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後れ毛というと、女の人が髪をまとめて、そこから少しこぼれてほつれた幾筋かの毛のことを指し、ぼくはあまりピンとこないのだが、人によっては色気を感じるポイントなのだとか。さて、その「おくれ毛」をタイトルに含む、「おせいさん」こと田辺聖子のこの本は、色、をテーマにしたエッセイ集である。「ベスト・オブ・女の長風呂」というシリーズ名がまたいい。最近、歳のせいか、カタカナの「オブ」しかも後に中黒(・)が付いているのをみると、「ジョイトイ」と続けるしかないという強迫観念につきまとわれているのだが、それもまた色に遠からじ。
後れ毛というと、女の人が髪をまとめて、そこから少しこぼれてほつれた幾筋かの毛のことを指し、ぼくはあまりピンとこないのだが、人によっては色気を感じるポイントなのだとか。さて、その「おくれ毛」をタイトルに含む、「おせいさん」こと田辺聖子のこの本は、色、をテーマにしたエッセイ集である。「ベスト・オブ・女の長風呂」というシリーズ名がまたいい。最近、歳のせいか、カタカナの「オブ」しかも後に中黒(・)が付いているのをみると、「ジョイトイ」と続けるしかないという強迫観念につきまとわれているのだが、それもまた色に遠からじ。
さておき、今回の課題図書を選ぶ段、図書館をうろついていると、まずこのシリーズ名が目に入り、なんだと思って見ればそのタイトルは「い」から始まっている。本を手に取り適当にページをめくり、そうかこの本は色というかエロというかエロをテーマにしているのだなと気づいて、改めて目次を開けば、最初から二番目の項目は「いらう女」とまた「い」で始まっている(「いらう」に傍点あり)。立ったまま楽しく読む。しかし、はて、近畿から離れた地方の方にも「いらう」(または「いろう」)という言葉の意味や語感は伝わるのだろうか。当たり障り無く言い換えるなら「さわる」ということになるから、「いらう女」とはつまり「さわる女」なのだが、それではこの語の持つ淫靡な響きがかなり失われてしまうように思う。同エッセイ中にあるように、「いらう」には弄ぶという意味合いが含まれている場合があり、ときとしてまわりをはばかるとか、うしろめたさを感じながら何かを「いじっている」という感じを醸しだす言葉である。ちなみにこの「いらう女」というエッセイの中身は、おせいさんが銭湯にいって湯船につかりながら、洗い場の人たちを観察するというものだ。あとは各人、自由に想像をめぐらせること。
それにしても、「色」「いらう」「いじる」「淫靡」「いたずら」など、「い」で始まる言葉はどこか「い」やらしいものがいろいろあって実によい。いや、別に「い」に限らなくとも、対象があまりおおっぴらにする類のものではなく、それでいて人々の並々ならぬ関心を集めるものであるために、その方面には同じものを指す言葉が多く存在する。比喩、言い換え、符牒など、影で流通する言葉には、遠まわしであるがゆえの、小声ならではの卑猥さがあって、だから楽しいのだろう。こうした言葉は広く流通した時点で、つまり何かを言い換えた表現ではなくなった時点で、そのいやらしさが失われてしまうのかもしれない。
おせいさんの生家は大阪の商家であり、使用人も入れると二十数人の大所帯であったため、彼女が娘のころには、女たちによる「80歳の曾祖母を筆頭に、大奥とでもいうべき、一大勢力圏」ができていたのだという。その大奥の片隅で、年端もいかないおせいさんが他愛ないマンガを読んでいる。その耳に、お局たちのあけすけな話が入ってくる。「もうあのおっさんは早うから、門口でオジギしてはンねンから」「ネソがコソする」続いてわきおこる笑い。聞きながら、正確な意味はもちろんわからないけれど、そこになにかワイセツな匂いを、子供ながらに感じ取っていたのだそうだ。
何かが今置き換えられたとか、隠されている何かが水面下を伝わったという感じは、言葉がわからなくても、なぜか十分に察知できる。言葉自体、あるいはそれが意味する対象自体は、知識として捉える限りでは、それほどたいしたことはない(もちろん始めて聞くことには、それなりの衝撃はあろうが)。それよりもむしろ、隠すような言葉を聞きそして使うことや、言葉を発する話者の感じ、聞き手の対応など、そうした周辺によって取り囲まれることで、いかがわしさの核心らしきものがそこにできてくるようにも思える。そのようにして存在する核心を直接的な言葉で指すことはできない。そう考えると、端的に表す決定版のような一言ではなく、狭い範囲でこっそり伝わる言葉というのは生き生きしているなあと思う。言葉自体の意味というより、使ってなんぼという点が、である。本書は、折に触れて色に関する言葉についての所感が述べられているから、知らない言葉を見るとそういうのもあるのかと感心するし、同じものを指す言葉がたくさんあると、みんな言い換えが好きなんだなあとニヤニヤし、そういう楽しみかたもできる本といえる。
さて、言葉によっていかがわしさを感じるといえば、個人的に薬局は外せない。今のドラッグストアでは見かけないが、以前、個人薬局の店頭には、いろんな病名、薬の名前や成分、効能などが書かれた紙がたくさん貼られていた。今でもときどき小さな薬局でなら見かけることがある。そこでは、「ガン」だの「ぢ」だのが、身も蓋もなく毛筆で大きく記されていて、傍点のように朱色の丸がつけられている場合もある。ぼくは幼稚園から小学校低学年にかけて鼻が悪く、蓄膿症で病院に通っていたのだが、あるとき薬局で「ちくのうの子供はバカになります」と墨で書かれているのを見つけてショックを受けた。鼻水がよく出るから集中力を欠くというのがその理由だったようなのだが、そうだとしてもなにもあんなに大きく発表することはないではないか、往来に向けて子供がバカになるとか普通書くものか?(いや書かない)と大いに憤慨したものだ。しかし、そうした、普段大きな声であまり言わないことがはっきりたくさん書き連ねられている様子に対して憤ったり、あやしい迫力を感じとったりしているその一方で、それらにまぎれ散在している、「絶倫」だの「まむし」だの「計画」だの、どうもはっきりしない言葉の一群にもバカな子供は目ざとく気づき、あれはあれであやしいと睨む昭和末期なのであった。
もちろん時が経つにつれ、それらの言葉にも慣れ、パッケージに描かれている亀や牡蠣の絵の意味もわかるようになってくるのだが、いまだに薬局の店先で「あれはいったい…」と思っている言葉があって、それは「オードムーゲ」である。ご存知だろうか。製品名だと思うのだが、響きがどうもいやらしい。あんないやらしい語感の単語をでかでかと掲示している店とはなんの店か。「オードムウゲ」なる表記も見たことがあって、これはこれであやしいと睨むんでいる。これが「オオドムーゲ」という架空の表記になると、とたんにいやらしくないのが不思議である。検索すれば、というなかれ。わかってしまえば、ひわいでなくなるのだから。
では和泉さん、次は「オードムーゲ」の、ちがう、「イブのおくれ毛」の「げ」でお願いしますね。