千五百七十七年 一月下旬
年が明けた。暦の上では天正四年(1576年)となり、史実に於いて信長が安土城の築城を開始した年となる。
作中では一年早く完成した安土城にて信長は新年を迎えている。尾張は勿論のこと日ノ本全体の情勢も、従来の歴史と比べると大きく変わりつつあった。
特に民の目線から見た織田家は隆盛を極め、逆に戦国最強の名をほしいままにしていた武田の凋落が著しい。
誰が口にしたわけではないが、新年こそは日ノ本の勢力図が大きく書き換わる激動の年となるだろうと考える者も多かった。
対する西国の雄たる毛利や、東国の
民たちの下馬評に依れば、自分達は順当に倒されて然るべきだと認識されており、またそれを覆せるだけの存在感を示せていないのも事実であった。
「いくさを始める前に勝敗は既についているって常々言ってるんだけれど、心情的にも蓋を開けるまでは判らないと思いたがるのが人情なのかな?」
そう呟きつつ静子は目の前に鎮座する漆塗りの重箱へと箸を伸ばした。彼女が口にしているのは四段重ねの重箱に詰められていた
展開された各々の重箱には昨年の暮れより仕込まれた料理がぎっしりと詰め込まれ、色とりどりの料理と重厚な漆器が織りなす対比が目を楽しませてくれる。
そもそも『おせち』とは、中国より伝わった
とは言え奈良時代の『おせち』は現代のそれと異なり華やかさとは程遠く、飯と
静子達が口にしているような重箱詰めのおせち料理が一般的になったのは、史実上では大正時代の頃だと言われている。
元々『おせち』という言葉は、五
因みに他の節句は、三月三日の
現代に於いても雛祭りに象徴される三月三日の『桃の節句』、子供の日として認識されている五月五日の『端午の節句』、織姫と彦星の物語や、願い事を書いた短冊を笹に吊るす『笹の節句』こと
「北条はこの
重箱とは別に用意されている
意外に思われるかもしれないが、甘い栗きんとんと辛口の清酒の組み合わせは相性が良く、また栗きんとんと対を成す蛤のお吸い物を口にすることで延々と食べ続けられてしまう。
現代にも伝わるような重箱詰めのおせち料理には、厳密な決まりが存在しない。その為、二段や三段のものから五段を超える豪華なものも存在する。
しかし、それでも
ただし、
これも後年に出来た作法ではあるが、重箱にも様式が定められており、外が黒で内が朱のものが正式な色合いとされている。
詰める料理にも定番が存在し、静子は一の重にかまぼこや黒豆の他に祝い肴を、二の重には鯛や鰤、海老といった縁起が良いとされる海の幸の焼物を、三の重には紅白膾や酢れんこんなどの酢の物を、与の重には里芋など山の幸を使った煮物を詰めている。
「お世辞にも農業に適しているとは言えない関東の地で王道楽土を作り上げ、関八州国家の盟主であり関東の王と呼ばれた手前、矛を交えずして降伏は出来ないってところかな? 武田侵攻が三月にも始まるから、それまでに我々の想定を超える起死回生の一手を打てないなら詰んだ状態は覆らないね」
「恐らくは史実通りに結論が出せずに滅ぶのだろうな。しかし優勢とは言え油断は禁物だ。
「勝って兜の緒を締めよって言うしね。一寸先は闇だよ、
慢心した挙句に詰めをしくじり、最後の最後で逆転されたら目も当てられない。世間的には東国征伐に一度失敗しており、
今回東国を攻めきれずに引き分けたり、ましてや敗北を喫したりした場合、織田軍全ての強さを疑われることになり得る。
ことは静子一人の失敗に収まらず、織田軍のひいては信長が天下人として相応しいかどうかを問われることになりかねない。
疑問を挟む余地すらない完全なる勝利を収める必要があった。
「東国が片付けば、程なくして毛利は落ちる。となれば残すは九州勢のみとなろう。そう言えば東北の伊達家はどうなった?」
「奇妙様が対北条戦の一環として色々と揺さぶっておられるけれど、中々良い返事がないみたい。ただし、これも時間の問題だと思う」
「北条に対する経済戦争の推移を見ても考えを変えぬのならば、次代を担う資格はない。残された猶予は少ないが、さて先進的な
「私達にも物流の限界があるから、早い段階で下ってくれれば奥州一帯の統治を任される可能性があるんだけれど……そこに気付けるかどうかだよね」
北条氏は関東一円だけに飽き足らず、東北へも手を伸ばし伊達や
名目上は結束しているものの、その実態は一枚岩とは到底言えない。伊達と蘆名は互いに勢力争いを繰り返しているし、佐竹はあくまでも協力関係にあるだけであり北条に従属している訳ではない。
地理的にも近畿から中部・東海地方を主軸としている織田連合に対する影響力は微々たるものだ。反織田連合というよりも相互不可侵及び、窮地に陥った際に相互支援するという枠組みというのが精々だ。
そうした状況を
勿論、二重三重に保険を掛ける意味でも、蘆名や佐竹に対しても揺さぶりを行っている。
史実に於いては伊達家が奥州を統一して東北の覇者となるため、将来性をも考慮している。しかし、現時点での
信忠は伊達家がこちらの調略に同調するならば良し、さもなくば頭角を現す前に捻り潰す必要があると考えていた。
「急ごしらえの連合は危うい。本願寺の第二次織田包囲網で気付くべきだったのだ。しかし、北条の重臣どもは成功体験に固執し、都合の悪い現実から目を逸らしておる」
「『船頭多くして船山に上る』ってね。民や配下の意見を良く聞き、共和制にも近い政治形態を実現しているのは見事だけれど、組織が肥大化するに連れて意思決定が鈍重になるのは避けられなかったんだろうね」
「いずれにせよ北条と我らは共存できぬ。並び立てぬ以上は滅ぼすのみ、どうせ散るのならば潔く散らせてやるのが武士の情け」
「うん、でも足満おじさんは佐渡島をお願いするね。出来ることなら手早く片付けて、応援に駆けつけて貰えると嬉しいかな。朝廷からの許可を得ているとはいえ、実効支配している本間氏が黙って従う道理が無いから充分に気を付けて欲しいな」
「分かった。
元より実力行使を念頭に置いていた足満だが、静子の希望とあっては遅参する訳にはいかない。さして選ぶつもりもなかった攻略手段が、早期解決を図るという大義名分のもとに苛烈な方向へと舵がきられた。
「今年中に毛利まで片付くと良いんだけれどね。四国は同盟関係にある
本願寺は信長に屈し、
問題は石山本願寺内で生活していた膨大な信徒にあった。信長は本願寺を追い詰めるため、かつての本願寺の領土を削り取りながら、そこに住んでいた信徒を本願寺へと追い立てた。
結果的に石山本願寺は許容量ギリギリまで信徒を抱え込むことになり、いざ石山本願寺を退去するとしても彼らに安住の地を与えることが出来ず四苦八苦していた。
人数が人数であるため、それらが全て暴徒と化せば近隣一帯の治安が地に落ちるため、信長は近衛
「頼廉が
「下剋上を企てた以上、汚名は己が被るつもりなのだろうな」
顕如の所在については明かされていないものの、恐らくは奥の院にて幽閉されていると思われる。しかし、信長も静子も敢えて顕如を出頭させようとは考えていなかった。
既に武装解除が為された上に、蓄えられていた多くの財産は信徒の為に換金され配られたため殆ど残っていない。更に信仰の拠り所となる石山本願寺を失っている状態だ。
万が一にも無いとは思うが、顕如が再起を図ろうとも彼の声に従う者は少ないだろう。既に決着はついてしまったのだ、誰しもが時代の流れに逆らって過酷な生を送れる訳ではない。
「顕如としても今更ことを荒立てるような真似はしないでしょう。仮にやったとしても、規模が拡大する前に鎮圧されるのは目に見えてるでしょうし」
武装集団としての本願寺は死んだ。頼廉の策により、辛うじて宗教としての本願寺教団が生を繋いでいるに過ぎない。
彼らは間者達によって常に監視され、武装蜂起の気配を察知されようものなら瞬く間に滅ぼされるだろう。
頼廉はそれが判らない程愚かではないのだが、一抹の不安が残されていた。強硬派であった
(もう一波乱あるかも知れないね)
このまま順調にことが済むとは思えない静子であった。
昨年の正月は信長の配慮により、
信長や信忠、義父である前久をはじめとした目上の人々への挨拶が済むと、同格同士の挨拶回りが行われる。これが一段落しても終わりとはならない。
今度は自分が尾張で正月の挨拶を受ける番が回ってくるのだ。自分が矢面に立てば済む上位者への挨拶回りと異なり、挨拶を受ける方は想像以上に労力を要する。
軽々しく誰にでも面会したのでは
ここでの主役は静子ではなく、それらを捌く家臣団となるため静子は見守るしかなかった。決裁等で静子の判断を求められることもあったが、基本的には任せっきりとなるため手持ち無沙汰となった静子は、お呼びがかかるまではハイイロオオカミのカイザー一家と過ごすことで精神の安定を図っていた。
しかし、そうしたお正月ムードは一月下旬に差し掛かって一変する。
「羽柴様は攻囲作戦中だから暫く武具の補給は優先順位を下げて、代わりに食料品と医療品、生活雑貨を増やして発送して」
松の内(一月中旬まで)は暗黙の休戦協定があったためか穏やかだったが、西は播磨・丹波平定と本願寺の解体作業。東は武田・北条征伐に向けての作業が一気に押し寄せてきた。
丹波平定を担う明智光秀は、昨年時点で大勢を決しており、現在は地盤固めに着手しているためか目立った大きな動きがない。
必然的に城攻めを継続している秀吉に注目が集まっていた。
名よりも
「明石を取り戻せても、ここからが難題だよね。明石港と尼崎港を確保できたから、海運での物資輸送が可能になった反面、この拠点を守るための兵力を常に割かないといけないし、海軍を組織する必要もあるよね」
語るまでもないが明石港と尼崎港は優良な港として名を馳せている。これらを手中に入れた事により、軍資金はもとより兵站維持という面に於いて、遠征軍であるという不利を覆せたと言っても過言ではない。
しかし、問題がないわけでもない。前述のように毛利が支援する村上水軍によって海上封鎖される可能性があるのだ。尼崎港に関してはより織田勢力圏に近いため、おいそれとは手が出せないだろうが、明石港は最前線に位置するため事情が異なる。
最前線へ直接物資を運びこめるという利点もあるが、敵の手に落ちれば再び窮地に立たされることになりかねず、これまでのように攻勢一辺倒という訳にはいかなくなった。
更に淡路島を勢力下におけていないため、そこからの攻撃に備える必要もあった。明石港は要衝だが、ここだけに依存する訳にはいかないと秀吉は考えた。
「上様から新港(神戸港)開発の許可は下りた?」
「はっ! 先日ご裁可頂きました。それに伴い、事業計画通りに技師集団を派遣しております」
「判りました。これは愛知用水に並ぶ大規模な国家事業となるでしょう。当面は前線への物資補給を目的としますが、将来を見据えて設計するよう指示して下さい」
秀吉が打診し、静子が立案したのが神戸港の開港であった。六甲山脈から大阪湾にかけての急峻な地形によって海底が大きく削られて水深が急激に深くなっており、神戸には天然の良港となれる素養があった。
現代日本に於いても五大港の一つに数えられ、国際戦略港湾にも指定されている。
神戸港の歴史を
かつては日宋貿易の中心地となって栄えていた兵庫港だが、戦国時代の発端となった応仁の乱によって荒廃してしまっていた。
一方、後の神戸港となる場所には小さな寒村が広がっているだけとなる。
史実に於いては明治時代に政府が
これを機に、居留地が設けられ、神戸港の開発が始まった。開港当初は波止場の長さが短く、水深が浅いため大型船が横付けできなかった。
この問題を解決するため、水深の深い位置まで突き出した新港埠頭が増築されたことにより、国際港湾都市として発展することとなる。
(見出されたのは明治以降。つまり今は寒村があるだけの僻地。おかげで上様や羽柴様を説得するのに骨が折れたけど、将来を見据えるなら断然こっちだよね)
既にあるものを利用するのは簡単だが、既得権益が出来てしまっているため利害関係の調整が難しい。それより誰の手垢も付いていない無垢な土地に、新たな港を一から作り上げる方が全ての権益を握れるため旨みが大きい。
寒村の住民に移住先を提示し、立退きさせればこの計画に口を出せる者はいない。いずれ港湾の規模が拡大すれば、現在の神戸港のように二つの港を合わせて神戸港と呼ばれるようになるだろう。
そこまで発展すれば利害関係が衝突する事もあり得るが、それは将来の課題として後継者に託すこととなるだろう。
静子は以前から神戸港を開港する機会を窺っていたのだが、秀吉が一帯を制圧したことによって計画を推進することが可能となったという背景がある。
「本来ならば寒村の地元民を雇って、現地に富を落とすのが上策ですが、毛利側の工作がある可能性が捨てきれません。故にこの港湾開発に関わる単純労働者以上の者に関しては、こちらから送り込むことで対処します」
「承知致しました」
「羽柴様については一段落として……明智様に必要となるのは政治工作をするための情報と、金かな?」
政治の世界は
手っ取り早く地盤を固める為に必要となるのは、誰がキーマンとなるかという情報と、それらを自分達の味方にするための金であった。
光秀は織田家に属する者たちが多数派となれるよう多数派工作を、反織田でまとまっている者達へ離間工作を、地元有力者に金を配ることで辺り一帯の民心を獲得するロビー工作を行う予定だと、静子は知らされている。
ただし金で
「西国に関しては積雪などで交通が断絶することはまずないし、これからは西国の情勢が重要になるかな。よし、
「ははっ」
藤堂高虎が配備している装備、それは電信機であった。現代では皆が当たり前に使っている携帯電話の先祖とも言える機械である。
電信の技術に関しては専門的な知識が必要となるため、簡単に解説すると音声を電気信号に変換し、それを増幅した後に電波として飛ばし、別の受信機にて受信した信号を増幅して再び音声に変換することで実現する無線通信である。
これを利用することにより、静子は尾張に居ながらにして西国の情報を直接入手でき、また東国征伐の状況を逐次把握することが可能となる手筈となっている。
西国に関しては途中の領域が支配下にあるため、中継基地を設置することが容易であり、現時点では伝送に問題が発生していない。
しかし、東国征伐に関しては発電設備と電波中継施設を逐次設営しながら進軍しなければならないため、準備に膨大な労力と資金を費やしている最中であった。
これらの技術を実現する要となった人物が足満である。彼はタイムスリップした先で、幼い子供ですら己の通信端末を持ち、遠く離れた人と連絡を取り合っている姿に感銘を受けた。
凄まじい技術であるにもかかわらず、それらの基礎的な知識は秘匿されることなく誰にでも開示されていると知り、何故か無性に学びたくなったのだ。
記憶喪失であったため、その奇妙な熱意の原動力が何なのか判らないままに大型図書館に通いつめ、中学レベルの電子回路から始まり、鉱石ラジオを経て電子工作の世界へとのめり込んでいった。
電波の正体が磁界と電界の相互作用によるものだと理解できるようになった頃には、自分で回路の設計図を引いてトランジスタラジオを作れるようになっていた。
戦国時代に於いても発電機とモーターが製造できるようになった時点で、電波の送受信は可能になっていたのだが、どうしても信号増幅という点で行き詰ってしまった。
現代ならばトランジスタやダイオードによって極めて簡単に出来ることが、戦国時代では至難となる。そこで足満はトランジスタが実用化される前の真空管を用いることにした。
現時点の工作技術があれば、真空管自体を作ることは然程難しくはない。しかし、高熱が加わるため基幹部品であるフィラメントの損耗率が極めて高く寿命が極端に短いという欠点があった。
いつ寿命を迎えるか判らない真空管を補完するため、電子回路は冗長化して巨大化する。回路が肥大化すれば銅線の抵抗も馬鹿にならず、必用とされる電力も跳ね上がった。
現代のフィラメントに用いられているようなタングステンがあれば良いのだろうが、そもそも融点が摂氏3000度を超える金属を溶かすこと自体が困難であった。
またタングステンを含む鉱床自体が多く中国に分布しており、尚且つ未だに未開発の土地に集中しているため、調達することも難しい。
そこで現在持ちうる最高の炉を使用し、精製できる高融点合金であるニッケルとクロムの合金を用いてフィラメントを作成している。
因みに音声を電気信号に変換するのは比較的容易であり、ワイン醸造の副産物として得られる酒石酸ナトリウムの結晶、いわゆる『ロッシェル塩』を用いる。
酒石酸ナトリウムの飽和溶液を作成し、可能な限り大きな結晶を析出させれば準備は完了だ。紙コップの底にでも貼り付けて固定し、電極をつないだ状態で紙コップに話し掛ければ微弱な電流が流れる。
この電極に電線を繋いで延長し、途中に信号増幅器を噛ませて別の同様のコップに電気信号を入力すると、紙コップから人の声が聞こえるという仕組みである。
こうした経緯の末に開発された無線電信機は、大型かつ据え置き型ではあるが、現時点でも尾張と京とを通信で結べている。
「西国に関しては以上かな。 東国について何か報告はありますか?」
「現時点では特筆すべき報告はございません。武田は慢性的な物資の供給不足に陥っており、生活必需品を工面するのにも四苦八苦しているようです。食料を調達するので精一杯という状況であり、いくさなど論外でしょう」
「上々ですね。自分達が食うや食わずという状況でも敵は攻めて来ると理解している人もいるでしょうから、引き続き手を緩めないよう真田さんに伝えて下さい」
「はっ。承知しました」
「あまり締め付け過ぎて難民が大量発生しても困りますから、生かさず殺さずの匙加減を工夫して下さいと伝えて。私は少し見回りをしてきます」
間者との窓口を担っている連絡役との会談を終えた静子は席を外す。護衛の才蔵を伴った静子は、越後から預かっている人質たちの許へと向かう。
彼らは近頃練武館(いわゆる武道場)に入り浸っており、ご多分に漏れず今回も皆が練武館で汗を流していた。
閉ざされていた道場の扉に才蔵が手を掛けて押し開く、最初に感じたのは冬の寒気をものともしないむせ返るような熱気だった。
彼らは誰しもが熱心に鍛錬しており、上着をはだけた袴姿となり無心に槍を振るっている者もいた。
「これは静子殿。このような場所までご足労頂くとは何か御用でしょうか?」
開け放たれた入り口より吹き込む寒風によって、静子の存在に気付いた景勝が手拭いで汗を拭きつつ声を掛けてきた。
静子は彼らに自分に構わず稽古を続けるよう声を掛けると、景勝を練武館の端へと
「今日は通達事項があってきました。お待たせしていましたが、ようやく全員分の入浴手形が準備できました」
「おお! お骨折り頂き有難く存じます。では働き口については?」
「そちらについては正式な命令書が届いていませんが、上様の決裁は頂けたので近日中にも許可できるでしょう」
静子の返答を受け、景勝をはじめとした越後の皆は歓喜に沸いた。入浴手形とは彼らが風呂に入るための許可証である。
彼らも随分と尾張様式の生活に染まっており、鍛錬をして汗を流した後は熱い湯船に浸かって体を癒したいと言う気持ちが強かった。
今までは慶次が同道していれば団体として入浴が許可されていたのだが、彼が居ないとなると湯を貰って体を拭うのみとなる。
今更彼らが悪さをするとは思えないが、寸鉄を帯びられない浴場への立ち入りを自由にするとなると静子一人の裁量の
最終的に信長が下した判断は、一度に五人までの入浴を許可するというものであった。注意書きとして長湯を戒めるものと、風呂への酒類持ち込みを禁じる旨が添えられていた。
恐らく慶次が最初にやってみせたのだろうが、湯船で酒を一杯やるというのは越後の面々にとって至福の時間であったのだろう。
しかし、さしもの
また景勝が口にした働き口とは、本格的な職業斡旋ではなく、臨時のアルバイトに類するものであった。
人質の立場では、腰を据えて職業に就くわけにもいかないため、隔日で半日程度の仕事を探していたのだった。
彼らは人質であるため、比較的裕福な武士と同程度の待遇が保証されている。しかし、彼らも人の子であり、夏頃に界隈で流行りはじめたビールと焼き鳥や、海産物をたっぷり使った練り物の浮かぶ『おでん』で一杯やってみたいこともある。
つまりは自分の裁量で自由に使える小遣いを増やしたいというものだ。最低限の食い扶持とは異なり、贅沢の部類になるため、彼らは己で金を稼ぎたいと願ったのだ。
「(時代劇だと武士のアルバイトって言えば番傘作りが定番だよね)労働については、いきなり外部に出るのは難しいため、まず私の屋敷の補修や町内の
尾張の静子邸もそこそこ年季が入ってきており、随所に老朽化の兆候が見られるようになっていた。とは言え、老朽化しているのも表層部分や、可動部などの負荷が掛かる場所に限られている。
この程度の補修であれば、専門の大工や黒鍬衆などを動員する必要もない。現場を指揮する者として数人の大工と、彼らを補佐する労働力としての越後勢が居れば事足りる。
「格別のご配慮痛み入る。皆の者! これから忙しくなるぞ! だが旨いものを食い、湯船で一日の疲れを流せると思えば何のことはない!」
「応!!」
(基礎体力はあるだろうけれど、武道と大工仕事じゃ使う筋肉が違うって言うし、
気炎を上げている景勝を見て、微笑ましく思いながらも近い将来に起こり得る事象への備えを進める。
手始めに数人ずつが一組となって代わる代わる労働に従事したのだが、案の定慣れない労働で全身筋肉痛に陥るものが続出した。
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