青年部年間拝読御書

青年部拝読御書 「観心本尊抄」研鑚のために⑥

第3段 本尊を明かす青年部拝読御書 「観心本尊抄」研鑚のために⑥

 青年部拝読御書「観心本尊抄」を学ぶ連載の第6回は、第3段の第24、25章を解説。末法に流通すべき法は、下種益の妙法たる南無妙法蓮華経であることを学ぶ。

在世の本門と末法の始は一同に純円なり但し彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり(御書249㌻)

第24章 文底下種三段の序正を明かす

又本門に於て……此等は且く之を閣く(御書249㌻5行目~10行目)

 ここでは、文底下種三段の序分と正宗分を明かしている。
 冒頭の「又本門に於て」の「本門」とは、法華経文上の本門のことではない。それは、序分の中身が前段の「本門」のそれとは違っていることから明らかであり、今度の「本門」とは、文底独一本門のことなのである。
 すなわち、過去三千塵点劫の昔、大通智勝仏の第十六王子が説いた法華経から、現在の釈尊が最初に説いた華厳経をはじめとする爾前権経、そして法華経迹門十四品、涅槃経等の一代五十余年の諸経を含め、三世十方の諸仏が説いた膨大な数の経々は、みな文底下種三段の「序分」である、とされている。
 また「正宗分」については「一品二半」とされているが、これは前段の文上の寿量品を中心とする一品二半とは異なり、「内証の寿量品」(御書250㌻)を中心とする一品二半である。
 先の本門脱益三段の一品二半は文上の法義に基づいて天台が立て分けたものであるが、ここでの一品二半は、釈尊滅後、とくに末法の衆生を救う要法たる文底の南無妙法蓮華経をあらわすものとして、日蓮大聖人があらためて立て直した一品二半なのである。(「法華取要抄」によれば、天台の一品二半は涌出品の略開近顕遠から始まるのに対して、大聖人の一品二半は同品の動執生疑のところから始まる)
 この意味での、正宗分の一品二半によって明かされる文底の妙法のみが衆生成仏の要法なのであり、一切の経々は全てこの妙法をあらわすための序分となるのである。
 また、この文底の一品二半以外の教えは、すべて「小乗教」「邪教」「未得道教(いまだ道を得ない教え)」「覆相教(真実を覆い隠している教え)」となると仰せである。
 そして、この一品二半を知らず、それ以外の諸経を信ずる衆生の機根を論ずれば、「徳薄垢重(徳が薄く、垢が重い)」「幼稚」「貧窮」「孤露(孤独)」であり、鳥獣同然であるとされる。
 これらは、内証の寿量品を中心とする一品二半のみが成仏の法であることを強調されたものである。
 寿量品から見れば、爾前の円教も法華経迹門も成仏の因ではない。ましてや小乗教に等しいような大日経などの諸経が成仏の法でないのは当然であり、さらにそれらの諸経を歪めて立てた華厳・真言などの諸宗は言うまでもない、と仰せである。
 そして、これらの諸経は高く評価しても蔵・通・別の三教を出ないもので、厳しくいえば蔵・通の二教の範疇でしかないと位置付けられている。その理由として、それら諸経にたとえ甚深の法理が説かれているように見えても、「種熟脱」が説かれていないからであると仰せである。そして、たとえ成仏を説いたとしても、それは真の成仏ではなく、小乗の悟りである灰身滅智に等しいと破折されている。
 「種熟脱」が説かれていないということは、「仏種」が示されていないということである。その「仏種」とは、寿量品の文底に秘沈されている妙法であるがゆえに、寿量品以外は成仏の法ではないのである。

第25章 文底下種三段の流通を明かす

迹門十四品の正宗の八品は……但題目の五字なり。(同249㌻10行目~17行目)

 ここからは、文底下種三段の流通分が明かされていく。
 ここでは、法華経の迹門・本門とも、末法の衆生のために説かれたこと、そして、末法に流通すべき法は下種益の妙法たる題目の五字、すなわち南無妙法蓮華経であることが示されている。
 まず、迹門の正宗分八品(方便品から人記品)は、表面的には釈尊在世の二乗を対告衆とし、彼らを成仏させるために説かれている。したがって、菩薩や凡夫は付随的な対象としているように見える。しかし、立ち入って考察すれば、釈尊滅後の凡夫のために説かれたのであり、しかも滅後正像末の中でも、末法の始めこそ中心であるとしている。
 また、迹門が末法のためであることの文証として、法師品の「猶多怨嫉・況滅度後」、宝塔品の「令法久住」の文と、勧持品、安楽行品の名を挙げられている。これらは迹門の流通分であるが、いずれも末法の流通を示す。法師品の文は、在世よりも怨嫉の多い末法の時を指し示している。宝塔品の「久住」とは、当然、末法に広まることである。正像だけでは久住にならない。勧持品の三類の強敵は末法流通の様相であり、安楽行品には明確に「末世」の言葉がある。
 次に本門については、「一向に末法の初を以て正機と為す」と示されている。「一向に」と仰せられているのは、迹門とは違い、序・正・流通のすべてが明確に末法のために説かれているからである。迹門は流通分から立ち返って見る時に初めて末法のための説法と見られるのに対し、本門は初めの序分から、直ちに末法のための説法となっているのである。
 その文証は、次章以後に詳しく示されていく。
 しかし、本門正宗分の一品二半を見る限りでは、在世の衆生のためであるようにも見える。なぜならば、寿量品の説法を聞いた在世の衆生が分別功徳品の前半で得脱していくからである。この点について説明されているのが「一往之を見る時は」以下の仰せである。
 すなわち、在世の衆生は、久遠五百塵点劫に下種され、過去三千塵点劫の大通智勝仏の時の教えから今日の釈尊の爾前経・法華経迹門までを熟益とし、本門寿量品で得脱した、と。
 これは化城喩品と寿量品に基づき、在世の衆生に対する種熟脱の化導を述べられているのである。しかし、本門寿量品の意義についていえば、在世の衆生が寿量品で得脱したというのは、文上脱益の面を示したもので、表面上の見方である。
 立ち入って考察すれば、本門正宗分の一品二半は末法の衆生に下種すべき法体を明かしているのであり、その法体が寿量品の文底に秘沈されている久遠元初の妙法に他ならない。この妙法を、日蓮大聖人が末法において三大秘法の南無妙法蓮華経として顕し、広宣流布していくのである。
 ゆえに「在世の本門と末法の始は一同に純円なり但し彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり」と、種脱相対を明かされているのである。「一同に純円」とは、すべての衆生を成仏させる円教を純粋にまじりけなく説いている点では同じ、ということである。しかし、両者には脱益と下種益の違いがある。ゆえに「彼は脱此れは種」と仰せなのである。
 この種脱の違いについて、「彼は一品二半此れは但題目の五字」と仰せである。
 この題目の五字、すなわち南無妙法蓮華経は寿量文底の妙法であり、大聖人はこれを三大秘法の南無妙法蓮華経として顕され、末法に弘められた。
 要するに、法華経本門は末法のために説かれたものとはいえ、文上の寿量品がそのまま末法の法となるのではない。下種仏法たる大聖人の妙法こそ、末法における純円の法なのである。
 以上のように、末法流通の法体は三大秘法の南無妙法蓮華経であるが、文底下種三段の「流通分」としては、釈尊の一代聖教および三世十方の諸仏の膨大な数の経々が全て南無妙法蓮華経を弘めるために用いられる。
 ただし、序分と流通分では、体外と体内の違いがある。
 体外とは寿量文底の妙法が顕れていない段階の一切の経々であり、体内とは顕れた後に妙法を説明するために用いられる一切の経々を指す(五重三段の全体については別掲の表の通り)。
 なお、前後するが、ここで本門での在世の衆生の得脱について、「本門に至って等妙に登らしむ」と述べられている点について触れておきたい。
 「等妙」とは、修行の段階を五十二位に分けたうちの五十一番目の「等覚」(長い間菩薩の修行を積んで仏と同じ悟りを開き、まさに仏界を得ようとする位)と、五十二番目の「妙覚」(完全に妙法と一体化し、その功徳を成就した仏の境地)を合わせて呼ばれたものである。
 寿量品を聞いた衆生が到達できた境涯は、あくまでも「等覚」までであって、「妙覚」に至ったとは法華経に説かれていない。しかし大聖人は「等妙に登らしむ」と断言されている。これは、どういうことであろうか。
 文上の寿量品を聞いて「等覚」に登った衆生は、実は同時に、その文底の妙法を悟ることによって、「妙覚」に達したのである。つまり、衆生を妙覚に登らせる(成仏させる)のは、文上の寿量品ではなく、寿量文底の妙法の功力であると、大聖人は示されているのである。
 日寛上人は、この法門を「等覚一転名字妙覚」(等覚に至った衆生が一転して妙法を信じ、受持する名字の凡夫の位に戻り、そこからただちに妙覚に入ること)と呼ばれている。
 つまり、寿量品の文上から見れば、衆生の得脱の姿は釈尊在世にあるが、その成仏の本因は久遠の妙法にある。このことを妙楽も、「脱は現に在りと雖も具に本種を騰ぐ」と説いて、文底の妙法を示唆している。

(創価新報2015年3月18日号)