どくそだ

どくそだの自分探し

大人になること

今朝、紺色の制服を身にまとい、ランドセルを背負って、片手には黄色い傘を持っている小学生とすれ違いました。その瞬間、今更ではありますけれども、自分は、大人になってしまったのだということを実感しました。


制服やランドセル、学校用の黄色い傘に確かにノスタルジアを感じましたが、しかしそれ以上に、何だかその小学生とすれ違った瞬間、感受性の累減した自分と彼との対照を感じ取ったのです。


思い返してみると、小さい頃は何を見るにも胸をときめかせていたような気がします。通学路に生えている雑草、セミの抜け殻、バスの降車ボタン、スーパーに売ってるおもちゃ、テレビ、その他色々。全てが不思議で、興味深くて、ウキウキした気持ちを味あわせてくれたものです。


しかし、次第にそれらが当たり前になったからなのか、もしくはその不思議の謎が解けたからなのか、そんなものからは何の感動も得られなくなっていくのです。それを自分は感受性の累減と呼んでいます。


大人になるということは何かを学んだり、知ったり、得たりするということだと小さい頃には思っていましたが、それは確かに事実なのかもしれませんが、大人になるにつれて失うものもあるのだということを最近分かりはじめた気がします。少年の頃の気持ちを忘れずに大人になれる人なんて1つの例外もなくいないのです。


例えば尾崎豊は若くして多くの楽曲を世に出しました。しかし尾崎は晩年、少年の時に感じていた気持ちを思い出せないと言い、酷く苦悩していたという話を聞きます。その後の結末は読者様の知る通り、ハッピーエンドではありませんでした。これもまた感受性の累減による悲劇なのです。


自分も曲を作る時、昔の気持ちを思い出せず、大変寂しい気持ちになります。この苦悩が死ぬまで続くのか、もしくはこんな苦悩すらもいつかは思い出せなくなってしまうのか。大人になるということは何ともやりきれない、それこそ拷問のような現象だと思います。全てを忘れてボケ老人になる前に、自分も早いところ死んでしまった方がいいのかも知れません。

ある絵画

僕はある1枚の絵画に今日の自身の向かうべき道というのか、答えではないけれど生活のヒントと言えば幾分それらしい、そんなものを見出しました。それは、アンソニー・ヴァン・ダイクが23歳の折に描いた自画像です。


背景の暗褐色。黒褐色の服に雪色の襟と袖口。豊かな金髪を縮らせてフサフサと額に垂らしていて、伏目につつましく控えている青い神経質な鋭い目も、官能的な桜桃色の唇も美しく、キメの細かい女のような皮膚の下から綺麗な血の色が薔薇色に透いて見えるようでした。


初め見た時は、とにかく美貌の持ち主だと思いました。しかし、こんなにも美しいのに、どこか人間として無機質で、何とも言えない怪談めいた雰囲気のある絵にも見えました。気になった僕は少しこの絵について調べてみることにしました。そして調べてみると、この絵画の本質が見えてきました。


彼の作品は常に作後の喝采を目標として、病弱の五体に鞭打つ彼の虚栄心の結晶であると言われているそうです。


病弱であるがゆえの虚栄心。


美しいものを美しく表現する、もしくは醜いものを醜く表現する絵画は沢山見てきましたが、しかし、この絵画は違ったのです。醜いものを美しく表現していたのです。


それを知って、この絵の持つ不思議なパワーや雰囲気に納得することが出来ました。


最近自分は曲を作る際、歌詞で自分やそれを取り巻く世界をどう表現するかに悩んでいました。その行き詰まりの原因は、見えたもの、感じたものをそのまま表現しようとしていたことかもしれないです。たとえ虚栄であったとしても、醜い感情を時に美しく表現することもまた、芸術なのだと気づかされました。

存在意義

生きることと死ぬこと、もっと限定的な言い方をすれば、我々の生きている意味、意義。そんなことについて僕は時々考えることがあります。なにも僕だけじゃなくて、読者様も一度と言わず何度でも考えたことはあるかと思います。それには宗教的観念や社会的タスク、生物学的な観点など様々な見方があるし、個々によっても考え方は違うと思います。そんな中で、今回は僕の持っている生死感、僕の考える個人としての存在意義を分かりやすくお伝え出来たらいいなと思います。


結論から言うと、大きな尺度で言えば個人としての生きている意味なんてないと考えます。じゃあ小さな尺度で言えばあるのかと疑問を持つ人がいるかもしれません。確かにその場合は生きている意味は存在します。例えば、自分のため、家族のため、仕事のため、学級のため、こういった尺度で考えれば全ての人間に存在意義があります。ではその尺度をもっと広げてゆくと、社会のため、自然のため、地球のため、宇宙のため、銀河のため…こうなってくると見えてくるのは「虚無」です。だから僕は極論的に個人として生きている意味はないと答えたくなってしまうんです。


我々の存在意義の有無の、その答えが視野の広さで変わるなんて都合のいい話かもしれないですが、しかし、それは事実のように思われます。生きている意味の有無、人によって答えが分かれるかと思いますが、その分岐の理由は「価値観の違い」とも言えるし「視野の違い」とも言えるのです(宗教上の理由で思考を停止している方もいるかもしれないですが、その場合は例外)。そう考える理由を以下、詳しく説明させて頂きます。


まず僕が先に結論を述べたのは、結論を強調したかったからではなく、読者様に「階層構造」という物の捉え方をして欲しかったからです。階層構造というのは、例えば人体で言えば、「個体>器官>組織>細胞>分子>元素」といった具合に、ユニットが複数集合することで新しいユニットが階層的に出来上がってゆく構造のことを言います。僕の感覚としては地球から見ると「人間=細胞」だと思っています。つまり、人間にとっての細胞と、地球にとっての人間は同じ位置にある、言い換えれば、我々は地球という生命の細胞だということです。僕なりの宇宙規模の階層構造をざっくりと示すと「太陽系>地球>自然>社会>人間>…」といった具合になると思います。つまりは僕の感覚ですけども、人間という細胞があって、社会という組織を作る。社会という組織は自然という器官の一部であり、それらが集まり地球という個体を生み出しているということです。順を逆にすると、地球という生命には自然という臓器があって、その自然という臓器は社会などの組織の集合である。そして、社会という組織は人間という細胞が集まって出来ているということです。

 


地球=人間

自然=器官

社会=組織

人間=細胞

↑みたいな感じ

 


ここまで理解して頂けたなら、視野の違いによって存在意義の有無が決まるという僕の考え方もなんとなく分かって頂けるのではないでしょうか。最初に述べた通り、個人としての存在意義があるのはその人自身や、家族や、会社、学級など限定です。しかし、階層構造の規模が大きくなれば、我々の細胞が1つなくなっても生命維持に問題はないように、人ひとりの存在意義なんてものはなくなるのです。だから、自分の存在している世界の広さの認識によって、存在意義があったりなかったりするんです。


自分はこのように「生きている意味」を解釈していますが、生きている意味なんてないんだ、虚無なのだと割り切るのか、もしくは自分の存在意義が認められる規模はどのくらいかを理解し、その中で自分の存在を実感する術を考えるのか、更なる解釈は読者様にゆだねたいと思います。

腐敗脳

単独外出の許可が出たので、6時間という短い時間ではありますが、今日は10時から三ノ宮へ遊びに出ようかと思っています。時間に遅れないように前日から電車やバスの時間を調べて、ある程度の予定を立てておきました。病院食では食べれないものを食べたり、本屋を見たり、楽器屋へ行ってギターの試奏でもしようかと思っています。


しかし、久しぶりに外の世界へ出ると言うのに自分は全く楽しみではありません。長い入院生活によってか、あるいはそのずっと前からか、僕の脳ミソは楽しみや幸福を感じないようになってしまったようです。何をするのにも、その動機はあれど、楽しみはないのです。それが病気のせいなのか、大人になったからなのか、それとも…いや、その原因は分かりませんが、とにかく僕の脳ミソは腐敗してしまったような、そんな感覚が拭いきれません。とっても寂しい気持ちです。


なんだったら、このままどこか人目のつかない山奥にでも行って首を括ってもいいかもな、なんて思ったりもします。

夢を見ました。父と母が僕に暴力を加えてくる夢です。髪の毛を掴まれて、殴られていたような気がします。理由は覚えていません。


目覚めると朝の6時頃でした。早く忘れたかったし、起きても何もすることがなかった僕は泣きそうな気持ちで二度寝をすることにしました。


それから、寝て起きてを繰り返し、その間にいくつもの夢を見た気がします。中でも、僕の好きな女の子が出てきて「愛想が尽きた」と言われた夢を1番に覚えています。しかし、やっぱり理由は思い出せません。


そんな夢を見てから、9時頃に起きて、僕は活動を始めました。やっぱり泣きたいような気持ちでした。

夜の焦燥感

眠りにつこうと部屋の電気を消して、ベッドに入ると、なぜだか動悸がしてきて、異常なまでの恐怖の念に襲われます。いや、恐怖と言っては言い足りない何かです。

 

その正体は恐らく、「焦燥感」です。


仕事もせず、大学にも行かず、かといって遊びもせず、何のやりたいこともなく、無気力に親の金で生き延びているだけの自分がいて、一方で、周りは社会に与えられたタスクを幸福にこなしている。本当にバカバカしい話ですが、そんな現状に今更ながら焦りを感じているのだと思います。


僕はこんな調子のまま、親が死ぬまで、もしかしたら自身が死ぬまで何も変われないのではないだろうか。そんな焦りと恐怖によって、自分は夜々身悶えし、嘔吐感をもようし、大変苦い思いをするのです。


しかし、朝になると何事もなかったかのようにケロッとして、またいつもの無気力でだらしのない生活を繰り返すのです。


一体僕には何が足りていなくて、どんな不要な荷物を背負っているのでしょうか。自己啓発本も、誰かの優しさも、ニーバーの祈りも役に立たない。何もかもくだらない。本当に困った人間です。

発達障害

僕は現在、鬱病で精神科に入院しています。入院中には週に1回、カウンセリングを受ける機会がもうけられているのですが、今週受けたカウンセリングで僕は心理士さんに発達障害の検査を受けるように勧められました。


確かに、幼少期の頃の自分を思い返してみると、所謂「発達障害」を疑われるような行動をしていた自覚はありますが、まさか今になってそんな検査を受けることを勧められるとは、正直驚きました。病院側として「どくそだ」という人間をどのように解釈していて、どのような意図でそれを行うのかは分かりませんが、しばらく悩んだ末、自分はその検査を受けることにしました。


発達障害と呼ばれる、または発達障害と診断された人は前頭葉が云々…といった専門的なことは分かりませんが、今回は自分なりに検査を受けようと思った理由をお話ししようかと思います。


まず、人間はほとんどの場合、マイノリティかマジョリティかに分類されているように感じます。この国では脳内の幸福ホルモンがある値以上あり、社会生活を問題なく送れている人がマジョリティであり、そうでない、例えば僕のように極端に幸福を感じない、もしくは不幸ばかりを感じていて、社会生活をまともに送れない人間がマイノリティとなっていると思います。


そのような尺度で測られたマイノリティ側の人間は、マジョリティ側の人間に近づく為に病名を付けられて入院を強制させられる場合があります。その制度についての賛否をここで語るつもりはないですが、ほとんどの場合、マジョリティが良いもので、マイノリティはマジョリティに染まらなければならないかのような、そのような風潮が、マイノリティを迫害するこの国特有の風潮に繋がっているような気がします。


もちろん、生きづらさを感じている人間が科学の力を頼って、病院を訪れることは一切否定していませんし、マイノリティとされる人間に「Let It Be!」的なことを言いたい訳でもありません。


ただ病名というものは、もちろんその人の固有名詞とイコールではなく、あくまで医療的に都合の良いカテゴライズをした結果であるということを僕は伝えたいんです。


ですから僕は今回、星座占いとか、今日の運勢とか、そんな感じのテンションで発達障害の検査を受けてみようと考えたんです。自分は科学を全て信じきっている訳では無いので、自分の生活のちょっとした参考になればいいなといった具合のテンションです。


まぁ結論としては、真に受けない自信があった訳です。他人のカテゴライズした枠のどちらに居ようと、自分の生活に直接関係ない話なんですから。