「川辺川ダム中止表明10年 明るい兆し、残る不安」(朝日新聞)

 熊本県の蒲島知事が川辺川の白紙撤回を表明してちょうど10年。毎日新聞の記事に続き、朝日新聞も川辺川ダムについての長文の記事を発信しました。
 熊本県の球磨川支流・川辺川に国直轄の巨大ダムを建設する川辺川ダム事業は、国の方針としては中止になっています。この状況をつくり出したのは、流域あげての反対運動の力ですが、川辺川ダムに懐疑的な姿勢を示し続けた潮谷・前知事が果たした役割も大きなものがあります。
 潮谷氏は2001年12月からの川辺川ダム住民討論集会を主導し、国土交通省の球磨川水系の治水方針を決める「河川整備基本方針検討小委員会」(2006〜2007年)では、川辺川ダムを前提とする基本高水流量の決定に反対、御用学者ばかりの委員会で反対意見を貫きました。

 民主党政権は川辺川ダムの中止方針を打ち出したものの、国交省はダム基本計画の廃止手続きをとりませんでした。前原大臣(2009年当時)が設置した私的諮問機関「今後の治水対策のあり方に関する有識者会議」は、ダム偏重の河川行政の見直しという期待された役割を果たすことなく、全国のダム事業にゴーサインを出す機関となってしまいました。
 ゴーサインを出すための仕掛けの一つが、ダム事業の建設目的を批判的に検証しないという、有識者会議が決定した検証方法です。たとえば、八ッ場ダムの主目的(治水と利水)は、過大な水需要予測と洪水調節効果によって正当化されていますが、現実から遊離した水需要予測や洪水調節効果を見直さなけれは、ダム建設は必要という結論に導くのは容易です。
 川辺川ダム事業においては、治水(洪水調節)の代替案がみつからないという理由で、事業中止がズルズルと先送りされてきました。熊本県におけるダム反対運動が下火になれば、ダム事業を復活したいという国交省の意図が見え隠れしています。

◆2018年9月15日 朝日新聞熊本版
https://digital.asahi.com/articles/ASL9F00YVL9DTLVB00P.html?iref=pc_ss_date
ー川辺川ダム中止表明10年 明るい兆し、残る不安ー

 川辺川ダム計画に蒲島郁夫県知事が「白紙撤回」を表明してから、11日で10年となった。清流が残された熊本県五木村では豊かな自然環境にひかれて観光客が増えるなど明るい兆しもあるが、水没予定地からの移転を機に多くの住民が村外に出て、残った住民は将来に不安を募らせる。ダムに代わる流域の治水対策の策定も難航する中、ダム建設計画復活があるのではないかと懸念する声もある。

観光客・林業 明るい兆しも

 かつて五木村役場や住宅が立っていた川辺川沿いの旧水没予定地には、公園が完成し、コテージでのキャンプやボルダリングなどが楽しめる広場の整備が進んでいる。そこから約70メートル上の高台に、16年前に移転した役場や、住宅などが整然と並ぶ。ただ、住宅街はひっそりとし、近くの道の駅から「五木の子守唄」の放送が聞こえてくる。

 「10年たって施設はできたが、人はおらん。村全体があきらめムードだ」。旧水没予定地から14年前にこの高台に移転した北原束(つかね)さん(82)はこぼした。最初はダムに反対だったが、国や県から強い要請を受けて妥協し、水没者団体の事務局長として補償や生活再建の条件交渉に取り組んだ。

 だが、ダム計画を機に移転した約500世帯の7割以上は村外へ出た。「病院、買い物、職探しなどが便利な人吉市などに流れてしまうのは仕方がなかったと思う」と北原さん。村の現在の人口は8月31日現在507世帯1116人。ピークの1959年9月(6299人)の2割足らずまで減った。「ダムに反対すればよかったと思う時もある。こんなに人が減らずにすんだかもしれないから」

 ただ、県と村が旅行会社へのPRを強化し、夏の川遊びを楽しむ村外の小学生の林間学校などが人気を呼んだ結果、この10年で村への観光客は12万人から17万人に増加。林業の売り上げも2・5倍に増えるなど明るい要因もある。

 川辺川ダム反対運動に取り組み、絶滅が危ぶまれるクマタカの生息域を粘り強く観察してダム工事の一部予定地を国交省に断念させたことで知られる環境カウンセラーの靎(つる)詳子さん(69)は「清流川辺川はとりあえず守られた。造られていれば、下流は水質がどんどん悪化していただろう。ダム建設をめぐる流域住民の分断も解消することができた」と評価する。

 一方、五木村の和田拓也村長(71)は白紙撤回に不満を隠さず、「(国がやる気になれば)ダム建設はまだ可能だ」とさえ言う。

 中心部がダム湖に水没する予定だった村は当初、ダムに反対していたが、国や県、下流域の市町村からの要請を受けて1982年に「苦渋の決断」として賛成に転じた。96年には本体工事に同意。ダムの見返りとして、地域振興のための国の補助金約400億円を見込んでいた。それを覆したのが知事発言だった。県は代わりに計約60億円の財政支援を決めたが、国から当て込んでいた額の2割に満たない。和田村長はダムが復活するなら「当初の国の補助金が期待できるので賛成する」と断言。ダムができなければ「国から得られるはずだった規模の村振興策を県にできるだけ実現してほしい」と訴える。

「ダムで水害防げぬ」当時の流域首長

 球磨川流域の当時の首長たちは今何を思うのか。

 蒲島知事の中止表明に先だってダムへの反対姿勢を打ち出し、知事の決断に影響を与えたといわれるのが相良村と人吉市だ。

 ダム建設予定地だった相良村の徳田正臣村長(59)は2008年8月末、「容認しがたい」とダム反対を表明。数日後に、ダム下流の中心都市の人吉市議会で、当時の田中信孝市長(71)が「白紙撤回」を言明した。

 徳田村長は「ダムで本当に治水はできるのか。自然環境を大切にする地域のほうが魅力を高めると考えた」と振り返る。田中元市長は「国土交通省や地元紙の住民アンケート、市の公聴会などで民意の多数がダム反対だった。ダムを造れば治水は安全だという国土交通省の考え方にも疑問を抱き、半年間考えて決断した」と当時の思いを語り、今年7月の西日本豪雨に触れて「ダムでは水害を防げないと、どんどん証明されている」と指摘する。

計画復活に警戒の声

 知事の「白紙撤回」後、「ダムによらない治水を検討する場」が流域市町村と県、国により09年から15年まで12回開かれ、その後「球磨川治水対策協議会」に名を変えて8回開催されている。国からは遊水池や放水路の設置、上流の市房ダム(水上村)の機能強化などが提案されたが、流域市町村によっては流水量が増えて危険が増すなど状況は複雑で、結論がまとまる見通しは立っていない。そんな中、ダム復活を警戒する声もある。

 ダム建設は中止されたが、ダムを前提に国交省が07年に策定した球磨川の河川整備基本方針は存続している。民主党政権は12年、ダム計画中止と併せて水没予定地の地域振興を支援するための特別措置法案を閣議決定。成立すれば特定多目的ダム法に基づくダム建設計画の中止が法的にも保障されるはずだったが、衆院解散で廃案となり立ち消えとなった。田中・元人吉市長と徳田・相良村長は「ダム計画の根拠法は残っている」と指摘し、「国はいつかダムを復活させたいのでは」と見る。

 地元にも、ダム計画の存続を前提にした組織が残っている。球磨川水系流域の市町村長でつくる「川辺川ダム建設促進協議会」。約30年前に発足し、年1回の総会で五木村の振興策などを協議し国や県に働きかけている。「建設促進とはおかしい」と09年に脱会を表明した相良村の徳田村長は昨年7月、正式に脱会を認められた。

 事務局が置かれている球磨村の柳詰正治村長(65)は「(川辺川ダム中止は)蒲島知事が言っただけで、法的に決まったわけではない。だから『建設促進』の名前を残している。五木村が流域市町村の要望を受け入れてダムに賛成してくれたのだから、我々には応援する責任がある」と語った。(村上伸一)
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〈川辺川ダム計画〉 県南部を流れる球磨川の支流、川辺川に国が九州最大級のダムを建設する計画を1966年に発表。きっかけは球磨川流域の人吉市などで63年から3年連続で起きた大水害で、下流域の洪水防止が目的だった。中心部が水没することになる五木村は猛反対したが、30年後の96年にダム本体工事に同意。その後、ダム利用の目的を広げた土地改良事業(利水事業)で農家の同意取得に不正があったと主張する住民らが2003年に福岡高裁で勝訴。ダム建設中止の機運に大きな影響を与えた。08年9月に蒲島郁夫知事が「白紙撤回」を表明、民主党政権下の09年9月に前原誠司国交相が建設中止を明言した。

◆2018年9月16日 朝日新聞熊本版
https://digital.asahi.com/articles/ASL952S9KL95TLVB005.html?iref=pc_ss_date
ー川辺川ダム中止表明10年 前知事と現知事に聞くー

  蒲島郁夫熊本県知事が、川辺川ダム計画の中止を表明して、11日で10年が経った。建設省(現国土交通省)が1966年に計画を発表して以来、40年以上にわたり人吉・球磨地方に深い対立を生んできたダム計画。ダムの必要性に疑問を投げかけ、議論を巻き起こした潮谷義子前知事と、計画を終わらせる決断を下した蒲島知事に、現在の心境を聴いた。(大畑滋生)

潮谷義子氏 気にかかる 地元住民の声

 ——知事在任中、推進、反対両派の主張を明確にするため「住民討論集会」を9回開き、広く議論を巻き起こした

 就任当初から、「命と財産をまもるためのダム」という国の主張に素朴な疑問を持っていた。ダム計画が持ち上がった当時とは経済の情勢も異なるし、農業も大きく衰退した。どうしてダムを造るべきなのか、しっかり明らかにする責務があると感じていた。

 当選直後、取材に「環境影響評価(アセスメント)を実施すべきだ」と答えたところ、県の職員から強くたしなめられた。当時、国や県は川辺川ダムは「環境アセス法の対象外」という立場。発言の修正を迫られた。ダム問題がいかに敏感で複雑かがわかった。

 ——ダム建設に対し常に疑問をぶつけていた

 国土交通省の球磨川水系の治水方針を決める「河川整備基本方針検討小委員会」(2006〜07年)には毎回参加した。委員の多くは国交省に従い、「ダムありき」の雰囲気を感じた。私は前日には上京し、専門用語が満載された資料を読み込んで勉強した。(ダムの建設根拠となる)国の示す雨量や洪水時の流量の計算に疑問を感じ、意見を申し上げたが、(ダム推進に)押し切られてしまった。

 地元のダム反対派の住民は毎回、東京・霞が関まで夜通し軽トラックを飛ばして傍聴をしてくれた。その姿を見ると、一歩も引けない気持ちになった。

 ——任期中、最後まで中止表明をしなかった

 実は、推進・反対派の双方から態度を明確にするよう求められていた。職員は推進派、反対派双方との関係と私との間で板挟みになり、苦しそうにしていた。

 反対の住民からは「そこまでやるなら、中止表明したらどうだ」という声もあった。でも、県が国の事業に中止表明をしたら、関連する地域振興策などもすべて中止になり、県が独自で行う責任が出てくる。流域市町村も当時はダム推進の立場をとっていた。

 ——川辺川ダムの中止表明から10年が経ちました

 あっという間だった。蒲島県政誕生後は、下流の人吉市がダム反対に転じるなど、地元の政治的な情勢も変化した。蒲島知事のダム中止表明は、とてもよかったと思う。その後、球磨川水系の新たな治水対策が決まらず、あれだけ盛り上がっていた地元住民の声も報じられなくなったことが気にかかっている。

蒲島郁夫氏 ソフト面の対策 より重要

 ——川辺川ダム計画を終わらせる決断をした経緯、心境は

 決断に苦しみを伴うことは就任前から覚悟していたが、それほどまでに苦しいとは、経験した人でないとわからない。就任直後に有識者会議で是非について検討を進め、流域市町村を含め、幅広く意見を聞いた。

 河川工学の面では、ダムを造る方が合理的に治水ができると有識者も認めた。しかし、最終的には「ローカルの価値観」が大事じゃないか、球磨地方の人々にとって球磨川の流れは守るべき宝ではないか、民意はそれを守りたいといっているのではないかと感じ、白紙撤回と結論づけた。

 ——国や(推進派が多くを占める)県議会と溝ができた

 (2008年の1期目の)知事選の時に「半年で決着をつける」と公約した。時間的緊迫性がないと先延ばしする傾向にある。もし決断がずれ込んでいたら、今回の災害対応(熊本地震)はやり遂げられなかっただろう。決断を早めたことで、国、県議会と関係を修復する時間があったというのは大きい。

 ——中止決断が残した意義は

 ダムはローカルな問題にとどまらず、人命の危険や自然環境と人間社会がどう向き合うのかという、きわめて今日的な問題ではなかったかなと思う。40年も国が続けてきた大事業を県がストップするという選択肢は、それまでほぼない。地方分権という大きな流れの中で「それができるんだ」ということを改めて感じた。

 ——水没予定地だった五木村の振興について

 白紙撤回のとき、五木村のことを考えると涙が出た、その気持ちを忘れないようにしたい。下流の安全のために多くの村民が移転されたわけだから、五木村の声に応えるのが一番大事だ。県庁内で、五木村振興基金に10億円、振興交付金50億円を積み上げて、期限を設けず有効に使ってもらうことにした。

 観光客は40%増加し、木材の販売も2・5倍に増えた。いい方に向かっているので、それを加速化するのが役割と思う。

 ——九州北部豪雨や西日本豪雨など、想定をこえる大規模水害が発生している

 堤防、ダムなどのハードだけでは安全は守れないということがわかった。災害発生前の予備避難や、住民同士の助け合いとか、ソフト面での対策がより重要になると感じている。