ほぼ日刊イトイ新聞

2020-06-27

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・郷ひろみに『よろしく哀愁』という名曲がある。
 作曲はヒットメーカー筒美京平先生。
 作詞は、ときどき大傑作を書く安井かずみさんだ。
 むろん、この歌詞はその大傑作のひとつだと思う。

 安井かずみの『よろしく哀愁』には、
 ぼくが思うところでは、2つのビッグアイディアがある。
 1つは、おそらくティーンエイジャーの「僕と君」が、
 一緒に住もうとしているというところだ。
 恋愛が、恋愛のイメージとして語られるのではなくて、
 「一緒に住みたい」という現実の生活が願われている。
 もともと水商売の男女の恋愛物語などでは、
 住む住まないのことはよく描かれていたけれど、
 青少年が「ふたりのアパートがあればいいのに」と、
 願っているという場面は、ものすごく新鮮だった。
 と、ついつい書いたけれど、ぼくが今日言いたいのは、
 そっちのほうじゃなくて、
 もう1つの重要なアイディアについてだった。 

 「会えない時間が 愛 育てるのさ」という歌詞。
 会えば会うほどに愛が育つのではなくて、
 「会えない時間こそが、愛を育てる」
 という逆説的な表現が、この歌を昭和の名曲にした。
 後に「会えない」恋愛を経験する多くの人たちは、
 きっと、歌を思い出したにちがいない。
 この歌詞の1行は、それほど大きな影響を与えてきた。

 ごめんごめん、
 なんでこの歌のことを思い出したかというとね、
 いまの「コロナウイルスの影響下にある時代」って、
 恋愛にかぎらず、さまざまな「会えない時間」、
 いろんな「できない時間」を経験してきたなぁ、と。
 例えば、ぼくが音楽家だったら、
 共に演奏してきたメンバーに会えない観客に会えない。
 緊急事態のときには、「会えない時間」だらけだった。
 そのときに、育てられたものはなんだったのだろうか。
 人それぞれだろうし、なにもなかったという人もいる。
 いま、ぼくは、じぶんのこととして、この期間には、
 「なにか育っていた」という気がしている。
 それがどういうものなのか、やがてわかるだろうね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
会いたくてしかたないという人たちに、なにか育てと願う。


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