RADIKOのタイムフリーやエリアフリーにも慣れて、定期的に聴く番組が決まってきたのは昨年の春からだった。
最初は火曜の深夜24時からFm yokohamaでオンエアされていた『たまらなく、AOR』が、自分の波長と合っていると感じたことがきっかけになった。
それは選曲とDJを担当する田中康夫が話す解説の的確さと、落ち着いた語り口に負うところが大きい。
6月に入ってからはイタリアの歌手、ズッケロの特集が二週にわたって行なわれて、ぼくがリアルタイムで聴いてこなかった音楽との新たな出会いになった。
また新型コロナウイルスに感染して休んでいた脚本家の宮藤官九郎が、6月からレギュラーだったTBSラジオの『ACTION』に復活したことも、弾みになったような気がする。
昼の時間帯にAMラジオを聴いたのは、永六輔さんが存命だった頃の『土曜ワイドラジオTOKYO』以来だったように思う。
なんとなく懐かしさを感じてしまったのは、おなじTBSのスタジオだったせいかもしれない。
すでにTOKYO FMで20年以上も続いてきた山下達郎の長寿番組『サンデーソングブック』は、先週の予告でも触れていたように作・編曲家の服部克久さんを追悼する特別プログラムだった。
初めて服部先生と仕事をさせて頂いたのは1978年、ただいま、お聴きを頂いております竹内まりやのアルバム「リクエスト」のストリングス・アレンジをお願い致しました。日本の音楽を世界のレベルにするために、編曲という仕事を通して貢献してきた服部さんの作品を、山下達郎の解説付きで聴けたのは贅沢な時間であった。
一番最初のセッションが、この「けんかをやめて」でございました。
以来、33年・・
色々な形で助けていただきました。
竹内まりやの「けんかをやめて」を筆頭に「駅」や「素敵なホリディ」など、服部さんの仕事がまとめて聴けていい勉強にもなった。
その日の夜にはTBSラジオで午後8時から55分間、小泉今日子がひとり語りの生放送『あなたとラジオと音楽と』に出演する予定だった。
ところが仕事をしていたら8時20分をまわっていたことに気づいて焦ったが、タイムフリーで聴き直せばいいのだとわかって、途中からでもすぐに聴くことにした。
そうしたら80年代の洋楽中心だった番組の後半に、デビューが同期だという中森明菜について、リスナーのリクエストに応えるなかで、こんなコメントを聞くことができたのである。
「中森明菜さんは同期で、出身番組も年齢も一緒。同志といいますか、頑張っているとうれしい……。うん、同志です。この曲も大好きで、たまにカラオケも歌います」さらには「スローモーション」が終わってからも、「これがデビュー曲ってすごい!」と、素直に同世代ならではの本音を述べていた。
そういうリスナーとの距離感の近さと生放送の一体感が、ラジオらしい心の触れ合いにもつながってくるのだろう。
そこにはラジオというメディアの特性が表れていると思ったし、これからの時代に大切になってくるのではないかという気づきをもらえた。
日本でラジオの時代が本格的に始まったのは占領軍(GHQ)の統制下で、焼け跡からの復興が始まった1946(昭和21)年から49年にかけてのことで、唯一の放送局だったNHKがニュース以外に娯楽番組を流し始めたことに端を発している。
GHQは民主主義を徹底させる手段として、ラジオ放送の充実に力を注いでいた。
そのために戦時中は政府によって禁じられていた海外のポピュラー音楽が、『軽音楽の時間』や『ジャズのお家』といったレギュラー番組で聴けるようになったのだ。
また三木鶏郎の『日曜娯楽版』が始まって人気番組になったことで、そこから日本の新しい歌がいくつも生まれてきた。
それを熱心に聴いていてはがきにコントを書いて応募していたのが、中学生だった永六輔だったという。
高校に入ってから永六輔は三木鶏郎に認められたことで、早くも放送作家のひとりとして活躍し始めた。
そして1951年から民間放送の開局ラッシュが始まったラジオは、一気に全盛期を迎えたのである。
ところがわずか10年後にはテレビの時代になったことで、あっさりメディアの主役から外れてしまった。
カラーテレビの普及とともに歌謡曲に勢いがついて、若いスターが続々と誕生してきたのは、1960年代の後半からだ。
エレキブームやGSブームと相まってタイガースの沢田研二やテンプターズの萩原健一が、テレビや映画でも強烈な魅力を発揮し、若くしてカリスマ的なスターになっていった。
1971の秋に始まった日本テレビのオーディション番組『スター誕生!』からは、森昌子、桜田淳子、山口百恵による「花の中三トリオ」が登場した。
男性でも野口五郎と西城秀樹、郷ひろみの「新御三家」がブレイクし、テレビは若いスター歌手やアイドルたちを魅力的に見せる方向に進み、歌謡界は華やかさに包まれていった。
しかしその頃からラジオではフォーク歌手やグループによる自作自演の歌が流れるようになり、中学生や高校生たちのなかから熱心な支持者が増えていく。
新たに開拓されたラジオの深夜放送では北山修や吉田拓郎、谷村新司、さだまさしといった自作自演のフォーク歌手たちが、ハガキを媒介にしてリスナーと語り合うようにもなった。
そしてバンドマンだった加藤和彦、早川義夫、忌野清志郎、大瀧詠一、細野晴臣、さらには小椋佳や井上陽水、松任谷(荒井)由実といったシンガー・ソングライターによってつくられたアルバムが、自己の内面を音楽ならでは表現に昇華させる方向へと進んだ。
当初こそフォークやロックというジャンルにくくられて、やや異端児的な扱いだった彼らの歌や音楽は、数年後に「ニューミュージック」と呼ばれて歌謡曲と共存しつつ、いつしか主流になって現在に至っている。
そんな時代を経て残ってきたラジオというメディアには、これからも果たすべき役割がたくさんあるのではないか。
これまではずっと一極集中の時代のなかにいたわけだが、これからはメディアが分散していく傾向が強まっていくだろう。
だからこそ、そうした変化にも対応できるラジオの身軽さや、人の心と心の結びついていくことの素晴らしさに、未来の可能性や希望を見出したいとあらためて考えたのだ。
ラジオの原点を追求した永六輔さんの番組がCD化されているので、それを聴き直して勉強してみようと思っている。
自粛の期間が続く中で思ったラジオの過去と現在、そして未来への期待は、WHAT's IN? tokyoへ。