
「1984年 Nineteen Eighty-Four」
- ジョージ・オーウェル George Orwell -
<読まれていない名作ナンバー1>
ジョージ・オーウェルの母国英国で、この本は最も読んだふりをされている小説ナンバー1だとか・・・。なるほど、わかる気がします。なぜならかくいう僕も、ついこの間までちゃんとこの本を読んだことがありませんでした。映画やSFの解説本などでこの本のあらすじを知っていたこともあり、それで納得していました。幸いにして、2009年に新訳版として「1984年」が再発されたのを機に、じっくりと読ませていただきました。この新訳版にはアメリカを代表する作家トマス・ピンチョンによる詳細な解説も加えられていたこともあり、それもじっくち読み、大いに勉強させていただきました。
今まで「読んだふり」をしていたというあなた!これを機に「1984年」をちゃんと読んでみませんか。くれぐれも、このページを読んで、「1984年」を読んだことにしないようにして下さい。
<ビッグ・ブラザー>は、必ずあなたを見ているのですから!だませんませんよ。
<ジョージ・オーウェル>
この本の著者ジョージ・オーウェル George
Orwell は、1903年6月25日インド、ベンガル地方のモティハリという小さな町で生まれました。本名は、エリック・アーサー・ブレアといい、父親はイギリス阿片局の官吏としてネパールに近い阿片地帯で働いていました。しかし、阿片局で働いているといっても、阿片の製造や密売を取り締まるのではなく、その品質を管理することが父親の仕事だっといいます。当時、阿片の製造販売はイギリスにとって重要な産業のひとつだったのです!
イギリスの植民地だったインドでの生活がなければ、アジアは彼にとって植民地に甘んじる後進国にすぎなかったはずです。そうなれば、「1984年」が描いている3大国家による世界分割という未来世界の構図は生まれなかったでしょう。
彼は生まれてすぐに母親とともに英国に戻りますが、19歳の時、再び東アジアへと戻り、ビルマで英国領インド警察の職員として働き始めます。それは父親の望みに従ったものだったのですが、彼は英国による植民地支配のシステムに失望。さらに作家になりたいという夢をもっていたこともあり、5年後の1927年にイギリスへと帰り、作家を目指すことになります。
<作家生活のスタート>
1933年にパリとロンドンに住んで体験した出来事をまとめた「パリ・ロンドン放浪記」を出版。この時、初めて「ジョージ・オーウェル」というペンネームを用い、その後、エッセイや小説を次々に発表して行くことになります。彼は社会主義の立場からファシズムの台頭に反発。ファシストのフランコによる政権が誕生したスペインで起きた内戦に義勇兵として参加。この時の体験をもとに「カタロニア賛歌」を発表します。スペイン内乱においては、民族が政治的、民族的、宗教的に国内が二分され家族の中ですら悲劇が数多く生まれました。この悲劇を目の当たりにしたことが、<ビッグブラザー>の世界に大きな影響を与えていることは間違いないでしょう。
「彼は理解した - 悲劇は古い時代のもの、プライバシーや愛や友情が存在していた時代のものなのだ。そうした時代にあっては、家族が互いを支えあうのにその理由を知る必要などなかった。・・・
今日そうしたことは起こりえない、と彼は思った。今日あるのは恐怖であり、憎悪であり、苦痛だった。・・・」
この戦争で様々な人々と出会う中、彼は自分と同じ左派の考えをもつ人々の中にもファシストと同じように権力を求める集団があることを知り衝撃を受けます。彼のそうした左派への不信は第二次世界大戦後、スターリン率いるソ連の台頭によって具体的なものとなりました。
彼は革命後のロシアが歩んだ異常な状況、ナチス・ドイツに匹敵する独裁政治を展開したスターリン体制に衝撃を受け、その状況を見事に寓話化。それをファンタじー小説「動物農場」として発表しました。動物たちを主人公とするその異色の政治小説で彼は一躍世界的な注目を集めることになりました。残念ながら、その後彼は結核にかかり、その治療のため作家活動を休止せざるを得なくなります。こうして生じた7年間の空白の後、1949年に彼が発表したのが「1984年」でした。ところが、この小説を発表した時、もう彼にはほとんど時間が残されていませんでした。彼は「1984年」発表の翌年、47歳という若さでこの世を去ってしまったのです。この小説の救いのないエンディングと全体を覆う暗いトーンは、彼が死から逃れることないことを自覚していたせいかもしれません。
彼の人生は、ビルマでの警察官生活やパリでの放浪生活、スペイン内乱での戦争体験、結核との闘い、そしてその前後にあった二つの世界大戦の混乱の中で繰り広げられた波乱万丈なものでした。そして、そうした異常な時代背景なしに「1984年」という歴史的作品は生まれなかったはずです。それはもしかすると、若くしてこの世を去った彼の優れた想像力が生み出した未来世界「1984年」のルポルタージュだったのかもしれません。
<「1984年」の世界像>
この小説に描かれている1984年の世界は、南北アメリカとイギリスからなる「オセアニア」とヨーロッパとロシアからなる「ユーラシア」、それと日本や中国などアジアの国々からなる「イースタシア」の三つの巨大国家を中心に成り立っています。そして、アフリカなどそれ以外の後進地域を前記三つの大国が植民地として奪い合い、常に緊張状態、もしくは戦争状態が続いていたのが、その時代の世界でした。ところが、そうした戦争の本当の目的は、植民地の獲得ではありませんでした。
「・・・現在の戦争とは、支配集団が自国民に対して仕掛けるものであり、戦争の目的は、領土の征服やその阻止ではなく、社会構造をそっくりそのまま保つことになる。・・・」
そして、党のスローガンにはこうあります。
「戦争は平和なり
自由は隷従なり
無知は力なり」
文字通り、この世界では戦争こそが平和の象徴なのです。
「・・・真の恒久平和とは、永遠の戦争状態と同じということになるだろう。これこそが、戦争は平和なりという党のスローガン
- 大多数の党員は、ごく表面的な意味でしか理解していないが
- の隠された意味なのである。」
しかし、「戦争」はただ単に国民の目を外にそらすために行われているわけではありません。経済活動として「戦争」は重要な役割を担っています。(この点はアメリカの軍産複合体をみると、現在の世界経済にも当てはまることかもしれません)
「・・・問題は、世界の実質的財産を増やさずに、如何にして産業の車輪を回し続けるかであった。物質は生産されねばならないが、それらが分配されてはならないのである。これを実現するには、最終的に、絶えまなく戦争を行うという手段に訴えるしかなかったのだ。」
ではなぜ、戦争を続けることで財産を無駄にし続けなくてはならないのか?それはそうしなければ、世界中に資産が増え、多くの人々が豊かになり、教育を受けることができるようになり、政治に目覚め、社会のシステムに不満を感じるようになり、権力の独占を許さなくなるからです。この流れは、産業革命以降少しずつ明らかになってきたことです。(このことは、第三世界の国々やイスラム諸国だけでなく、アメリカのような民主主義国家や中国のような共産主義国家の方がより当てはまることかもしれません)
「・・・この新しい運動が現れた理由のひとつは、十九世紀以前にはほとんど不可欠だった歴史の知識の蓄積と歴史感覚の発達にある。歴史の循環運動は、今ではよく理解されている、あるいはされているようである。そしてもし理解されたなら、それは変えられるということになる。しかしこの運動が出現した根本原因は、早くも二十世紀初頭にして、人間の平等が技術的に可能になったことにある。」
「・・・権力を握りかけている新しいグループの見地からすれば、人間の平等は、もはやそれを目指して努力すべき理想ではなく、避けるべき危険となった。・・・」
権力をもつ人々は当然「富」が増えることを望まず「科学」の発展もまた不要と考えるようになります。(大衆の利益になる分野については・・・)
「『科学』という単語は見当たらない。過去のあらゆる科学的偉業が依拠していた経験主義的な考え方は、イングソックの根本原理に反するのだ。テクノロジーの開発にしたところで、その製品が人間の自由を縮小する為に用いられることが可能な場合にのみ実行に移されるといった具合だ。全ての有用なテクノロジーに関して、世界は停止している。・・・」
現在、世界中で議論されている原子力発電の廃止問題も、全く同じ構図のように思えます。原子力よりも有効な発電システムの開発をわざと遅らせることで、同じような状況、権益の確保を保とうとしていたのではないか?そう思えます。
<ニュースピークとは?>
<ビッグブラザー>は社会体制を維持するための手段として<ニュースピーク>という言語システムを導入。その完成に向けて日々少しずつ改良が加えられています。このシステムについては、著者による巻末資料「ニュースピーク諸原理」にこう書かれています。
「・・・ニュースピークは実際、語いが年々増加するのではなくて減少するという点で、他のほとんどの言語と異なっていた。削減するたびに利益が生まれた、というのも、選択範囲が狭まれば狭まるほど、何かを熟考しようとする誘惑が小さくなるからである。・・・・・」
この言語の導入は、反体制グループによる活動を妨害するだけでなく、個人の頭の中で反体制思想を思い浮かべることすらできないようにさせることをその目的としています。(これが「思考犯罪」と呼ばれています)
「・・・ニュースピークの目的は挙げて思考の範囲を狭めることにあるんだ。最終的には<思考犯罪>が文字通り不可能になるはずだ。何しろ思考を表現することばがなくなるわけだから。・・・」
従って、この言語の完成は「革命」の完成と直接結びついていたといえます。
「言語が完璧なものとなったときこそが<革命>の完成。」
こうして言語の制限によって思想を制限することは最終的に自由を制限することに結びつくのです。
「・・・自由という概念がなくなってしまったときに、<自由は隷従なり>といったスローガンなど掲げられるはずもない。思考風土全体が変わるのだよ。実際、われわれが今日理解しているような思考は存在しなくなる。正統は思考することを意味するわけではない。その意味するところは思考する必要がないこと。正統とは意識のないことなのだ」
<二重思考とは?>
<ビッグブラザー>の思想の中で最も重要といえる概念に<二重思考>があります。その一番わかりやすい例は、オセアニアにおける民主主義の存在についてでしょう。明らかにそこに民主主義は存在しません。しかし、<ビッグブラザー>こそ民主主義の守護者であると人々は信じているのです。この矛盾した思考を可能にするのが<二重思考>という概念です。
ようするに、「見て見ぬフリ」ってことですけどね・・・。でも、この笑えるような概念こそ、ある種の集団を恐るべきカルト集団へと変身させかねないものともいえます。あのオウム真理教の信者たちも、教祖の愚行を見て見ぬフリをして、信じ続けているうちにあの恐るべき事件を引きおこすにいたったのですから!
「 - 民主主義は存在し得ないと信じつつ、党は民主主義の守護者であると信ずること
- 忘れなければいけないことは何であれ忘れ、そのうえで必要になればそれを記憶に引き戻し、そしてまた直ちにそれを忘れること、・・・」
この思考方法は世の中の矛盾を受け入れやすくするための便利グッズではありません。実はオセアニアの国家を支える思想<イングソック>に不可欠な存在です。
「二重思考はイングソックのまさしく核心である。なぜなら、党にとって最も重要な行動とは、意識的な欺瞞を働きながら、完全な誠実さを伴う目的意識の強固さを保持することであるからだ。・・・」
それは支配される側を抑えるためのものだけではなく、支配する側にとって不可欠な存在です。それは絶対的な権力である<ビッグブラザー>は、支配者として絶対に失敗しないという信念と失敗から学ぶ力、両方をもつ必要があるからです。そのためには支配する側も二重思考を身につける必要があるのです。
「・・・意識と無意識の状態が同時に存在できる思考方法を生み出したのは、党の功績である。そして、これ以外のどんな知的基盤を用いたとしても、党の支配は恒久的なものにはなりえないだろう。もし支配し、更には支配し続けることになったら、現実感覚をずらす術を身につける必要がある。なぜなら支配者であることの秘訣は、自分は決して誤りを犯さないという信念と、過去の過ちから学ぶ力を兼ね備えることだからだ。」
(だからこそ、麻原もカダフィもヒトラーも決して自らの行いを否定することはないのです)
こうして、<ビッグブラザー>を中心とするオセアニアの政治システムが生み出されることになりました。
「われわれを統治している回りの省の名前までが、厚かましくも、意図的に現実に反する名前となっている。平和省は戦争に関わり、真理省は虚偽に、愛情省は拷問に、そして潤沢省は飢餓と関わっている。こうした矛盾は偶然でもなければ、一般的な偽善から生じたわけでもない。それは二重思考の計画的な実践である。」
<記録・歴史、そして人間の改変>
<二重思考>とは、<ビッグブラザー>がけっして失敗しないという「事実」を常に証明してくれますが、そのためには具体的な情報として残された様々な記録を変える必要が生じます。(実際には、政策の多くは理想どうりにはゆかないのですから当然です)そこで生じるのが「歴史の改変」です。そして、その歴史=記録を改変することを職務としている人物ウィンストンがこの小説の主人公として選ばれたわけです。
「・・・過去は、変更可能な性質を帯びているにもかかわらず、これまで変更されたことなどない、というわけだ。現在真実であるものは永遠に昔から真実である・・・」
「過去をコントロールするものは未来をコントロールし、現在をコントロールするものは過去をコントロールする」
しかし、「記録」をいくら改変しても、個別の人間がもっている脳内の記憶まで改変することは不可能なはずです。この物語の主人公ウィンストンもこのことを、後に追求しています。
「・・・どうやったら記憶をコントロールできるんです?あなた方はわたしの記憶だってコントロールできていないじゃないですか!」
「とんでもない」彼は言った。
「君がコントロールしていないのだよ。まさにそれだからこそ、君をここに連れてきたのだ。・・・」
怖ろしいことに、<ビッグブラザー>は記憶の改変を彼に要求してきたのです!自ら記憶を改変せよ!というのです。<ビッグブラザー>は記憶をコントロールすると同時に人間そのものをコントロールしていたのでした。彼は反逆者も協力者に変えようと考えていたのです。これこそ、過去から現代に至るまで様々なカルトの指導者たちが用いてきた古くて新しい方法です。
反逆者を処刑することは彼らを殉教者として英雄にしてしまうことにつながります。それは反乱の種を世に広めることにつながり兼ねない。彼はそうも考えていました。
「・・・君が犯した愚かな罪などに興味はないのだよ。表面に現れた行為など、党の関心の埒外にある。思考だけがわれわれの関心事なのだ。われわれはただ敵を滅ぼすだけではない。敵を改造するのだ。・・・」
こうして<ビッグブラザー>は記録を変え、人間を変え、その存在を完全に消し去ってしまうのです。ちっぽけな反乱よりも、その記憶が過大評価され英雄的行為として広まることにこそ危険があるのです。
「・・・ここでなされる自白はすべて真実なのだ。われわれがそれを真実にする。そして何より、われわれは死者がわれわれに反抗するものとして蘇るのを許さない。後世の人間が自分の正しさを証明してくれるだろうなどと夢見るのは止めることだ、ウィンストン。後世の人間が君の存在を耳にすることは決してない。君は歴史の流れからきれいさっぱり取り除かれる。・・・・・」
そしてここで、この小説の最も有名な一節が登場します。
「<ビッグブラザー>は存在するのですか?」
「もちろん存在する。党は存在する。<ビッグブラザー>はその党の化身なのだ」
「彼はわたしが存在するのと同じように存在しているのですか?」
「君は存在しないのだよ」
オブライエンが言った。
<権力欲というモチベーション>
こうして、しっかり読み込んでから改めてこの一節を読むと、その怖ろしいほどのブラックなユーモアに感心させられます。しかし、<ビッグブラザー>が完成させたそのシステムの恐ろしさ、完成度の高さに感心しつつも、なんのために彼らはそのシステムを作り上げたか?その本当の目的が気になります。その重要な問いに対しては、あっさりとその答えがかえってきます。彼の目的は、もちろん富でも名誉でもなく愛でも快楽でもなく、ずばり「権力」を独占し続けることにあると言い切っています。
しかし、本当に人はそこまで権力の独占欲を持っているものでしょうか?いまひとつピンとこないのは、僕があまりに権力欲を持っていないせいでしょうか?それとも日本人的な感覚のせいでしょうか?一度権力を握ったものでなければ理解できないことなのでしょうか?
「権力は手段ではない、目的なのだ。誰も革命を保障するために独裁制を敷いたりはしない。独裁制を打ち立てるためにこそ、革命を起こすのだ。迫害の目的は迫害、拷問の目的は拷問、権力の目的は権力、それ以外に何がある。・・・・・」
「・・・われわれが万能になったとき、もはや科学は必要ではなくなるのだ。美と醜の区別もなくなるだろう。日々の暮らしの面白さも喜びもなくなる。数々の競い合う快楽も破壊される。だが常に
- この点を忘れてはいかんよ、ウィンストン
- 人を酔わせる権力の状態だけは常に存在する。ますます増大し、ますます鋭くなってね。ぞくぞくする勝利の快感。無力な敵を踏みにじる感興はこれから先ずっと、どんなときにも消えることがない。未来を思い描きたいのなら、人の顔をブーツが踏みつけるところを想像するがいい
- 永遠にそれが続くのだ」
こうなると、権力を独占し続けるために必要な条件もみえてきます。それは権力者が「個」としての権力掌握を求めるのではなく、「党」(集団)としての権力掌握を目指せばよいのです。その時、オブライエンはオブライエンではなく<ビッグブラザー>となり、永遠に権力を把握する存在になりえるのです。
「・・・もし完全な無条件の服従が出来れば、自分のアイデンティティを脱却することが出来れば、自分即ち党になるまで党に没入できれば、その人物は全能で不滅の存在となる。」
では、党への反抗はありえないのか?その唯一の可能性について、主人公ウィンストンはこう考えていました。
「もし希望があるのなら、プロールたちのなかにあるに違いない。なぜなら、かれらのなかにのみ、オセアニアの人口の85%を占める、あのうようよとあふれかえるほどの無視された大衆のなかにのみ、党を打倒するだけの力が生み出され得るからだ。党が内側から崩壊することはありえない。・・・」
(ここでいうプロールとは、あらかじめ差別され社会から排除された人々のこと)
さらにもうひとつ救いの可能性を感じさせるものとして、主人公の隠れ家の近くで洗濯物を干しながら歌を歌う女性の存在があります。この歌については、解説者のトマス・ピンチョンも書いているように、僕はこの歌が最後にかすかなる救いを暗示するものとして、どこかで聞こえてきても良かったのではないか?そう思いました。
残念ながら、そうした「救い」的なものが、まったくないまま物語は終わりを迎えます。あまりにも無残なラストです。しかし、ここで安易なハッピーエンドを書いては、この作品の価値は半減してしまったでしょう。ディストピア小説の古典として、歴史にその名を刻まれることになったのも、ここでハッピーエンドにならなかったからなのでと思います
しかし、著者は実は最後の最後にかすかなハッピーエンドの兆しを描いていて、<ビッグブラザー>の時代が永遠ではないことを暗示しているといいます。これは、解説のトマス・ピンチョンが指摘しています。その鍵は巻末に著者自身が書き加えた附録「ニュースピークの諸原理」の中にあります。この本を読まれる方は、ちゃんと最後まで読むことをお勧めします。(新訳版で早川書房から出ている文庫版)
「1984年 Nineteen Eighty-Four」 1949年
(著)ジョージ・オーウェル George Orwell
(訳)高橋和久
早川書房
<あらすじ>
<ビッグブラザー>という謎の指導者が率いる党が支配する全体主義国家「オセアニア」。そこで真理省の記録局員として働くウィンストン・スミスは、現実や党の方針に合わせて歴史を改ざんすることを仕事としていました。彼は自らの仕事の中で、何度か歴史の大きな誤りを知り、党による異常な支配体制がこうした歴史の改ざんによって成立していることを知っていました。多くの人々が予め差別され、社会から排除される状況で、大衆のほとんどは自分たちを幸福な存在と認識していました。主人公ウィンストンもそんな人物の一人でしたが、ある日そんな彼の人生が大きく変えられることになります。謎の美女ジュリアとの出会いです。
彼はジュリアという美女に愛を打ち合けられ、隠れ家をみつけて逢引を重ねるようになります。彼女は彼とは異なるタイプの反逆者でしたが愛は二人を結び付けます。それはある意味、原始的な「愛」による反抗として始まりました。
「わたし、次の世代なんかに興味はないの。興味があるのは今のわたしたち」
「君は腰から下だけが反逆者なんだな」
しかし、その後、彼女以外にも自分と同じように社会に不満をもつ人間が他にも多くいることを知った彼は、反政府地下組織の活動に参加する決断をします。それは絶対に成功することのない闘いであると彼は認識していましたが、もう後戻りする気気持ちはありませんでした。
「『思考犯罪』は死を伴わない。『思考犯罪』は即ち死なのだ。」
しかし、彼が謎の人物オブライエンのもとで活動を始めた時、すでに巨大なワナが彼をとらえようとしていました。
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