「オタク」であり「フェミニスト」でもある私が、日々感じている葛藤

エンパワメントと消費の狭間で
中村 香住 プロフィール

一方「オタク」は、語の起源をたどればコミックマーケットなどに集まるマニア的な性質をもった人たちが当時「おたくら」と呼び合っていたのを揶揄する形で、評論家の中森明夫が「おたく」と命名し、蔑称として使い始めたなどの経緯がある。しかし、現在では蔑称としてのニュアンスはずいぶん薄れ(オタク自身があえて自虐的なニュアンスで用いることは今でもあるが)、よりカジュアルに「オタク」という語が用いられるようになってきた。

現在「オタク」と言えば、一般的には、「特定の趣味を一般の人よりも高い熱量をもって愛好し、追いかけている人」というような意味を指すであろうと私は考えている。ただ、前述した私の好きなオタクジャンルを考えれば、今回のツイートで私が用いた「オタク」の中身は、実際には「女性演者や女性キャラクターがメインとして登場するコンテンツを一般の人よりも高い熱量をもって愛好し、追いかけている人」ということになる。

〔PHOTO〕iStock
 

つまり、私の考えではジェンダー平等の実現を求めることに賛同することと、女性演者や女性キャラクターがメインとして登場するコンテンツを一般の人よりも高い熱量をもって愛好し、追いかけることは必ずしも矛盾しないし、私は事実としてそれを両方やってきたということだ。

性的な表現をめぐる問題

それでも、「フェミニストとオタクは両立しない」と強く反論してきた人はいた。どうやらそうした人の様子を見ていると、フェミニストは性的な表現について表現規制を求めているのだと思っている「オタク」の人が多いようだった。これはかなりの誤解である。

まず、すでにさまざまな人が説明していることだが、フェミニストは性的な表現を問題視しているというよりも、女性差別的な表現を問題視している。時に性的な表現と思えるものが批判されるのは、それが「性的客体化」(sexual objectification)と呼ばれる女性差別的な表現の一環だとみなされる場合である*1

「性的客体化」という考え方は、ポルノグラフィ批判のなかでキャサリン・マッキノンとアンドレア・ドウォーキンが提唱しはじめ、のちにマーサ・ヌスバウムという哲学者が「客体化」の内実について精査する論文を執筆した。

この原稿は「性的客体化」概念について詳しく説明することが主眼ではないため、詳細には立ち入らないが、おおむね、ポルノグラフィはエロいから・わいせつだからダメなのではなく、女性を(男性の)欲望達成のための手段・対象として道具化するなど、女性をあくまでも受け身の「客体」としてのみ扱うような表象になっているケースが多いために、女性差別的な表現になりがちだという話である。