戦中日本の「旅行制限」 メディアは国民に「自粛」を迫った
2020年4月から5月にかけて新型コロナ対策の緊急事態宣言が出され、戦後初ともいえる「都道府県をまたぐ移動の自粛」が呼びかけられ、鉄道各社の判断による減便や観光地の閉鎖が行われた。これらの自粛要請は6月19日をもって取りやめとなったが、戦時中にも「不要不急」の旅行が取り締まられた時代があった。
その締め付けは昨今の自粛要請の比ではなく、1940年頃から1945年の敗戦まで数年をかけて移動の自由を制限されていった。その間の出来事を調べていくと、現代との類似点も見つかる。
貨物輸送最優先、旅行は「不要不急」
1937年7月7日の盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が勃発、世は戦時色が強くなっていくが、まだこの時期は旅行への自粛ムードは強くなかった。というのも1940年には東京オリンピックと皇紀2600年を控えており、五輪こそ中止になったものの修学旅行などの団体旅行は盛況、特に神社や陵墓が多い関西は皇紀2600年で盛り上がった。
それでも戦線は拡大し続け、鉄道への負担が増していく。軍需輸送に対応するためには貨物列車の増発が必要だが、線路容量には限界がある。ゆえに国鉄は旅客列車を削減しなければならなくなる。これが不要不急の旅行の自粛につながるというわけで、長距離の移動を自粛すべきというムードが徐々に形成されていった。道路事情が劣悪だった当時、陸上の公共交通は旅客・貨物とも鉄道が圧倒していたが、繁忙期に運転されていた臨時列車が運転されなくなり、団体旅行の統制も始まる。
国鉄(鉄道省)はどのような手段をとったか、『日本国有鉄道百年史』や当時の新聞記事をもとに調べてみると、具体的には「値上げ」「切符の発売制限」「列車の削減」「許可証の発行」である。
まず、運賃の値上げは、戦費調達のための「通行税」の新設という形で1940年4月1日に運賃・料金の値上げが行われる。物価上昇なども理由ではあるものの値上げは繰り返され、1942年には急行料金・寝台料金が1割~5割(等級による)の大幅値上げが行われた。以後1944年、45年と段階的に値上げされていく。
乗車券の発売制限は、1940年に100㎞以下の急行列車の切符の制限が始まったのを嚆矢とする。当初は年末年始などの繁忙期に限って発売枚数を限定するやり方で始まったが、次第に対象の列車の拡大や、列車の指定席化が行われた。1941年12月8日の太平洋戦争開戦後は貨物列車の一層の増発が必要になり、特急・急行列車の削減が続いた。このように戦時中の旅客サービスは縮小一辺倒で、切符を買うには長時間の行列が常態化、乗れても通勤列車並みのすし詰めという密の状態が日常茶飯事だった。切符を仲介するブローカーが暗躍していたことも当時の新聞で伝えられている。
「旅行ノ自粛徹底ヲ期スル」
1944年2月25日に発令された「決戦非常措置要綱」では産業への統制が一層厳しくなるが、鉄道も例外ではない。同要綱の
「決戦非常措置要綱ニ基キ戦力増強並ニ防空疎開ニ必要ナル輸送ヲ強化スル為国民戦意ヲ昂揚シ旅行ノ自粛徹底ヲ期スルト共ニ旅客輸送(通勤及通学ヲ除ク)ノ徹底的制限ヲ実施セントス」
という方針のもとに特急列車は全廃、44年4月1日から100㎞以内の乗車券は発売枚数制限を行い、100㎞以上の旅行については軍人・官吏は所属官庁の証明書、民間人は警察署などで取得した証明書がないと乗車券が発売されないとなった(『日本国有鉄道百年史』より)。しかしこの制限は警察署の作業を煩雑にするだけとのことで、9月には証明書制度は廃止になったが、臨時召集などの公務で移動する人のための証明書の発行は続いた。これがあれば行列の中でも優先的に切符を買えるのである。
1945年6月からは東京・上野・新宿・横浜・大阪などの主要駅に旅行統制官が置かれ、申請された旅行内容に基づいて旅行を認めるようになった。旅行統制官による統制は終戦後の45年10月に制度が廃止されるまで続いた。
あの手この手で抜け穴探した国民たち
では、これらの統制に国民は大人しく従っていたかというと、そうではなかった。抜け穴を突いて束の間の旅行を楽しみ、あるいは生活のために出かける国民はいた。
ポピュラーな手口は「乗り越し」である。証明書がいらない短距離の切符を買っておいて下車駅で精算してしまえばよい。特に定期券や都市部の国電区間の切符を使い、地方へ買い出しに向かう手口は戦争末期まで続いた。逆に切符の発売制限が近距離乗車券に限られていた時期は、わざわざ長距離の切符を購入して途中下車の体裁で近場の目的地に降りる手口も目立った。これらに対応して当局も「決戦非常措置要綱」発令に伴って定期券による乗り越しの禁止や罰則の強化を行った(朝日新聞1944年4月7日)。
長距離の私鉄が発達している地域では私鉄で行けるところまで行き、国鉄に乗り換えることもできた。小田急小田原線(当時は東急電鉄の一部)で小田原に出て国鉄に乗り換え、湯河原・熱海方面に向かう旅客の手口は新聞にも報じられている(読売新聞1944年4月3日)。関西・東海・九州でも同様の手段は可能だっただろう。
さらに国民の本音を拾ってみよう。1926年生まれの旅行作家・宮脇俊三は戦時中の買い出しについて
「大きな荷物を背負った買出し部隊で汽車はますます混雑するようになった。これに対して『鉄道は兵器だ』『決戦輸送の邪魔は買出し部隊...』といった標語が駅に貼られたりしたが、効果はほとんどなかったと言ってよかった」
と、自著『時刻表昭和史』で回想する。さらに宮脇の回想によれば、旅行証明書による旅行制限も、官公庁のコネを活用して証明書を入手する抜け穴があり、切符も鉄道職員の裁量で買える例もあったとのことだ。旅行統制官のもとにも「公用」と称しての虚偽申告がかなり多いと報じられている(読売新聞1945年7月18日付)。戦争末期に空襲が激化すると罹災証明書があれば優先的に切符が買えるようになり、混乱期には臨時に仕立てた疎開列車に切符を買わずとも乗れる場合もあった。
これらの抜け穴を認識している当局としては「自粛」を呼び掛けることになる。例えば内閣情報局発行の国策雑誌「写真週報」315号(44年3月発行)は決戦非常措置要綱発令後の混雑した上野駅の写真を表紙に採用し「『自分さえ旅行できればよい』この根性の行列が続く限り決戦輸送は空転する」と訴えている。
「自粛警察」と化した新聞
いくら規制を強化しても限界があったのはコロナ禍と極めて似ている。そしてメディア、特に新聞は庶民の実態を報じるだけでなく、「自粛警察」さながらの見出しで引き締めにいそしんだ。
1942年11月24日付朝日新聞には「足の自粛 まづ成績甲」の見出しに始まり、熱海・伊東・高崎の人出の減り具合を取材、何割減ったかと細かに伝えている。1943年4月4日の同紙もまた「用事の客は立往生 敵前行楽を追払え 列車に鈴なりの遊覧群」の見出しで、小田原・熱海・三島・沼津・日光の人出を観測し、出かける人々を「時局に相応しくない光景」「足の自粛調は未だしの感がふかかった」と報じている。44年1月18日にも「戦争に勝つためだ 旅行は取りやめ」と国民にハッパをかける見出しが踊る。
読売新聞も43年10月17日付で「都民の自粛ぶり 連休第一日 足の戦闘配置」との見出しのもと、関東近郊の行楽地の駅の人出を報じていた。他にも「連休に乱れる足の自粛 また買出し行列 乗越禁止も知らぬ顔」(44年4月3日)「乗車証明を濫用 近郊へ自粛忘れた買出部隊」(44年7月3日)などと報じている。
このコロナ禍でも、多くのメディアが主要駅の映像を映し出し、「人手が何割減ったか」とセンセーショナルに伝え続けたことは記憶に新しい。そしてまた、戦中の食糧難の中で買い出しに出かける人々にとってはとても不要不急などではなかっただろう。
戦時中の「旅行」をめぐる一例を挙げたが、敗戦まで統制は様々な産業に及んだ。このような歴史は、今年前半の新型コロナの蔓延以降混乱が続く現代社会でも読み取れる教訓を残していそうだ。幸い当時と異なり憲兵も特高もいないのだから、戦争・災害といった緊急事態に社会はどうあるべきなのか、歴史を見つめつつ冷静に考えるべき時かもしれない。
(J-CASTニュース編集部 大宮高史)