今朝、紺色の制服を身にまとい、ランドセルを背負って、片手には黄色い傘を持っている小学生とすれ違いました。その瞬間、今更ではありますけれども、自分は、大人になってしまったのだということを実感しました。
制服やランドセル、学校用の黄色い傘に確かにノスタルジアを感じましたが、しかしそれ以上に、何だかその小学生とすれ違った瞬間、感受性の累減した自分と彼との対照を感じ取ったのです。
思い返してみると、小さい頃は何を見るにも胸をときめかせていたような気がします。通学路に生えている雑草、セミの抜け殻、バスの降車ボタン、スーパーに売ってるおもちゃ、テレビ、その他色々。全てが不思議で、興味深くて、ウキウキした気持ちを味あわせてくれたものです。
しかし、次第にそれらが当たり前になったからなのか、もしくはその不思議の謎が解けたからなのか、そんなものからは何の感動も得られなくなっていくのです。それを自分は感受性の累減と呼んでいます。
大人になるということは何かを学んだり、知ったり、得たりするということだと小さい頃には思っていましたが、それは確かに事実なのかもしれませんが、大人になるにつれて失うものもあるのだということを最近分かりはじめた気がします。少年の頃の気持ちを忘れずに大人になれる人なんて1つの例外もなくいないのです。
例えば尾崎豊は若くして多くの楽曲を世に出しました。しかし尾崎は晩年、少年の時に感じていた気持ちを思い出せないと言い、酷く苦悩していたという話を聞きます。その後の結末は読者様の知る通り、ハッピーエンドではありませんでした。これもまた感受性の累減による悲劇なのです。
自分も曲を作る時、昔の気持ちを思い出せず、大変寂しい気持ちになります。この苦悩が死ぬまで続くのか、もしくはこんな苦悩すらもいつかは思い出せなくなってしまうのか。大人になるということは何ともやりきれない、それこそ拷問のような現象だと思います。全てを忘れてボケ老人になる前に、自分も早いところ死んでしまった方がいいのかも知れません。