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2019年12月10日(火)

【特集】差別と闘い、勝ち取った「改良住宅」から引越し…変わる「崇仁地区」 割り切れない住民の思い

JR京都駅の東側に位置し、約1300人が暮らす崇仁(すうじん)地区。

この街には、長年「差別」に苦しんできた歴史があります。

65年前、結婚を機に滋賀県からこの街に移り住んだ、高橋のぶ子さん(83)。

【高橋のぶ子さん(83)】
「(自宅は)この辺やった。悲惨やったで。トイレは、7、8軒が共同やろ、水道は引かれてへん、ガスは引かれてない。それで、河原町から向こう(西側)へ行ったら、ガスも水道も引かれている」

その頃の崇仁地区を撮影した写真です。

日本は高度経済成長期へと差し掛かる中、崇仁の街は、インフラ整備が遅れ、社会の発展から取り残されていました。

【高橋さん】
「京都市まで乗りこんでいったよ。地図広げて『京都市で水道、ガス通っていないところはどこや』って、市長に。そしたら、押していくところ、全部、部落。みんな呼び掛けて立ち上がらなあかんと」

当時、「被差別部落」と呼ばれた崇仁地区の住環境が、他の地域と比べて劣悪だったことに疑問を感じた高橋さんは、地域の住民と共に、京都市に対し「改良住宅」の建設を求める運動を始めました。 

京都市は、高橋さんらの運動を受け、1956年、崇仁地区のバラックを買い上げ、「改良住宅」を建設。それは、風呂もエレベーターもない、1戸当たり約35㎡ほどの小さな部屋でしたが、高橋さんたち住民にとっては、「夢に見た住まい」でした。


【高橋さん】
「そりゃあ嬉しかった。近代的な生活ができるってね」

――Q:そのときの思いは今もはっきり覚えている?
「覚えている。そりゃあ、毎日建つのを見に来たものね。はよ出来上がってくれないかなーってね」

高橋さんは、この住宅で、2人の子どもを育て、その子供が独立し、夫が他界したあとも、1人で暮らし続けてきました。

【高橋さん】
「部落の人はきれい好きっていうのが分かる。家が狭いやろ、そやさかい、ご飯食べたら子供いっぺん外に出してきれいに掃除して布団敷く」

住民の要望ではなく…大学の移転がきっかけ
この場所に3年後(2023年度)、京都市立芸術大学が移転する計画で、高橋さんが住む建物を含め7棟の改良住宅は、来年4月以降に取り壊されることが決まっているのです。

そのため、市は、住人145世帯に対し、地域に新築した公営住宅へ引っ越すよう求めています。

10月、新しい住宅の鍵の受け渡しが始まりましたが…この日、いつもは穏やかな高橋さんの様子が違っていました。

【高橋のぶ子さん(83)】
「電気は?電気も電話も線を引いてもらわないと。変わる人みんな年寄りばかりだから、もっと親切にしてあげないと。あんたんとこ強制に放り出すんやで」

高橋さんが引っ越す新居は、今よりも20平米ほど広く、エレベーターも、風呂もついています。それでも、高橋さんは引っ越しをしたくないと言います。

【高橋さん】
「あっち(旧住宅)が建つのを待って入ったときの楽しみはない。あそこには、私の19歳からの、一生懸命町内のためにしてきた思い出がいっぱいがある。住み慣れたあそこで死んで出たい」

高齢者にとって、引っ越しは心身ともに堪えます。
取り壊される住宅には、特別な思いもあります。
それだけでなく、他にも納得がいかないところもあるのです。

【高橋さん】
「耐震ができてない(改良住宅は)建て替えると、それがもう20何年前。それからずっとほったらかし。で、今度芸大が来るといったら慌てだして、そやから腹立つの私、京都市に」

京都市は、2001年に、老朽化した崇仁の改良住宅4棟の建て替えを計画しましたが、財政難を理由に、実現しませんでした。

しかし、2014年に芸大の移転が決まると、たった1年余りで空き地だった市有地に新たな公営住宅を建設。住人に、事実上の立ち退きを迫ることとなったのです。

変わる街並み…新しい出会いに期待も 

一方、街の変化を前向きに捉えている住人もいます。

大学移転を機に、外からの人も呼び込もうと、去年、街に期間限定で作られた屋台村。片岡美佐代さん(53)は地域に親しまれている「ちょぼ焼」を作っています。

【片岡さん】
「そこに傷があるように子供の、こっちが下の子、1歳でもこんだけ差があるのも見られるし。柱も持って行きたいぐらいなんですけどね」

4人暮らしの片岡さんの部屋はもともとベランダだった場所に風呂が、そしてベランダは新たに取り付けられています。

30年暮らすなかで自ら改造してきた部屋。この日、荷物が運び出されました。

【片岡さん】
「京都タワーがきれいでしょ。大文字も見えるんかと思って。これ(旧住宅)がつぶれていく様が寂しいなと思いますね。でも、またここで、芸大の人とかも来て、また違う出会いもあると思うんで。それもワクワク、楽しみにしています」

街の歴史も伝え、残していかなければ…

かつては、発展を遂げる社会の流れから取り残されていた崇仁。
その住民たちが、急速に変わりゆく街の中で、再び置き去りにされることのないように、取り組む人もいます。

【藤尾まさ代さん(62)】
「(交通インフラで)この街の中を何回も何回も色んなもので分断されていくっていう歴史があります。ですから、今回、芸大がここに大きく建つということに当たって、住民の方々が、街が分断されるんじゃないかという不安を持っているということは、そういうことなんです」

藤尾まさ代さんもこの街で生まれ育ち、過去に、就職や結婚で「部落差別」を経験した1人です。

4年前から、地域の人たちと一緒に、崇仁の歴史を伝えています。この日は、大学移転で変わる街を案内して回りました。50人ほど集まった参加者の中には、学生の姿も…。

【京都市立芸術大学 4年生】
「2月にそこの小学校で作品展があって、そこで作品を作るので、地域のことを調べたりしていて、それで参加しました。作品で、分断と言うかいろいろ危ぶまれてる差別とか人の隔たりを埋めていければと思っています」

【藤尾さん】
「この地域が被差別の歴史を持つ地域であるということは、これは1つ残しておかなければおいけない歴史だと思うんです。建物だけを建てても、人の心がついてこないと、それは本当の街づくりでもないし、街の活性でもない、新しく入ってくる人たちにきちんと歴史を理解してもらって、地域の人とどのようにつながっていくのかというモデルケースになってくれたらいい」

思いが詰まった「改良住宅」も解体へ

高齢化も進み、ピーク時には9000人以上いた人口も、1300人ほどにまで減りました。団地に60年近く住んだ高橋さんは、大学の移転で街に活気が戻ることを願っています。

しかし、割り切れない思いを拭うことができないでいます。

【引っ越し業者】
「洗濯機は持っていく?ベッドは?」

【高橋のぶ子さん(83)】
「ベッドは処分」

高橋さんも、この住宅を出る日がやって来ました。

【高橋のぶ子さん】
「いよいよ、出て行く。出て行きたくないけど出て行く」

――Q:今の気持ちは?
「なんとも言えない。寂しい。何十年の歴史があるさかいな。行きたくないけど、行くねんさかいに。未練が残る」

様々な思いが交錯する中、住民たちの「希望の象徴」だった改良住宅は、もうすぐ解体されます。 

多くの若者たちがやって来て、崇仁はどんな変化を遂げているのでしょうか。

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