預金口座の入出金をパソコンの画面上で確認でき、金融機関からの案内物もメールで受け取ることができる。ネット時代ならではの便利な銀行利用ですが、相続のタイミングではその簡便さが逆にあだとなってしまうことがあります。
現在のようにネット環境のインフラが広く普及し、通信の暗号化などのセキュリティー技術が一般化する以前は、個人の利用者と金融機関とのあいだのやりとりはすべてアナログの形で行われるのが当たり前でした。口座を作れば紙の預金通帳が発行され、金融機関からのお知らせや案内もすべてはがきか封書などで届く、というのがごく普通の光景だったのです。
それが現在では、一連のアナログのやりとりは利用者のニーズに応じる形でオンライン化され、省力化できるようになっており、事業者側にとっても印刷コストや郵送コストなどの削減につながっています。いまや昔と同じく現物で発行されるものといえばせいぜいキャッシュカードぐらいのもので、ケースによっては預金通帳も金融機関からのお知らせも大半がペーパーレス化を選択することができ、ネットだけで完結することができるような時代となりました。
「お兄さんの実印がまた必要になるなんて、そんな話はもうとっくに終わったと思っていたのに」「俺だって、いまさら兄貴に頭なんか下げたくないよ。でもさ、おふくろも知らなかったおやじの預金がいまになって出てきたんだ。書斎の引き出しにさ、おやじがマージャンゲームに使っていた古いノートパソコンがあっただろ。あれにはさすがのおふくろもノータッチだったから、あのパソコンで親父が使ってたネット口座が残ってるなんて、まさか思いもしなかったんだ」「でも、お兄さんのところとは、お父さんの遺産分けのいざこざ以来、もう3年以上もろくに挨拶だってしてないのよ」「それもこれも、みんな兄貴が悪いんだ。自分勝手なことばかり言いやがって、おふくろや俺の気持ちを逆なでするようなことばかり平気でやろうとしてたからな」「なんとか、お兄さん抜きでは進められないの?」「前の話し合いの時に全部カタをつけたつもりだったんだけど、話し合いがついてない口座が出てきてしまったからなあ。新しい財産が見つかった場合は、もう一度あらためて話をするという取り決めになってる」「念のため近所に支店がある金融機関はひととおり調べてもらったし、あれ以上、お母さんも知らなかったような財産が見つかるなんて考えてなかったものね……」「うまく話が収まればいいけどな。あの兄貴が相手じゃそれも難しいだろうなあ」
飛躍的に進歩したIT技術の恩恵で、以前は到底考えられなかったような金融機関の柔軟な利用形態が個人レベルで簡単に実現するようになりました。パソコンとインターネット環境があれば、誰でも来店不要で銀行取引を自宅で行えるのです。それどころか、一部の取引については現在ではもはやパソコンすら不要となり、携帯電話やスマートフォンひとつあればどこからでも自分の口座にアクセスできるような時代が到来しています。
同時に、預金通帳の内訳や金融機関からの通知についても、紙媒体を確認せずとも済むように変わりました。それらの情報はデータとしてオンライン化され、わざわざ記帳したり封書が届いたりするのを待たなくても、自分の好きな時に最新の情報がチェックができるという非常に便利な時代となっています。時代の流れとして、この利便性はさらに進化することはあっても、後戻りすることはないようにも思います。
しかし、こうした金融機関の情報のペーパーレス化は、ときに相続が起こったあとの遺産の把握を困難なものにしてしまう場合があります。通帳や取引リポートなどが物理的に残っているケースと比べて、デジタルな情報は遺族の目に触れない可能性も高くなってしまうからです。故人が「インターネットバンキングを頻繁に行っていた」という認識が遺族にない状態だと、あえてネット口座の存在を調べるという発想はなかなか浮かんでくるものではないでしょう。
また、有人店舗を展開せず戦略的にネット上のサービスを充実させている金融機関などでは、利用者の意識もサービス提供者側の目線も共通して「アナログのものは極力避け、すべてがオンラインで完結する」という方向に向きがちでしょうし、それが利用者の満足度のアップにつながっているという側面もあるように思います。そうしたことを反映してか、ネット系の金融機関の中にはユーザーが希望すれば紙のリポートを有料で発行してくれるところもあるようですが、なかにはそもそも紙媒体発行のオプションの設定自体がないという徹底したサービスのところもあるようです。
そうなると、例えば普通預金の口座を開設したとして、開設当初のアナログな書面のやりとりとキャッシュカードの受領以降は、基本的にオンラインでのパソコン操作かメールの受け取りだけで済ますことができるようになるということです。もしそのまま利用者が途中で亡くなってしまったとしても、口座が自動的に止まるわけではありません。オンラインでの入出金リポートやメールでの通知は滞りなく続くので、表面上は誰も気づかないままに年月だけが流れる……ということも十分にありえる話となってしまうのです。
もちろん、利用者のところに販促のためのキャンペーン情報などが郵送されてくる可能性は残りますが、それも必ず相続発生前後の、遺族がうまく気がつけるようなタイミングで送られてくるとは限りません。また、機関によってはネット利用での安全性を高めるための小型端末(トークン)の交換の案内が定期的に送られてくるところもありますが、これも数カ月といった短いスパンで交換されるものではないので、間が悪ければ死後何年も経過してから初めて届くということも起こってしまいます。
このような状況は、国内の金融機関だけではなく、海外の金融機関についても同じような事情のところが少なくないでしょう。国内、国外を問わず、オンライン上の取引が中心となる金融機関では、通帳や案内物はペーパーレスで手元には残っておらず、唯一キャッシュカードだけがすべての手がかりである、という可能性が否定できないケースがあるということです。これは存命中の本人にとっては簡便さという点で大きなメリットでもあるのですが、同時に死後の遺族にとっては相続上では「高リスク」な状態でもあるのではないでしょうか。
こうした、キャッシュカード1枚なくなってしまえばすべてが闇の中……という不安定な状態をカバーするためには、別の手段で相続人への情報共有をしておくということが欠かせないようにも思います。簡易なところでは、自分に万が一のことがあっても発見されるような方法で財産メモやエンディングノートを準備しておき、そこにネット口座の詳細も書いておく、という程度からでもよいでしょう。
オンライン完結型の金融機関の便利さや快適さは、ネット社会を生きる我々ならではで享受できる現代的な価値のひとつであるようにも思います。せっかくの「時代の恩恵」なのですから、その魅力を相続トラブルで減じてしまうことのないように、なるべく普段から注意を払っておきたいものです。
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(かわらだ・けいた)1976年大阪生まれ。司法書士・宅地建物取引主任者。2001年3月、京都大学法学部卒。在学中に司法書士試験合格。02年10月、かわらだ司法書士事務所開設。05年5月、司法書士法人おおさか法務事務所代表社員就任。資産運用や資産相続などのセミナー講師を多数歴任。
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