「オタク」であり「フェミニスト」でもある私が、日々感じている葛藤

エンパワメントと消費の狭間で
中村 香住 プロフィール

私がエンパワーされる瞬間

それでも私は、こうしたオタクコンテンツを推すこととフェミニストであることを両立できる道を探したいと思っている。

例えば、こうしたコンテンツは大きな構造として見れば女性の「客体化」の一種であることには違いないのだが、その中で活動している女性演者一人一人は、時に主体的な意思をもって、苦心して自分なりの表現を生み出していたりする。その表現においては、既存の伝統的とされる女性性を利用していることもあれば、新しい女性性の基準を生み出そうとしている場合もあるだろうし、そのどちらかに簡単に区分できないことも多いだろう。

 

いずれにせよ、彼女たちが何かしらの「女性性」を身にまとい前面に表出することをコンテンツの作り手からも消費者からも期待されている以上、「女性性」の網から完全に逃れて表現を生み出すことは難しい。

しかし私は、社会の女性に対する抑圧のなかをくぐり抜けて彼女たちがどうにか工夫して生み出した、時に力強く時に繊細なさまざまな種類の女性性表象やそれを用いた表現に、同じ女性としてもエンパワーされることがある。

もちろんそれだって所詮はコンテンツ運営側の掌の上で起きていることかもしれないし、主体的な女性であるというブランディングをすることによって逆に客体としての魅力を高めているだけとも言えるかもしれない。

それでも、彼女たちが仕事の一環として、ステージ上やソーシャルメディア上で自分の魅力を主体的にポジティブに提示していると思える場合に、それに感銘を受けて、素敵だな、いいな、「推し」たいなと切実に感じることがある。

とりわけ女性がたくさん登場するコンテンツにおいては、女性同士が互いの存在や価値を認め合いながら、同じ目標に向かって切磋琢磨しつつ、それぞれの良さを生かし協力しあって何かを成し遂げる場面が多い。結果として、女性同士の関係性が色濃く描かれたり、表出してきたりすることになる。ここに女性同士の間にはっきりと立ち上がる共同性や連帯の様子をありありと見ることができ、これまたエンパワーされることがある。