どうも、solobochiのbochiです。
前回記事↓↓の続きです。
目次
3.人について
「好きな人と、好きなことして、生きる」
「好きな人と、好きなことで、稼ぐ」
「好きな人、visionを共有した人と、働く」
好きな人の"人"の部分についてですが、なにも別に以前の職場の人が嫌いだったわけではない。
一部の上司を除き特に後輩や同期など人間的には好きな人が多かった。
ここでいう"好き"は人間的に好きというよりは、visionを共有できるとか、価値観が合うといった観点での"好き"。
その意味で以前の職場では好きな人、価値観の合う人、visionを共有できる人がいなかったので、その反動もあってそういった人たちと働きたいと思うに至った。
ではどういう人が多かったのか。
まず、若手。若手は基本的には憧れの大企業に入社することができて喜びと誇りを持って現場に配属される。そしてなにもできない自分となんでもできる先輩の差に慄き、少しでも早く自分も一人前として戦力になれるように必死で頑張る。"勢いのあるベンチャーを蹴って人手の少ない大企業に来てやったぜ"、みたいな威勢の良い若手はそろそろ出てきても良いと思うけれど、実際に見た事はない。"まず手始めに大企業で社会を知って資金的にも知識的にもスキル的にも事業を始める準備をするんだ"、みたいな若手も出てきても良いと思うけれど、見た事はない。それなりに自信があれば大企業になんて来ずスタートアップに行くんでしょうか。
次に中堅。中堅は名実ともに一人前になった5年目以降。最近は人が少なくなった分若手でも裁量もった仕事をする機会が増えていて3年目くらいでも自称一人前を気取った人たちが増えてきていたけれど、謙虚さをなくしたら人はおしまい。昔に比べて組織が成熟して分業とマニュアル化が進んだことによって3年目くらいでもある程度仕事がこなせるようになったとは思うけれど、それで自称一人前とするのは大抵の場合は勘違い。1年目は自分でも周りからも半人前と思われていて認識が一致しているので問題ない。次のステージ、個人的には2年目のジレンマと呼んでいるけれど、2年目になると周りからは一人前の仕事を期待される一方で自分ではまだまだ半人前であることを知っているので、そのギャップを埋めるためにめちゃめちゃ努力して背伸びする必要がある。この背伸びが実はとても重要で、それが成長だったりもする。そしてこの次のステージが3年目以降。自称一人前だが実体及び周りからはまだ半人前だと思われている時期。勘違いから調子に乗りやすくなってしまう時期。その後色々な経験を経て5年目くらいでようやく名実ともに一人前の仕事ができるようになる。その中堅の話。中堅になると仕事はできるようになっている反面で仕事の限界、つまらなさを感じ、仕事に飽きてくる。中堅世代で仕事が楽しいといっている人間を私は見たことがない。(あくまでも私の周りの個人的な見解)そして中堅になると20代の後半、いわゆるアラサーとなる。ゆえに、およそこの時期に結婚する人が多くいる。仕事にも慣れてきてプライベートを充実させることに力を注ぎ、結果、結婚や出産、マイホームといった人生の節目を迎える人がとても多い。かくいう私もこの時期に同じようなことを考えていた。このまま結婚して定年まで働いて一生を終えよう、それもまた幸せだろう、という具合に。その頃は仕事に面白みを感じなさ過ぎて本当になんのために生きているのか分からなくなっていたので、結婚して生きる意味を見出そうとしていた部分もあった。そして結婚した中堅世代は守るものができることで、より一層保守的になりチャレンジをしなくなる。ごく稀に離婚して転職する人や結婚して子供もいるけれどもあまりにも仕事が退屈で耐えられずに会社を辞める人もいるが、全体から見ればまだまだ僅かに過ぎない。無意識のうちに知らず知らずに外堀を固められて、会社に一生身を捧げ、誰にでもできるよう組織化・分業かされた雑務を一生こなしていくことになる。この構図それ自体はどこの大企業でも当てはまるものだと思う。日本社会が高度経済成長期に最も効率的に生産活動を行うことができるように教育、文化の両面から築き上げてきた結果だと言える。中堅のこの期間に少しでも外の世界を見たり、勉強したり論文読んだりスキルアップしたり、そこまでせずともこれまで自分が関わってきた人たちとは違う人たちと触れてみるだけでも十分刺激を受けて考えるきっかけにはなると思う。思うけれど、なかなかそうはならない。社外の友人も所詮は自分と似たような教育を受けて似たような思想を持つ人とばかり話していても何も生まれない。そう考えるとこの社会は本当によくできていると思う。会社にとってよくできている。それは教育、文化含め様々な要素が大企業で定年まで雑務に身を投じて幸せを感じる"マシン"を生み出すようにできている。いい中学・いい高校・いい大学・いい会社に入るレールに乗ることで気づかないままに縛られている。
最後にベテラン。いわゆる管理職。ここは一番問題で、成れの果て。尊敬できる人も一部数える程度にはいるけれど、大抵はそうではない残念な人たち。誇張なしに"こうはなりたくないな"と思う方々がとても多いので、そういう上司にある意味では恵まれたことで、"このままここにいてはまずい"と思えたという側面もあるように思う。一部存在する尊敬できる人は、大企業のリソースやネームバリューをフルに活用して、自分のやりたいこと、自分の使命に生きている。でも大抵の場合そういうチャレンジははじめは芽が出なかったりするので、それをそのほか大勢の残念な人たち、"マシン"化された人材による雑用による安定収益によって支えていたりする。だから大企業でチャレンジできている人はその他大勢の雑用部隊による支えあってチャレンジできている。全員がチャレンジし始めたらこれだけ大きな組織を安定的に支える事はできない。この構図を経営層は意図的にやっているわけだけれど、現場レベルには落ちておらず、また広く雇用機会は開かれていない。いかにも日本らしいなと思う。無知なところから搾取して、全体最適を図りつつも、その方針はトップの一部でのみ情報を持ち続けて均衡を保つ。よくできてはいると思うけれど、魅力は感じない。社員が活き活きしていない会社はこの先、拝金主義が廃れた時に間違いなく淘汰されていく。
話が逸れたが、ベテランの話に戻ると、先述の中堅からさらに10年ほどたち35を超えたあたりからがベテランで、基本的には結婚し子供がいて家を買いローンを抱えていて、一生をこの会社で定年まで勤め上げることを心に決めている。色々なことを諦めて。本当は、というか、昔と今は環境が変わっているので、今はいくらでも再起できるのだから、たとえ守ものがあったってチャレンジできない理由にはもはやならないのだけれど、日々の忙しさと視野の狭さと自身の可能性のなさ等々の様々な"できない理由"、"やらない理由"を見つけて諦めてしまっている。もちろん繰り返しになるがそういう幸せもあるという事は否定しない。安定収入を得て人生の大半の時間を雑務に捧げて守るべきものを守っていく幸せ。何が楽しくて生きているのか理解することは難しいけれど、否定はしない。価値観の違いでしかないので。
一方で社内では部下も増え横を見れば近い年次の人間がそれなりのポジションについており、上を見ればかつての自身の直属上司が部門長になったりしてくるので、それなりのポストの人間とも顔が効くようになる。顔が効くので様々な調整も上手くなり、社内政治力がついてくる。社内で顔が効くようになり調整ができるようになることで、仕事ができると錯覚し、ますます自己肯定しプライドばかり高くなっていってしまう。だがその内実はというと、一歩会社の外に出れば何もできない、マーケットバリューゼロでプライドばかり高い人材なのだが自分でもそれに気づいていない。典型的な無知の無知。身内で固まって外の世界に出ていこうとしないので誰も教えてくれるわけもなく知ることもないので一生気づく事はできない。5年後10年後の日本、5年後10年後の業界、5年後10年後の会社、5年後10年後の自分のことについて何も分かっていない、visionがないのでそれらについてどうしたいという思いもない。ただひたすらに頑なに大事にしている事は直属の部門長や役員に褒められることだけ。もう、ぶっちゃけ目も当てられない、見ていられない。今のままずるずるいってしまうともれなく自分もそうなってしまうという猛烈な恐怖を覚えた。
総じて、日本の教育システムにおける優秀な学生の多くが大企業に入る。ただしあくまでも、"日本の教育システムにおける優秀さ"なので、すなわちそれは、「空気が読めて暗記する努力ができて反復練習する"マシン"化される素養を持つ人間」のことで、彼らが優秀とされて、大企業へ入る。彼らはその優秀さを遺憾なく発揮して一度入ったその会社に5年、10年、20年とい続け、やがてそのうちに外に目を向ける事はなくなり翼をもがれ、飛べない鳥になっていく。それでも、自分の身近な自分と似た環境にいる人たちもまた同様でありそれがマジョリティであるため、これが正しいと、安心してしまう。日本中そのような人たちであふれているのが現代の日本社会なのだから停滞感漂ってしまうのも必然だと思う。高齢化と医療技術の発達による寿命増加を受けての定年延長を考えると、会社員人生は45年から50年、それ以上にまで伸びる見込みを踏まえれば、およそ50年もの長い期間を雑務に捧げるような人生はあまりに耐えがたい。それよりは、リスクを取ってでもチャレンジしていきたいと思う。
また長くなってしまったので、続きは別記事にて。
以上