為政者たちは米英などとの戦争を決めた。目指していたのは講和である。勝てない以上、妥当な目標ではある。ではどうやって講和するのか。
筋書きが決まったのは1941年11月15日、大本営政府連絡会議であった。同会議は首相や外相などの主要閣僚と、陸軍の参謀総長と海軍の軍令部総長らが構成し国策決定、戦争指導にかかわるものだ。同日、「対米英蘭蒋戦争終末促進ニ関スル腹案」をまとめた(『戦史叢書 大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯5』防衛庁防衛研修所戦史室)。
まず「方針」が示された。
さらに「要領」。
要するに(1)東アジアや西南太平洋におけるアメリカ、イギリス、オランダの勢力を排除する。重要資源を確保、長期自給自足体制を整備する(2)中国の蒋介石政権への圧力を強め、屈服させる(3)三国同盟を結んでいたドイツ、イタリアと連携し、まずイギリスを屈服させる(4)それによってアメリカの戦意を失わせる。それで講和にもちこむというものだった。
最も現実味があったのは(1)である。実際、開戦後はフィリピンからアメリカ、シンガポールからはイギリス、インドネシアからはオランダを追い払った。石油など重要資源の供給地も押さえた。ただそれを運ぶための制空権、制海権を長く保持できなかったため、長期自給自足態勢はできなかった。そして(2)。中国との戦争は泥沼化していて決着する見通しはなかった。
決定的に問題なのは(3)と(4)である。ドイツはフランスを占領するなど、開戦後破竹の勢いを見せていた。しかし海軍力が弱く、イギリスに上陸し「屈服」させることは難しかった。さらに41年6月にはソ連との戦争を始め、典型的な二正面作戦をしていた。
そんな状況で、仮にドイツがイギリスが降伏させたとしても、それでアメリカが戦意を失い日本との講和に乗り出す保障は、まったくない。
つまり大日本帝国は、希望的観測(ドイツがイギリスをやっつける)の上に空想(イギリスが離脱すればアメリカは戦意を失うかもしれない)を重ねたような構想で、戦争を始めたのだ。