ゆるパス8




パンセー551

想像力は途方もない見積もりをして、
些細な対象を膨らませ、それで私たちの魂をいっぱいにする。
また、軽率な思い上がりによって、
偉大な対象を自分の尺度にまで縮めたりする。
神を語る場合がそうである。




 「想像力がある」という言葉は、
芸術的な感性、豊かな発想など、
いまの世の中では大抵、
褒め言葉として使われることが多いと思います。


他にも、
他人への共感や同情を指す言葉として
肯定的に使われています。



 しかし、こと、
パスカルにおいては、
「想像力」は非常にネガティブなものなのです。




想像力
 

これこそ、
人間のうちなるある支配的部分、
あの誤りと偽りの親玉、
いつも嘘をつくとはかぎらないだけに、
嘘つきの親玉だ。

なぜならそれが
嘘の確かな基準であったなら、
真理についても
間違いない基準になるはずだから。

しかしたいていは
偽りであっても、想像力は真にも
偽にも同じしるしを付けるので、
その性質をいっさい示すことがない。


『パンセ(上)』断章 44



 私たちは、
何かを認識したり、考えたりするときに、
想像力で補うことがあります。


それは、
意識的にせよ、無意識的にせよ、
行ってしまうのです。


また、その際には、
どこまでが想像力で補われた範囲で、
までが本当のことなのか、
なかなか見分けにくいという
厄介な問題もあるのです。



 実際に心理学の分野では、
このような現象は
しばしば知られたものになっています。


例えば、
私たちは普段何かをするときに、
「なぜそれをやるのか?」という理由を
明確に認識しているわけではありません。


特に理由がないこともしばしばあります。


しかし、
理由を求められると、
想像力で、つい、
もっともらしい理由をでっち上げてしまい、
それが本当だと思い込んでしまうのです*。



 他にも、私たちは、
何かフィクション作品に触れる際に、
想像力を用いることで、
フィクション作品の中に
「あたかも」自分がいるかのような経験をします。


これにより、
フィクション作品は自分にとって
ある意味現実となってしまうのです。


だからこそ、私たちは、
自分とは全く関係ないはずなのに、

テレビの向こう側にいる人や
フィクションのキャラクターを
「あたかも」自分の知り合いのように感じたり、

フィクションの出来事が
現実で起きているように
感じたりしてしまうのです。

 

(個人的には、
このような傾向は有名人と身近になりやすく、
簡単に意見を発信しやすいことが
特徴であるSNSが普及してから、
より加速しているように思われます。)



 さて、
話は少し脱線しましたが、
このように、私たちの想像力は、
時として、
真実を捉え損なってしまうのです。


パスカルは、
このことを痛烈に指摘します。




想像力はすべてを思いのままにあやつる。

それは美と正義、この世のすべてである幸福を作り出す。

『パンセ(上)』断章 44




 さらに、パスカルは、
「想像力」は、ある意味、
人間の「第二の自然本性」となっており、
「理性が叫んだところでどうにもならない」ほど、
絶大な力を持っているというのです。




ほとんどすべてが、
想像力に揺さぶられてしか動き始めない。

なぜなら理性は譲歩せざるをえなかったのだから。


『パンセ(上)』断章 44



 そして、
今回の言葉にあるように、
「想像力」は、
実際よりも対象を過大に評価したり、
あるいは、過小に評価したりすることで、
間違った認識を生み出してしまうのです。

 
 

 たとえば、
ある人々が尊敬されているのは、
想像力の産物であって、
決して、絶対的な理由があるわけでは
ないのです。



私たち人間には
「想像力」があります。


確かに、
「想像力」は発想力や創造の源であり、
私たちが生きていく上で
必ず必要になるものです。


しかし、
パスカルが指摘するように、
「想像力」はその絶大な力で、
私たちを誤った道に導くこともあるのです。



最近では、
デマやフェイクニュースの拡散など、
人々の「想像力」が暴走する場面
多く目にすることがあると思います。

 

この想像力の暴走を防ぐために、
現代の私たちは、
想像力のメリット・デメリットを
肝に命じておく必要があるかもしれません。




* カレン・E・ディル-シャックルフォード(2019)
フィクションが現実になるとき』(川端 美樹 訳)誠信書房.








 

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