歴史秘話ヒストリア「スーダラ節が生まれた」戦後ニッポンを笑い飛ばした奇跡のコミックソング、植木等の… New!


出典:『歴史秘話ヒストリア「スーダラ節が生まれた」』の番組情報(EPGから引用)


2020/07/01(水) 22:30:00 ~ 2020/07/01(水) 23:15:00
歴史秘話ヒストリア「スーダラ節が生まれた」[解][字]

わかっちゃいるけどやめられない!戦後ニッポンを笑い飛ばした奇跡のコミックソング、植木等の「スーダラ節」。焼け跡から立ち上がった男たちが見た、日本人の本質とは?

番組内容
伝説のコミックバンド「ハナ肇とクレイジーキャッツ」のメンバー、植木等。音楽エリートからジャズの道へと進んだ異色の作曲家・萩原哲晶。闘病を経て、サラリーマン社会をシニカルに見つめる目をもった作家・青島幸男。3人のコラボが生んだ名曲「スーダラ節」だったが、なぜか歌うことを拒んだ植木等。その意外すぎる理由とは?レコーディング当日、意を決した植木が放ったこん身のアドリブとは?貴重な証言で真相が明らかに!
出演者
【出演】作曲家・舞台音楽家…宮川彬良,サックス奏者…稲垣次郎,娯楽映画研究家…佐藤利明


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歴史秘話ヒストリア「スーダラ節が生まれた」戦後ニッポンを笑い
  1. 植木
  2. スーダララッタ
  3. スイスイ
  4. スーダラ節
  5. スラスラ
  6. スイスイスイ
  7. 萩原
  8. クレイジーキャッツ
  9. 徹誠
  10. 青島
  11. ホレ
  12. 言葉
  13. 映画
  14. サラリーマン
  15. 音楽
  16. 時代
  17. 昭和
  18. 僧侶
  19. 誕生
  20. 当時


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病気もありながら
働いているという

先進諸国の中では
突出して働く労働者

今日は 日本人の記憶に刻まれた
ある歌の物語。

♬「チョイと一杯のつもりで飲んで」

♬「いつの間にやらハシゴ酒」

高度経済成長に沸く 昭和36年に発表。

売上は 記録に残るだけでも 80万枚以上。

自堕落な生活を送る
サラリーマンの姿を風刺しました。

歌ったのは 植木 等。

ハナ肇とクレイジーキャッツのメンバーです。

一体 なぜ この歌は
人々の心を捉えたのでしょうか?

♬「分っちゃいるけど やめられねぇ」

♬~

「スーダラ節」を作り上げたのは…

クラシックのエリートになる道を捨てた
音楽家。

胸の病気を患い

サラリーマン社会に乗り切れなかった
放送作家。

そして 実家の寺を飛び出した 若き歌手。

彼らの出会いは
それまでの歌謡曲を一変させました。

「スーダラ節」の魅力。

専門家の分析から分かったのは
大胆な音楽的工夫でした。

♬「ア ホレ スイスイ スーダララッタ
スラスラ スイスイスイ」

「ア ホレ」という
この魔法の言葉で

ここが 神が宿った
瞬間ですよね。

しかし この歌の誕生を前に
大きな壁が立ちはだかります。

肝心の植木が

歌うことを
拒んだのです。

葛藤する植木の背中を押したのは
父のひと言でした。

そして始まった…

やけのやんぱち。

もう レコーディングの…

♬「スイスイ スーダララッタ
スラスラ スイスイスイ」

戦後日本を笑い飛ばした
希代のコミックソング。

その誕生の裏にあった ドラマです。

♬「スーダララッタ スイスイ」

あ そ~れ! あ こ~りゃっと!

あ ほ~りゃ! あ~ そらっ!

は こ~りゃ!
終わった 終わったよ!

あ 済んだの? ご~苦労さ~ん!

♬~

「歴史秘話ヒストリア」。
今夜も どうぞ おつきあい下さい。

今日の主人公は
昭和の大スター 植木 等さん。

「スーダラ節」を歌い

映画「ニッポン無責任時代」では
サラリーマンを演じるなど

高度経済成長期のヒーローと
なりました。

当時 全国の小学生にアンケートした

将来 就きたい職業を見ると

男の子の1位と 女の子の3位は
なんと「会社員」。

時代の憧れを演じた植木さんは

どうして 「スーダラ節」を
歌うことになったのでしょうか。

(玉音放送)

挙国一致で突き進んだ戦争が終結。

街は一転 アメリカの文化に覆われます。

進駐軍の集まるクラブでは

夜な夜な ダンス音楽として
ジャズが流れました。

そこで必要とされたのは
本場にも負けない ジャズバンド。

音楽の道を志す若者たちにとって
給料も良く 憧れの仕事でした。

植木 等も また そんな若者の一人。

後に 日本中を笑いに包む男の運命は
ここから動き始めます。

植木の原点を語る貴重な品々が
今も残されています。

(取材者)あっ おはようございます。
どうも おはようございます。

植木 等 最後の弟子です。

これは 植木さんの家の玄関に
あったもので

私が もう12年
植木さんの弟子している間に

私が 毎日 玄関通って
横にあったもので…。

藤元さんは
遺品の管理を任されています。

大学時代から
軍需工場の慰問で歌を歌うなど

ステージの世界に憧れていた 植木。

レパートリーは

イタリア民謡「オー・ソレ・ミオ」と
歌謡曲の「男の純情」。

目指したのは 正統派の歌手でした。

1年後 植木は

当時 8, 000円もの大金をはたいて
ギターを購入します。

そのころ 長男が生まれたばかり。

生計を立てるため
ジャズ演奏の仕事に 目をつけたのです。

(藤元)これは 植木さんの字ですから…。

勉強… 練習したんでしょうね。

音楽に夢をかける若者たちが集った
ジャズ界。

植木は そこで
生涯の仲間に出会います。

その一人が

後に 「スーダラ節」を
作曲する…

温和で どこか とぼけた性格の萩原は
仲間から親しまれていました。

その才能は 傑出。

音楽雑誌の人気投票では

常に上位に入る
指折りのクラリネットプレーヤーでした。

それも そのはず 萩原は

音楽界のエリートが集う
東京音楽学校出身の実力者だったのです。

しかし その人生は
時代に翻弄されてきました。

戦時中 萩原は
陸軍の軍楽隊に入隊します。

子供の頃から大好きだった ジャズは
「敵性音楽」と呼ばれ

禁止されていました。

そして 戦争が終わると
萩原の運命は 大きく変わります。

<世は まさにジャズ時代>

萩原は
音楽エリートの道に戻ることなく

ジャズの世界に のめり込んでいきます。

一方 植木にも
あるバンドから 誘いが かかります。

その名は…

♬~

当時を知る…

植木と同じステージに
立っていました。

このバンドが目指していたのは

これまでのジャズとは 一線を画す
音楽でした。

お玉や フライパン。

ありとあらゆるものを
楽器として使う

奇想天外な音楽でした。

♬~

(破裂音や カウベルの音)
「アー!」。

♬~

正統派の歌手を目指していたはずの
植木は

コミックソングの世界に
足を踏み入れていたのです。

植木は 内心
複雑な思いを抱えていました。

しかし 半ば やけくそで
マラカスを振る植木の姿は

観客に大ウケ。

その才能に
めざといジャズマンたちが飛びつきます。

昭和30年。

ついに 伝説のコミックバンド

「ハナ肇とクレイジーキャッツ」が誕生。

植木は
ボーカル兼ギターとして加入します。

♬~

クレイジーキャッツ
そのステージ映像が残されています。

♬~

なかでも 植木のとぼけたキャラクターと
爆発力のあるギャグは

広く知られるようになります。

何 吹こうかなあ。
何 吹くの? 何 いこう?

お前 ところで 吹けんのかよ。
全然 吹けねえんだよ!

敗戦から 10年余り。

日本は 経済成長の波に
乗ろうとしていました。

人々が 豊かさの象徴として
求めたのは 「テレビ」。

音楽や笑いを
日本中に届ける役割を果たします。

クレイジーキャッツは
その テレビの人気者になっていきます。

昭和34年には 「おとなの漫画」

36年には 「シャボン玉ホリデー」が始まり
高視聴率を記録。

そこで この勢いに乗って

所属プロダクションの社長 渡辺 晋が

あるアイデアを思いつきます。

クレイジーキャッツのための歌を
作ろうというのです。

一体 どんな歌を作ればよいのか。

連日 会議が開かれました。

これといった決め手がない中

社長の渡辺が漏らしたひと言が
流れを変えます。

(植木)俺?
(渡辺)そうそうそう。 やってみ?

植木は 自身の鼻歌について
こう 語っています。

♬~(ピアノ)

植木の鼻歌を曲にする。

白羽の矢が立ったのは
かつてのジャズ仲間…

萩原は この前代未聞の曲作りに
大真面目にぶつかります。

なんと 萩原は 鼻歌を聴くために

植木に 四六時中 ついて回ったのです。

テレビ局への移動中にも
曲作りは続きました。

(萩原)もう一回 お願いします。

(植木)スーダララッタ スラスラ…。

(萩原)もう一回。
(植木)はぁ~… あ~…。

スイスイ スーダララッタ…。

観客から愛される
植木のとぼけた雰囲気を

萩原は 余さず 書き留めようとしました。

(萩原)最初から もう一度。

♬~

そして作り上げたのが あのメロディー。

植木の鼻歌が
「曲」に生まれ変わったのです。

そして 作詞を委ねられたのは…

クレイジーキャッツが出演する
テレビ番組の放送作家だった 青島は

歌詞に 自らの実体験を
重ね合わせました。

小学生まで 軍国少年だった青島。

戦闘機乗りに憧れた夢は
終戦とともに否定されます。

16歳で胸を患い
一人 部屋で伏せることも多く

青春を謳歌できなかった 青島。

大学の友人たちが

こぞって 安定したサラリーマンを
目指す姿を 横目に見ていました。

そこで選んだのは 放送作家の道です。

権力の在り方や 人々が信じる常識に
強い疑問を持っていた青島。

こうした 独自のサラリーマン像が
あの歌詞につながりました。

クレイジーキャッツを長年研究する
佐藤利明さんは

この歌詞には 青島が 日本社会に向けた
鋭い視線があるといいます。

そのホワイトカラー ねっ すばらしい。

青島は この歌を
「スーダラ節」と名付けます。

目まぐるしく移り変わる時代。

はぐれ者たちが 唯一無二の歌を
生み出そうとしていました。

植木 等さんが所属した
「ハナ肇とクレイジーキャッツ」。

たくさんのギャグを生み出し
お茶の間の人気者になりました。

こうした
一世を風靡したギャグ。

実は
メンバーの口癖から

生まれたものも
ありました。

例えば 「ガチョーン」は

谷 啓さんが マージャンをする時に
いつも言っていた口癖だったそうです。

そして ギャグと同じく

日常生活の中の ちょっとした言葉から
生まれた「スーダラ節」。

しかし ある大事件が起きます。

歌詞とメロディーがそろい

あとは 歌を吹き込むだけとなった
「スーダラ節」。

そこに起きた大事件とは…。

なんと 肝心の植木本人が

歌うことを
拒んだのです。

その理由は

植木の生い立ちに
ありました。

植木が歌うことを躊躇したのは
一体 なぜなのか。

その背景には 父の存在がありました。

植木 等は 三重県の村を
転々としながら育ちました。

今でも 植木一家が暮らしていた
場所が残されています。

石碑に刻まれているのは

「植木徹誠」の文字。

植木の
父の名前です。

34歳の時 浄土真宗の僧侶となった徹誠。

檀家が 山あいに散らばる
小さな寺を選んで赴任したといいます。

長いこと なかったんや。

貧しい暮らしの中でも

徹誠は 僧侶の務めだけでなく

県内を回り
社会運動にも 力を注いでいきます。

徹誠は ある村で
部落差別に苦しむ人たちに

こう 語りかけました。

徹誠が大切にしていたもの。

それは 浄土真宗を開いた
親鸞の教えでもある 「平等」です。

その思いを託し 3人目の息子に
「等」と名付けました。

しかし 植木一家に
大きな事件が起こります。

日中戦争に出征する若者たちに

徹誠が贈った言葉が きっかけでした。

号外だよ~! 号外~!

徹誠の発言は
時代に逆らうものでした。

ある日 等は
遠足の途中で 号外を拾います。

そこに 思想犯として逮捕された
父の写真を見つけました。

等の暮らしは 一変します。

(鈴の音)

仏説阿弥陀経。

十分な お布施をもらえず
次第に困窮する生活。

それでも等は
他者に尽くそうとする父の信念を

肌で感じていました。

等が芸能界に入ってからも
父の存在は 大きなものでした。

徹誠の姿を見て育った 等にとって

「スーダラ節」の 自堕落で
欲にまみれた サラリーマンの姿は

到底
受け入れられるものではなかったのです。

等は 思い余って
徹誠に 相談を持ちかけました。

♬「気がつきゃ ホームのベンチでゴロ寝」

♬「これじゃ 身体にいいわきゃないよ」

さあ これは…。

おやじの言うことを信ずるべきか

冗談じゃない
こんな歌 歌うかって言うべきか。

どうするべきかなあと思ったけども

歌った。

そして 昭和36年7月。

植木は 葛藤を抱えたまま

「スーダラ節」のレコーディングに
臨みます。

当時 新人ディレクターとして
その場にいた…

草野さんは 「スーダラ節」を聴いて
その新しさに驚きました。

当時のレコーディングは
歌唱と演奏の同時録音。

植木は 何度もテイクを繰り返します。

♬~

そして 植木が疲れきって
全てを投げ出した時

あの歌声が響きました。

♬「これじゃ 身体にいいわきゃないよ」

♬「分っちゃいるけど やめられねぇ」

♬「ア ホレ スイスイ スーダララッタ
スラスラ スイスイスイ」

♬「スイスイ スーダララッタ
スラスラ スイスイスイ」

♬「ア スイスイ スーダララッタ
スラスラ スイスイスイ」

♬「ア スイスイ スーダララッタ
スーダララッタ スイスイときたもんだ」

その場の誰もが どぎもを抜かれた
面白さ。

作曲家の宮川彬良さんは
その秘密を こう読み解きます。

まあ メロディーの正体としては…

(宮川)
♬「チョイト 一杯のつもりで飲んで」

(宮川)まさに…

♬「スイスイ スーダララッタ」
からは…。

♬「ドンタドン ドンタドン ドンタドン…」

♬「スイスイ スーダララッタ
スラスラ スイスイスイ」

ここで ラテンのリズムで 「バイヨン」っていう
リズムがあるんですけど

そのリズムに コロっと
変わってるっていうのは

この曲が ほんとに
スペシャルな肝のとこなんですよ。

リズムの転換点となったのは
植木がアドリブで放った ひと言。

♬「ア ホレ スイスイ スーダララッタ
スラスラ スイスイスイ」

♬「分っちゃいるけど やめられねぇ」

♬「ア ホレ スイスイ スーダララッタ
スラスラ スイスイスイ」

♬「スイーラ スーダララッタ
スラスラ スイスイスイ」

「わかっちゃいるけど やめられない」。

日本人の本質をついた
奇跡のコミックソング

「スーダラ節」が生まれました。

♬~

♬「スイスイ スーダララッタ
スーダララッタ スイスイ」

♬~

植木 等さんの父 徹誠さんは
「スーダラ節」を聴き

「親鸞の教えに通じるものがある」と
太鼓判を押しました。

その教えとは…。

いかに 仏の教えに身をささげても

悪い心が起こることを
断ち切れない。

晩年を迎えた親鸞が
自身の愚かさを吐露した一節です。

「スーダラ節」の「わかっちゃいるけど
やめられない」と重なってきますよね。

完成した 「スーダラ節」。

しかし その存在が 植木さんに
更なる葛藤をもたらすことになります。

父の言葉を信じ
「スーダラ節」を歌った 植木 等。

そこに ある映画の話が
舞い込んできます。

よう! おはよう!

サラリーマンが主役の その映画は
「ニッポン無責任時代」。

君ねえ 初日から遅刻とは
どういうこと?

部長さん 固いこと
抜きでいきましょう。

えっ?

♬「俺は この世で一番
無責任と言われた男」

真面目でコツコツなんて
そしらぬ顔。

植木が演じる 「無責任男」の映画は
次々と製作されます。

♬「たまに会社にいても
デスクじゃ いつでも居眠り」

♬「遅刻に早引け ズル休み
それでも社長になった」

青島と萩原のコンビが手がけた曲も
大ヒットを連発します。

♬~

♬~

♬~

♬~

♬~

植木の歌声は まさに 高度成長日本のBGM。

しかし そこに
大きな変化が訪れます。

♬「こんにちは(こんにちは)」

♬「世界の…」

♬~

<新宿は 新しい風俗が似合う舞台です>

1970年代。

オイルショックなどが起こり
高度経済成長は 終わりを告げます。

萩原は クレイジーキャッツの曲から離れ
ドラマ音楽の道へ。

青島も タレントや作家活動
政界に進出し

それぞれ 活躍の場を移していました。

自らの進む道に苦悩する 植木。

無責任男から脱却しようと
模索します。

それを物語るものが 今も残されています。

それは 短期間で公開が終了し
幻の作品と呼ばれていた

植木の主演映画 「本日ただいま誕生」。

シベリア抑留を経験した僧侶の
実話を元にした映画です。

僧侶の息子として育った 植木。

出演を 二つ返事で受け入れ
頭をそって臨むほどの意気込みでした。

(芝池)植木さんの気持ちが
ここに込められてんだなっていうのは

痛感しますね。

資金難に陥り 一時は
製作中止の危機を迎えた映画製作。

植木は 自ら金策に駆け回り
撮影継続に こぎつけたといいます。

嫌です! 両足切るなんて嫌です!

切らなければ死ぬぞ。

両足を失い 自暴自棄になる主人公。

しかし 僧侶となることを決心し

ある真理に たどりつきます。

よかったねえ。

足がなくなったんじゃない。

足は 初めからなかったんです。

観音様。 私 大沢雄平は

本日ただいま誕生いたしました。

今日からは
安住のすみかなど求めず

本当の生き方を探し求めます。

決して 多くの人の目には
触れることのなかった映画。

しかし この挑戦が

植木の「スーダラ節」や「無責任男」への
意識を変えました。

それは 人々が望む
「無責任男」のイメージを受け入れ

「スーダラ節」を歌い続けるという
決意でした。

♬「ア ホレ スイスイ スーダララッタ
スラスラ スイスイスイ」

それから10年。

バブルに沸いた日本に
「スーダラ節」は リバイバルヒット。

時代を笑い飛ばします。

♬「スイスイ スーダララッタ
スラスラ スイスイスイ」

♬「スイーラ スーダララッタ
スラスラ スイスイスイ」

♬「ア スイスイ スーダララッタ
スラスラ スイスイスイ」

♬「ア スイスイ スーダララッタ
スーダララッタ スイスイ」

やれ やれ やれ~!

2007年に
80歳で その生涯を閉じるまで

「スーダラ節」を歌い続けた
植木 等。

無責任男を

責任を持って演じ続けました。

あっ あ… あれ?
(歓声)

ハハハハッ!
(歓声)

終わりましたか? 終わりましたね?

ご~苦労さ~ん!

♬~

晩年の植木に贈られた
色紙を

今も大切にしています。

(藤元)これは 植木さんが
生前に 何かの記念の時ですかね

ふだん なかなか植木さんって
サイン 書いてくれないんですけど

これは 植木さんの方から

1枚 書いてやろうかって言って

私の目の前で 書いてくれたんですよね。

「わかっちゃいるけど やめられない」
っていう言葉を書いてくれたのは

やっぱり こう 何でしょう
この言葉の重みっていうかですね

いろんな言葉よりも
この ひと言っていうことは

やっぱ 植木さんが選び抜いて
書いてくれたのかもしれませんね。

♬「分っちゃいるけど やめられねぇ」

♬「ア ホレ スイスイ スーダララッタ」

戦後日本に生まれた
奇跡のコミックソング 「スーダラ節」。

誰もが弱さを抱えて生きる今日も

どこかで 流れ続けています。

♬~

♬「スイスイ スーダララッタ
スーダララッタ スイスイ」

♬~


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