人吉市の概要
位置
人吉市は、熊本県の南部、人吉盆地の西南端に位置し、南は鹿児島、宮崎両県に接しており、熊本、宮崎、鹿児島の3都市へ約1時間でアクセスできます。
標高
105.7メートル
東経
130度45分45秒
北緯
32度12分36秒
地勢・気候
九州山地の連山に囲まれた盆地で、市域の面積は210.55平方キロメートル、市の中央部を日本三急流のひとつ・球磨川が東西に貫流し、さらに、南北から多くの支流が本流である球磨川に注ぎ込んでいます。
気候は、内陸性気候に属し、寒暖差が激しく、濃霧がよく発生します。年平均気温は15.6度、年間降雨量は2,361.5ミリメートルです。(2017年)
歴史、沿革等
「人吉(ひとよし)」の起源
この地方に人が住みはじめた歴史は古く、遺跡、遺物などから、すでに旧石器時代(紀元前2万6千年前ごろ)には人々が生活していたようです。時代が下って、縄文時代から飛鳥時代にいたっても、数々の遺構が出土しており、各時代、時代に人々が活発に活動していたことがうかがえます。文献にはじめて、地名が現れるようになるのは平安時代中期。まず、この地方の総称である「球磨」という文字は、南九州の有力な部族であった「熊襲(くまそ)」が「熊縣(くまあがた)」に、そして、いつしか、地名の「球磨(くま)」になったものといわれています。同じころ、「人吉」の地名も現れ、醍醐天皇(898~921年)の時代の「和名抄」に、球磨郡に球玖・久米・人吉・東村・西村・千脱の六郷があると出ています。人吉の語源は、人吉が、当時、日向(宮崎県)、薩摩(鹿児島県)佐敷(熊本県芦北町)を結ぶ交通の要衝であり、「舎」つまり、宿があり、これを“ひとよし”と読んでいたため、「人吉」となったとする説があります。
相良氏の統治と城下町
鎌倉時代初期に鎌倉幕府の地頭として、遠州(今の静岡県)から相良氏が入国しました。以後、相良氏は、幾多の戦乱を経つつも、明治維新までの約700年間、この地方の大名として一貫してこの地を治めてきました。このように鎌倉時代以来、大名として続いた“家”は、全国でも薩摩の島津氏のほかわずかしかありません。そのため、本市には国指定史跡の人吉城跡をはじめ、相良700年の歴史を物語る数多くの重要文化財が存在し、神社・仏閣、古い町並みなどが点在しており、今もなお落ち着いた城下町のたたずまいを残しています。
明治維新から“人吉市”の誕生
この地方は、明治4年の廃藩置県で人吉県に、続いて、八代県、白川県に属しました。明治10年の西南戦争の際には、薩摩士族軍の拠点として、総大将の西郷隆盛が数十日間滞陣しました。明治12年に藍田村の一部、大村の一部から市街地をとって人吉町が誕生、この地方の政治・経済の中心として発展しました。昭和8年に人吉町と大村が合併し、次いで、昭和17年2月11日、人吉町・藍田村・西瀬村・中原村が合併、熊本県内で3番目に市制を施行し、現在に至っています。
県境を越えた交流拠点へ
険しい山地に囲まれた内陸部にあることから、長く「陸の孤島」と呼ばれていましたが、近年では、平成7年九州自動車道全線開通、それに伴う市内幹線道路等の整備が図られるなど交通アクセスが飛躍的に高まっています。一方で、宅地の需要増大による市街地の広がりといった都市化の進展と下水道その他の生活基盤整備も進んでいます。生活、文化、産業などのあらゆる面で人吉球磨地方の中心として、また、宮崎県、鹿児島県との県境を越えた交流拠点都市として、その役割がますます高まっています。
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