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# 歴史

本土の人間にはわからない日本の暗部〜構造化した「沖縄差別」

沖縄人は世界をこう見ている

差別者は自らが差別者であることを自覚しない

日本と沖縄の関係は、ほんとうに難しい。

沖縄県東村高江周辺で進むヘリパッド移設工事現場の周辺で、10月18日、抗議活動をしている市民に大阪府警から派遣された機動隊員が、「どこつかんどるんじゃ、ぼけ、土人が」と発言した。

この機動隊員の暴言に対して沖縄の世論は激しく反発している。本土の日本人からすれば、大阪府警もこの発言をした機動隊員を戒告処分にしたのでいいじゃないかと思うかも知れないが、沖縄人にとってはそれでは済まされない問題だ。

筆者の母親は沖縄の久米島出身であるが、父母、祖父母の世代の沖縄人が、日本人から「お前らはどこの土人だ」と侮蔑されたこと、沖縄戦で琉球語を話す沖縄人が日本軍人から「貴様等、土人語で話してスパイ活動をしているのか」などと濡れ衣を着せられて殺されたことを、沖縄にルーツを持つ人々は忘れない。

 

筆者もその類の話を母(佐藤安枝、旧姓上江洲)、伯父の上江洲智克(通名久、元兵庫県沖縄県人会長)からたくさん聞いた。学校教育で教えられる歴史と別の、家族や親族、そして沖縄人同胞によって伝えられる「もう一つの歴史」を沖縄人は持っている。

「琉球新報」の電子版に掲載された動画で日本人機動隊員の暴言を聞いて、久しぶりに母の声、伯父の声が正確に甦ってきた。このような乱暴な沖縄差別が21世紀の現在にも生き残っていることを再認識した。

問題は、この暴言を吐いた機動隊員個人にのみ存するのではない。沖縄人を「土人」視する日本の警察の文化だ。

差別が構造化されている場合、差別者は自らが差別者であるというのを自覚しない。それどころか、差別を指摘されると自らがいわれのない攻撃をされた被害者であると勘違いする。

構造的差別の背景

沖縄人と日本人の認識ギャップを知るためには、沖縄人作家が書いた優れた小説を読むことだ。

筆者の一押しが大城立裕氏の『小説 琉球処分』だ。明治初期まで沖縄には、琉球王国という独自の国家があった。日本政府は軍事的圧力で琉球王国を解体した。これを琉球処分という。具体的には、1872年の琉球藩設置から、1880年に分島問題が収束する8年間を指す。

1871年、台湾に漂着した宮古島の島民54人が殺害された後、日本政府は「自国民保護」という名目で、1874年に台湾に出兵して武力で処理した。

その後、日本と中国(清国)の間で国境画定交渉が行われた。1880年に日本政府は中国に対して、台湾に近い八重山・宮古島の両先島を清国に割譲し、その代償として日本が中国国内で欧米諸国同様の通商権を獲得するという要求をした。

日本が清国に提案した「分島・改約」案は、両国で合意に達したが、清国側が批准しなかったので、発効しなかった。この合意が実現すれば、宮古・八重山(そこには尖閣諸島も含まれる)の土地と人々は、清国の管轄下に移されていたはずだ。

琉球処分が国家統合、日本の民族統合であるという中央政府の主張が欺瞞だったことがこの事実からもわかる。

日本全体の利益のために沖縄を犠牲にするという構造的差別は、琉球処分のときから組み込まれたのである。歴史書を読めば、琉球処分の経緯に関する知識を身につけることができる。

台湾出兵のときの新聞の対応について、琉球藩高官の見解が興味深い。

〈「日本は、政府だけでなく、新聞までが台湾征討に向かって突進しているようです」

「そうかもしれませんね……」

それから、しばらく会話がとだえた。と、津波古ののどから、おしころしたような笑いがもれた。

「今日、思いがけない体験をしました。岸田吟香とか福地桜痴とかいう文筆家を、かねて文章だけで尊敬していたのですがね。じかに会って、その話を聞くと、なにか大きな間違いを犯していたような気がして……」

与那原は驚いた顔をしたが、そのうち頬をひきつらせて落涙した。(中略)

津波古は、心から同情するようすで眼をうるませ、

「しょせんは、わたしたちのあずかり知らぬところで進められる日本の外交です。新聞社も一般国民も、日本の立場の範囲内で琉球のことを考えてくれる、と見なければなりますまい」〉

津波古親方(日本の大名に相当)と与那原親方は、東京に駐在する琉球代表だ。この2人の会話の「台湾征討」を「辺野古新基地建設」や「高江のヘリパッド建設」に置き換えると、中央政府の強硬姿勢に対する沖縄人の心理がよくわかる。