2004年05月21日

講座:去勢・中国(4)宦官の実態(エロくないです)


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宦官のうち、自ら進んでなったものは、明代にはたくさんいたようです。多くは貧農の少年です。苦しい賦役を逃れ、出世の糸口をつかむために、志願したのです。
ほかの時代には自分でなりたがる者は多くありませんでした。宦官手術はしばしば一種の刑罰でした。異民族の捕虜または犯罪者がちょん切られたのです。
経済的な事情で親に売られた少年もけっこういました。拉致された少年もいました。




正統的でない出自のせいもあり、宦官は忌み嫌われる存在でした。
三国志に出てくる曹操は、先祖のひとりに宦官がいたというだけで、差別をうけたことがあります。
あやふやな来歴。あやふやな性別。歴史における宦官の行状も、どうにでも転ぶあやふやさです。

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少数の高級宦官は、国の政策に関わることがありました。
まずは悪らつな高級宦官のお話です。
中国という国は何でもスケールが大きいのか、宦官の腐敗ぶりも度を越していました。賄賂、密告、追従、陰謀、虐殺。

罪もない学生や官僚を弾圧した宦官もいます。軍事力を持った宦官もいます。
ある宦官は仲間たちに、いかにして皇帝を役立たずにするかの心得を説きました。政治にうとく遊興に溺れるバカ殿を作り上げれば、宦官が権力を握れるからです。
北魏時代(4~6世紀)には、皇室の女と結婚して権力を持った宦官がいました。
17世紀の魏忠賢(ぎちゅうけん)という人は、賭博に負けたことにキレて、ついでに下も切ってしまったという、危ない人物です。皇帝に取り入り、秘密警察を作って全国に権勢を誇りました。 なんと文盲でした。
西太后に寵愛された小徳張(しょうとくちょう)は、全国の役人から莫大な賄賂を得ました。西太后への口きき代です。それを元手に商売を始め、いくつも屋敷をたてて、お妾たちを囲いました。

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次に、すぐれた行いをした高級宦官です。
あの有名な歴史家・司馬遷は宦官です。ただし歳をとってからなので、宦官とするにはちょっと疑問もあります。西の異民族に投降した人を擁護したために、武帝の怒りをかってちょん切られたのです。彼はショックのあまり自殺を考えましたが、歴史書を完成させるために生きることを選びました。
14世紀の鄭和(ていわ)は、七回も大航海をしました。東南アジア、インド、ペルシャ.......そしてアフリカはマダガスカル島にまで。西洋の大航海時代よりも少し前のことです。
2世紀の蔡倫(さいりん)は、良質な紙の製法を発明しました。
学問に秀でた宦官、西太后に直訴した宦官、農民の味方をした宦官もいました。

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最後に下級宦官の話です。
下級宦官は宮中のあらゆる雑役をこなしました。上司はいばりくさり、部下はこき使われました。下っぱは奴隷も同然でした。上の者の怒りをかえばいじめられるか殺されるかしました。
宦官は尿管のぐあいによって、よくおしっこをもらします。下っぱは体を洗うひまもなくて、異臭をたてていたのだそうです。
明代には宦官の数は最大十万人に達し、多すぎて餓死者が出ました(!)。清代には宦官制度の維持そのものがせいいっぱいで、みなボロい格好をしていました。
彼らが暗黒の宮廷生活から脱け出せるのは、老衰や病気が訪れたときだけです。働けなくなると無慈悲にも追い出されるからです。

豪奢を誇ったラスト・エンペラー溥儀が宮城から出ていったとき、多くの宦官がこれで救われると思い、手を打って喜んだそうです。


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本文との関係は1%ぐらいしかありません。マダガスカルの墓地に置かれた祖先の像。

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この記事へのコメント
どこかのお国の国会議員さんたちも去勢したら
二世議員、三世議員というのもなくなるかも?
Posted by もとやま しんいち at 2004年05月22日 09:55
年金払ってなかった議員先生は罰として去勢するとか.....。
Posted by 万里アンナ at 2004年05月23日 00:02