「オタク」であり「フェミニスト」でもある私が、日々感じている葛藤

エンパワメントと消費の狭間で
中村 香住 プロフィール

また、これもすでにさまざまな人が説明しているように、フェミニストは基本的に、表現について法規制を求めてきたわけではない*2。「表現の自由」は日本国憲法で保証された基本的人権の一つであるが、これは権力を持つ公的な機関からの検閲を受けない自由という意味合いが大きい。国家による言論統制を受けないなどである。

一方、フェミニストは、表現の検閲や法規制を求めているのではなく、それこそ個人の表現の自由の範囲内で、問題だと思う表現を批判している。フェミニストは、ジェンダーの観点から問題含みな表現について問題提起をすることで、社会全体でそうした表現について考え直していきたい、議論を重ねていきたいと思って声を上げているはずであり、一律の法規制を求める人は少なくとも現在は多くない。

 

私が感じている葛藤

ここまで読んで、それでもやはりフェミニストとオタクが両立しないのではないかと思うのであれば、それは、オタク文化自体に「性的客体化」などの形で顕現する女性差別的な目線が根源的に横たわっているのではないかという危惧からやってくるものだろう。

正直なところ、この危惧に関しては、私も簡単に退けることはできない。むしろ、つねにそうした危惧をもち、葛藤しながら、オタクとしての消費活動を行っている。

私がオタクをやっているジャンルは、前述の通り、女性や女性キャラクターが演者として登場するコンテンツ群である。まず、こうしたコンテンツが資本主義下におけるビジネスとして成り立っている以上、コンテンツを享受する消費者は「まなざす側」であり、コンテンツを提供する女性演者や女性キャラクターは「まなざされる側」、つまり「客体」であるという非対称性が生まれる。この時点で、女性のある種の「客体化」であるという批判は免れない。

さらに、私は自分自身も女性であるとはいえ、まぎれもなく、生身の女性演者や女性キャラクター一人一人が身にまとった女性性に魅力を感じて、「推し」ている。もちろん、コンテンツ自体の世界観やストーリー、デザインにも惹かれているし、女性演者の歌やダンスといったパフォーマンスの技巧にも惹かれているのだが、やはりそれと同時に演者の「女性性」に強く惹かれているという点は否定できない。

そして、こうしたコンテンツの作り手側もまた、コンテンツを愛好している消費者が女性性に強く惹かれていることを知っているであろうし、そうであればこそ、消費者が女性性を消費しやすいように「性的客体化」とみなされるような表現を提供することもある。