ASANOT BLOG / アサノタカオの日誌

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内田樹氏によるホ・ヨンソン詩集『海女たち』の書評に異議を表明します

 


2020年5月2日の西日本新聞に、内田樹氏によるホ・ヨンソン詩集『海女たち』(姜信子・趙倫子訳)の書評が掲載されました。その内容に異議を表明します。以下は出版元にて本書の編集を担当した立場にある、しかしながらあくまで一個人としての見解です。

個人や組織を非難・批判する内容ではありません。また、コロナ禍の大変な時期に書評掲載にご尽力いただいたすべての皆様への感謝の気持ちを片時も忘れたことはありません。今日の言論やメディアのあり方に対する問題提起として、投稿します。

 

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内田樹氏による、韓国済州島の詩人であるホ・ヨンソンの詩集『海女たち』の書評は、率直に言って一語たりとも読むべきところのない内容で、この情報を共有すべきかどうか悩みました。私がなぜ、ここまで強い言葉遣いで語りはじめるのか、自身の考えを少し丁寧に述べさせていただきます。本書の内容に関してはこちらを参照してください。

そもそも、800字という限られた文章量の半分以上、控えめに計算して全57行中42行を、対象となる本ではなく《自分語り》に費やす文章を《書評》とは呼べない、と私は考えます。冒頭から「私は韓国文学についてほとんど何も知らない」「どうしてそんな人間に書評を依頼してきたのか、よく理由がわからない」「訳者の姜信子さんとのご縁だろう」などという裏話や憶測を16行以上、書いているのですが、訳者によるとこうした書評依頼の経緯説明は誤解を招く不正確な記述です。

「思想家」を名乗り、マスメディアという公的な場で書評という枠組みで語るなら、好意的であれ批判的であれ、なによりもまず《他者の書物の内容を評する》という最低限の作法を守り、議論の責任を果たすことが必要です(当たり前のことを書いています)。また「武道家」でもある氏ですが、このたびの書評は道場破りの奇襲攻撃のようなものであり、書物の内容との真剣勝負を避け、不意打ちのようなやり方で斜め後ろから対象を斬りつける言論にほかならず、そうしたものを私は、言論に関わる編集者として、また一読者として容認できません。

内田氏は「さいわい私は(韓国)済州島には二度行ったことがある」と文中で証言しています。うち一回は「その地の痛ましい歴史にも詳しい…伊知地紀子さん引率の「修学旅行」」をしたという、誰もができるわけではない特別な学びの体験をもっているのであれば、「知らない」「理由がわからない」などと言い訳をすべきではないと個人的には思います。韓国「文学」の専門家ではなくとも、フランス「文学」を専攻したプロフェッショナルな人文学者であれば、また『街場の日韓論』という共著の編者であれば、なおさらです。

にもかかわらず書評の終盤まで、「私の主宰する凱風館」と「(済州島の)大衆食堂で食べた「さばの味噌煮」」という、氏の周囲にいる一部の仲間以外の読者とは共有しがたい、また書物の内容とは関係のない《自分語り》に居座りつづける文章を読み、私はその無責任な言動にひたすら情けないと思いました。あえて、思想家・専門家のような顔をせず、一般的「国民」である「おじさん」の顔で「日本人」およびその周辺の諸問題を語る、という氏独特のパフォーマンスである可能性を考慮しても、私的なブログではない新聞書評という場においては明らかにやりすぎです。

唯一、やや冷静な気持で受け取ることができたのは最終段落にみられる「生活者の顔を」以降の指摘ですが、詩集が体現する「見知らぬ老女(=生活者)」の顔を前にして「ひるむ」とだけ評して論を閉じるのは、常識的に失礼なことです。詳述は控えますが、植民地主義の歴史への反省を踏まえた近年の人文学の諸成果を振り返ると、文中の「俺は(済州島の老女である)この人と血縁だったのに」という「ひるむ」を受けての「血縁」発言は不用意なのもであり、大きな疑問を感じました。

責任ある言論人として内田氏に必要だったのは、「何も知らない」ゆえに書けないないのであれば書評の依頼を断ることでした。しかし人間関係であれその他の理由であれ仕事として引き受けたのであれば、対象について「何も知らない」としても、「何も知らない」他者のまなざしを借りて自分自身のひるむ顔をみつめ、自分自身の無知を問い直し、さらに氏が著述でおこなう表現を借りれば、「では、この老女の顔は私ではない誰に向けて語りかけているのか」と省察を深める「成熟」の態度であったと思います。書評の最後に見られる漱石夢十夜』への言及も、文学者である評者による苦し紛れの衒学的仕掛けに見えて、後味の悪いものです。

内田氏はリベラル的な思想をもつ人文学者でありながら天皇主義・保守主義を掲げています。そして国民国家などの社会制度が抱える諸問題を所与のものとして追認したうえで現状分析と未来予測の言説を次々と繰り出し、「市民」や「知性」などの用語によって代弁されるあるポジションに安住したいと願う一定数の大衆=ファンの関心を集める、権威主義的ポピュリスト・エリートです。

したがって、たとえばホ・ヨンソンの詩集がそうであるように、社会制度が抱える諸問題を所与のものとして追認することなく、「市民」や「知性」などの用語に長いあいだ安住できなかった女性たち、母たち、肉体労働者たち、反乱者たち、在日コリアンを含む離散民たち、歴史のなかで居場所をもたなかったものたちの声を現在において探求するような批判的な営みにはきわめて冷淡なのだと思われます。

私は、内田氏のメディアでの発言、ブログやSNSの投稿を追いかけるほどの熱心な読者ではありません。しかし、2001年の『ためらいの倫理学』から2014年の『日本の身体』まで、氏の主要な著作を敬意を持って読んでおり、時事問題に関して目の覚めるような知見を得たと感じることもありましたが、しばしば上記で見立てたような疑問も抱いてきました。が、それ以降の近年の著作は読んでおらず、また私自身の内田氏の思想理解も浅いものだと自覚していますので、それらを含めて氏のこれまで言論を再検証することは今後の課題とさせてください。

さて、西日本新聞の文化部は《書評》を依頼した以上、《特定のファンではなく不特定多数の読者を対象にした書評なので、ご自身のことではなく本のことを書いてください》と穏当な修正を求めるべきではなかったでしょうか。また冒頭で記したような、氏が憶測する書評依頼の経緯説明は誤解を招く記述なので当然、事前に関係者に確認すべきでした。が、著名人に忖度するあまり、当たり前の原稿チェック機能すら果たすことができないのは、私自身もその一員であるマスコミ・出版産業の根深い問題です。

左から右に自動的に流すような形で、内田氏ご本人がホ・ヨンソン詩集について「しかたがないので適当なことを書いてしまった」(2020年3月29日、Twitterでの発言)と予告した通り、あのような《ひとり言》に近い書評としては異常なテキストが新聞に堂々と掲載され、またそれが許されるのは、著者がほかならぬ《内田樹》という権威だからであると私は考えます。しかし内田氏に書評を書いてほしいと希望する気持ちは私自身にもありましたし、上記すべての批判の刃はそのまま自分自身に向けて、しばらく言論界の末席にいるものとして反省の時間をもちます。

 

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一つのたとえ話をします。あなたはフランス料理店のオーナーであると想像してください。今日は新作のスープ料理の公式試食会で、目の前のテーブルには影響力ある料理評論家が座っています。食事の時間が終わり、あなたはその評価を確かめようと、「本日の料理はいかがだったでしょうか?」と声をかけます。厨房のスタッフも、固唾をのんで見守ります。全員が、厳しい意見も覚悟しています。

すると評論家氏は「フランス料理についてほとんど何も知らない」「なぜ依頼してきたのか、よく理由がわからない」と冒頭から否定的な発言を続け、「きみは~さんとご縁のある人だったよね」などと、さも知り合いに頼まれたから仕方なく、という不機嫌とも受け取れるそぶりを見せはじめます。そして「フランスには二度行ったことがあるけど」と本題らしき内容に入ったかと思うと、「パリの大衆食堂で食べた味噌汁が一番印象に残っている」などという「場違いな」自分語りをひたすら続けます。あなたは、オーナーとしてどのような気持ちになるでしょうか?

試食会、すなわち新作料理の第三者評価をおこなう場という意義を無視して、その文脈においては無意味なことを延々と語り続けるということは、すなわち言葉ではなく態度で、「この料理も、目の前にいるあなたたちの存在も無意味である」と嘲笑的に伝えているに等しい、ということは理解できると思います。しかもその様子が、リアルタイムで世界中の視聴者に向けてネット配信されているとしたら…。

私がこの店のオーナーであれば、この状況の中でいたたまれない気持ちになり、こんな自己中心的な人物から新作料理のお墨付きを得ようと一瞬でも期待した過去の我が身の浅ましさを呪うことでしょう。そして自分たちの仕事に嘘がないという自信があれば、スタッフの名誉を守るために声をあげます。みなさんの仕事には意味がある、と。

話をもどします。私は編集者として、ホ・ヨンソン詩集『海女たち』の翻訳、校正、装丁、装画、日韓のあいだのさまざまな交渉、印刷製本、それらの個々の業務の領分を越えた、《他者の声を届ける》ことをめぐる情熱的な仕事に伴走し、また現在、困難な社会状況の中で読者に本を届ける地道な仕事に取り組む人々の姿を知っています。これらの尊い仕事によって生まれ、支えられる書物が、公的な言論の場においてあまりにもぞんざいな扱いを受け、それどころかマスメディアという拡声器をつうじて「遂行的」に愚弄される結果となり、くやしい気持ちでいっぱいなのです。

最後に、内田樹氏の国語教育に関する文章を引用します。

「今の日本社会は、自分自身の知的な枠組みをどうやって乗り越えていくのか、という実践的課題の重要性に対する意識があまりに低い。低いどころか、そういう言葉づかいで教育を論ずる人そのものがほとんどいない。むしろ、どうやって子どもたちを閉じ込めている知的な枠組みを強化するか、どうやって子どもたちを入れている「檻」を強化するかということばかり論じている。」

https://blogos.com/article/286791/

ここで言われる「檻」のなかに閉じ込められているのは、いったい誰でしょうか?

 

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2020年5月2日の西日本新聞より