「最近、まともに寝てなくってさ」――。そんなことを自慢げにいっている人はいませんか? とくに若い世代の人なら、睡眠時間を削ってまで遊びや仕事に没頭していることをどこか誇らしく感じてしまうもの。
でも、その慢心に警鐘を鳴らすのは、睡眠を専門のひとつとし、現在は17社の産業医として活躍する穂積桜先生。「若い人たちにこそ睡眠を大切にしてほしい」という、桜先生の言葉に込められた真意とは?
睡眠の役割は「心と体のメンテナンス」
わたしたち人間にとって、睡眠はとても大切なものです。でも、その理由を簡潔に答えられる人は意外と少ないのではないでしょうか? 睡眠が大切な理由とは?――その答えは、睡眠が「心や体のメンテナンス」をしてくれるからです。
もっとも重要なメンテナンスに、「ホルモンのバランスの調整」があります。ひとつ例を挙げましょう。食欲を増進させるグレリンというホルモンの血中濃度は、睡眠時間が短い人ほど高くなり、逆に食欲を抑えるレプチンの血中濃度は低くなります。
これが意味するのは、睡眠不足の人は食欲が必要以上に増して太りやすくなってしまうということ。もちろん、肥満が体に悪影響を与えるのはいうまでもありません。中高年より自分のルックスを気にする若い人なら、それこそ太りたくはないでしょう?(笑)。
また、新型コロナウイルスが問題となっていますが、そこに関係することなら、「免疫機能の調整」も睡眠が持つとても大切な役割です。たった数日のあいだ睡眠不足になっただけでも、体の防御機構である免疫機能に悪影響が出ることがわかっています。
脅すわけではありませんが、睡眠不足の人はそれだけ感染症などにかかるリスクが高まっているということ。睡眠不足で感染症にかかるリスクが高まったまま、満員電車で通勤しなければならない……ということになれば、やっぱり怖いですよね。
仕事にかかわることなら、「記憶の整理・定着」も睡眠中に行われるものです。日中にあった出来事などを睡眠中に脳が整理して記憶することは、多くの人が知っているかもしれません。ただ、その記憶するものには体で覚えたことも含まれます。
仕事の進め方や内容といったものだけではなく、仕事で必要な作業、体の使い方も睡眠中にしっかりと記憶されるわけです。そう考えれば、仕事で成果を挙げるためにもしっかりと睡眠をとるべきですよね。
さらには、血糖値を安定させたり、精神的な落ち着きを取り戻させたりするなど、睡眠が果たす役割は枚挙にいとまがありません。睡眠は、それだけわたしたちにとっての「強い味方」なのです。
睡眠不足が心身にもたらすさまざまな悪影響
睡眠が心や体のメンテナンスをしてくれるということの裏を返すと、睡眠不足が続けば心や体にさまざまなほころびが出てくるということになります。
そのほころびのひとつが、パフォーマンスの低下。会社に出勤してもなんらかの不調のせいで頭や体が思うように動かず、本来発揮されるべきパフォーマンスが低下している状態のことを「プレゼンティーイズム(疾病就業)」と呼びます。
このプレゼンティーイズムによって、ちょっと想像もできないほどの数字ですが、なんと全米で年間1500億ドル(約16兆円)もの損失が出ているといわれるほど、大きな問題になっています。
プレゼンティーイズムの主な原因は、肩こり、腰痛、頭痛、落ち込み、アレルギー、そして、睡眠不足です。「睡眠不足だけが原因ではないよね?」と思った人もいるかもしれません。でも、これらプレゼンティーイズムの原因となる症状は、睡眠不足が悪化させているともいえます。その理由を解説しましょう。
これは意外と知らない人が多いのですが、睡眠には、腰痛や頭痛、生理痛といった「体の痛みを取る」役割もあります。さらに、睡眠不足が続くと不安や恐怖を感じやすくなることもわかっています。また、すでに述べたように、免疫機能やホルモンのバランスを整えることも睡眠の重要な役割です。
睡眠不足になれば体を守るための免疫機能やホルモンのバランスが崩れるのですから、アレルギー症状を悪化させることにもなるというわけです。
まとめると、先に挙げたプレゼンティーイズムの主な原因である肩こり、腰痛、頭痛、落ち込み、アレルギー……それらを引き起こす要因のひとつが睡眠不足なのです。
それでも、「わたしはふつうに寝ているから大丈夫だよ!」という慢心がある人に警鐘を鳴らすと、睡眠不足におちいっている人の多くは、そのことに無自覚であることが怖いのです。眠気というのは、ある一定以上に強くならず、頭打ちしてしまうものということがわかっています。
そのため、自分ではきちんと寝ていると思っていて、あまり眠気を感じていない人のなかにも、睡眠が足りていない人は数多く存在します。
関連して、きちんと受診して医師から不眠症だと診断されている人は、日本では約10%とされていますが、これはあくまで「受診して不眠症だと診断された人」の割合に過ぎません。
「きちんと眠れていない」との自覚がありながら病院に行っていない「隠れ不眠」も含めればその割合は約20%になり、無自覚の潜在患者まで含まれば、不眠症状のある人は約30%にもなると推測されています。
加えていうなら、「日本人の平均睡眠時間は男女ともに世界最短」というデータもあるのを知っていますか? ランニングやフィットネス用のウェアラブル・デバイスで有名なポラールの日本法人が、主要28カ国・地域、約600万人の自社製品ユーザーのデータを解析したところ(2018年データ)、日本人の平均睡眠時間は男女ともに世界最短だったのです。
日本人男性の平均睡眠時間は6時間30分で、日本人女性は6時間40分でした。参考までに、男女ともに最長だったのはフィンランドで、その時間は男性が7時間24分、女性が7時間45分と、日本人とはじつに1時間近くもの差があります。
ただ、6時間以上というと、「十分に寝られているじゃないか」と思うかもしれません。でも、この数字はあくまでもポラール製品のユーザーの平均値です。社会人と比べると睡眠時間が長い高齢者や学生のデータも含まれますから、働き盛りの世代に限れば、日本人の平均睡眠時間はさらに下がると考えられます。
約30%の人に不眠症状があり、平均睡眠時間は世界最短……。もう、日本人の不眠・睡眠不足は、「国民病」といっていいのかもしれません。
睡眠はお金がかからない「最高の薬」
「まだ若いからちょっとくらい寝なくても大丈夫」という気持ちもわかります。たしかに、体力があるうちは睡眠不足でもどうにかなってしまうし、向上心のある社会人なら、寝る間を惜しんで仕事に打ち込むような時期も必要かもしれません。
ただ、産業医の立場からすると、若くて向上心のある人たちにこそしっかり寝てほしいと切に思います。産業医をしていると、その会社で将来を嘱望されているような優秀な社員さんが、睡眠不足に端を発するさまざまな病気によって一線から離脱するというケースに年に何度か遭遇します。本人はもちろん、会社にとってもわたしからしても、それはとても残念なこと。
大学卒業後の22歳から65歳まで働くと考えると、その期間は約40年。働くことは、長いあいだ走り続けるマラソンのようなものなのです。若い世代のみなさんにはピンとこないかもしれません。でも、40年という歳月はけっこう長い時間ですよね? そのあいだに、心身の不調によってマラソンを棄権しなければならない人も出てきます。
それを思えば、よりよい人生を歩むためにまず大切となるのは、なによりもそのマラソンを最後まで走り切ることではないでしょうか。ですから、そうできる心身を維持するために、睡眠を大切にしてほしい。睡眠は、お金をかけることなく心と体のメンテナンスをしてくれる「最高の薬」なのですから。
構成/岩川悟(合同会社スリップストリーム) 取材・文/清家茂樹 写真/櫻井健司
穂積桜(ほづみさくら)
日本医師会認定産業医、 精神科専門医、 漢方専門医、臨床心理士。2001年、札幌医科大学医学部を卒業し、札幌医科大学附属病院神経精神科、東京都立松沢病院、久喜すずのき病院において精神科医として研鑽を積む。また、国立病院機構東京医療センター、北里大学東洋医学総合研究所において、内科、東洋医学の知識を幅広く習得。2014 年より、精神科、内科の臨床経験に基づく知識のみならず、人事労務、法律の知識を併せ持つプロフェッショナル産業医として稼働。現在(2020年5月現在)は、産業医として17社を担当する。精神科専門医として軽度から重度までたくさんの患者さんの診療にあたってきたほか、内科・救命センター・東洋医学での経験を積み、常に心身双方からアプローチできる精神科医であるよう心がけている。著書に『朝型 夜型 クロノタイプ別 睡眠レッスン』(セブン&アイ出版)がある。