青年部年間拝読御書

青年部拝読御書 「観心本尊抄」研鑚のために②

第2段 観心を明かす青年部拝読御書 「観心本尊抄」研鑚のために②

 青年部拝読御書「観心本尊抄」を学ぶ連載の第2回は、第2段第5章から第10章を解説。観心の意義や十界互具を通して、本来、全ての衆生に仏界が具わっていることを学ぶ。

末代の凡夫出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具足する故なり(御書241㌻)

第5章 観心の意義を示す

問うて曰く出処既に之を聞く……知らざるなり。(御書240㌻1行目~4行目)

 先の段までで一念三千の出処を示す部分が終わり、この段から「観心の本尊」の「観心」の意義を明かす部分になっている。
 「観心」とは自分自身の心に十法界(十界)を見ることであり、なかんずく、誰人であっても等しく仏界があることを知ることである。
 この観心の修行は、時に応じてさまざまな実践が唱えられた。
 天台は、瞑想によって自分の心を観察し、自身の生命に具わっている十界を見ようとした。
 それが「観心とは我が己心を観じて十法界を見る」ということである。
 しかし、現実には地獄界から仏界までの十界を己心に見ることは難しい。十法界が己心に具わっていることは知り難いゆえに「明鏡」が必要となる。このことを日蓮大聖人は、「明鏡に向うの時始めて自具の六根を見る」と、譬えをもって述べられている。
 すなわち、自身に十界が具わることも、十界互具を明かした法華経・摩訶止観という明鏡に照らして初めて明らかになるのである。
 反対に爾前諸経では、十界を説いても、それぞれが別々の世界・境涯とされているため、我が己心を明らかに映し出す明鏡とはならない。
 ここで、この段では仰せられていないが、「観心本尊抄」の趣旨からいえば、末法の観心が『摩訶止観』で説かれる観心行でないことは、いうまでもない。
 いわば自力の瞑想による天台の観心行は、天台の時代ですら成就することがきわめて困難な修行であり、まして貪瞋癡におおわれた末法の衆生にとっては、とうていできる修行ではない。
 大聖人は、末法の一切衆生のために、一念三千の当体を南無妙法蓮華経の御本尊として顕された。この御本尊こそが、末法の「明鏡」となる。
 御本尊を「受持」することが、そのまま末法においては「観心」となる。これを「受持即観心」といい、御本尊を「観心の本尊」と呼ぶのである。このことは、本抄の以下の展開で明らかにされていく。
 なお、日寛上人は、「我が己心を観じて十法界を見る」について、「我が己心を観じて」とは〝御本尊を信ずる〟ことであり、「十法界を見る」とは〝唱題〟であると、大聖人の仏法の上から観心の意義を示されている。

第6章 十界互具の文を引く

問うて云く法華経は……仏界所具の十界なり。(同240㌻5行目~16行目)

 法華経が観心のための「明鏡」となることの根拠として、法華経には十界の生命それぞれに十界が具している(十界互具)と説かれていることを、一つ一つ経文を挙げて示されている。
 最初に総じて「九界所具の仏界」の文証として、方便品の「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」を、「仏界所具の九界」の文証として、寿量品の「是くの如く我成仏してより已来甚大に久遠なり……復上の数に倍せり」の文を挙げられている。次に、十界それぞれに十界を具えていることを明かした文を、地獄界所具の十界から順に挙げられている。

第7章 難信難解を示す

問うて曰く自他面の……正法に非じ。(同240㌻17行目~241㌻4行目)

 経文には十界互具が説かれていても、自他の生命に十界を見ることができないので、とても信じ難い、との疑問が挙げられている。
 それに対して、この段では、簡単に信じられたり理解できたりしないのが当然であって、これは法華経にも難信難解とことわっている通りであると答えられる。
 疑問の背景には、この世に人間として生まれた以上は人界であって、それ以外の九界は自分にはないとする考え方がある。それが爾前経で説いてきた十界観だったのである。
 すなわち、法華経以前では、十界とは今世の行いの報いとして、次に生を受ける時に生まれるさまざまな世界を表していた。
 これに対して法華経では、十界のいずれの衆生にも、十界が欠けることなく具わっているという十界互具が説かれた。そして、十界のいかなる衆生も、妙法への信によって、おのおのの境涯から直ちに仏界を顕し成仏できることが明かされたのである。

第8章 心具の六道を示す

問うて曰く経文並に……之れ有る可し。(同241㌻5行目~9行目)

 法華経の文や天台・章安の注釈には確かに説かれているが、それでも十界互具は受け入れ難い説であるとして、他人の顔にせよ、自分の顔にせよ、そこにはただ人界が現れているにすぎないと質問している。要するに、この質問者は爾前経の十界観にとらわれているのである。
 それに対して大聖人は、人間の顔にも瞬間瞬間の心の変化が現れることを指摘し、人界に六道が具わることは明らかであると示される。
 すなわち、瞋りにとらわれているのが地獄界、満足と喜びに包まれているのが天界というように、六道の世界は、固定化されて存在しているのではなく、自身の生命の瞬間瞬間の境涯として現れるものである。
 ところで、この意味での「六道」はいずれも「色法」すなわち外面に日常的に現れる姿でとらえることができる。これに対して、なかなか現れにくく、外面的な現象としてとらえがたいのが「四聖」である。
 四聖は、変転してやまない六道を超えて、真理を悟って主体的に壊れることのない境涯を築いていこうとし、またそれを成就したところに現れる生命の境涯――つまり、仏道修行を縁として現れる境涯である。
 しかし、容易には見えないものの、全く見えないわけではない。それが「委細に之を尋ねば之れ有る可し」との意味であると拝される。

第9章 心具の三聖を示す

問うて曰く六道に……仏界を具足する故なり。(同241㌻10行目~16行目)

 ここでは、凡夫の生命にも声聞・縁覚・菩薩の生命が具わることが示されている。
 まず質問者は、人界に六道が具わることはそれなりに納得するとしても、四聖は全く見えないではないか、と質問を立てる。
 これに対して回答者は、人界所具の六道については強いて説明して一応の理解を得たが、人界所具の四聖についても同様に道理の上から説明を加えよう、と述べている。
 ここで先の六道の説明も「相似の言」とされているように、六道の境涯に対する完璧な表現ではない。また、四聖についてのこれからの説明も、それで全てが尽くされているわけではないので「万か一」、すなわち、ごく一部にとどまる説明であるとしている。
 まず、世間の無常は眼前にあり、この世間の無常を感じる心に二乗があるとされている。
 ここで「世間」とは、六道を現じている現実世界のことである。その六道が転変常なく、天界の喜びも人界の平穏も、たちまち消えてしまうという「無常」の真理を覚知し、無常のものに執着する煩悩を滅することによって平安の境地を得ようとするのが二乗界である。
 また、どんな悪人も自分の妻子に対しては慈愛の心を起こす場合がある。それが菩薩界の一端を示すものである。
 しかし、二乗および菩薩は人間生活の上に現れる具体的な姿によって示せるが、仏界だけは容易に現し難い。
 したがって、具体的な姿、身近な例をもって示すことは難しい。それでも大聖人は、これまで心具の九界が明らかになったことをもって、強いて仏界があることを信ずべきであると仰せである。
 そして、衆生に仏の生命が具わることを説いた法華経と涅槃経の文証を挙げられている。
 法華経の「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」の文は、九界の衆生の生命に、仏知見すなわち仏界の生命が本来あることを意味している。
 次の涅槃経の文は、「肉眼有りと雖も名けて仏眼と為す」――すなわち凡夫の身のままで仏智を現しているのに等しいとの意である。
 このように文証を挙げた後、「末代の凡夫出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具足する故なり」と、末法の衆生がこの法華経を信ずる心を起こすことができること自体、そもそも、人界に仏界が具わっている証拠であるとされているのである。
 日寛上人は、この仰せを受けて、「法華経を信ずる心強きを名づけて仏界と為す」(『三重秘伝抄』)と言われている。

第10章 仏界を明かす

問うて曰く十界互具の……信ず可きなり。(同241㌻17行目~242㌻13行目)

 十界互具のうち、特に人界所具の仏界について、さらに問答を立てられている。
 質問者はここで、我々のような劣った者に仏界が具わっていることは信じ難いことであるとし、しかも、もし信じなければ、十界互具を説く法華経を信じないことだから、「一闡提」となり、地獄に堕ちることになる。ゆえに、大慈悲を起こしてこれを信じられるようにしてほしいと求める。
 これに対し大聖人は、仏説によっても信じない者を、仏より劣った者が救うことは不可能であると述べられながら、しかし、仏の直接の説法を聞いても悟らなかった人が阿難らによって得道した例もあり、人が信を起こす機縁はさまざまだから、可能性がないわけではないと仰せられている。
 そして、仏以外の者が「人界所具の仏界」という重大な問題について説いて、衆生が救われる可能性を論じられる。
 具体的には、次のような種々の事例を挙げられている。
 ①法華経による成仏について、仏に会って法華経を聞いて成仏できる人とともに、仏には会わなかったけれども法華経によって成仏できた人がいる。
 ②インドや中国で仏教が広まる以前に、仏教以外の教えによって仏教の正見に入る人がいた。
 ③仏教の中でも、法華経以外の教えを縁として過去に法華経によって下種された仏種を思い起こして得道した人(教外の得道)がいれば、逆に法華経に出あっても他教への執着が強くて謗法に陥った者もいた。
 ここで、これらの可能性を論じられているのは、大聖人が凡夫の立場に立たれて本抄を教えられることによって、末法の衆生が成仏していける道を示されているのである。
 そして、この論議の答えは、受持即観心の成仏と、そのための本尊を説く本抄全体で答えられていくことになる。
 以上のようにことわられた上で、大聖人は凡夫に仏界が具わるということを「現証」をもって信ずべきであると論じられていく。
 まず、十界互具そのものの信じ難さは「石の中の火」や「木の中の花」のようなものであり、これらは信じ難いが、火打ち石の例もあり、春になれば木から芽が出て花が咲くように、縁にしたがって現れるところを観察すれば信ずることができる。
 これに対して〝人界所具の仏界〟は、「水中の火」「火中の水」のようなものであり、十界互具よりもさらに信じ難い。しかしながら、それでも、水より生ずる竜火、火より生ずる竜水の例もあると述べられた上で、人界所具の仏界の「現証」を三つ挙げられている。
 第1は、堯王や舜王など中国古代の伝説上の皇帝が、万民に対して偏頗の心がなく平等な善政を行ったことは、人界に具わる仏界の一分を顕した例であるとされる。
 ここで「偏頗無し」とは、仏の特質の一つである「平等大慧」の智慧と慈悲を表したものといえよう。
 第2は、不軽菩薩の例である。不軽菩薩が、増上慢の心で迫害を加えてくる人々に対してさえ礼拝を続けたのは、あらゆる他者の内に仏身を見たゆえである。
 第3は、釈尊の例である。すなわち、釈尊がインドに悉達太子として人界に生を受けながら修行して仏陀となったことは、人界所具の現証にほかならない。
 これらの例から人界に仏界が具わることを信ずるように重ねて強調されているのである。

(創価新報2014年10月15日号)