<寄稿>
志布志事件について―憲法違反の捜査・公判―
野平康博(担当弁護人・鹿児島弁護会)
1 はじめに
志布志事件は、平成15年4月13日施行の県議選で発生しました。舞台は大隅半島の志布志町です。大隅半島は、高隈事件などのえん罪事件が発生したり、大崎事件という再審開始決定が鹿児島地裁で出されたところで、えん罪半島と言われています。しかも、志布志事件の舞台は、志布志の市街地ではなく、車で40分ほどかかる人里離れた山間の小さな集落において発生しました。その集落の一軒で選挙買収会合が実に4回にわたり開かれ、その都度現金買収がなされたとして、多数の人々が次々に警察署に任意という名で同行を求められました。そして、警察は踏み字事件に象徴されるような自白強要の取調べを行い、これにより得た虚偽自白をもとに、15名もの人々を逮捕し、検察官は最終的に13名の者(うち1名は在宅)を起訴しました。しかし、約3年8ヶ月の審理の後、結局は、確定判決が正当に認定するとおり、自白は全く信用できないもので、買収会合はなかったとして、全員無罪となりました。
では、どのようにして、捜査機関は、全員無罪となるような虚偽の自白調書を獲得したのでしょうか。
私は、志布志事件の弁護人として、また、国家賠償訴訟の代理人として、訴訟活動に関わった者として、若干の感想を述べてみたいと思います。
2 この事件の端緒は、現時点でも不明です。しかし、自白調書に記載されている買収会合があったとされる日には、会合の主催者にアリバイが成立しました。ということは、自白は全く信用できなかったことになります。さらに、取調官らによれば、その自白調書には6名もの人々の供述が、連日の取調べで、日を追う毎に変遷しながら一致したというのです。このことは取調官による供述合わせが行われたことを意味するわけですから、取調官の強制があったことは明らかです。その自白の強要は、もと被告人の皆様のお話しを聞きますと、憲法が保障する黙秘権を侵害する過酷な取調べがなされていることが判明しました。
一例では、病院で点滴を受けていた人をその帰りに取調室に連れて行き、食事もとらせずに長時間の取調べをしたため、さらに体力を消耗してしまい、取調室で簡易ベッドに横になっている状態で取調べを受けさせ、自白調書が作成されました。踏み字は拷問以外のなにものでもないですが、もと被告人の皆様のお話しでは、このような黙秘権を侵害する違法な取調べのオンパレードでした。
3 令状主義の潜脱
起訴された人々は、令状による逮捕がなされる前に、早朝から夜遅くまで取調べを受けました。10日連続で長時間の取調べを受けた者もいますし、同行を求められた者らの無知に乗じて、任意同行と称して、実際は、職場に行く道で待ち伏せをして連行し、あるいは病院に入院中の者を取調室に連行して取調べたりしました。
任意同行では、本来警察が作成するべき呼出簿への記載もないものがありました。
その取調べでは、早朝から夜遅くまで連日取調べを受け、帰ることもままならず、トイレにも見張りがつき、昼夜の食事も取れず、食事をするときでさえ取調室で取調官と一緒にとらされるなど、到底身体の自由があるとはいえない状態での取調べでした。そうであるのに、警察は、これは任意のものだと言い張っています。
本来、このような状態での取調べは強制以外の何ものでもなく、裁判官の事前の令状発付を受けて行うべきです。しかし、本件は、警察はこれを任意だと強弁することで、令状主義を潜脱して、自白強要の手段としたのです。
これは憲法の要求を全く無視するものであり、許されるはずがありません。
4 弁護権の侵害
被疑者・被告人の憲法上、刑事訴訟法上の権利を守るためには弁護人の弁護を受ける権利が十分に保障される必要があります。
ところが、志布志事件では、強制捜査中に、私選弁護人が何人も解任されました。取調官は、弁護人は役に立たない、お金が幾らあっても足りない、民事には強いが刑事に弱い弁護士だ、県の顧問をしている弁護士を指して、この弁護士にした方がいいなどと言って、弁護人と被疑者・被告人の関係にヒビを入れるような言葉を言い続けました。そのような言葉を並べ立て、被疑者・被告人に私選弁護人を解任させたのです。
さらに、弁護人と被疑者・被告人の家族との通信について、罪証隠滅を疑う相当な理由もないのに、これを捜索差押えを行うなどしています。
5 秘密交通権の侵害
それだけではなく、取調官らは、検察・警察一体となって、被疑者・被告人から弁護人との接見内容を聞き出しました。それは、弁護人が組織的に買収事件をもみ消そうとしていると邪推したためです。しかし、弁護人にとって、弁護方針を固め、公判廷で真相を解明するためには、弁護人の固有の権能としての秘密交通権が絶対的に保障される必要があります。接見内容が被疑者・被告人の口から漏れることは、弁護人の公判廷での弁護方針を根底から破壊し、憲法が保障する弁護人制度を瓦解させることになります。そうであるのに、捜査機関は75通もの秘密交通権を侵害する調書を作成したのです。捜査機関により、このような憲法を根底から破壊する行為が繰り返されたのです。
この点については、今年2月26日には、秘密交通権を侵害された弁護士11名が鹿児島県や国を被告として求めた国家賠償請求訴訟の判決が鹿児島地方裁判所で言い渡されることになっています。私たち鹿児島県弁護士会は、この権利の確立のために、今後も徹底的に争っていきます。
6 国選弁護人の解任
裁判官による国選弁護人の解任は、重大な問題を提起しました。
検察官は、弁護人が公判準備で打ち合わせを行った際に、接見室で窓越しに家族の手紙を被告人に読ませたことが裁判所が命じた接見禁止に違反するとして、捜査機関が被告人から聞き出したとする調書をもとに、第1回公判期日に、当該国選弁護人2名の解任予告まで行い、公判期日の進行を妨害し、被告人らの迅速な裁判を受ける権利を侵害したのです。その上、当該被告人らは私選弁護人を解任させられたのです。その後、弁護人が不存在の空白があった後に、裁判所は、解任した国選弁護人2名を弁護士会の推薦手続を経ずに一本釣りで選任しました。
しかも、この裁判所の解任には、担当外裁判官が関わったという重大な疑惑があり、裁判所が行った口頭聴取の際に作成された口頭聴取書2通についても、重大な疑惑が存在するのです。
7 検察官による被告人の防御活動を困難にする訴訟活動について
公判廷での検察官の訴訟追行についても、憲法上の被告人らの権利を侵害したのではないかという様々な問題があります。第1回公判期日当日の朝になされた検察官による国選弁護人解任予告もその一つです。
そのほかにも、例えば、既に公判審理の段階に入り、アリバイが判明しているにも拘わらず、被告人ら全員に対し、起訴後4ヶ月以上の長きにわたり接見禁止請求を続けるという暴挙にでました。4月22日に逮捕された者は、保釈されるまでの4ヶ月間、捜査関係者と弁護人以外の者との会話は全く許されなかったのです。否認した者にあっては5ヶ月以上にわたり弁護人以外の者との接見が禁止されていたのです。憲法上、人道上、このようなことが許されるのでしょうか。
さらに、裁判所も徹底的に保釈を認めませんでした。一審の裁判所が保釈を認めても、検察官が抗告をして、その抗告審では、いとも容易く検察官の主張が容れられ、保釈請求は却下されるという事態が続きました。福岡高等裁判所宮崎支部で一審の決定が取り消されたのは最大5回にも及びました。宮崎高等裁判所宮崎支部の判断は人権を尊重したものではなく、全く奇妙というほかありませんでした。他方、公判廷で認めた3名については、検察官の「しかるべく」の意見で、いとも容易く保釈されました。そうであるのに、否認していたものは、身体拘束状態を容易に解消できなかったのです。公職選挙法違反被告事件という事案を考えると、到底容認できない結論であると思います。
さらに、検察官は、多数の手持ち証拠(特に消極証拠)を有し、犯罪事実は存在しないことは容易に分かったはずです。アリバイの事実については、公式見解では、遅くとも平成15年7月下旬には判明していたというのです。そうであるから、検察官は訴因を特定しないまま、くずぐずと引き延ばし、2年以上経過した平成17年7月15日の第42回公判で漸く日付を特定するに至ったのです。このように、もと被告人の1人に明白なアリバイがあったため、検察官が買収会合があったとする日にちを特定せず、長期間にわたり被告人らの防御権を侵害したのです。
また、ある副検事は、公判における罪状認否でも1人公訴事実を認めた被告人の勾留場所を訪問し、慰め励ますという行動をしています。
本当に被告人らが有罪である、自ら獲得した自白が信用できるというのであれば、検察官たる者は、正々堂々と証拠も隠さず、やり遂げるべきです。検察官にやましいところがなければ、証拠も開示して、闘うべきです。憲法は、検察官に対し、それだけの絶大なる権限を与えているはずです。
われわれ弁護士は、同じ法曹として、そのことがとても残念です。
8 おわりに・・取調べの全過程の録画・録音を!
このように志布志事件では、憲法が保障する市民の権利が取調官らにより蹂躙され、そのため、供述を強要された者たちは、房内で自殺を図ったり、精神的・肉体的苦痛を受け続けたのです。
憲法は、警察権力により徹底的に過酷な人権侵害がなされた歴史的経験に鑑み、捜査機関がやってはならないことを規定したものです。しかし、憲法制定から60年を経過したのに、今なお「踏み字」のような拷問がなされていたのです。そうすると、志布志事件のような捜査機関による人権侵害が繰り返されることのないようにするためには、なぜ密室で黙秘権を侵害するような自白強要がなされ、実際にも、「被告人らの自白においては、あるはずもない事実が、さもあったかのように、具体的かつ迫真的に表現されている」(志布志事件の無罪の確定判決からの引用)虚偽の自白調書が作成されたのか解明することが不可欠です。この解明なくしては、えん罪の再発防止策はありえません。
最高検察庁も、警察庁も、志布志事件を受けて再発防止策を報告書で示しました。しかし、残念ながら、最高検察庁にも警察庁にも全く反省が見られません。真の反省は、事実をすべて明らかにすることから始まります。われわれ弁護人は、犯罪を犯した被告人に真の反省を求め、真実を洗いざらい述べることを求めます。真実を洗いざらい述べる者は、真に反省していると考えるからです。そのような者は、更生の可能性が高く、再犯のおそれは小さいと考えています。過ちに真摯に向かい合っているからです。しかるに、最高検察庁も警察庁も、なぜ密室で虚偽自白を獲得したのか、その原因の解明をことさらに放棄し、真相に蓋をしてしまったままです。捜査機関には真の反省はないと言わざるをえず、そのような反省のない者の「改善するから信頼して下さい」という言葉を信頼することなどできないことは明らかです。
確かに、われわれ市民は、自由な社会を実現するために警察・検察活動に信頼する必要もあります。志布志事件の真相を解明できるような、市民が信頼を寄せることができる警察・検察の幅広い改革は、志布志事件で捜査の被害に遭われた方々の真の願いです。この願いを叶え、適正捜査を実現しえん罪を防止するために、安価で確実な方法である取調べの全過程の録画・録音が必要であることはいうまでもありません。人権保障のために、その実現に皆が一致協力することが必要不可欠であると思います。
以 上
(平成20年年1月31日)
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