34代斎院 範子内親王
名前の読み(音) | 名前の読み(訓) | 品位 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
はんし | のりこ | 准三宮 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
両親 | 生年月日 | 没年月日 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
父:高倉天皇(1161-1181)
母:藤原成範女[小督局] |
治承元年(1177)11月6日 | 承元4年(1210)4月12日 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
斎院在任時天皇 | 在任期間 | 退下理由 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
高倉(1168~1180,父)、 安徳(1180~1185,異母弟) |
卜定:治承2年(1178)6月27日 (中御門南京極西前 中宮権大夫藤原重頼宅) 初斎院:治承3年(1179)4月9日 (左近衛府) 本院:治承4年(1180)4月12日 退下:養和元年(1181)1月14日 |
父上皇崩御 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
斎院在任時斎宮 | 斎宮在任期間 | 斎宮退下理由 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
功子(1176生,異母姉) 父:高倉天皇 母:藤原公重女 |
卜定:治承元年(1177)10月28日 (押小路万里小路僕家) 初斎院:不明(一本御書所) 野宮:治承2年(1178)9月14日 群行:なし 退下:治承3年(1179)1月11日 |
母死去 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
号:猫間斎院、六角宮、土用宮 院号:坊門院 土御門天皇准母、皇后宮 高倉天皇第二皇女。中宮平徳子(建礼門院)の猶子となる。 生母は『平家物語』で有名な桜町中納言藤原成範女・小督局(範子内親王を出産後、治承3年冬に出家)。 父高倉天皇の斎院に卜定され、卜定所とされた藤原重頼の中御門京極第(中御門大路南、東京極大路西)に遷御。しかし火災に遭い、典侍平瑞子(源有房の妹)の邸宅(冷泉小路北・室町小路西)に遷徒している。その後初斎院として入った左近衛府で着袴、腰結は父高倉天皇ではなく典侍が務めた(『玉葉』『百錬抄』)。 治承4年(1180)の異母弟安徳天皇即位後も引き続き斎院の任にあり、福原遷都の際にも紫野本院に留まったと見られるが、翌養和元年(1181)父高倉上皇の崩御により退下した。 退下後は前権中納言藤原光隆の後見を受け、光隆の邸宅・猫間第を御所としていたらしいが、この頃の消息は殆ど不明である。後に甥の土御門天皇即位に際し准母として立后、その後院号宣下にあたって修明門院・春華門院なども候補に挙がったが、坊門院で確定した。 『平安時代史事典』では、前斎院範子は寿永2年(1183)の法住寺合戦で大叔母にあたる33代頌子内親王の五辻第に避難、後に五辻第を相続したとする。しかし近年の研究で、法住寺合戦で五辻第に上西門院・皇后亮子内親王と共に避難した「前斎院」は、亮子の同母妹である式子内親王であろうとされ、範子ではなかった可能性が高い。また後鳥羽天皇や土御門天皇が方違行幸した五辻第の「前斎院」は、元々五辻第を御所とし「五辻斎院」と号した頌子内親王(承元2年(1208)没)であろう(※『猪隈関白記(大日本古記録)』の注では範子としているが、範子は建久9年の土御門天皇即位に際して立后しており、『猪隈関白記』正治2年(1200)11月17日条にも「皇后宮」と記載がある。従って、同年12月23日条の土御門天皇行幸記事にある「前斎院五辻第」の前斎院は範子ではなく頌子であり、これ以前の『猪隈関白記』『仲資王記』に登場する「五辻前斎院」も同様と思われる)。 【範子内親王の名前のこと】 『玉葉』(建久2年(1190)1月11日条)の女叙位記事に、「押筆申云、則子与範子<前斎院云々、>雖字異訓同如何、余(九条兼実)云、於女名者不憚同訓歟」とある。ここでは「則子」と「範子」の訓読みが同じであることが問題ではないかとされており、九条兼実は「女性名については同訓は問題ないのではないか」と答えている。この時範子内親王は15歳、斎院卜定からは既に12年が経過していたが、兼実や関係者は正しい訓を知っていたのであろう。これにより、「範子」の訓は「のりこ」でほぼ間違いないと思われる。 なおこの時叙位された「則子」については『玉葉』に姓の記述はないが、7年後の建久9年(1197)土御門天皇践祚において、『三長記』(同年1月11日条)に記された女官の一覧に「命婦 正六位上・藤原則子」の名がある。後鳥羽天皇の乳母は斎院範子と字もまったく同じ典侍「藤原範子」(卿局藤原兼子の姉)だが、他に「則子」という名の女官は見られないので、建久9年の「命婦藤原則子」が建久2年の叙位で問題とされたのと同一人物であろう。 ところで角田文衛氏の研究によると、当時女性の名は親の偏諱(かたいみな/親などの名前から一字を取って命名すること)をつけることが多かったという。よって小督も父藤原成範(しげのり)の偏諱をつけるとすれば「成子(しげこ)」か「範子(のりこ)」の可能性が高いが、娘の名が「範子」であることから、小督の本名は「成子」であろうとする(ちなみに上記の藤原範子・兼子姉妹の名も、父藤原範兼の偏諱である)。 また小督の父成範も始めは「成憲」と表記し、父藤原通憲(信西入道)の偏諱であったが、平治の乱以降「成範」に改めたという。この場合も「憲」「範」の訓が同じであり、この点からもやはり「範」を「のり」と読んだ可能性が高いと思われる。 なお参考までに、西行法師の俗名は「佐藤義清」(これも父康清の偏諱)だが、「憲清」「則清」「範清」とも表記し、「義」「憲」「則」「範」に共通する訓が「のり」であることから「のりきよ」であろうとされる。 参考図書: ・奥野陽子『式子内親王:たえだえかかる雪の玉水』(ミネルヴァ日本評伝選, 2018) ・角田文衛『日本の女性名』(教育社, 1980)※※2006年国書刊行会から復刊 ・宮内庁書陵部編『九条家本玉葉(12)』(明治書院, 2009) 参考論文: ・角田文衛「小督局と坊門院」(『王朝の明暗』p559-568, 東京堂出版, 1977) 【高倉・安徳朝の斎院卜定事情について】 範子内親王の父・高倉天皇が8歳で即位した1168年、当時の高倉のオバ(鳥羽皇女)や姉妹・姪(後白河天皇・二条天皇の皇女たち)で斎王候補に該当したのは、叔母の頌子内親王(鳥羽皇女、27歳)、異母姉の惇子内親王(後白河皇女、11歳)、姪の僐子内親王(二条皇女、11歳)の3人だった。このうち惇子と僐子は当時まだ内親王宣下は受けておらず、結局惇子が伊勢斎宮となったが、慌ただしく宣下と同日に卜定されている。 一方、賀茂斎院は先代六条天皇から引き続いて高倉の異母姉・式子内親王が留任となったが、その後1169年に病で退下。代わって同年僐子内親王が、続いて1171年に頌子内親王が相次いで交替したが、二人とも病のため短期間で退下(僐子内親王は退下直後に薨去)、さらに1172年には斎宮惇子内親王も伊勢で薨去してしまい、この結果1172~1175年まで斎王候補の皇女はまったくいなくなってしまった(しかも当時は高倉天皇本人も幼少のため、まだ自身の皇子女を望める年齢ではなかった)。 ◆1168年生存の内親王一覧 鳥羽皇女 ・統子内親王[上西門院](1126生,43歳) 前斎院 ・暲子内親王[八条院](1137生,32歳) 二条准母 ・姝子内親王[高松院](1141生,28歳) 二条中宮 ・頌子内親王(1145生,24歳) →1171年に斎院卜定 後白河皇女 ・亮子内親王[殷富門院](1147生,22歳) 前斎宮 ・好子内親王(1148?生,21歳?) 前斎宮 ・式子内親王(1149生,20歳) 斎院 ・休子内親王(1157生,12歳) 前斎宮 ・惇子内親王(1158生,11歳) →斎宮卜定 ※覲子内親王[宣陽門院]は1181生。 二条皇女 ・僐子内親王(1159生,10歳) →1169年に斎院卜定 ≪斎宮・斎院ならびに候補者系図≫ ●は斎宮、◆は斎院 鳥羽天皇 | ├─────┬──────┬──────┐ | | | | 後白河天皇 ◆禧子 ◆統子 ◆頌子 | [上西門院] ├─────┬─────┬────┬─────┐ | | | | | 二条天皇 高倉天皇 ◆式子 ●惇子 覲子 | | [宣陽門院] | ├─────┬─────┬──────┐ | | | | | ◆僐子 安徳天皇 ●功子 ◆範子 ●潔子 [坊門院] 1176年にようやく高倉の長女(第一子)功子内親王が誕生。続いて1177年に次女範子内親王、1179年に三女潔子内親王が生まれる。この結果、まず功子が1177年伊勢斎宮に、続いて範子が1178年賀茂斎院に卜定された(この卜定はかなり急いだものと見られ、範子は数え2歳とはいえ満7ヶ月での卜定だった)。これでひとまず伊勢・賀茂両斎王の不在は回避され、1180年の高倉譲位・安徳即位と福原遷都に際して斎宮功子は退下したが、斎院範子は引き続き斎院に在任している。しかし当時の皇女の人員不足、さらには源平合戦の混乱も影響して、その後安徳天皇・後鳥羽天皇の代に再び斎院不在の危機に陥ることとなった。 |
高倉天皇 | ||
史料 | 年月日 | 記述 |
玉葉 顕広王記 仲資王記 |
治承元年11月4日 | 【第二皇女(範子)誕生】 『玉葉』 或人云、(藤原)成範卿女<祇候内裏、年来通御云々、>此一両日之間有産事、皇子皇女之間、其説縦横、後聞、皇女云々、 『顕広王記』 (11月6日条) 左兵衛督(藤原成範)女子内女房香局(小督)、皇女(範子)有降誕事、二条京極南西角家、主家藤右衛門佐也、 『仲資王記』 (未入力) |
玉葉 | 治承2年3月1日 | 【斎院卜定について検討】 (未入力) |
山槐記 | 治承2年6月17日 | 【第二皇女(範子)参内】 (未入力) |
玉葉 山槐記 顕広王記ほか |
治承2年6月27日 | 【内親王宣下、並びに斎院卜定】 『玉葉』 (未入力) 『山槐記』 頭権大夫<光能>、奉院宣来臨、予著烏帽直衣謁之、有斎院卜定事、今上第二皇女<母左兵衛督(藤原)成範卿女、内女房、号小督殿、御歳二才、前治部卿(藤原)光隆卿奉養、日来坐彼卿七条坊門亭>今夜渡卜定所<中御門南京極西前中宮権大夫(藤原)重頼宅>(後略) 『顕広王記』 斎院卜定、今上第二皇女(範子)ー、母左兵衛督成範卿女(小督)、卜定所中御門京極<内宮少輔(藤原)重頼家、>御渡用上白御車、女房車々、上卿三条大納言(藤原)実房卿、弁右少弁(藤原)光雅、勅使源少将有房、勅別当越後守ー、宮主神祇少史伊岐致頼<本官差文>、御麻中臣為定、参官人権大副(卜部)兼友・(忌部)明友・(卜部)兼衡・(中臣)為定成、史(忌部)明茂・致頼・(忌部)致貞・(忌部)友平、 |
玉葉 | 治承2年8月14日 | 【斎院(範子)著袴以前、帛御装束著御の可否を右大臣兼実に諮詢】 (未入力) |
山槐記 | 治承3年1月10日 | 【東宮帯刀給所を宣下】 (前略)今日被仰下帶刀給所等云々、(中略) 帶刀給所、 院(後白河) 上西門院 八條院 中宮(平徳子) 本宮(言仁親王) 關白(松殿基房) 太政大臣(藤原師長) 左大臣(藤原経宗) 右大臣(九条兼実) 内大臣(平重盛) 大夫(平宗盛) 權大夫(藤原兼雅) 二位(平時子) 二位者中宮母儀也、 大宮(藤原多子)<近衛院后、(徳大寺)公能公女、> 皇太后宮(藤原忻子)<法皇(後白河)后、同居儀久絶、公能公女、> 女御(藤原琮子)<同然、(三条)公教公女、> 斎宮(功子)<當今(高倉)宮、故公重朝臣孫、> 齋院(範子)<當今宮、左兵衛督成範孫、> 前齋院(式子)<法皇宮、高倉三位腹、> 前齋院(頌子)<鳥羽院宮、春日殿腹、> 已上不被給之、皇后宮不御座也、(後略) |
玉葉 | 治承3年2月24日 | 【藤原経家、斎院勅別当に任命】 (未入力) |
山槐記 百錬抄 |
治承3年3月26日 | 【斎院卜定所焼亡】 『山槐記』 (未入力) 『百錬抄』 祇陀林寺并初斎院卜定所<中御門南。京極西。>焼亡。 |
玉葉 山槐記 |
治承3年3月27日 | 【斎院卜定所の焼亡を軒廊に卜する】 (未入力) |
山槐記 | 治承3年3月29日 | 【斎院卜定所焼亡のこと】 (未入力) |
玉葉 山槐記 |
治承3年4月3日 | 【賀茂社に奉幣。入御卜定、御禊定ほか】 (未入力) |
玉葉 山槐記 |
治承3年4月9日 | 【斎院(範子)、初斎院(左近衛府)に入る】 『玉葉』 (前略) 「斎院入御左近府、(頭書)」 今夕賀茂斎院(範子)、自里第<冷泉北室町西、左少将(源)有房朝臣宅、>入御左近府、上卿(源)雅頼卿、弁朝[重]方朝臣等参入、行事宰相中将定能為勅使、<即供奉、是例也、> 前駆、 左衛門権佐光長、 右衛門権佐(藤原)親雅、 左兵衛佐範能、 右兵衛佐(藤原)基輔、 左衛門尉平宗貞、 右衛門尉大江範信、 左兵衛尉藤為成、 右兵衛尉宮道清定、 已上御前、 左馬権助源国行、 右馬允平季久、 已上次第使、 左右京職・陰陽寮等供奉、 『山槐記』 今日初斎院(範子)<当今内親王、母右衛門督(藤原)成範卿女、内女房、號小督局>自冷泉室町西亭<左少将(源)有房妹典侍(平瑞子)宅也、本卜定所中御門南京極西、去月廿六日焼亡後、令渡此所給也>禊東河、令入左近府給<有可入御一本御書所之議、而前斎王至于去年御坐彼所、今年正月自野宮退出、被憚彼例云々>云云、伝聞、秉燈之後出御、別当<(平)時忠>被候御車寄、上卿源中納言<雅頼>、弁左中弁重方朝臣参入入行事云々、 |
山槐記 | 治承3年4月21日 | 【賀茂祭】 (未入力) |
玉葉 百錬抄 |
治承3年12月21日 | 【斎院(範子)著袴】 『玉葉』 (前略) 「斎院着袴之事、(頭書)」 又斎院(範子)着袴、<典侍(平瑞子?)結腰云々、> 『百錬抄』 賀茂斎内親王(範子)著袴<于時御坐左近府> |
山槐記 | 治承3年冬 | 【母小督出家】 (未入力) |
安徳天皇 | ||
史料 | 年月日 | 記述 |
山槐記 | 治承4年3月23日 | 【紫野本院造営中】 (未入力) |
山槐記 | 治承4年3月29日 | 【初斎院御禊雑事】 (未入力) |
吉記 | 治承4年4月1日 | 【初斎院御禊定】 (未入力) |
山槐記 吉記 |
治承4年4月6日 | 【賀茂社に奉幣、斎王(範子)不替を奉告】 (未入力) |
玉葉 吉記 |
治承4年4月7日 | 【斎院御禊点地、御禊及び祭日を勘申】 (未入力) |
山槐記 | 治承4年4月8日 | 【斎院入御のため灌仏会なし】 (未入力) |
玉葉 山槐記 明月記 |
治承4年4月12日 | 【斎院(範子)初斎院御禊】 『玉葉』 (未入力) 『山槐記』 今日初斎院<御年四歳、新院第一[二]御内親王也、母権中納言(藤原)成範卿女、號小督殿、即新院(高倉上皇)女房也、生此宮之後不参、去年冬為尼、生年廿三也、有子細歟、不知其由、前治部卿(藤原)光隆卿奉養之、中御門南京極西前中宮権大進(藤原)重頼宅為卜定所、去年三月廿六日焼亡、仍遷御冷泉北室町西、左少将有房妹室[宅]、其後入御左近府、今日禊東河令入本院給也、今上受禅之後不改之、近年絶斎王不御坐、或雖卜定不入紫野宮退出、今日已無障入御、神感炳焉物歟>禊東河入御紫野院、<近年紫野舎屋皆無實、近日俄造営寝殿、阿波遷任功、自餘又成功等云々>上卿新大納言<(藤原)宗家、卜定以後雅頼實家實綱等卿不遂奉行>宰相右中将<(藤原)實守、卜定以後無宰相、今度御禊歟>弁蔵人頭左中弁(吉田)経房朝臣、<卜定以後重方兼光等朝臣不遂奉行>外記少外記中原貞親、史左大夫大江盛直等也、蔵■方[人?]事蔵人宮内権少輔親経、蔵人平時房等奉行之、予自去五日宿東山、今日及晩<於近江河原近邊日入>帰三條之間、便立車於一條西洞院、密々見物、及亥剋行事官渡大路、先々儀白晝事也、後陵遅之甚、<先儀今度禊行、或不渡> 『明月記』 初斎院御禊、入御紫野云々 |
山槐記 | 治承4年4月15日 | 【賀茂祭】 (未入力) |
玉葉 山槐記 吉記 明月記 ほか |
治承4年12月2日 | 【斎院相嘗御神楽】 『玉葉』 (未入力) 『山槐記』 (前略)齋院(範子)相嘗御神楽云々、今月延引、自新院被催上達部殿上人、殿上人可取拍子云々、依上皇御子有嚴重儀歟、後聞、中御門大納言、<宗家、>右兵衛督(家通、)參入云々、(後略) 『吉記』 (未入力) 『明月記』 (未入力) |
玉葉 明月記 ほか |
治承5年1月14日 (養和元年) |
【父高倉上皇崩御。斎院(範子)退下】 (未入力) |
後鳥羽天皇 | ||
史料 | 年月日 | 記述 |
玉葉 | 建久2年1月11日 | 【女叙位。前斎院(範子)の名前のこと】 此日、女叙位也、(中略) 至于中宮(九条任子)御給之処、押筆申云、則子与範子<前斎院云々、>雖字異訓同如何、余(九条兼実)云、於女名者不憚同訓●、申后(藤原)安子者名人也国母、然而高陽院(藤原)泰子也、況於已下哉者、定長伏理叙之、(後略) ●=欤(歟の異体字。こちらを参照(字源)) |
三長記 女院記 |
建久6年10月22日 | 【前斎院(範子)、准三宮】 『三長記』 前斎院(範子)准妃事被宣下云々、 『女院記』 <範子> 坊門院 高倉院御女。土御門院准母儀。 治承元年誕生。同二年六月廿七日内親王。卜定。賀茂齋院。<年二。> 建久五年八月退下。同六年十月廿一日准三宮。<年十九。>(後略) |
明月記 | 建久9年1月6日 | 【叙位。範子内親王年給】 (未入力) |
明月記 | 建久9年1月8日 | 【範子内親王立后のこと】 (未入力) |
土御門天皇 | ||
史料 | 年月日 | 記述 |
明月記 | 建久9年1月25日 | 【範子内親王立后のこと】 (未入力) |
三長記 明月記 三中記 師直記 |
建久9年2月14日 | 【前斎院(範子)、入内】 (未入力) |
猪隈関白記 | 建久9年2月20日 | 【土御門天皇、内裏へ遷幸。前斎院(範子)同輿】 (未入力) |
明月記 | 建久9年2月28日 | 【範子内親王立后のこと】 (未入力) |
猪隅関白記 ほか |
建久9年3月3日 | 【土御門天皇即位。範子内親王、皇后宮に冊立】 (未入力) |
猪隅関白記 | 建久9年6月4日 | 【皇后宮(範子)入内】 (未入力) |
猪隅関白記 | 建久9年11月17日 | 【三位中将兼基慶申。皇后宮(範子)へ参上】 (未入力) |
明月記 | 建久10年1月9日 (正治元年) |
【叙位。皇后宮(範子)御給】 (未入力) |
明月記 | 建久10年2月22日 (正治元年) |
【春日祭。皇后宮(範子)使あり】 (未入力) |
明月記 | 建久10年4月24日 (正治元年) |
【賀茂祭。皇后宮(範子)使あり】 (未入力) |
明月記 | 正治元年7月11日 | 【皇后宮(範子)行啓のこと】 (未入力) |
明月記 | 正治2年11月11日 | 【皇后宮(範子)入内】 (未入力) |
明月記 | 正治2年11月14日 | 【皇后宮(範子)帰参】 (未入力) |
猪隈関白記 | 建仁元年3月7日 | 【土御門天皇、五辻第へ方違行幸。皇后宮(範子)同輿】 (未入力) |
猪隈関白記 | 建仁元年4月8日 | 【灌仏会。皇后宮(範子)へ公卿参上】 (未入力) |
猪隈関白記 | 建仁元年6月8日 | 【土御門天皇、内裏へ行幸。皇后宮(範子)同輿】 (未入力) |
明月記 | 建仁3年1月6日 | 【叙位。皇后宮(範子)御給】 (未入力) |
明月記 | 建仁3年7月17日 | 【皇后(範子)大進名前】 (未入力) |
明月記 | 建仁3年11月18日 | 【皇后(範子)大進名前】 (未入力) |
明月記 | 建仁4年1月6日 | 【叙位。皇后宮(範子)御給】 (未入力) |
明月記 | 建仁4年2月23日 | 【仁王経法結願。皇后宮(範子)権大夫名前】 (未入力) |
明月記 | 建仁4年4月13日 | 【春秋除目。皇后宮(範子)亮名前】 (未入力) |
明月記 | 建仁4年4月16日 | 【賀茂祭。皇后宮(範子)大進名前】 (未入力) |
明月記 | 元久2年4月10日 | 【祭除目。皇后宮(範子)当年二分代のこと】 (未入力) |
明月記 | 元久2年4月20日 | 【賀茂祭。皇后宮(範子)使のこと】 (未入力) |
明月記 | 元久2年閏7月21日 | 【皇后宮(範子)御母儀のこと】 「向高倉院督殿(小督)宿所<皇后宮(範子)御母儀>訪病事(頭書)」 昏黒、行向高倉院督殿(小督)宿所<皇后宮(範子)御母儀>、月来病悩、被待時之由聞之、年来於此辺聞馴之人也、仍訪之、女房出逢、即帰宿所、 |
明月記 | 元久2年11月30日 | 【皇后宮(範子)御給】 (未入力) |
猪隈関白記 | 元久3年4月22日 (建永元年) |
【賀茂祭。皇后宮(範子)重服により使なし】 (未入力) |
三長記 百錬抄 一代要記 公卿補任 |
建永元年9月2日 | 【皇后範子内親王、坊門院の院号宣下】 『三長記』 (未入力) 『百錬抄』 有院号定。皇后宮(範子)●為坊門院。 『一代要記』 (土御門天皇) 前后(中略) 坊門院<範子、 高倉院女、治承二ー 月 日爲齋院、號猫間齊院、■■[建久]九ー帝御母儀、建永元ー九月二日院號、元皇后宮、> (後略) 『公卿補任』 (未入力) ●=軄(身+音+戈。職の異体字。こちらを参照(字源)) |
猪隈関白記 明月記 吾妻鏡 |
承元2年閏4月15日 | 【京都大火。坊門院(範子)御所坊城殿焼失】 (未入力) |
猪隅関白記 百錬抄 一代要記 ほか |
承元4年4月12日 | 【坊門院範子内親王崩御】 『猪隈関白記』(4月13日条) 早旦或人云、坊門院(範子)去夜半崩給了云〃、此一兩日雖悩胸給、非殊事、大略頓滅云〃、御年卅四云〃、高倉院御女、院(後鳥羽上皇)御姉、主上(土御門天皇)御養母也、件御在所一條南室町東也、(後略) 『百錬抄』 坊門院(範子)崩御。<御年三十四。> 『一代要記』 (土御門天皇) 前后(中略) 坊門院<範子、 高倉院女、治承二ー 月 日爲齋院、號猫間齊院、■■[建久]九ー帝御母儀、建永元ー九月二日院號、元皇后宮、承元四ー四月十三[二]日■[頓]滅、> |
猪隈関白記 | 承元4年5月4日 | 【坊門院(範子)薨奏】 (未入力) |
史料 | 記述 |
一代要記 |
土御門院天皇 (前后) 坊門院<範子、> <高倉院女、治承二ー 月 日爲齊院、號猫間齊院、■■[建久]九ー帝御母儀、/建永元ー九月二日院號、元皇后宮、承元四ー四月十三[二]日■[頓]滅、> |
帝王編年記 | |
本朝皇胤紹運録 |
(高倉天皇子) 坊門院[範子内親王。齋院。號六角宮。又號土用宮。承元四四月十三日崩。<三十四。>母成範卿女] |
賀茂斎院記 |
範子内親王 高倉院之皇女也。母成範之女。 治承二年卜定。 号坊門院。又号六角宮。又号土用宮。 承元三年四月十二日薨。 |
女院記 |
<範子> 坊門院 高倉院御女。土御門院准母儀。 治承元年誕生。同二年六月廿七日内親王。卜定。賀茂齋院。<年二。> 建久五年八月退下。同六年十月廿一日准三宮。<年十九。> 同九年三月三日皇后宮。<年廿二。> 此日天皇即位。准母儀。建永元年九月二日坊門院ト申。承元四年四月十二日御事アリ。<年卅四。> |
女院小伝 |
坊門院<範子>。土御門准母。高倉第一女。母中納言成範女。治承二六廿七日爲内親王。<勅別當越前守藤雅隆。>同日賀茂齋院。養和元正十四退下。<依高倉崩也。>建久九三三爲皇后宮。<依准母也。二十一。>建永元九二<庚辰>院號。<卅。>承元四四十二御事。<年卅四。> |