2020年3月30日、交流サイトのフェイスブックに1本の動画が投稿された。1人の男性が「キナ茶」と書いてある小さなビニール袋を手に持っていて、それをひっくり返してみせる。出てきたのはキナと呼ばれる木の樹皮を削った破片だ。彼はフォロワーに樹皮を使ったお茶の作り方を教え、キナ茶は「体の免疫力を高め、新型コロナウイルスと戦えるようにしてくれる」と説明する。
男性は、キナ茶はこれから大人気になるので、動画を見た人はすぐに購入するといいと呼びかける。このように考える人は彼だけではない。ゆゆしき問題だ。
世界中の科学者たちが新型コロナウイルス感染症を予防し、治療する方法を探している一方で、一部のブラジル人は自然界に治療薬を求めた。彼らが目をつけたのは、アマゾンやその他の農村地域でキナと呼ばれ、伝統的にマラリアや炎症性疾患の治療に使われている植物だった。
キナの樹皮には、ヒドロキシクロロキンを合成するヒントになったキニーネという成分が含まれているという。ヒドロキシクロロキンは、ブラジルのボルソナロ大統領とアメリカのトランプ大統領が、しっかりとした科学的証拠がないにもかかわらず、新型コロナウイルス感染症の治療薬だと喧伝している薬である。
ヒドロキシクロロキンには心毒性をはじめとする副作用があるが、マラリアや全身性エリテマトーデスの治療薬として数十年にわたって使用されてきた。2人の政治家がヒドロキシクロロキンは新型コロナウイルス感染症に有効だと言い出すと、この薬を新型コロナウイルス対策として服用するのは安全なのかという論争が起きた。
これまでにヒドロキシクロロキンの問題点を指摘する研究が続々と報告され、6月3日には、権威ある医学雑誌「ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン」に掲載された論文が、800人を対象とする研究の結果、ヒドロキシクロロキンが新型コロナウイルス感染症の予防に役立つ証拠は得られなかったと報告した。
それだけではない。キナはブラジルの人々が考えているような植物ではないし、動画やソーシャルメディアで宣伝されているお茶は、効果がないだけでなく害をなすおそれがある。
時は1638年。ペルーに来ていたスペインのチンチョン伯爵夫人がアマゾンの熱帯雨林を訪れた後、高熱を出して倒れた。治療のために彼女が飲まされたのは、地元の先住民がキナキナと呼ぶ苦い物質だった。幸い、彼女の熱は下がり、病気も治った。この病気は、今でいうマラリアだったと考えられている。
キナキナはアンデスに自生する木から採取される物質で、この木は伝統的にキナと呼ばれていたが、一説によると、のちに伯爵夫人にちなんでシンコーナ(Cinchona、キナノキ属)という属名が与えられた。ヨーロッパ人たちはこの植物を携えて帰国し、薬として販売した。この薬は「イエズス会の粉」と呼ばれ、のちに英国王チャールズ2世をマラリアから救うことにもなった。
数百年後、科学者たちはキナノキ属のアカキナノキという木に「キニーネ」という物質が含まれていることを発見した。アルカロイドと呼ばれる苦味のある有機化合物の1種で、これをヒントにして合成されたのがクロロキンやヒドロキシクロロキンなどの合成医薬品である。
ヨーロッパ人たちはマラリアに効く物質を求めてキナノキを切り出し続け、ペルーのキナノキを絶滅寸前のところまで追い込むと、今度はブラジルのアマゾンで代わりの樹皮を探しはじめた。いくつかの植物が発見され、やはり同じキナという名前が付けられた。
しかしこれらの植物からキニーネが抽出されることはなかった。
薬用植物を専門とする薬学者で有機化学者であるブラジル、ミナス・ジェライス連邦大学自然史博物館・植物園のマリア・ダス・グラサス・リンズ・ブランダン氏によると、ブラジルにはキニーネを作るキナノキ属の植物は自生していないという。
アカキナノキの代用とされているキナノキ属の木には、キニーネとは別の種類のアルカロイドが含まれているため、ヨーロッパ人はこれらにもアカキナノキと同じ薬効があると思い込んだのだろう。
けれども今日に至るまで、「偽キナ」とも呼ばれるブラジルの数十種のキナの多くは十分に研究されていない。
「まだ何もわかっていない化学物質がたくさん含まれているのです」とブランダン氏は言う。「その多くが有毒で、摂取してはいけないものです」
ブランダン氏の研究チームは、ブラジルの植物のデータベースを作成し、青空市場でキナとして売られている樹皮のDNAを調べている。これまでに調べた36のサンプルのうち、4つが「偽キナ」で、残りの32のサンプルはキナノキ属の植物ですらなく、その薬効は不明だった。
もし仮にブラジルのキナノキにキニーネが含まれていて、それを抽出できたとしても、ヒドロキシクロロキンと同じものは得られない。キニーネが天然の物質であるのに対し、ヒドロキシクロロキンの有効成分は合成された物質であり、化学構造が全く違っているからだ。
「植物に含まれている物質は私たちのために作られたものではありません」と、サンパウロ州立大学の有機化学者で天然物質や薬用植物の化学を専門とするバンダーラン・ボルザーニ氏は言う。「植物は自分自身を守るために必要な物質だけを作っています。多くの場合、植物が作る物質は人間には有毒です」
それだけではない。製薬会社が製造した薬を飲むよりお茶を飲む方が安全だと考えている人は多いが、必ずしもそうとはかぎらない。沸騰した水にキナノキの樹皮のような天然物質を入れると、目的の物質だけでなく植物が作るすべての化学物質が抽出されて、危険な結果につながるおそれがある。同じ種類の木であっても、生えている場所によって、含まれる化学成分が違っている可能性もある。
「植物は季節ごとに自分自身を変化させます。ある物質を作るのをやめ、別の物質を作りはじめます」とボルツァーニ氏は言う。「植物は、生き残り、適応し、調子を整えるために、自分の化学組成を変化させていくのです」
キニーネに毒性があることは以前から知られている。ヒドロキシクロロキンなどの新しい薬への耐性があるマラリアに対しては、今でもキニーネが代替治療薬として使われている。しかし、キニーネには、目のかすみ、難聴、吐き気、嘔吐、錯乱などの副作用があり、重症化することもある。キニーネによる重篤な副作用や死亡例が報告されたことを受け、米食品医薬品局(FDA)は2006年に、夜間の脚の痙攣の治療薬としてキニーネを販売することを禁止した。
多くの人が新型コロナウイルスの代替治療薬として偽キナのお茶を求めるようになると、この植物も被害を受けるおそれがある。
「樹皮をはがれた木は死んでしまいます」とブランダン氏は言う。「樹皮を売る人々は、お茶を飲む人の健康を害する可能性があるだけでなく、環境にも害を与えているのです」
専門家は、ブラジルのキナノキに何らかの薬効がある可能性は否定しないが、新型コロナウイルス感染症を含む特定の疾患を治療できるかどうかは確認されていないと言う。
「アスピリンをはじめ、科学的に価値のある発見の多くは自然をヒントにして生まれました」と、天然物質の応用の専門家であるブラジル西パラ連邦大学の有機化学者ラウロ・ユークリデス・ソアレス・バラタ氏は語る。「けれどももっと多くの研究が必要です。小規模な研究でも4年はかかります。私たちがこのウイルスの研究を始めてから、まだ4カ月しかたっていません。時間が必要です」
(文 JILL LANGLOIS、訳 三枝小夜子、日経ナショナル ジオグラフィック社)
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