飯田豊(立命館大産業社会学部准教授)

 ネットフリックスとフジテレビの恋愛リアリティー番組『テラスハウス』の出演者が急死し、番組の制作中止が発表されてから1カ月が過ぎた。

 この痛ましい出来事が報じられた直後から、会員制交流サイト(SNS)での誹謗(ひぼう)中傷に関して、国会や政府を巻き込んで制度改正の在り方が議論されている。早急に厳罰化すべきという感情的な声も大きい反面、発信者情報開示請求のプロセスを簡素化する必要性や、不適切投稿の削除申請にまともに応じていないプラットホーム事業者の責任など、問題の所在がそれなりに明確化している。

 それに対して、放送局の責任についてはどうだろうか。というのも、新型コロナウイルスの感染拡大が抑え込まれ、緊急事態宣言や外出自粛要請が段階的に解除されるやいなや、しばらくの間コロナ報道一辺倒だった情報番組では、芸能人の不祥事などを徹底的に糾弾する光景が再び目立つようになった。それは当然、SNSでの痛烈な誹謗中傷を惹起(じゃっき)している。

 こうしたテレビとSNSとの共犯関係こそが、この問題の根底にあるのではなかったか。リアリティー番組の在り方だけを見直せば良いということではないはずだ。

 2010年代におけるSNS、リアリティー番組をめぐっては、5月末にライターの松谷(まつたに)創一郎氏がさまざまなメディアで問題点を指摘している。

 松谷氏はハフィントンポスト日本版での「出演者の“人格”がコンテンツ化するリアリティ番組が生んだ悲劇」という寄稿で、まずリアリティー番組を類型化した上で、AKB48に代表されるような、必ずしもテレビ番組が中心とは限らない日本独特のリアリティーショーの系譜を的確にまとめている。とりわけ10年代におけるリアリティーショーとSNSとの「シナジー効果」は、出演者の人格(パーソナリティー)が切り売りされる「残酷ショー」としての魅力を高めるとともに、その危うさを急速に増してきたという。

 私は松谷氏の指摘に全面的に同意する。リアリティーショーにおいて、出演者たちは番組がしつらえた空間に集められ、日常とは全く異なる環境でカメラが回る。たとえ台本はなくても、出演者は期待される役割を果たそうと、制作現場の空気を読んだ言動を進んで選択することもある。現実をそのまま投影しているわけではないが、だからといって虚構と割り切ることもできないという点で、リアリティー番組とSNSは極めてよく似ている。
写真はイメージ(Getty Images)
※写真はイメージ(ゲッティイメージズ)
 英国のメディア研究者でロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)のニック・クドリー教授は、03年の著書『メディア儀礼(Media Ritual)』で、リアリティー番組を支えているのは、テレビの中にあるものをその範囲から欠落したもの(=日常生活)よりも優れたものとみなす価値で、参加を通じて承認を提供する形式だと指摘する。クドリー氏の「リアリティー番組」という部分を「SNS」に置き換えてみよう。

 「SNSを支えているのは、インターネットの中にあるものをその範囲から欠落したもの(=日常生活)より優れたものとみなす価値で、参加を通じて承認を提供する形式である」。このようにしても、全く違和感がないことがよく分かる。批評家の宇野常寛(つねひろ)氏が現在のSNSを「1億総リアリティーショー」と表現しているのもうなずける。