1879年、警察と軍隊を引き連れ、松田道之処分官が、首里城明け渡しを強要し、尚泰王に上京を迫った。
しかし、王の側近たちは、さまざまな遅延戦術をとる。その状況に直面した松田道之処分官の心境を大城氏はこう描写する。
〈五年来、何十回あるいは何百回、琉球の高官どもと談判をした。根気くらべの談判であった。しかし、あの談判の相手には理屈があった。詭弁だらけとはいえ、理屈があった。縦横の詭弁と戦うのは苦労であったが、しかしそれなりに外交官としての張り合いもあった。
ところが、この談判はどうだ。理屈ぬきに「九十日延期を。病気だから無理だ」とくる。はねかえしてもはねかえしても寄せてくる――卑小な蚊の群れにもたとえようか。発言する者は、代表的な二、三人。残りはだまって折りふし表情を変えるが、――よろしい、この根気どちらが折れるか……〉
結局、松田処分官は、根気くらべに負け、警察力と軍事力を背景に圧力によって問題を解決した。このツケが今日まで及んでいる。「はねかえしてもはねかえしても寄せてくる」、微力ではあるが、無力ではない抵抗を今後も沖縄は続けていく。
『週刊現代』2016年11月19日号より