘惑を、挺対協と主流メディアが持っているわけだ。そうしてこそ、よりいっそう可哀想に見えるからだ。そうでなければ、あんなふうに非現実的なことをどう説明できるだろう。
日本軍慰安婦李容洙の証言で反駁されている「14歳慰安婦少女説」
もちろん李容洙の証言がすべて信じられないわけではない。いったん、李容洙の証言の、信ずるに足るものの中には、韓国民が日本軍慰安婦問題について誤解していることを、大きく是正してくれるものもある。
以下では、そのような問題を確認し、一方ではそのような是正が、挺対協の掲げる李容洙の日本軍慰安婦としての代表性を、どのようにして切り崩すことになるかも調べることにする。
次は 「強制的に連行された朝鮮人軍慰安婦たち1:証言集」(ハンウル)に掲載された、李容洙の1993年の証言の一部だ(12ページ)。
大邱で私たちを連れて行った男は、慰安所の主人だった。私たちは、彼を「オヤジ」と呼んだ。女たちの中で私がいちばん若かった。プンスンは私より一つ年上で、ほかの女も18、19、20歳ぐらいだった。
最初は「キム・プンスン」が同い年と言っていたが、ここでは自分より一つ年上だという。それは、同じ年に生まれたということだと理解するとしよう。この証言で特に興味深いのは、16歳の自分が慰安所で最も若かったということだ。ほかの慰安婦は18歳以上で、当時の基準でみな成人だったのだ。
しかし、李容洙のこうした証言は、挺対協の立場に反する。挺対協は、現在、外交公館の保護に関するウィーン協約を無視して日本大使館の前に「少女像」を建て、初潮もまだのように見える13~14歳の少女を日本軍が大量に集めたかのように、連日大声をあげているからだ。
自分たちが日本軍慰安婦の「代表」として押し立てている人が、慰安所には自分より若い女性はいなかったと言っているというのに、挺対協は今、いったい何をしているのか。挺対協は当然、これに関して何かしらの立場表明をしなければならないのではないか。
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キャプション▲「少女像」は、挺対協が押し出している「14歳の少女慰安婦説」を代表するイメージだ。だが、挺対協が押し出している日本軍慰安婦生存者の代表格である李容洙は、それが事実ではないと証言している。この乖離を早く整理しなければならないのではないか?
李容洙に電気拷問を加えたのは「日本軍」ではなく「慰安婦業者」
一方、李容洙は日本軍慰安婦の生活をする中で、電気拷問を受けたという証言を1993年からしている。この内容は、一度も変わったことがない、一貫した証言なので、やはり信じるに値する。
しかし、ここで重要なのは、電気拷問が事実かどうかではない。問題は、電気拷問を行った主体が誰かということだ。「強制的に連行された朝鮮人軍慰安婦たち1:証言集」(ハンウル)で、李容洙の1993年の証言(127~128ページ)をみると、電気拷問の主体は「日本軍」ではなく、明らかに「慰安所業者」(いわゆる「抱え主」)である。
部屋に入れと言われたけれど、入ろうとしなかったので、主人が私の髪の毛をつかんで、ある部屋に連れて行った。その部屋で電気拷問を受けた。主人はとてもひどい奴だった。彼は電話のコードを引き抜き、私の手首と足首に巻いた。そして「コノヤロー」と言って、電話の取っ手をぐるぐる回した。私は、目から火が出て、全身がぶるぶる震えた。もはや耐えられなくなって、言うとおりにすると泣き叫んで、両手を合わせてお願いした。そして、もう一回、電話を回したとき、私は耐えることができず、そのまま気を失ってしまった。目が覚めたとき、水を浴びせられたからか、全身が濡れそぼっていた。慰安所は、日本風の二階建てで、20部屋あった。
電気拷問の主体が慰安婦業者だったということは、先に挙げた2014年に「アジア経済」が企画した「慰安婦報告書55」でも確認できる。
挺対協は、今まで慰安所で日本軍慰安婦を虐待した主体も「日本軍」だったと主張してきた。しかし、李容洙は、その主体はこのように「慰安婦業者」だったと証言している。
この問題についても、挺対協は当然何らかの立場表明をしなければならないのではないか。李容洙は、はたして挺対協の慰安婦運動の趣旨に合致した日本軍慰安婦であろうか。
自分を救ってくれた日本軍将校「ハヤカワ・キクショニ」のために慰霊祭まで執り行った
衝撃的なことに、李容洙は「日本軍」から、虐待ではなく、むしろ恩恵を受けたという証言までしている。
「ハンギョレ」1998年8月27日付の「軍慰安婦ハルモニの日本軍将校慰霊『命の恩人... 憎悪するのは日本人ではなく日本』」という記事を見てみよう。
26日正午、ソウル市鍾路区中学洞の日本大使館前。日本軍慰安婦出身の李容洙(69)ハルモニが、慰安婦問題で日本政府の謝罪と法的賠償を要求する「水曜集会」に参加した。
ハルモニは22日、台湾の国会議員と日本の歴史家の助けを借りて台湾を訪問し、昔慰安所があった場所を訪れた。ハルモニはそこで、あらかじめ準備して行った二つの人形で、名前も知らない若い日本軍将校の「霊魂結婚式」を挙げてやった。日本軍将校を象った人形には「長谷川」と名前を付け、他の人形には「名無しさん」と書いた。二つの人形を海に流して結婚式を終えた。
ハルモニは1944年、16歳のときに慰安婦として台湾に連れて行かれ、この将校に会った。日本軍の幕舎に入ろうとしなかったために、無茶苦茶に殴られ、瀕死の状態になっていたところを、当時21歳のこの将校は「山に埋めてやる」と言って、手当をしてくれたおかげで命をとりとめたそうだ。この将校は、第二次大戦の末期、「死にに行きます」と言って出て行ったそうだ。
ハルモニは「命の恩人であり、私を初恋相手と思ってくれた日本軍将校の慰霊祭をぜひ執り行いたかった」、「私が憎悪するのは日本人ではなく、真実を見ようとせず、反省することを知らない日本の態度だ」と語った。
自分が誰に殴られて瀕死の状態に陥ったのかは語らないが、とにかくある21歳の日本軍将校がそのとき自分の命を救ってくれたのだそうだ。それで「命の恩人」の彼のために、後年、「霊魂結婚式」も挙げてやったという。
これに関連して2015年3月12日、人文学の集いである「二:牧会」が主催した「李容洙ハルモニの歴史の証言」での李容洙証言も聞いてみよう。(リンク:「私は「神風」性奴隷、考えるだけで…。悪い奴ら」)
当時17歳だった李容洙ハルモニは、日本の神風部隊の中にある慰安所に連れて行かれ、若い日本軍人に出会った。その軍人は慰安所で殴られ、拷問を受け、満身創痍になっていた李容洙ハルモニの手当てをしてくれた。その軍人はハルモニに「トシコ」という名前をつけてくれた。そしてベントー(弁当)とたくあんを持ってきてくれたこともあった。李容洙さんは、1998年に日本で、あのときに自分を助けてくれた日本軍人の名前が「ハヤカワ・キクショニ(?)」であることを知った。
ハヤカワは、ある夕方、李容洙ハルモニに「明日、死にに行かなければならなくなった」と言って、歌を教えてくれた。ハヤカワは、「トシコ、お前の両親の星もあるし、ぼくの両親の星もある。明日、ぼくが死ねば、星が一つ落ちるんだ」と言って歌を歌った。ハヤカワは、次の日に姿を見せず、その後も待ち続けたが来なかった。1945年5月の沖縄戦で死んだという。
李容洙が霊魂結婚式のとき、これとは違う「長谷川」という名で呼んだ21歳の日本軍将校は、この「ハヤカワ」であると推測される。日本軍将校は、李容洙を「トシコ(年子)」と呼んでくれたそうだ。
今回も、誰に殴られ、拷問されたかについての話はない。以前、李容洙は慰安婦業者に電気拷問を受けたということを告白したことがあるので、これは日本軍ではなく、結局のところ慰安婦業者の仕業と見るほかないだろう。
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キャプション▲日本軍慰安婦李容洙は、1998年、日本軍将校のために霊魂結婚式(慰霊祭)まで執り行ったという「ハンギョレ」の記事
ここで、李容洙は、むしろ日本軍将校、もちろんある特定の個人の場合であろうが、彼から大きな恩を受けたことを告白している。これは一貫した証言なので本当のことと思われる。何十年も経ったのに忘れられないほど、真実の恩だったのだろうし、軍人のほうが逆に死んでしまっているので、その軍人が、太平洋戦争で実際に米軍を殺して回った日本軍将校だったという点さえ除けば、なんだか粛然とした気持ちにさせられる。
問題は、李容洙の上のような証言が、現在の挺対協の日本軍慰安婦運動に関するもともとの趣旨を揺さぶっているということだ。
挺対協は、慰安婦を強制連行し、むごい行為をした主体が「日本軍」だったと主張する。李容洙の証言は行ったり来たりしているとはいえ、強制連行をしたのも、むごい行為をしたのも、「慰安婦業者」だったという。たった一回のことにすぎないかもしれないが、いずれにせよ「日本軍」は、むしろ自分の命を救ってくれたという。
「日本軍」による慰安婦虐待がなかったと言うつもりはない。この点に関して、挺対協の立場と李容洙の立場が異なることもあるということだ。
このような状況で、挺対協は、生存している日本軍慰安婦の中で、ほかでもなく李容洙を「代表」として押し立て、日本政府を相手に謝罪と賠償を引き出すことができるのだろうか。
李容洙の証言の中で、それなりに一貫していて、状況からみて信じるに足る証言が、挺対協が主導する慰安婦運動の趣旨を根底から覆しているというのは、本当に皮肉なことと言わざるをえない。
日本軍慰安婦李容洙(1)
日本軍慰安婦李容洙(3)
メディア・ウォッチ2018年4月14日
「従北」文在寅のための「嘘つきハルモニ」、日本軍慰安婦李容洙(2)
日本軍将校のために霊魂結婚式までしてやった李容洙、さらに年齢、結婚、職業まで全部虚偽の疑い
シン・ギュヤン記者
李容洙のケースは、たんに日本軍慰安婦になった経緯についての証言があいまいなだけではない。
台湾での日本軍慰安婦としての生活についての証言、そして本人の現在の年齢、結婚、過去の職業についての証言も、すべてあいまいである点は同じだ。
1日4~5人の軍人の相手をしたと言っていたのが、一日最低20人、多いときは70人?
李容洙は1993年の『強制的に連行された朝鮮人軍慰安婦たち1:証言集』(ハンウル)での最初の証言では、日本軍慰安婦として、一日平均4~5人の軍人の相手をしたということを伝えている(129ページ)。
一日平均四、五人の軍人を受け入れた。軍人たちは入ってくると、次々にすることをして出て行った。泊まっていくことはほとんどなかった。月経のときは、古着を洗って使った。月経で、軍人の相手をした。お金は見たこともなかった。空襲がひどくて、一日に何度も避難しなければならないときもあった。爆撃があると、山や洞窟に隠れた。そして、しばらくして静かになると、畑だろうが田だろうが、どこでも幌を張って軍人を受け入れた。風が吹いて張っていた幌が倒れても、軍人たちは気にせず、すべきことをして帰って行った。犬や豚にも劣る生活だった。外に出て、診断を受けた記憶はない。サックというものも知らなかった。
先に引用した「ハンギョレ」1997年9月6日付の「慰安婦ハルモニ、泣かないで!―台湾新竹基地前/恥辱の現場を訪ねたハルモニの涙... 慟哭」というタイトルの記事でも、こうした内容は繰り返されている。
去る8月30日朝5時30分、台湾の台北から1時間ほど離れた新竹空軍基地の前。李容洙ハルモニ(72・大邱市達西区サンイン洞ピドゥルギアパート107棟113号)は、胸を押さえて座り込んだ。 「まさかと思ったが... 、ここが本当に」
「新竹」というおぼろげな記憶を頼りに探しに来た、身の毛もよだつ50年前の慰安婦生活は、空軍基地と基地の横を流れる小川、部隊の周りの防空壕は、戦時20数人の女性がいたという基地のそばの70代の老人の証言によって、生々しくよみがえった。「部隊の中だったと思う。最初は建物だったが、爆撃で崩れたので、板で仮設の建物を建てた」
第二次大戦が大詰めだった45年1月にここへ連れてこられた李ハルモニは、ここがどこかもわからないまま、日本の敗戦まで一日5~6人の日本兵を相手にしなければならなかった。
しかし、李容洙が、2007年6月12日に放映されたEBS「時代の肖像―慰安婦と言わないで」ではどんな証言をしたのか見てみよう。(リンク:「私は慰安婦ではない、日本軍の性暴力被害者だ」)
強要に逆らえず、一日少ないときで20人、多いときは70人の日本軍に性的暴行を受けた。生理中も日本軍を受け入れなければならなかった。要求を拒否しでもすると、刀で切りつけるような残忍な暴力を受けて、殺されることもあった。このような被害者に、自分の意志で体を売ったという意味の慰安婦という呼称は、とんでもない。
一日に相手をした日本軍が、少ないときで20人だそうだ。突然、数が4倍に増えたわけだ。何が真実なのか。
5人とか20人とか、そういうことが重要なのではなく、いずれにしてもそれが「強姦」、「虐待」という性格をもっていたということが重要なのだから、つっこむな、と言うなら、何も言いようがない。ただし、そうした抗弁は、いずれにしても「強制連行」という性格が重要なのだから、1940年なのか1945年なのかなんて、重要ではないというふうに聞こえる。
日本軍慰安婦問題は、われわれが今、日本という一つの国家に公式謝罪を要求している問題だ。その内容は、どんな人が見ても厳正ではなくてはならず、国際社会が見たとき、悪ふざけを越えて中傷謀略を行っているという感じを与えるなら、まかり間違えば、逆に公式的な宣戦布告を受けて当然だという指弾を受けかねない。
(写真)
キャプション▲2007年6月12日のEBS「時代の肖像―慰安婦と言わないで」には、ショッキングな内容が多い。同じ年の米国議会証言では、なぜそのような内容を証言しなかったのか、不思議だ。証言に、それぞれ国内向けと国際向けがあるのだろうか。
(写真)
キャプション▲李容洙は、飲み屋の店員、家政婦など、どん底の生活をしていたが、60歳のときに75歳の老人の後妻になり、婚姻届も出したという内容の、「ハンギョレ」1993年の記事。
婚姻届まで出したというのに、結婚せずずっと独身生活?
日本軍慰安婦の生活が終わった後の李容洙の生活も、どこかしら不思議に聞こえるのは同じだ。「ハンギョレ」の1993年1月20日付「「ひどい記憶」歯ぎしりしながら自虐と涙」という見出しの記事を見てみよう。
慰安婦出身の女性は、このようにほとんどが過去ことのせいで、おのずと結婚を避けて一人暮らしをしたり、たとえ結婚しても離婚したり、子を産めずに夫の親せきからもらい受けた子を育てたりすることもあり、最初から後妻になって前妻の子供を育てることもある。しかしこうしたケースも、成功より失敗の事例が多い。
台湾に2年間いた李容洙さん(66)は、帰国後、飲み屋の店員、家政婦などのどん底の生活を転々とし、家族の度重なる勧めで、1987年、60歳のとき8人の子持ちの75歳の老人の後妻になった。遅きに失したけれども、白いベールもつけてみたいと思い、婚姻届を出すのも初めてで、また最後のチャンスとも思って、決めたことだった。しかし、5年間に暮らして別れたのは、認知症にかかった夫の横暴と暴力、家族からの冷たい扱いを受けたからで、昨年3月、慰謝料を一銭ももらえないまま離婚してしまった。
飲み屋の店員、家政婦などのどん底の生活のあと、60歳で75歳の老人の後妻になったが、それさえも離婚をされたという内容だ。
だが、その内容が、1999年の「連合ニュース」の記事では、突然、今まで結婚をせずに保険会社などに勤めていたという内容に変わる。(リンク:〈話題〉挺身隊ハルモニ、名誉大学生課程を修了)
日帝当時、初等学校を中退して夜学で漢文などを学んだ李ハルモニは、1943年、16歳の年齢で、強制的に日本軍慰安婦として台湾に連れて行かれ、苦労をしたが、解放の翌年の46年に故国に帰ってきた。
その後、ハルモニは結婚をせず、保険会社などに勤めて、一人暮らしをしていたが、1992年、日本軍挺身隊被害者として申告した後、毎週ソウルの日本大使館前で開かれる水曜集会に参加し、地域の被害ハルモニに会うなど、日本政府の蛮行を糾弾するために活発な社会活動を行っている。
2007年6月12日に放映されたEBS「時代の肖像―慰安婦と言わないで」でも、やはり李容洙は結婚したことがない言った(リンク: 「私がなぜ慰安婦か、日本軍性暴力被害者だ」)。
彼女は母親にも事実を言わなかった。結婚もせずに45年間胸に秘めて生きてきた。けれども1991年、現在は故人となった金学順ハルモニが最初に「日本軍慰安婦だった」と証言し、これを見た彼女も被害の事実を知らせなければと考えて、申告をした。
ただの結婚ではなく、はっきりと「婚姻届」まで出した結婚と言っていた。しかし、後になって、結婚についての内容が2回否定されたのだ。
どちらが真実なのか。毎回、証言がマスコミに公開されるたびにひっくり返されるなら、そんな証言をする人の話を、第三者が信じることができようか。
(写真)
キャプション▲李容洙のようなケースはあまりにも極端なので、現実社会では似た事例を見つけるのが難しい。ドラマの中でも「ミスリプリー」や「火車」のような極端なドラマにしか出てこない事例だ。
日本軍慰安婦李容洙の年齢は、いったい何歳なのか
李容洙は、1993年の証言で1928年生まれだ言ったことがあるが、マスコミも李容洙の正確な年齢をまるで推測できずにいる状況だ。
「ニューヨーク中央日報」の次の記事を見てみよう。李容洙の年齢を、2011年に86歳と言った。ならば李容洙は1925年生まれ(2011-86=1925)になる。したがって、1944年は19歳だ。(リンク:歴史の証人に会った、慰安婦たちニューヨークを訪問...ホロコーストの生存者との邂逅)
ユダヤ人大虐殺(ホロコースト)の生存者エデルキャッツ(89)は、13日、クイーンズボロコミュニティカレッジ(QCC)で会った慰安婦ハルモニ李容洙(86)氏とイ・オクソン(88)氏を抱きしめこう言った。
「プレシアン」は、2005年に李容洙の年齢を78歳と書いた。すると1927年生まれ(2005-78=1927)という計算になる。1944年は17歳だ。(リンク:「日本は今、自らの墓穴を掘っている」)
李容洙ハルモニ(78)は、「胸がはりさけそうで我慢できない」、「お前たちは、思うままに慰安婦だと言って捕まえていき、性奴隷にしたあと、私は今まで一人で苦労しながら生きてきた。
「中央日報」は、1998年に李容洙の年齢を69歳と書いた。すると1929年生まれ(1998-69=1929)という計算になる。1944年に15歳だ。(リンク:慰安婦出身ハルモニ、日本軍将校と「霊魂結婚式」)
69歳の慰安婦ハルモニが戦場で出会った日本軍将校と、遅ればせながら「霊魂結婚式」を挙げた。1944年、16歳で日本軍慰安婦として台湾に引っぱられて行った李容洙(大邱市達西区サンイン洞)ハルモニは、去る20日、54年ぶりに地獄のようだった台湾の従軍慰安所を再訪した。
「統一ニュース」という、挺対協に好意的な極左民族主義系のメディアを見てみよう。李容洙の年齢を2004年に70歳と書いた。すると1934年生まれ(2004-70=1934)ということだ。1944年は10歳に過ぎない。(リンク:キム・ヒソン議員、「政府は恥ずかしい」)
一方、大邱で水曜デモに参加してきた慰安婦被害者の李容洙ハルモニ(70)は、600回目の感想を尋ねる記者たちの質問に「慰安婦被害者ハルモニたちが次々に死んでいく」、「ハルモニが死ぬことを望んでいるのか、水曜デモが600回になるまで解決できないなんで、話にならない」と激憤し、泣きそうになった。
このように、李容洙の年齢がメディアごとに異なるのは、李容洙本人の行ったり来たりする証言のせいでもあるが、慰安婦問題でどうにかして国民感情を昂(たかぶ)らせなければならない挺対協と主なメディアの責任が大きいと思われる。
つまり、現在の慰安婦たちはとにかく高齢に見せたい、その慰安婦たちが若い頃、慰安婦として連行された年齢は、できるだけ低く見せたい、という誘惑を、挺対協と主流メディアが持っているわけだ。そうしてこそ、よりいっそう可哀想に見えるからだ。そうでなければ、あんなふうに非現実的なことをどう説明できるだろう。
日本軍慰安婦李容洙の証言で反駁されている「14歳慰安婦少女説」
もちろん李容洙の証言がすべて信じられないわけではない。いったん、李容洙の証言の、信ずるに足るものの中には、韓国民が日本軍慰安婦問題について誤解していることを、大きく是正してくれるものもある。
以下では、そのような問題を確認し、一方ではそのような是正が、挺対協の掲げる李容洙の日本軍慰安婦としての代表性を、どのようにして切り崩すことになるかも調べることにする。
次は 「強制的に連行された朝鮮人軍慰安婦たち1:証言集」(ハンウル)に掲載された、李容洙の1993年の証言の一部だ(12ページ)。
大邱で私たちを連れて行った男は、慰安所の主人だった。私たちは、彼を「オヤジ」と呼んだ。女たちの中で私がいちばん若かった。プンスンは私より一つ年上で、ほかの女も18、19、20歳ぐらいだった。
最初は「キム・プンスン」が同い年と言っていたが、ここでは自分より一つ年上だという。それは、同じ年に生まれたということだと理解するとしよう。この証言で特に興味深いのは、16歳の自分が慰安所で最も若かったということだ。ほかの慰安婦は18歳以上で、当時の基準でみな成人だったのだ。
しかし、李容洙のこうした証言は、挺対協の立場に反する。挺対協は、現在、外交公館の保護に関するウィーン協約を無視して日本大使館の前に「少女像」を建て、初潮もまだのように見える13~14歳の少女を日本軍が大量に集めたかのように、連日大声をあげているからだ。
自分たちが日本軍慰安婦の「代表」として押し立てている人が、慰安所には自分より若い女性はいなかったと言っているというのに、挺対協は今、いったい何をしているのか。挺対協は当然、これに関して何かしらの立場表明をしなければならないのではないか。
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キャプション▲「少女像」は、挺対協が押し出している「14歳の少女慰安婦説」を代表するイメージだ。だが、挺対協が押し出している日本軍慰安婦生存者の代表格である李容洙は、それが事実ではないと証言している。この乖離を早く整理しなければならないのではないか?
李容洙に電気拷問を加えたのは「日本軍」ではなく「慰安婦業者」
一方、李容洙は日本軍慰安婦の生活をする中で、電気拷問を受けたという証言を1993年からしている。この内容は、一度も変わったことがない、一貫した証言なので、やはり信じるに値する。
しかし、ここで重要なのは、電気拷問が事実かどうかではない。問題は、電気拷問を行った主体が誰かということだ。「強制的に連行された朝鮮人軍慰安婦たち1:証言集」(ハンウル)で、李容洙の1993年の証言(127~128ページ)をみると、電気拷問の主体は「日本軍」ではなく、明らかに「慰安所業者」(いわゆる「抱え主」)である。
部屋に入れと言われたけれど、入ろうとしなかったので、主人が私の髪の毛をつかんで、ある部屋に連れて行った。その部屋で電気拷問を受けた。主人はとてもひどい奴だった。彼は電話のコードを引き抜き、私の手首と足首に巻いた。そして「コノヤロー」と言って、電話の取っ手をぐるぐる回した。私は、目から火が出て、全身がぶるぶる震えた。もはや耐えられなくなって、言うとおりにすると泣き叫んで、両手を合わせてお願いした。そして、もう一回、電話を回したとき、私は耐えることができず、そのまま気を失ってしまった。目が覚めたとき、水を浴びせられたからか、全身が濡れそぼっていた。慰安所は、日本風の二階建てで、20部屋あった。
電気拷問の主体が慰安婦業者だったということは、先に挙げた2014年に「アジア経済」が企画した「慰安婦報告書55」でも確認できる。
挺対協は、今まで慰安所で日本軍慰安婦を虐待した主体も「日本軍」だったと主張してきた。しかし、李容洙は、その主体はこのように「慰安婦業者」だったと証言している。
この問題についても、挺対協は当然何らかの立場表明をしなければならないのではないか。李容洙は、はたして挺対協の慰安婦運動の趣旨に合致した日本軍慰安婦であろうか。
自分を救ってくれた日本軍将校「ハヤカワ・キクショニ」のために慰霊祭まで執り行った
衝撃的なことに、李容洙は「日本軍」から、虐待ではなく、むしろ恩恵を受けたという証言までしている。
「ハンギョレ」1998年8月27日付の「軍慰安婦ハルモニの日本軍将校慰霊『命の恩人... 憎悪するのは日本人ではなく日本』」という記事を見てみよう。
26日正午、ソウル市鍾路区中学洞の日本大使館前。日本軍慰安婦出身の李容洙(69)ハルモニが、慰安婦問題で日本政府の謝罪と法的賠償を要求する「水曜集会」に参加した。
ハルモニは22日、台湾の国会議員と日本の歴史家の助けを借りて台湾を訪問し、昔慰安所があった場所を訪れた。ハルモニはそこで、あらかじめ準備して行った二つの人形で、名前も知らない若い日本軍将校の「霊魂結婚式」を挙げてやった。日本軍将校を象った人形には「長谷川」と名前を付け、他の人形には「名無しさん」と書いた。二つの人形を海に流して結婚式を終えた。
ハルモニは1944年、16歳のときに慰安婦として台湾に連れて行かれ、この将校に会った。日本軍の幕舎に入ろうとしなかったために、無茶苦茶に殴られ、瀕死の状態になっていたところを、当時21歳のこの将校は「山に埋めてやる」と言って、手当をしてくれたおかげで命をとりとめたそうだ。この将校は、第二次大戦の末期、「死にに行きます」と言って出て行ったそうだ。
ハルモニは「命の恩人であり、私を初恋相手と思ってくれた日本軍将校の慰霊祭をぜひ執り行いたかった」、「私が憎悪するのは日本人ではなく、真実を見ようとせず、反省することを知らない日本の態度だ」と語った。
自分が誰に殴られて瀕死の状態に陥ったのかは語らないが、とにかくある21歳の日本軍将校がそのとき自分の命を救ってくれたのだそうだ。それで「命の恩人」の彼のために、後年、「霊魂結婚式」も挙げてやったという。
これに関連して2015年3月12日、人文学の集いである「二:牧会」が主催した「李容洙ハルモニの歴史の証言」での李容洙証言も聞いてみよう。(リンク:「私は「神風」性奴隷、考えるだけで…。悪い奴ら」)
当時17歳だった李容洙ハルモニは、日本の神風部隊の中にある慰安所に連れて行かれ、若い日本軍人に出会った。その軍人は慰安所で殴られ、拷問を受け、満身創痍になっていた李容洙ハルモニの手当てをしてくれた。その軍人はハルモニに「トシコ」という名前をつけてくれた。そしてベントー(弁当)とたくあんを持ってきてくれたこともあった。李容洙さんは、1998年に日本で、あのときに自分を助けてくれた日本軍人の名前が「ハヤカワ・キクショニ(?)」であることを知った。
ハヤカワは、ある夕方、李容洙ハルモニに「明日、死にに行かなければならなくなった」と言って、歌を教えてくれた。ハヤカワは、「トシコ、お前の両親の星もあるし、ぼくの両親の星もある。明日、ぼくが死ねば、星が一つ落ちるんだ」と言って歌を歌った。ハヤカワは、次の日に姿を見せず、その後も待ち続けたが来なかった。1945年5月の沖縄戦で死んだという。
李容洙が霊魂結婚式のとき、これとは違う「長谷川」という名で呼んだ21歳の日本軍将校は、この「ハヤカワ」であると推測される。日本軍将校は、李容洙を「トシコ(年子)」と呼んでくれたそうだ。
今回も、誰に殴られ、拷問されたかについての話はない。以前、李容洙は慰安婦業者に電気拷問を受けたということを告白したことがあるので、これは日本軍ではなく、結局のところ慰安婦業者の仕業と見るほかないだろう。
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キャプション▲日本軍慰安婦李容洙は、1998年、日本軍将校のために霊魂結婚式(慰霊祭)まで執り行ったという「ハンギョレ」の記事
ここで、李容洙は、むしろ日本軍将校、もちろんある特定の個人の場合であろうが、彼から大きな恩を受けたことを告白している。これは一貫した証言なので本当のことと思われる。何十年も経ったのに忘れられないほど、真実の恩だったのだろうし、軍人のほうが逆に死んでしまっているので、その軍人が、太平洋戦争で実際に米軍を殺して回った日本軍将校だったという点さえ除けば、なんだか粛然とした気持ちにさせられる。
問題は、李容洙の上のような証言が、現在の挺対協の日本軍慰安婦運動に関するもともとの趣旨を揺さぶっているということだ。
挺対協は、慰安婦を強制連行し、むごい行為をした主体が「日本軍」だったと主張する。李容洙の証言は行ったり来たりしているとはいえ、強制連行をしたのも、むごい行為をしたのも、「慰安婦業者」だったという。たった一回のことにすぎないかもしれないが、いずれにせよ「日本軍」は、むしろ自分の命を救ってくれたという。
「日本軍」による慰安婦虐待がなかったと言うつもりはない。この点に関して、挺対協の立場と李容洙の立場が異なることもあるということだ。
このような状況で、挺対協は、生存している日本軍慰安婦の中で、ほかでもなく李容洙を「代表」として押し立て、日本政府を相手に謝罪と賠償を引き出すことができるのだろうか。
李容洙の証言の中で、それなりに一貫していて、状況からみて信じるに足る証言が、挺対協が主導する慰安婦運動の趣旨を根底から覆しているというのは、本当に皮肉なことと言わざるをえない。
日本軍慰安婦李容洙(1)
日本軍慰安婦李容洙(3)