タイトル通り、臥信が驍宗様の昇山に随従として付いて行った時の記録。
ずっと蓬山にいたはずなのに、「風の海 迷宮の岸」ではいっさい登場しない驍宗様の随従達は、その間いったい何をしていたのか。
また同原作は泰麒の視点、泰麒側の事情を描いた物語ですが、はたして随従の目から見た蓬山の状況や顛末はどういうものだったのか、というお話です。
「原作通り」ですので、泰麒と李斎はほぼ登場しません。なぜなら臥信は彼らとは接点を持っていないはずだからです。
できれば、拙作「泰王、呀嶺へ還る」と合わせてお読み頂けると大変嬉しく思います。
それにしてもアンタいったいどれだけ臥信書けば気が済むのよ、という感じではありますが、臥信を書くのは(少なくとも公開するのは)これが最後。
ありがとう臥信。あなたとの旅はいつだって最高に楽しかった。
(2020年夏至の日)
臥信の蓬山随行記
この文書は絶対に主上、及び台輔の目に触れることのないよう厳重に注意の上閲覧のこと。尚、この禁を破りたる者は、向こう一ヶ月間主上の剣稽古のお相手当番を務めるべし。
封印 正頼
まず初めに、驍宗様の御昇山にあたって、御協力・御餞別を賜りました方々への御礼を申し述べたいと思います。
霜元は、自身の領地の名産である見事な錦織を袍一着分用意してくれました。しかし皆様ご存知のように、御昇山を控えた今、驍宗様はいたって不機嫌で気が立っていらっしゃいますので、昇山後の御衣装の御相談など到底無理な話です。この錦織は当方で勝手に袍に仕立てさせて、蓬山へ持ち込むことに致しました。
英章は高名な丸英印の馬油最高級品の一斗入りの甕を人数分用意してくれました。残念ながら黄海を渡る旅で一斗甕を持ち運べるわけはなく、頂いた馬油は小分けにして各自が携帯させて頂くことにしました。
正頼は、いつも私たちが黄海に行くときに愛用している頭陀袋がボロボロすぎてみっともないと言って、新品の頭陀袋を用意してくれました。驍宗様にも、全員分ありますので、と、なんとか説得して無理にでも新品をお持ち頂く予定です。
阿選殿は友尚と連名で、鴻基では高級品である干魚を持たせてくれました。ひとつひとつがきちんと油紙に包んである気遣いはさすがでした。干魚は道中の単調な食事に変化をつけてくれるでしょうし、同時に塩分も摂取できるのでとても助かると思います。
呀嶺からは、全員が道中ずっと腹を下し続けても大丈夫なくらいの量の丹薬が届きましたが、こちらもありがたく必要な量だけを小分けして、各々で携帯させて頂きます。
江州の方面からは、素晴らしく軽量で丈夫な素絹布を大量に頂戴致しました。この帛は冬官府の方に油の塗布加工を依頼し、蓬山での驍宗様の天幕としてありがたく使用させて頂く予定です。
琅燦からは、いくらでも文言を記録できるという雀を持たされました。
今、私はその雀に向かって喋っています。
琅燦曰く、これなら臥信がいくら喋っても大丈夫だということですが、大きなお世話です。小さな雀なので目立たなくてよかろう、という彼女の知恵と技術には敬服するしかないとは思いますけれども、琅燦は驍宗様の御昇山の道中とあらましを自分が知りたいがためだけに、こんなものを作ったんですよ。
しかもこの雀、どうしても私の頭上にいるのがお気に入りのようで、そこから動いてくれません。これじゃまるで私は頭に雀をのせて、ずっと独りごとを言っている変な人みたいじゃないですか、と文句を言ったら、琅燦には「それはいつもの臥信と変わらない」と言われました。
あんまりだと思います。
琅燦に相談したことはもう一つありました。
これが私たちが驍宗様に随行するにあたっての最大の懸念事でもあり、他ならぬ私と巌趙が随従としてついて行く意味でもあったのですが、つまり、ひとたび昇山してしまったら誰でも王に選ばれてしまう可能性があるということを否定できない、という問題です。
まさか、霜元や英章には「麒麟の前に出るな、挨拶するな」などと強制できないですからね。いえ、彼らも当然気遣いをしてくれるのは承知していますが、万が一ということがありますから。
私と巌趙は念のため、極力麒麟の前には姿を見せないように注意するつもりですし、麒麟の選定を受けるつもりなど毛頭ない……というより、そんなことはあってはならないのですが、過去の例を見ても、麒麟がいったいどういう人物を王に選んでしまうのかは謎に包まれているわけです。私はともかく、巌趙が王になったりしたら戴は終わりです。
そんな悲劇は絶対にあってはならない。
もし麒麟が自分の前に突然平伏して、何かを誓い始めるなんていう事態に遭遇してしまったら?
琅燦曰く「許す」という以外の方策はないとのこと。しかも麒麟によっては「許す」という返事を得るまで、地の果てまで追っかけてくるって言うじゃないですか。
恐ろしい話です。冗談じゃありません。
つまり麒麟の選定を受けてしまったら、仕方なくいったん王として即位してから、頑張って可能な限りはやく失道するか、「許す」と言わされる前にその場で死ぬか、という選択肢しかないらしい。選ばれてしまったら一巻の終わりだなんて、不条理もいいところです。何故こっちには「お断りします」という選択肢がないのでしょう。
しかも私たちは仙ですから、自死しようにも自分で自分の腹や首をかっさばいたところで、あっさり即死できるとは限らないのが辛いところなわけです。
琅燦には、「万が一臥信と巌趙のどっちかにそんなことが起こったら、お互いバッサリ首を刎ねるよう申し合わせておけばいいんじゃないの、さすがに首を胴体から切り離したらあんたたちでも割とすぐ死ぬでしょ」と言われましたが、なんだかそれもちょっと酷な話だと思うんですよ。
しかも麒麟というのは、たいそう血の汚れを忌むものだというのは周知の事実です。
誓約した途端、相手の首が血しぶきと共に飛んでいくのを見させられるという事態は、麒麟として健康上の問題はないのか、仮にも先方は泰麒だし、と確認すると、琅燦は、それはそれで麒麟の対流血量耐性を見極める意味では興味深いと思う、と言いました。あと、巌趙なら首が飛んでも胴体が首を拾って元通りにつけかねない気がするから、もし本当に首を刎ねてみたら、実際どういう感じだったか結果を詳しく教えてくれ、とのことでした。
私たちはそうしたことをしばらく議論した結果、仙でも即死できる丹薬を用意してもらうよう琅燦を説得し、従って巌趙と私は、その劇薬をいつでも飲み込めるように携帯することになりました。
本当にこれで即死できるのかどうかは未知数ですが、こればかりはちょっと試してみるというわけにはいかないので、琅燦を信じるしかありません。いや、胃酸に触れた途端体内で大爆発して、肉体は細切れになって飛び散る仕様にしてあるから多分確実に逝けると思う、と琅燦が主張しています。
琅燦、何が何でも驍宗様に登極して頂かねばならぬという気持ちはお互い様ですけど、お願いだからもう少し穏便に、あまり蓬山をお騒がせせずに邪魔者が死ねる方法を考えて下さい。
いやはや、昇山のお供というのも、けっこうな覚悟がいるものです。
我々のそんな悲壮な覚悟を知る由もない驍宗様は、そもそも「一人で行く」と主張されており、お供をお連れ下さいと説得するのは大変だったのです。
「子供じゃあるまいし、随従なんぞぞろぞろ連れて行く必要がどこにある」
いかにも驍宗様らしいとしか言えない、可愛げのない物言いです。本当にいつも、こっちがどれだけ心配してるかなんて、まったくお構いなしなんですから。
個人的に黄海に狩に行くのとは違うのです、他の昇山者の目もあることだし、やはり仮にも禁軍左将軍というお立場の体裁というのを考えて下さい、と言うと「狩に行くのではないからこそ、なおさら私一人が行けば事足りるではないか。行って帰って来るだけだろう」などと仰る始末。
そういうわけにもいかないのです、蓬山では天幕を設営して滞在する必要がありますし、お召し替えも必要です、それだけの荷物はお一人ではお持ちになれませんし、第一計都にどれだけ積む気ですか、計都がかわいそうじゃないですか、と申し上げると、「私は野宿するからいい」などとほざきやがるんですよ、あの方は。
いくら本人がよくても、蓬山で一人で着の身着のまま野宿する浮浪者もとい禁軍将軍……みたいな人が本当に戴の王でいいのか、と、周りの昇山者に白い目で見られることは間違いない。というより、そんな変な人が麒麟に選んで頂けるのでしょうか。小汚い変質者だと思われて、入山を拒否されるという事態にはならないのでしょうか。
結局私が「あなた真剣に王になる気があるんですか」と絶叫し、断られても巻かれても私と巌趙は何が何でもついて行きます、と主張したため、「じゃあ勝手にしろ」ということになりました。
ええ、勝手にさせて頂きますとも。
先ほど申し上げたように天幕は手配が済んでおりますので、あとは琅燦に相談しつつ、滞在時に必要と思われる品々を整えていきました。
琅燦曰く、蓬山に到着して昇山者として認められれば、先方から食糧と水の配給はもらえるはずだとのこと。蓬山滞在用の食糧を持って行かなくていいのは助かります。
向こうでの滞在時に必要と思われる最低限の寝具類や鍋釜などについては、戴から持ち出すと荷物になるので、令坤門で用意してもらえるよう、現地の剛氏にあらかじめ連絡して手配をお願いしておくことにしました。
しかし、驍宗様の見てくれを優先するにしても、私たちだっていくらなんでも着の身着のままというわけにはいきませんから、最低限の着替えや手回りの品々はどうしても戴から携帯していかねばなりません。驍宗様は、絶対に妖獣狩りに行く、と言うでしょうから、そのための用意も削れない。一日で黄海を巡って帰ってくるのとは違い、どうにも荷がかさばってしまうのは頭が痛いところです。
そして琅燦の言うことには、蓬山の女仙達に手土産という名の賄賂を持って行くのが普通らしいのです。しかし、そんなことを驍宗様に相談したって「たかが女仙ごときの機嫌を取る必要がどこにある」としか言わないに決まっているので、そうした品々は私が勝手に用意しました。いちおう戴名産である玉を使用した簪、耳飾り、指輪など女性が好みそうな装飾品の類いです。請求書は、驍宗様がご登極なさってから、しかるべきところに回させて頂きたいと思っています。
こうやってあれこれと荷を準備しておりますと、とうてい巌趙と私の二人で運べる量ではない、ということになります。無理矢理積んだら、どうにもこうにも騎獣に負担がかかりすぎる。荷駄用の大青牛や旄馬のような騎獣もいるわけですが、そうした騎獣は敏捷さには欠けるので移動に時間を要します。あのせっかちで忍耐というものを知らない主公が、のんびりした道中を了承するとは到底思えない。元々そんな荷物はいらんと言っておる、と駄々をこね出すのが見え見えです。
巌趙にどうしましょうか、と相談したところ、巌趙は哀しそうに首を横に振りました。すでに心当たりの麾下に声をかけてみたが、皆が皆おそれ多いと言って逃げていくのだそうです。
実は私の方も同じようなもので、まずは証博なんか目も合わせてくれない。どころか、私が近づくとさりげなく逆方向へスタスタ行ってしまうのですから、彼の意思は明白です。
元来がまず、うっかり昇山してしまったら麒麟の選定を受ける可能性があるということ。そんな事態は避けたいのが普通でしょう。故国がいくら厳しい状況にあるとしても、自分が王となって救済できるなどとは思い上がれないのは当たり前です。自分にしてからがそうなので、私は他人を責める気にはなれません。人にはそれぞれ分というものがあるのは、仕方ないことだと思います。
そして驍宗様のお供という、どう考えても精神的かつ肉体的強行軍間違いなしの苦行。誰だって、そんなことは避けたいと思う気持ちは充分わかります。私は、それについても「お前たち、よくそんなことで禁軍兵士を名乗れるね」(注:英章の物真似)などと言って罵る気にはなれません。本当に我が主公の人望のなさというのはたいしたものだと恐れ入るしかない。
そんなことを思い悩みながら、私が左軍の将官用の食堂でため息をついていると、背後からなにやら天啓のような声が聞こえるではありませんか。
「驍宗様もいよいよご昇山か。私も黄海に行ってみたいなあ。自分の騎獣が持てるなんて夢のまた夢だけど、いつかは騎獣に乗ってみたいものだ」
ちらりと背後をうかがうと、どうやら証博の部下の卒長たちが会話している様子。
「確か君、静之と言ったか」
私は即座に声をかけました。どうやら私は知らず知らずのうちに気配を消していたらしく、向こうはまったく気がついていなかったようなのです。
静之は、ぎゃー臥信様、と叫んで泡を食ったような顔で逃げようとしましたが、もちろん、この私が逃がすはずがありません。その場で速攻捕獲することに成功したわけです。
私は静之の腕をしっかりとつかんだまま、ちょうどよかった、驍宗様の御昇山に同行してもらえる者を探していたのだ、と穏やかに言いました。
そして、青ざめてぶるぶると震えている静之に、もちろん騎獣は貸すし費用も支度も全部こっち持ちだから何も気にしなくてよい、ただ着いてきてくれるだけでいいし、なんなら妖獣狩にも参加できる、君にとっても素晴らしい話だと思う、と、にこやかに説明しました。
じゃ、そういうことで詳しい話はまた後日、と手を離したとたん脱兎のごとく静之が駆け去って行く頃には、なぜかあたりは蜘蛛の子を散らしたかのように無人になっていました……そう、部下思いのあの男を除いては。
「証博、そこにいるのはバレています。出てきなさい」と私が言うと、柱の陰からひっそりと証博が姿を現しました。
「臥信様、静之という奴は……」
そう言って首を振る証博に、私は「わかっています」と答えました。
「そう、とても正直で善良な奴なのですが、なにぶん粗忽というか、おっちょこちょいというか、本当に熱い気持ちを持った、ものすごく真面目で良い奴なのですが……」
証博らしくもなくもごもごと口ごもるので、私は「大丈夫、直接驍宗様のお世話をさせるようなことはしませんから」と言ってやりました。
しかし証博は、ちょっとほっとしたような顔を見せたものの、また左右に首を振りました。
「実のところ静之は歩兵上がりでして、騎獣に乗ったことがないんです」
まあ、そういうことであれば、彼の懸念も仕方ないものと思えます。
私はしばらく考え、静之には独谷を貸そう、と決めました。とりわけ速く強靱という騎獣ではありませんが、勇敢ですし、私の所有する乗騎の中では一番乗り手を気遣ってくれる優しい気性を持っているからです。
証博は、明日から自分が責任を持って静之に騎獣の扱い方を教える、と言ってくれました。私は「恩に着ます」と礼を言い、帰朝したら必ず奢るから、と約束しました。そしたら証博ったら「いや、その時にはご登極のお祝いに餃子を山ほど作って、静之も一緒にうちで飲みましょうや」って言うんですよ。証博の作る餃子は最高だし、ほんとに頼りになるいい奴なんです。
……一緒に蓬山へは行ってくれませんが。
さて、そうこうしているうちに、どんどん夏至の日は近づいてきます。
騎獣を伴わない昇山者なら、戴から令坤門まで移動するには、たっぷり一ヶ月以上の日にちを要するところでしょう。騎獣を使ったところで、急いでもおよそ二週間はかかるもの。
その距離を我が主公は普通、つまり個人的に黄海に狩りに行く場合、一週間の強行軍でねじふせるわけです。ご想像がつくと思いますが、眠いとかお腹が空いたとか便意を催したとかいう人間の都合は丸無視した行程です。そこには「騎獣にお休み頂く」という目的の休憩しかありません。
今回ばかりは、万が一至日に間に合わなかったら目も当てられない仕儀となります故、そこはなんとか十日間の旅程を見て下さい、と懇願し、だから足手まといはいらないと言っている、と突っぱねられ、今さら後に引けるもんですかと押し問答をし、霜元や英章からも説得(説教)してもらい、正頼の泣き落とし技にもお世話になって、ようやく鴻基を出立するという日がやってまいりました。
通常黄海にお供するときには、計都と速度を合わせるため、私も巌趙も自分の騶虞を用います。しかし、今回ばかりは、従者としての体裁を整えさせて頂きたい。
私と巌趙は、荷の量も考えて吉量──私と巌趙の吉量はとりわけ大柄で頑丈なのです──に騎乗していくことにしたわけですが、左右に振り分けた荷を搭載して並んだ吉量と独谷を見る驍宗様の納得のいかない顔と言ったら。騶虞ほどは速度が出ないのに文句があるわけです。
「どの子も素晴らしい騎獣です。騎獣に優劣はございません」
私は胸を張って言いました。巌趙も、然り然り、と側で頷いています。
どのような騎獣であっても慈しみを持って大切にせよ、というのは驍宗様本人が常々仰る言葉でもあり、左軍の信条と言ってもいい精神なのですから、普段そうのたまっている当の本人が文句を言えるはずがないのです。
驍宗様はとりあえず了承はすることにしたらしく、白玖(はく・臥信の吉量)、箕和(みわ・巌趙の吉量)、小輻(さや・静之が借りた独谷)に声をかけてそれぞれを撫でてから、ようやく静之(せいし・人間)の姿に気がついたようでした。
私が誂えてやった静之の空行師仕様の軽い甲冑は新品ぴかぴか、いかにもまだ身には付いておらず、残念ながら借り物のようにしか見えません。そのぎくしゃくした様子の小柄な体に大きな荷物を背負い、さらに左右に大きな袋を提げた静之は、驍宗様にじっと見下ろされて、ただでさえ丸い目をまん丸に見開いたまま、緊張のあまり完全に固まってしまっています。
しまった、せめて事前に紹介をしておくべきだった、いや、紹介なんかしたらまた随従がいるのいらないのという押し問答にしかならなかった、いったいどうすればよかったんだと、私は若干焦りながら、静之と驍宗様の間に割って入りました。
「この静之と申す優秀な卒長は! ぜひ驍宗様の妖獣狩りにお供したいと熱心に申しておりまして!」
とっさに口走ってしまってから、自分でもそんな紹介の仕方があるか、とは思ったのですが、なぜかこの口上に驍宗様は納得したようで、「静之と申すのか。よろしく頼む」と、自分からかちかちに固まっている静之の丸い手をとって握手され、さらに「そんなに荷物を持っていたら大変だろう」と言って、静之の肩の荷物を外して自ら持っておやりになったのです。そして、あろうことか、もう一つはお前が持ってやりなさい、と私に渡してよこすのです。
いったいどういうことですか。
ほら、巌趙だって呆気にとられた顔をしています。
まったくもって巌趙や私が、驍宗様からそのような優しいお心遣いを頂いたことなんか金輪際ないわけですけれども、そうしたことはさっ引いても、驍宗様のお気持ちというのは謎でしかない。
どういうわけか静之は驍宗様にとって邪魔者ではなく庇護せねばならない対象として認識されたようで、道中に度々「疲れはないか」などのお気遣いがあったのは幸いでした。
しかし疲れるも何も、ふつうは戴を出て船を乗るまでに途中で一泊をするところを、途中休憩なしで雲海の上を虚海まで一気に飛ぶという驍宗様のやり方に変更はありません。(ちなみに飛行中は、雀は私の懐内におさまっておりました)
疲労のあまりうとうとしてしまっては独谷から落っこちる静之を、独谷自身が慌てて拾いあげたり、または私か巌趙が落下している最中に受け止めて戻す、ついには驍宗様まで静之を拾うのに参加したりしながら、ようやく虚海を渡る船に乗り込むことができたのです。実のところ我々が一緒でなければ、静之は何度死んでいたかわからない。いや、そもそも我々の都合で連れてきているのだから、うっかりこんなところで死なせるわけにはいかないのです。
おそらく静之自身は、相当緊張していた上にもうろうとしていて、どんな空旅だったかあまり記憶にないのではないかと思います。しかも哀れなことに、彼は初めて乗る船で盛大に船酔いしてしまったので、私は静之に強力な睡眠薬を飲ませて昏睡させたのでした。
雁の港についたときには、静之はすっきりした顔で「なんだか不思議な夢を見ていたような気がします」と言ってにこにこしていましたが、まあ、それでよいでしょう。
その後の令坤門への道中も、驍宗様と我々だけならいつも通りの殺伐とした、かつ殺風景なものにしかならなかっただろうというのは想像に難くない。
しかし、旅に不慣れな静之がいてくれたおかげで、驍宗様自身も、ぴりぴりした気分が紛れたのではないかと思うのです。
驍宗様が気が立っておられるのは、仕方がないと言ったところではありました。
今回は驍宗様が昇山されるというので、白圭宮どころか、そもそも瑞州から昇山するという人のことを聞かなかった、つまり、驍宗様が昇山されるなら自分が行くのは無駄だ、と白圭宮中が思っていたということです。
可能性があるとすれば阿選殿くらいでしたが、驍宗様が直々に確認したところ、今回阿選殿は昇山なさらないとのこと。「王の不在時に禁軍将軍が二人も欠けるわけにはいかないだろう」とは、いろんな意味で阿選殿らしい物言いです。個人的には阿選殿も同時に昇山なさってもよかったのではないかと思うのですが、まあ、結果的にそういうことにはなりませんでした。
世間からの「当然王だろう」という多大な期待。または「王に選ばれなかったらいい気味だ」という冷ややかな好奇の視線。
様々な事情もあって「時機がきたら必ず昇山せねばならぬ」という宿命のようなものを、その生涯をかけて背負われてきた方です。驍宗様自身も自負するところは当然あり、この時に向けてしっかりと準備はなさってきた。だからといって、いざ昇山して麒麟の選定を受けるとなった時に「自分が王に選ばれて当たり前」などと自惚れて、道中鼻歌を歌いながら乗り込めるような方ではない。
真に自負するというのは、根拠もなく思い上がることではありません。結果を出すことに対して責任を負うべく、自らを恃むことを自負と言うのです。そして、その負う荷が重ければ重いほど、その是非を問う舞台に立つという時に緊張しないほうがおかしい。
私や巌趙も、なんとかお力になりたいと思ってはいるものの、その荷を代わりに負うて差し上げることはかなわない。文字通り、物理的に荷物を持って差し上げるくらいしかできないのです。しかもお酒や遊興で気分を紛らわせる方ではないので、こっちは黙ってお側についているしかない。
随従とは言っても、驍宗様はご自分のことは何でもご自分でなさいますので、私たちは単なる荷物持ちのようなもの。ちなみに、静之は私の従者という名目で連れてきておりますけども、私自身も別に深窓のご令嬢というわけではありませんので、実際のところお世話は無用です。
静之はずっと「自分は何の役にも立っていないのではないでしょうか」とおろおろしていましたが、本当に静之はいてくれるだけでよかった。やはりあの時食堂で聞いたのは天啓だった、と私は何度も思ったものです。
世話をしようと一生懸命なあまり、うっかり計都に近づいて、計都に楽しくおもちゃにされているところを助け出さねばならなかったり、柳ではポン引きにつかまって、怪しげなところに連れ込まれそうになっているのを救出せねばならなかったり、範では露店でまがい物の装飾品をつかまされそうになっていたり、いちいち「美味しそうなものを売っていました」と皆の分を買ってきてくれたり、初めての外国で見るもの聞くもの全てが珍しくて目を丸くしていたり。まったく、我々は静之から目を離す暇がなかった。
驍宗様から「土地の名物のものでも食べてみるか」などという、天変地異が起こりそうなくらい珍しくご機嫌のよいお申し出があったりしたのは、そんな静之がいてくれたおかげに他なりません。いつもならありまくりな強引な予定変更は一切なしで、予定した宿全てにきちんと宿泊するのをご了承頂けたのも、不慣れな静之を気遣ってのことでしょう。
我々にとっては、まさに静之様々というところ。王を伴う蓬山への旅を「鳳翼にのる」とか言うそうですが、こちらには福の神がついているんだぞ、ってなもんです。あ、でも鳳雛というのは驍宗様のことですね。失敬失敬。
自分を気遣ってくれるそんな鳳雛に、静之がいよいよ心酔したのも道理。また、日ごとに静之が独谷に慣れて乗りこなしていく様を見るのも、我々にとっては我が子の成長を見るような気分でした。
そんな鳳雛と福の神のおかげさまを持ちまして、いつもよりは数段穏やかな強行軍を終え、私たちは無事に令坤門に到着をしたわけです。
ところで、皆さんは安闔日前の四門といえば、どんな風景を思い描きますか?
特に自分が昇山者、もしくはその随行の一員であった場合を想像してみて下さい。
そうですね、まずは宿に落ち着いて騎獣や馬を休ませつつ、これから黄海を旅するための準備を点検したり、また必要なものを街で買い物して整えたり。そして、どこの門前にもある犬狼真君の祠廟にお参りして黄海での無事をお祈りしたり、御守りの御符を頂いたりやなんかをして、当日午の地門開門までの時間を過ごすのが普通です。
そして、いよいよ開門となったら他の昇山者たちと共に黄海に分け入り、蓬山への道をてくてくと歩いて行く。
私ももちろん、そんな風だと思っていました。と言いますか、それ以外の可能性というのは、あまり考えたことはありませんでした。私も巌趙も、そして驍宗様も、他国の昇山者たちの様子を見たことは幾度かありますが、皆一様に同じようなものだったからです。
ところがどういうわけか、問屋はそう簡単には卸さないときたもんです。
私たちが坤の街に着いたのは、夏至前日の午後遅い時間でした。
他の昇山者たちは準備のために数日前から滞在している者も多く、私たちが到着したのは最後の方ではあったのでしょう。
前述しましたとおり、今回の戴の昇山者では、白圭宮ないしは鴻基、瑞州から来ている者は私たちだけ、あとは全員他州の人々です。軍籍にある人や地方の施政に関わっている方々には、その後見知った人もちらほらいるとわかりましたが、市井の人々のことはまるでわからない。自分たちも当然、そうした普通の昇山者の一人だと思っていましたし、そうではない可能性なんか考えもしなかったわけです。
しかし、その考えが甘かった。
私たち一行が到着したとたん、はやくも宿までの道を歩く間に「ほら」「あれが」「あの」「例の」などと囁かれながら、まるで珍獣を見るような好奇の目でじろじろ見られることになるとは、予想外もいいところ。
いちおう驍宗様は、その身分で言えば燕朝の中枢、施政者としてはかなりな上位にいる方なわけです。しかし、私たちにとってはそんなのは当たり前なので、自分たちが特別だとは思っていなかった、というのがまったく正直な気持ちです。確かに現職の禁軍将軍というのは戴には三人しかいないので、職業としては珍しいとは言える。だからって何故私たちは到着した途端から、こんなにじろじろ見られなくてはならないのでしょうか。驍宗様の悪名は、そんなに戴国の隅々にまで鳴り響いているのでしょうか。
普段はまったく人目を気にしないどころか、人目とは何かを考えたこともないような驍宗様ですら、さすがに好奇の視線を感じるのか、いつも以上に無愛想な顔になっていますし、私や巌趙はどうにもいたたまれずにうつむき加減、そして、何のことかわかっていない静之はきょろきょろとあたりを見回しています。
そして、私たちは宿に着いた……いや、宿の前まで来た途端、自分たちが何故驍宗様の悪名以上に珍獣になってしまっているのか、その理由を知らされた。
宿の前には、その数、ざっと三、四十人はいましたでしょうか。
どういうわけか大勢の朱氏と剛氏たちがたむろして、私たちが宿泊するはずの舎宿を取り巻いている。彼らが黄朱であることは、一見してわかるもの。やはりまとっている雰囲気や顔つき、服装、装備が一般人とはまるで違います。
しかし、彼らは普段は自らの腕を恃んで一匹狼として行動する人たちがほとんどです。協力し合ったとしてもせいぜい二、三人で、というところでしょう。こんなに大勢の朱氏、剛氏が群れをなしている光景は前代未聞と言ってもいい。
そうこうするうちに向こうが我々に気がつき、私たちの方も集団の中に見知った顔が何人もいるのに気がついて、駆け寄ってはお互いが名前を呼び合い、肩をたたき合いながら和やかに挨拶を交わしはじめる次第になりました。驍宗様も、巌趙も私も、朱氏や剛氏には気の合う、親しい知り合いがたくさんいるのです。事前に坤の剛氏に昇山準備を依頼していた経緯もあり、どうやら噂を聞きつけた人たちが集まってくれたのだな、と私は思いました。
特に驍宗様は一度出会った人のことは名前も顔も決して忘れない、という変な特技の持ち主ですから大変です。周りを取り囲まれ「待ってました」「いよいよ昇山だってな」などと口々に声をかけられ、もう「いったい何の騒ぎなんだ」と思われても仕方がない大同窓会状態になってしまっています。巌趙なんか楽しそうに大声で笑っちゃって、もはやその場で飲んで唄い始めかねない盛り上がり様だし、静之はぽかんとした顔でその様子を眺めている。
しかし、そうとばかりもしていられませんから、私はガヤガヤとした集団を抜けだして、とりあえず宿の主人に到着の挨拶に行きました。この宿には以前にもお世話になったことがあり、ここの気の良い主人も、決して知らない仲ではない。
そのいつもは愛想のいい主人が、歓迎してくれるどころかどういうわけか困った顔をして私を見、首を左右にふるのです。
「すみません、宿の前でこんな騒ぎは困りますよね。すぐに解散してもらいますので」
と、主人の気持ちを察したつもりで、私は謝りました。
すると、そうじゃない、と言いたげに、主人はさらに沈鬱な表情でまた首を左右に振る。
いったいどうしたんです、と聞くと、なんでもここにいる剛氏たちが皆、今回は驍宗様について行くと言って聞かず、今のところ、彼らを雇いたいという他の昇山者の要望をまったく受けてくれないのだ、と言うじゃありませんか。
なんということでしょう。
さすがの私も開いた口がふさがりません。
そんなことでは、まるで驍宗様が諸悪の元凶、他人様世間様の大迷惑、お前なんか来るな的珍獣になってしまっているのも仕方がない。
私は慌てて驍宗様のところへとって返し、事の次第を簡単に耳打ちしました。
驍宗様は「なるほどな」という面白がるような顔をし、ほんの少し何かを考えるそぶりをしてから両手を挙げて、その手を大きく二回打ち鳴らしました。
私が即座にかけた「拝聴」という号令に、訓練されている巌趙と静之はすぐその場であらたまって不動の姿勢をとり、黄朱の皆も喋るのを止めて耳を傾けてくれています。
「ここで皆に会えてよかった。大勢の出迎えを嬉しく思う」
と、驍宗様はよく通る声で挨拶をされました。
「皆がこうして集まってくれている理由は、今聞かせてもらった。事情を鑑みて、明日からのことにつき通達を行うので、半刻後に再びこの宿の食堂に集合して欲しい」
そういうことであれば話はまた後で、という雰囲気になり、集団は次第に散って行きました。
驍宗様は、この坤の街の剛氏の元締めのような立場である銖利という男に、別途話をするから食堂で先に待っていてくれ、と声をかけた後、私には矢尻を含む装備を全て冬器に変えて充分に用意しておくこと、静之の装備も冬器で揃えて、彼の得物をきちんと見繕っておくように、と指示をされました。
ことさら言われなくても、黄海に入る前には装備は対妖獣妖魔仕様に変えておくのは当たり前なので、改まっていったいどうしたのかな、くらいにしか思わなかったその時の私は、まったくおめでたい。
私は、驍宗様はとりあえず皆を集めて、当然他の昇山者に随行するように説得して解散を告げるのだろうと考えていました。
半刻という刻限では、騎獣を厩に入れてざっと世話をし、さしあたり部屋に荷物を放り込んで顔を洗うくらいの余裕しかないようなものですが、私は急いで坤の武具屋に走り、予定していたよりは多めの矢尻を仕入れてきました。せっかくなら間違いなく好みの仕様のものを準備したいというのもありましたが、まあ、言われたことはやっておこう、くらいな気分でした。黄海には慣れているという舐めた気分ではダメだ、と注意を促されたくらいに思っていたのです。
武具屋から戻ると、食堂にはすでにかなりな人が集まっていました。決して小さな宿ではなく、食堂も大人数が入れる広さがあるのですが、それにしてもゴツくてむさ苦しい、いかにも腕に覚えがありそうな面構えの男共でぎゅうぎゅう詰めなのは壮観です。
そこへ驍宗様は甲冑を外した寛いだ姿でやってきて、今一度、皆が集まったことについて簡単に感謝をされました。
「ここに集まってくれている皆は、ありがたくも私の蓬山への道中に付き従いたいと申し出てくれている、と聞いている」
まあ、もとより巌趙と静之と私は随従として付いて来ているわけですが、剛氏たちだけでなく朱氏連中まで、驍宗様の言葉にうんうんと頷いているのは、どういう酔狂なのか物見遊山気分なのか、いったい何のお祭りなのか、というところではあります。君たち本業の方はどうするつもりなの、と聞きたいところではありますが、どうせ秋分まで黄海にいるなら、数日程度驍宗様のお供を賑やかしても別にいいだろう、くらいの気分なのかもしれません。
そして当然、「だが、残念ながら全員は……」というような口上が続くと思っていたところへ放たれた驍宗様の言。
「私は皆の厚情による申し出を真摯に受け止め、希望する全員を戴国禁軍左軍の臨時傭兵として特別編成し、昇山者たちの警護を行うことを決意した」
なんですって。
食堂内は一瞬、しん、と静まりかえったあと、爆笑と共に拍手喝采の渦に包まれました。口々に飛び交う、さすが驍宗、面白いやつ、という声と共に黄朱の皆はやんややんやの大盛り上がりですが、私は椅子から転げ落ちるかと思いましたし、巌趙は苦笑いをしていますし、そして静之はやはりぽかんとしています。
驍宗様は続けて、それでも個別に剛氏の随従が必要な昇山者はいると思う、と言いました。例えば軍部や政府の関係者ではない者、年配者、その他特別な庇護が必要と思われる者についてはそちらの要望を受けて欲しいので、指名された者は必ず銖利の指示に従って欲しいこと、そして、閉門までの一日で仕事を済ませる必要のある朱氏は、もちろん自分の都合を優先するべきだ、と述べられた後、昇山者護衛の任務を受託してくれた黄朱全員に、充分な報酬を支払うつもりであることを説明しました。
「さしあたり、明日午の開門より翌午の閉門までの間、巌趙と臥信の二名は地門前で妖魔を迎撃して坤の街の安全を死守。私と静之は令坤門の城塞前で前衛の任にあたる。黄朱たちは、城塞警備の坤の兵士たちの防衛を援護。開門中、一体たりとも妖魔を地門内に入れることはまかりならぬ」
なんですって。(二回目)
「城塞を離れて後は適時編成を変え、日中は警戒態勢を解くことなく順次休憩を取りながら、夜間は必ず不寝番で昇山者たちの警護に務める方針としたい。尚、昇山者にはできるだけ我々の存在を気取られぬよう、集団からは適切な距離をとり、前後左右及び上空に展開しつつ進軍する。これは昇山者たちを油断させないための措置だ。護衛がいようがいまいが、黄海が危険な地であることには変わりがない。尚、最後の一人が蓬山へ到着するまでが当該任務期限である」
なんですって。(三回目)
「王としての選定を受ける受けないに関わらず、昇山者皆が戴の民なのだ。戴国禁軍には、その一人一人の安全を守る義務がある。全員の蓬山への無事の到着を目標として相務めることは私の責務に他ならない。誰一人として死なせること傷付けることなく、全員の麒麟への拝謁が叶うようにせねばならぬ。黄朱の皆には全く関係のない話だというのは重々承知しているが、今回は何卒、私個人の思いとして了承してくれることを切に望む」
そう言って頭を下げられた驍宗様に対して、信じられないことに、黄朱たちは全員が盛大な温かい拍手を贈ってくれたのです。
誰かが呟いた「だから、あんたが王なんだろ」という言葉は、本当にその通りだと思いませんか?
その後は驍宗様のお申し付けによって、そこにいた全員にたっぷりとした量の夕食が振る舞われたのですが(宿へのお気遣いとお詫びの意味もあったのでしょう)、お酒を飲む者は一人もいませんでした。食事の後はあっさりと「また明日」と挨拶を交わし、皆は三々五々と自分の宿へ帰って行きました。当然、明日からの準備を怠ることはできないからです。
街の武具屋もここは商売の機会とばかりに、夜間にかかわらず店を開けてくれ、ひっきりなしに飛び込んでくる黄朱の皆の注文に応えてくれていました。
私と巌趙も静之を連れて、各々の装備を見繕いました。巌趙は新品の大鉞を手に入れましたし、静之のためには予備の剣と短剣、そして小型の盾を買ってやりました。歩兵として経験を積んでいる静之は、接近戦のほうが得意なのです。
これからのほぼ不眠不休の日々を思えば、きちんと眠っておいた方がいいには違いないものの、どうにも寝付けなかった私は、すでに眠っている静之の邪魔しないために、食堂へ道具を持ち込んで矢尻の付け替え作業を済ませてしまうことにしました。
やはり自分一人の身を守ればいいのと、大勢の安全に責任を負わねばならないのとでは、緊張感が違います。
意外に思われるかもしれませんが、驍宗様も私も、そして巌趙も、これまで黄海ではできるだけ妖魔を殺さないようにしてきたのです。もちろん襲われた場合は別ですが、そうでない限り、こちらから進んで彼らを狩るようなことはしない。どちらかというと、彼らがいるとわかっている場所は避ける。もし麻酔薬を打ち込んでやりすごせるなら、そちらを選択する。
これは黄朱の皆も、ほぼ同じ考えだと思います。
なぜならここ黄海は、他ならぬ妖獣妖魔たちの生息地にして領土であり、私たちのほうが異質な侵入者であるとわきまえているからです。また、妖魔が妖魔であるのは、私たちが非力な人間であるのをどうにもできないのと同じように、彼らにはどうしようもないことです。彼らが私たちと違う摂理で生きており、時に人間を襲うのは、彼らにとっては当たり前のことなのですから。
驍宗様が常々言うように、人間にだっていろんな資質の者がいる。
自分とは意見が違う、もしくは自分と立場が敵対しているからといって、無条件に排除してよいものではない。罪を犯す、または故意に人を傷つけたり陥れるような者は、人として褒められたものではないのは確かです。でも、そうした愚かな、または卑怯な人間にも、大抵はそうならざるを得なかった理由や事情というのがあるものです。
また、妖獣は役に立つから大切にすべきだが、妖魔は人に慣れないから無条件に殺していい、という考え方もおかしい。
私たちから見た基準で可愛いかろうが、可愛くなかろうが、それぞれが懸命に生きている命なのには違いない。人間だって、不細工で性格が悪いから、もしくは頭が悪くて話が通じないからみたいな理由で、問答無用で殺されたらイヤでしょう?
というより「お前は不細工で頭が悪いからダメだ」なんて言われて憤慨しない人はいない。私たちは皆が皆、それぞれが勝手な自分の物差しでもって「自分はまともな、価値ある存在だ」と思いこんで生きているのです。
妖魔だって同じことなんだと思います。
そんなわけですから、今回驍宗様が進んで妖魔を排除し、積極的に「人間を」守ろうと決意なさったのは、驍宗様が「敢えてそうすることを選択した」ということです。通常なら、黄海で自分の身を自分で守れない者は死んでも仕方がない、と考える方ですから。
しかし、今回は戴の昇山者を守ることが自分の使命であると決意をされ、日頃の信念を曲げる選択をした上で皆に頭を下げられた。
ですから麾下である私たちも、黄朱の皆も、普段どのような考えを持っている者であれ、驍宗様に付いていくのはつまり、彼の選択を受け入れたということです。
「だからってなあ、金の問題じゃあないんだよ、臥信」
と、武具屋で一緒になった親しい剛氏は、私にそう言いました。
「やつがそうしたい、と言うから、その望みを叶えてやりたいと思うのさ」
その通り、どういうわけか私たちは全員、驍宗様が望むことなら叶えてさしあげたい、と思っているんですよ。
不思議ですよねえ、と私が自嘲すると、その剛氏は感慨深そうに言いました。
「でもな、少なくとも、安闔日に門と城塞の防衛援護をしようと言い出したやつがいるなんて話は、俺は今までいっぺんも聞いたことがねえんだよ。黄朱でも昇山者でもさ」
そう、妖魔もそのへんはばっちり心得ていて、急に人が集まる安闔日の開門は見逃さない。ご馳走の大盤振る舞いとばかりに集まってくるのです。
そのために四門を有する才、恭、雁、巧の兵士達が城塞で防衛をしているわけですが、つまり、他国の昇山者や黄海で狩猟をする人々は、彼らにこれまでずっとお世話になりっぱなしだったと言っていい。
「俺も、自分らが黄海に仕事に行っちまった後の四門がどうだなんて、考えたことがなかったんだよなあ。俺らだって街には世話になってるっていうか、あの街があるから俺らも朱氏連中も商売ができるってのによ」
私はうなずいて、自分も同じです、と言いました。
「だからよ、王ってもんの理屈は俺にはわからねえけれども、でも、つまり、だから、まあ、そういうことなんじゃねえかな、と思うのさ」
ええ、つまり、だから、まあ、そういうことなんですよね、と私はうなずきました。
というわけで、私も明日からの丸一日は、坤の最終防衛線を死守する任務を、巌趙と二人で精一杯頑張りたいと思います。
大丈夫、蠱雕の大群が飛来したって全て射抜けるくらいの矢を用意してありますから、任せて下さい。(正頼注:実際に蠱雕の大群がやってきたとのことです。お疲れ様)
さて、そういうわけで私たちは今、蓬山を目前に仰ぐ岩場で、黄海最後の野営の夜を過ごしています。
私や皆の黄海での大活躍の詳しい実況を期待されていた向きもおられたでしょうが、そこは残念。
前述した驍宗様の進軍方針を見てもらってもおわかり頂けるかと思いますが、私も雀に向かってぺらぺら喋っていていい場合じゃなかったんですよ。空中戦担当だったもので、夜中はほぼずっと木の上でひとりぼっちで過ごしていたかわいそうな私ですが、いくら寂しいからといって自ら雀に話しかけるような真似をして、わざわざ妖魔を呼び寄せるほど馬鹿じゃあありません。
ともあれ、今回の昇山者たちは、自分で転んで怪我したとか、うっかり蛭に吸い付かれたとか、慣れない焚き火で火傷したという以外、死者負傷者は皆無であったはずです。私たちが秘密裡に護衛していた集団に先だって、どんどん先に行ってしまっていたような者たち──おそらく軍の関係者──もいたわけですけど、道筋に人体の一部が落ちていたりはしなかったので、おそらく彼らも無事だったと思われます。
そもそも今回は妖魔の出没自体がびっくりするほど少ない、と剛氏たちは言っていました。そして、そりゃ当然も当然、鳳雛どころか、クソでっかい鳳翼におんぶに抱っこみたいなもんだからなあ、と笑っていたものです。
そうは言っても、彼らも道中はずっと警戒を怠らず、どんな妖魔でもすぐに見つけて静かに排除してくれていました。また、その死体はすぐに遠くに運んで行かねばなりません。持ち動かせるような大きさの個体なら、の話ですが、死体をめがけて他の妖魔が寄ってきてしまっては元も子もないからです。そうした連携が上手くいったのも、これだけたくさんの専門家たちが協力してくれたからに他ならない。
驍宗様の指示で前衛と後衛、左翼、右翼に別れて、それぞれの班を編成して行軍したわけですが、そういう指揮系統と班編成があるのも、ほとんどの黄朱たちにとっては初めての経験です。「たまにはこういうのも面白い」などと言って、楽しそうにしている者が多かったのは本当に幸いでした。
驍宗様も決して緊張感を失われることはなかったですけれども、気心が知れた人たちとの道中ですから、あの方にしては珍しいくらい、ゆったりとなさっていたように思います。そもそもが黄海が大好きなもんだから機嫌がいいんですね。私もですけど。
私たちは当初からの方針通り、ずっと昇山者たちとは接触することなく距離をおいて付き添っていたわけですが、どうやら最後の方では、彼らのほとんどが私たちの存在に気がついていたらしい。わざわざ感謝の言葉を言いにくる人がいたり、改めて蓬山でご挨拶させて頂きたいというような申し出もありました。もちろん驍宗様は、ご自分で礼を受けるようなことはなさいませんでしたが、私は密かに主公の面目躍如を喜んだものです。
そして、いよいよ今日は、最後の昇山者が蓬山へ入山するのを確認して任務終了。
ずっと散り散りだった私たちはようやく全員で集まり、最後に食糧を出し合って精一杯のご馳走を用意し、ささやかな慰労会を催しました。とは言っても場所は黄海、飲んで騒いだりできるわけではありませんから、さっさと食べて終わりです。
直ぐにそれぞれの狩猟の仕事に向かう黄朱たちとは、さっぱりとしたお別れをしましたが、秋分に向けて帰途につく昇山者に雇われようという剛氏たちは、残る日々を蓬山で過ごすべく私たちと共に野営に残り、思い思いの場所で雑魚寝をしています。
少しばかり気が緩んだものか、静之や巌趙も、早々に剛氏たちとともに眠ってしまいました。
行軍中は二人とも、本当に大活躍だったので仕方がないというところ。巌趙の武勇のほどは周知の通りですが、初めての黄海で怯むことも臆することもなかった静之の勇敢さも、本当に素晴らしいものでした。静之は証博の餃子をたくさん食べる権利があります。
昇山者たちだけでなく、我々も騎獣たちも、皆無事にここまで来れてよかったなあ、などとしみじみ思い返しつつ、私は今、奇妙な形の巨岩の上で、白玖といっしょに歩哨役をしています。とは言っても、白玖も私も岩の上に座って月を眺めているのですが。
今宵の月はほぼ満月。広大な黄海の原野の上に、大きな月が黄色く輝いている眺めは雄大そのものです。日帰りで黄海を巡る時には、ぼんやり月を眺める余裕なぞあるわけがないから、私にとっても、こんな風景をゆっくりと見るのはこれが二回目。
一回目はもちろん、黄海をふらふらしていた驍宗様を捕獲に来た時です。
あの時、長年に渡る鬱憤が積もりに積もった挙げ句、ついに爆発した驍宗様は突如仙籍を返上するという暴挙に出て逃亡したわけですが、よりにもよって私を哀れな生け贄として置き去りにし、巌趙の野郎と二人でトンズラこきやがったことは忘れられません。
私は当然のように「あの馬鹿はいったい何を考えておるのだ、とっとと連れ戻せ」と、やいのやいの言ってくる爺たちの文句を一身に受ける羽目になり、「そのうちご機嫌もなおってお戻りになりましょうから、休暇のようなものだと思って、しばしの間だけ自由にさせてあげて下さい」などと適当なことを言って、なだめすかし続けねばならなかったという針のむしろのようなあの日々。
そうこうしている内に月日はたち、とっぷりと二年が過ぎてしまったところでいよいよ業を煮やした爺たちはついに実力行使、ありとあらゆる伝手と権謀術策を駆使して、前王に「すべてを水に流してやるから戻ってこい」という念書を書かせた次第となりました。そしてその魔の召喚状を持たされ、黄海まではるばる迎えに行かされたのも、やはりこの私。
今ちょうど、驍宗様が計都といっしょにやって来て隣に座り、「お前、まだ根に持っているのか」と言っています。
私は、忘れようもありません、あの時は本当に楽しかったです、と答えました。
あの時、私がご一緒したのは半年くらいですけども、共に黄海を放浪できたのは、きっと生涯忘れられない宝物のような思い出です。
驍宗様は曖昧に笑い、黙って月を眺めています。
あの時は本当に自由でしたね、と私は言いました。
そらぞらしい身分も空虚な責任もなく、馬鹿馬鹿しい儀礼も嘘も、欺瞞も忖度もなく、今、この時と同じように、頭上には何にも遮られない空が広がり、足の下には大地が脈づいていて、その狭間で自分は、何ものにも束縛されないただの一個の命でした。
驍宗様はやはり何も言わず、静かな月光を浴びながら、ぼんやりと計都を撫でています。
私は、その感情の覗えない横顔を見ながら、不意に、今まで思い至らなかったことに気がついたのです。
ああ、そうか。
王になるということは、この人が、これから気が遠くなるほどの長い時間を、ありとあらゆるものにがんじがらめにされたまま生きるということなのだ。この人が、ただ一つの簡素な命として在ることは、もう二度と許されないのだ。
そして、その運命は明日にも決定されてしまうのかも知れない、という事実に心が凍り付く。
だからって、私には何も言う権利はないのです。
おそらく他のどんな人よりも、自由な魂であることを渇望している野生の獣のようなこの方を、自分たちの都合で捕らえて檻に閉じ込めようとしているのは、私たち自身に他ならないのですから。
蓬山というのは、本当に奇妙なところです。
その麓から広がる黄海はご存知のように妖獣と妖魔の棲処、およそ人間の住む場所としては不適当な未開の原野です。
ところが、蓬山の上に上がった途端、自然の形状としてはそれほど激変するわけではないものの、どうしても違和感をぬぐえない光景がそこにある。
すなわち、あたりをうろついている、これでもかという勢いで着飾ったおねえちゃんたち、もとい女仙の皆さんの姿です。
こちとらは命がけで黄海をうろついてきたところで、埃まみれ垢まみれのドロドロです。つい先ほどまで獣の咆哮を聞きながらの野営生活だったんだから、多少汚いのは仕方ないと思ってほしいんですけど、それがいきなり、どこの妓楼に来ちゃったんだよ、みたいな雰囲気になるのは何故なのでしょうか。
私共が到着するなりさっそく、ばっちりと化粧をし、絹物を着込んで簪やら首飾りやらで飾り立てたおねえちゃん、もとい女仙が二人やってきました。彼女らは到着者案内係であると名乗りながら、なぜかうふうふと笑って愛嬌を振りまいています。とにかく、昨日まで私たちが黄海で出会い戯れていた、凶悪な外見の妖魔たちとの落差にはすごいものがある。
彼女らが説明したところによると、天幕を設営する場所は、この甫渡宮前広場の空いているお好きなところでどうぞ、設営のための柱や杭はあちらです、尚、天幕が足りない場合には、多少お貸し出しの用意がございます。お顔やお体を清めたい場合はそっちに泉、こっちに川がありますのでどうぞご自由にご利用下さい。また広場の周りには共有のお手水が何カ所か設営してございますので、ご用の際はそちらでどうぞ。まずは甫渡宮においでになって、昇山者と随従の方全員のお名前をご登録下さい。それによって昇山者と認定され、食料と飲み水の配給が受けられます、とのことでした。
ずいぶん至れり尽くせりなんですね?
なんというか、ここまで手厚く世話して頂けるなら、どっちかっていうと、ここまでの道中をもうちょっと楽なものにして頂いた方が、皆助かると思うんですけどね?
ともあれ、やれやれ、じゃあこのあたりに天幕を張るとするかね、静之と剛氏の何人かで柱と杭を適当に持ってきて下さいよ、なんてやっていると、また違うおねえちゃんもとい女仙がやって来る。
今度のどえらく派手な女仙は甫渡宮の進香係だと名乗りました。なんでも、泰麒ご臨場での進香はすでに四日目、今日はもう終了しましたが、明日は午前中に必ずお越し下さいね、などと、また妙にくねくねしながら言うのです。
はっきり言ってそういう脂粉臭いのが大っ嫌いな驍宗様の眉間に、めちゃくちゃしわが寄っています。私は急いで、そのおねえちゃんもとい女仙と驍宗様の間に割って入り、明日必ずお伺いしますね、と愛想よく言い、なんとか女仙にはさっさと立ち去ってもらいました。
なんでしょう……この感覚は……そうですね、まるで初見の妓楼で、いろんな女の子が入れ替わり立ち替わり顔を見せに来る時みたいな……あ、いや、私の経験として言ってるんじゃないですよ、違いますって、誤解です。あくまで一般的な例えとして言ってるんです。
ええー臥信様ああいうのが好みなんですかあーとか、静之君、妙な言いがかりをつけるのはやめなさい。私の好みはあんなキンキラ簪だらけの桃色頭じゃなくて清楚系の黒髪だし、小柄でちょっと気が強くて生意気な感じの、あれ? いや、いいから静之、早く柱を取りに行って下さい、天幕が設営できないでしょうが。
なんだか昇山というのも、思い描いていたのとは違う雰囲気だなあ、と思いながら皆で天幕を出して広げたりやなんかをしていると、剛氏の銖利が来て、今私たちと一緒にいる剛氏たち、つまりこれから下山者の随従として雇われようとしている十数名の者たちのことは、驍宗様の随従として登録してやってくれるか、と言ってきました。
私はその場で驍宗様の了承をとり、お安いご用です、と全員の名前を書いて、早急に甫渡宮に持って行くことにしました。食料の配給などの都合があるなら、早いほうがいいだろうと思ったからです。そして、女仙たちへの賄賂、もといご進物の類いは「お世話になります」の意味で、この時に献上したほうがいいのかもと思い、持ってきた中からいくつかの装飾品を選んで小箱に詰めていくことにしました。
進香四日目で、まだその場で王として認定を受けた者はいない。
つまり、驍宗様到着以前に昇山した者には、今のところ該当者は見られないということです。
この広場中に点在する天幕の主達は「とりあえず自分じゃなかった」と、すでに知ってるのかなと思いますが、それにしても皆所在なげにうろうろしています。到着した途端、こんなことを心配するのも何ですけど、ほんとこれから秋分までの間、この人たちはいったいここで何をして過ごせばいいんでしょうか。
そんなことをつらつらと考えながら、なんとなく天幕の数や配置、うろうろしている人たちを横目に目算したりしつつ、早足で甫渡宮を目指します。
甫渡宮は、広場からは一段上がったところにあるので一目瞭然。
決して大きくはないけれども、これまた場違いに派手な宮殿仕様、金装飾をあしらった白漆喰に翠瓦という贅沢な建物なので、間違いようも迷いようもありません。
甫渡宮の向こう側には天然の岩壁がそびえ、その狭間を抜ける道には頑丈な鉄扉があって、しっかりと施錠されている様子なのが見て取れます。琅燦から聞いていたとおり、これが「蓬廬宮付近は迷路になっていて侵入禁止、近づいた昇山者はとっ捕まって放り出される」というやつなのでしょう。琅燦曰く、たまに麒麟を捕獲した者が王だ、と思い込んでる阿呆がいるので、そのための措置だということであるらしい。
昇山という催しが「麒麟を捕獲すれば大勝利!」という競技会なのであれば、我々は技能、技術的には誰にも負ける気がしないんですが、まあ、そうじゃないのは承知していますので大丈夫です。
そうこうするうちに甫渡宮が目前、という時でした。
いきなり私は、これまた派手な身なりの女仙の一群に出くわしてしまったのです。そして、その女仙ご一行様の中に見える、黒髪の小さなお子さんの姿。
一瞬私は「え? 黒い髪の子供?」と思いましたが、すぐにその子供がほかならぬ蓬山公、つまり泰麒その人に違いないと思い当たりました。金髪ではないのは疑問としても、蓬山にいる立派な身なりの小さい子供は麒麟であるに違いない、ド派手な女仙に取り囲まれていることからも、それ以外にありえない。
いったいどういうことなんだ、蓬山公自身がこのへんをうろつくという事態もありえるのか、自分が本気で避けなきゃいけない相手じゃないか、いや、避けるも何もいきなり出会っちゃったんだけどどうしようと動揺しつつ、私はとっさにその場に平伏しました。
できれば私のことはうっちゃって、さっさと行ってしまって下さい、という私の願いは空しく、無情にもご一行様は平伏する私の前で立ち止まる。
「あ、雀さん!」
子供が、いえ、蓬山公が可愛らしい声を発しました。
確かに、私の頭の上には雀が乗っています。雀が乗っていますよ、しかし。
「雀さん、ここでは初めて見ました!」
という、子供、いえ、蓬山公の興奮したようなうわずった声。
どうやら、子供、いえ蓬山公は雀発見に夢中で、私(平伏する人間)には気がついていないようなのです。私は、頭上に伸びてくる小さな手を避けるべく、じりじりと、しかしけっこうな勢いで匍匐後退をし、このぐらい下がらせて頂いたら失礼はなかろう、という距離をとってから、脱兎のごとくその場を抜け出しました。
ふう。間一髪、といったところでしょうか。
少なくとも、私という人間の発する王気は雀以下であるらしい。
ちょっとばかり寂しいような気もしますが、ここはへこんでいる場合ではなく、喜ぶべきなんだと思います。
よかった、自分が雀以下な人間で。
そんなふうに自分を鼓舞し、私は甫渡宮へ急ぎました。
蓬山公がうろうろしているなら、私も取り急ぎすぐに驍宗様のところに戻らねばならない。まだ武装も解いておられない埃まみれの主公を洗って、こざっぱりと着替えて頂いて……と逸る気持ちを抑えつつ、「もしもし」と甫渡宮を訪ねると、そこでは退屈しきった顔をした女仙たちが私を待ち構えていました。どうやら蓬山公の散歩に同行できなかった、お留守番の者たちであるのでしょう。
そこにやってきた私は、まるで飛んで火に入る夏の虫、これ幸いとばかりに取り囲まれる。
違うんです、昇山者の名簿を提出しに来ただけで、すぐお暇しますから、と言っているのに、「そんなこと言わずに、どうぞ上がってお行きなさいな」「お茶とお菓子もあるわよ」と、私の腕を取り、背中を押してまとわりつくおねえちゃんたち、もとい女仙たち。
だからこちとら妓楼に遊びに来たんじゃねえって言ってんだろ、と、さすがの私も、日頃の私の特徴である丁寧な言葉遣いも忘れた暴言が口から出そうな心境です。さしずめ英章なら「ベタベタと無礼な女仙だね」とでも吐き捨てて抜刀しかねないところ。霜元なら、あまりのことに気を失って引きずり込まれ、取り返しの付かない事態に陥ってたのではないかと思われます。
しかし、そこはさすがに私なので、どうにか持ちこたえたと思って欲しい。
私は「あ、そうだ皆様にお土産があるんです戴名産の玉の装飾品なんですご査収下さい」と早口で言ってすばやく小卓に小箱を置き、女仙たちがそれに群がっている間に、なんとか脱出に成功したのです。
皆さんありがとう、臥信は見事に「騶虞に瑪瑙」の経験を応用して生かせましたよ。
というより、妖獣妖魔に襲われたなら武器を持って戦うことも捕獲することもできるが、女仙相手にはそうもいかない。
いったいどうしたらいいんだ、ここはむしろ黄海以上に危険な魔境なんじゃないのか、そんなことを思いながら、私が足早というよりは、もはや小走りで驍宗様の天幕付近に戻った、その時。
どうしてこの魔の山では、こうも矢継ぎ早に次々と事が起こるのでしょうか。
なぜか、あたりには人だかりができている。
その中で、驍宗様に対峙した、やたら体格だけは立派といったナリのへなちょこ男が驍宗様に向かって、言ってはならぬ言葉を発したのです。(驍宗様を怒らせた言葉が実際どういうものか、ということは私も巌趙も決して口外するつもりはありませんので、どうぞ聞かないで下さい)
ご存知の通り、驍宗様は簡単に私闘をされるような方ではありません。つまり、並大抵でなく名誉を傷つける言葉でもって侮辱をされたのだし、私も巌趙も「あれは怒って当たり前」と思うわけですが、案の定驍宗様は、静かに「聞き捨てならぬ」と仰いました。
私は当然、喧嘩は御法度です、堪えて下さい、と割って入ろうとしたし、巌趙も驍宗様をお諫めするべく向かってきていたのですが、なんと、あの黒髪の子供、もとい蓬山公と女仙達の一群が、すぐそこに来ているじゃないですか。
ここは、この驍宗様に殺されて当然のど阿呆の命運より、私たちがはやばやと爆死しないですむほうが優先、ととっさに判断し、私は走ってくる巌趙に渾身の体当たりを食らわして、天幕の影に転がしました。
「いったいどうした、臥信」
と、転がりながら訝しげに言う巌趙の口を手でふさぎ、私は無言で蓬山公ご一行様を指さしました。小さな蓬山公は、隣にいる女仙の影に隠れるようにして、対峙する驍宗様と阿呆を不安そうに見ています。
巌趙は息を飲み、承知した、というように頷き、その大きな体をできるだけ縮めるようにして、私と共に天幕の影に潜みました。
女仙達が口々に、おやめなさい、とか、だから戴国の田舎モンは、とかキャーキャー騒いでいる中で、後に引けなくなったど阿呆が遂に抜刀して剣を振りかざしたのですが、驍宗様はなんなくその刃をかいくぐり、叩き込んだ拳一発で、そのへなちょこを地面に沈めてしまわれたのです。
「蓬山公の御在所ゆえ、剣は抜かぬ。公に御礼申し上げるがいい」
いやいや驍宗様、すごくかっこいいですけど、かっこよく決めてる場合じゃないんですって、後ろ後ろ。
私も巌趙も、出るに出られず、あわあわとしながらその様子を見守るしかない。
驍宗様は、ふと振り返ったところにいるのが蓬山公だとすぐに気がつかれたのでしょう。
すぐに膝をつかれ、驍宗様にしては柔和な様子で、公に向かってご無礼をお詫び申し上げられたようでした。
まずは、まずは上出来な感じです、驍宗様、その調子です! と巌趙も私も拳を握り、固唾をのんで見守っています。
蓬山公に「どちらから来たのか」と尋ねられ、驍宗様が「鴻基から参りました。わたしは戴国禁軍、乍将軍と」と、仰った瞬間、周囲にどよめきが起こります。私たちもそうですが、周りも、いよいよか、いよいよなのか、とその瞬間を期待しているのでしょう。もう私の心臓は口から飛び出そうな勢いです。
「名を綜、字を驍宗と申します」
と、跪いたまま名乗りを上げられた驍宗様に、なぜか蓬山公は怯えた様子で「将軍でいらっしゃるんですね」と、その職業を再確認されました。何でしょう、やっぱり職業は重要なんでしょうか?
「はい。剣技よりほかにとりえもありませんゆえ」
ちょっと驍宗様、他にも言い方がありそうなもんでしょう、なんですかその説明の仕方は、と心の中でダメ出しをしていたところへ聞こえた、蓬山公の言葉。
「中日までご無事で」
小さな蓬山公はそう言い残し、一目散に逃げるようにして走り去ってしまったのです。
後に残された驍宗様は、静かに立ち上がって、ふふ、と笑い、呆気にとられた後「乍将軍ではなかったのか」とざわついている周囲をよそに、さっさと天幕に帰っておしまいになりました。
私は生まれて初めて経験した「腰が抜ける」という状態で、その場で動けなくなっておりました。つまり、あれです、喜劇とか滑稽本の登場人物がびっくりしたときになってるやつです。人間がこういう状態になることって本当にあるんだ、と、むしろ腰が抜けている自分に驚きながら、へなへなとへたばっていると、巌趙が何も言わずに背中を貸してくれました。
そして、哀れな私は巌趙におぶわれて、天幕に連れて帰ってもらったのです。
いったい何なんですか、この魔の山は。
おかしい。絶対に何かがおかしい。
「まったく、見る目のない麒麟だね」
という英章の容赦のない冷ややかな声が、なぜか脳裏でこだましているんですけど、まあ、今の心境を簡単に言うと、そんな感じであるというのは否定できない。
いえ、英章、かこつけたりしてごめんなさい。
でも今の私は、とうてい自分の頭でものが考えられないのです。
実際腰も抜けていますが、自分が「実はお前は女だったんだよ」と突然言われたとしても、ここまで驚くことはなかったと思います……みたいな、ものすごくどうでもいい比喩しか思いつかないくらいに、脳機能も停止しています。
強いて言えば、いったい何が、何が、悪かったというのか。
そういえば蓬山公は、すごく怯えている様子に見えた、ということは。
①「剣技しかとりえがない」ような人はダメ
②驍宗様の「禁軍将軍」という職業が気に入らなかった
③そもそも驍宗様の喧嘩を止めるのを優先すべきだった
何にしても、もし③が理由なら、私は自分の判断を悔やんでも悔やみきれない。どうしてその場で巌趙をちょっとばかり爆死させる程度の覚悟ができなかったのか、と地団駄を踏みたいような気持ちです。
そして、そんなこんなで私たちは、まだ設営したばかりで荷も解いていない驍宗様の天幕へ戻ったとたん、間髪入れずに「私は戴を出ようと思う」という、驍宗様の言葉を聞く羽目になったのです。
ほんとにこの人は、私たちにくよくよ反省する時間も、めそめそ悲嘆にくれる猶予も与えてくれない。
ついさっきの今で、もう「戴を出る」ですよ?
それを聞かされてる私たちの気持ちって、わかります?
驍宗様は、天の心さえ掴めると思っていたのは奢りだったようだ、これも運というものだろうな、というようなことを自嘲気味に仰いました。
また、あの麒麟がどのような者を王に据えるかはわからないが、場合によっては自分がその玉座を掠めとろうと思わないとは限らない。人は自分と他とを優劣を持って比べるものだ、というようなご自分の感慨を説明されました。
そりゃそうです。
結局王に選ばれたのは驍宗様ではなく、どっかのカボチャです、なんてことになったら、驍宗様が納得しないどころか、戴の国民全員が納得しないでしょう。
人というのは、とかく自分自身を擁護したり言い訳するために弁論を尽くすものですが、驍宗様はそうではない。
この人は「自分がすでに決めたこと」を説明しようと思う時にしか、長舌はなさらないのです。それを知っているだけに、私はすらすらと淀みなく喋る驍宗様の饒舌が悲しかった。この人はきっと「自分が選ばれなかった時」のことを考えて、ずっと心の準備をしてきたのです。それなのに自分自身はそんなことには思いも及ばず、馬鹿みたいに、ただ腰を抜かしていた。
そして驍宗様は「そんなわけで自分は戴を出るが、お前達は残って戴のために尽くせ」という身勝手な言い分を懇々と主張されました。
いかにも驍宗様が言いそうな戯れ言です。
こっちに言わせりゃ、あんたが自由の身になって意気揚々と戴を出て行くのに、なんで私たちが、あんたを王に選ばなかった戴のために犠牲になって、どっかのカボチャのために尽くさなきゃなんないんだよ、ってなもんです。
知るかい、そんなの。
まったく、残された私たちが(特に英章が)新・カボチャ王を殺しかねない、という可能性には、なぜ気がつかないんですか、この人は。
そして驍宗様は「では、そういうことなので、皆息災ですごせよ」みたいなことをちょろっと言って自分の頭陀袋を取り上げ、さっさと天幕から出て行こうとしたのですが、それこそ「ちょっと待ったー!」じゃないですか。
一方的に言いたいことだけ言いやがって、いきなりここでお別れとか、そんなことが許されると思ってるんですか、このスカタン。
へたばっていたはずの私は猛然と立ち上がり、側にいた静之をガッと掴んで驍宗様に向かって突き出しました。
「だめです驍宗様! この静之との! 一緒に妖獣狩りに行く約束はどうしたんですか!」
いやいや、そんな約束したっけ? という疑問は脳裏に浮かんだのですが、この際そんなことはどうでもいい。
「もうここにはいたくない」という気持ちはわかる、充分すぎるほどわかる。
すでに用は済んだわけだし、世間の好奇の視線を浴びるのもまっぴらでしょう。
私だってそうです。こんな魔の山とは、とっととおさらばしたい。でも、そんなわけにはいかないのだ、と私はなぜか心の底からそう思っていました。
まだ「今」じゃない。
今じゃないです、驍宗様。
驍宗様は、もはや涙目で震えている静之と、膝をがくがくさせている私をまじまじと見比べています。
そして永遠かと思われるくらいの長い沈黙のあと、驍宗様は「そうだったな」と言って、ふっと笑い、手にした頭陀袋を床に置いてくれたのです。
「じゃあ、皆で荷を解くことにしようか」
気の緩んだ静之にどっと寄りかかられて、私の膝も再び崩れ落ちそうでしたが、巌趙もこっちに聞こえるほど大きく息を吐いている。
その時の、「何か」はわからないが、とりあえずは取り返しのつかない「何か」は回避したのだ、という安堵感にはすさまじいものがありました。
その後私たちは無言で荷解き作業をしつつ、川で水を汲んできて騎獣たちに与えて体を拭いてやった後、自分たちも体を拭いたり着替えたりやなんかをしました。
驍宗様の天幕は割と大きさがあるのですが、そこは一応驍宗様と巌趙の二人で使ってもらうことにして、私と静之は剛氏と天幕を共有しようと思っています。
私自身もそうですが、静之も今の驍宗様とずっと一緒にいるのは、居たたまれない気分だろうと思ったからです。
そして巌趙はむしろ、驍宗様の側にいてくれないと困る。
まあ、見張り役とも言うけれども、巌趙は長年の誼もあって、驍宗様の勝手な言動には慣れていますからね。黙って驍宗様の重しになってくれる巌趙(実際重い)がいなきゃ、今の驍宗様はなかっただろうな、と、私はそう思うんです。
そうこうするうちに、女仙二人が手押車を押して、私たちのための配給の食料を持ってきてくれました。
どうしたって荷を降ろすのを手伝ってやらねばならない、どう見ても非力そうなおねえちゃんたちが、よりによって重そうな手押車を押してくるのも何か思惑があってのことなのか、と疑いたくなるような感じではありましたが、彼女らが持ってきた食料の量がすごかった。
剛氏たち含め、計十五名分であるのは確かですし、ひょっとしたら私が賄賂に置いていった装飾品が効いているのかもしれませんが、それにしてもです。
大きな水瓶。麻袋にいっぱい詰まった白い米、同じく真っ白な小麦粉、豆腐、新鮮な肉(あきらかに妖魔肉みたいな怪しげなものではなく、ちゃんとした豚肉と鶏肉でした)、数種類の青菜に葱。ご丁寧に塩や油その他の調味料も用意されている。
あまりにも、至れり尽くせりすぎませんか。
いや、確かに少数の例外を除いて、ほぼ身一つで黄海を越えてきたような人が多いでしょうし、そういう人たちがここで滞在するには、こうしたものが必要なのには違いないでしょうが。
剛氏たちは「蓬山ではいつものことだよ」と言ってますし、静之は素直に目を輝かせていますが、私はどうもぬぐい去れない疑問を心中にかかえて、大変微妙な気分でした。
でもまあ、どのようなものであれ、食べ物は食べ物に違いない。
私の雀も餌が米粒なもんですから、正直お米を頂けるのは大助かりではあります。
その目を見張るほど豪勢な食料をそれぞれの天幕に分けつつ、せっかく小麦粉もあるから、今日は驍宗様と巌趙で麺をたくさん打ってくれるというので、それは二人にお任せすることにしました。あの二人はとにかく馬鹿力だけはあるので、麺を打つのはたいそう上手なのです。
まだ日が暮れるまでには猶予がありそうでしたので、その合間に私と静之は、皆の溜まった汚れものを持って行って、川で洗濯をしてしまうことにしました。
誰もいない川辺で、私たちはしばらくの間、無言でごしごしと洗濯を続けていました。
そのうち静之が鼻をすすり始めたので、私は汚れてない手巾を出して渡してやりました。
「臥信様……」
そう言う静之の世にも哀れな声は、私ももらい泣きしそうなほどです。いや、実のところ、私だって泣けるものなら泣きたい気分なのですが。
「自分は、驍宗様が王じゃないなんて、考えたこともなかったです」
私もですよ、と私はしんみりと答えました。
「やっぱり、阿選様なのでしょうか……」
いや、驍宗様じゃないってことは、阿選殿でもないような気がするんですよねえ、あの方もいちおう禁軍将軍ですし。ほんとに職業が忌避の理由かどうかはわからないですけども。
「それにしても、あの麒麟はすごく、すごく小っちゃいじゃないですか。何か勘違いしてるってことはないんでしょうか。例えば、あの時、ちょっと驍宗様が怖くて逃げちゃった、とか」
勘違いかどうかはわからないけれども、「驍宗様が怖かった」ってのはわかりますねえ、確かに。
「自分だって、以前は確かに驍宗様は怖い方だと思ってましたよ。でもほんとは、ほんとは優しい、親切な方じゃないですか」
うん、まあ、強いて言えば、そういうところもあるっちゃあるかもしれませんね。
「それに、自分は今でもいろんなことをよくわかってないとは思いますが、子供の頃にはもっとわかってなかったですよ。何も知らなかったし、今から思えば勘違いもいっぱいしてました。でも子供ってそういうもんじゃないですか」
私は、そうかもしれないねえ、とうなずいてやりました。
「あの麒麟が、いや蓬山公が、思い直してくれるってことはないのでしょうか。私たちは、蓬山公にもう一度考えてもらえるようにお願いできないのでしょうか」
いや、静之君。君の考えることって、けっこう大胆だね?
「せっかく驍宗様が今すぐ出て行くのは、思いとどまって下さったんです。ここはきっと、まだまだ蓬山公に驍宗様のことを知って頂く機会が」
琅燦から聞いていたところによると、王気というのは通常「あるかないか」の二択であって、つまり、泰麒は驍宗様には王気はない、と判断したということなのです。
そこに「再考」とか「思い直す」という可能性が、はたしてあるのかないのか…… 私にはわからないですけれども、でも。
「そうですね。蓬山公に、もうちょっと驍宗様のことを知って頂くように頑張ることしか、私たちにはできないかもしれませんね」
「臥信様もそう思います?」
とたんに静之の目が輝きます。
そのきらきらした目を見ながら、やっぱりこの子は福の神なのかなあ、と私は思いました。
何にせよ、もうダメだ、と悲観的になるより、少しでも希望があると思えた方がいいに違いない。それがとうてい実現は無理、非現実的と思われることであっても、また、ほんのちょっぴりであっても、希望というものは人に生きる活力をもたらしてくれるのです。
そんなことで、なぜかやみくもに「よっしゃ来た、がんばるぞ」みたいな気分になって、私たちががしがしと洗濯を続けていると、剛氏の銖利がやってきました。
私に、今晩自分の天幕へ来ないかと言ってくれています。お前さんの好きな六博の盤もあるし、酒もちょっとはあるよ、とニヤリと笑う銖利。
きっと銖利は、私が腰を抜かしてへたれこんでいたのを見ていたのでしょう。
なんだか、皆さんの優しさに、泣けてきそうな気分です。
その晩は、大盤振る舞いの大宴会の様相になりました。
驍宗様と巌趙が打ってくれた、めちゃくちゃコシの強い(二人はきっと、そうとう思いの丈をこめて生地をぶちのめしたと思われます)大量の生地を皆でせっせと切っているうちに、次から次へと挨拶にくる人がいたためです。
それこそ、わざわざ黄海の道中のお礼を言いに来て下さったり、そして「乍将軍が王ではなかったことが残念だ」と言って下さる人が何人も。
ほんと、我々戴の田舎モンは血の気が多いかもしれないけど、だからこそ情に厚いんだぞ、と言ってやりたい。
驍宗様と私たちは、そんな人達とその随従の皆さんと、剛氏たち全員を夕食に招待することにしました。
空き地で盛大に焚き火をして串刺しにした肉を焼き、即席のかまどを何個もしつらえ、皆で鍋と材料を持ち寄って出汁をたくさん作ります。そして、ひたすら麺をゆでて食べるだけなのですが、皆さん、ものすごく美味しいと言って下さった。この際、麺がでこぼこしていて不揃いなのは愛嬌です。
さしずめ鴻基だと、ここは餃子を振る舞うところですが、驍宗様の出身地委州では皆が集まるときには麺を食べるのです。
驍宗様も、重圧から解放されたせいか、寛いだ表情で皆さんと話しておられました。
お酒は一滴も入ってないはずなのに、陽気に歌い出す人や踊り出す人もいて、皆で手拍子しながら一緒に歌って、また、戴の故郷の歌に泣きだしてしまう人もいたりして、本当に楽しくも不思議な夕べになったのです。
これが驍宗様ご登極のお祝いだったらなあ、とは何人もが思ったことでしょうが、誰もそんなことは口には出さなかった。戴の現状や今後への不安も、不満も愚痴も、一切なしです。
楽しい時は、ただ「楽しい」でいいんだと思います。
皆でお腹いっぱいになるまで食べたら、あたりを片付けて解散。
せっかくだから妖獣狩りにお供させて欲しい、と申し出る人が何人もいたので、驍宗様は剛氏たちと相談して連絡する、と機嫌よく仰っていました。しばらく暇なのはお互い様ですからね。
その後私は、目顔で合図してくれた銖利に付いて行って、彼の天幕を訪ねることにしました。疲れてはいるものの、すぐには寝付けないような気がしたからです。それに、やはり彼の気遣いは嬉しかった。
銖利は経験豊富な剛氏らしく、単独で小さな居心地のよい天幕をしつらえていました。
さっそく出してきた六博の簡易盤に「用意がいいですね」と言うと、「蓬山では暇だからな」と笑っています。
なるほど、これが経験の差なんですね。
銖利がとっておきのお酒を注いでくれた小さな杯を手に、私たちは差し向かいで盤に向かって陣取ります。
普通、六博で遊ぶときには何がしかを賭けるのが定石ですが、今日はそういうことはなしでいこう、ということに決めました。どうせ私も勝負に集中はできそうもないですし、銖利もちょっとした気張らしとして誘ってくれたのはわかっていますから、それでいい。
それほど真剣勝負でなくても、やはり私はこうやって盤に向かって、色んな手を考えているのが好きです。次の賽子はどういう目が出るか、それによってどういう戦略で行こうか、相手はどう出てくるか、みたいなことをぼんやりしながらでも考えていると、どういうわけか心が落ち着くのです。
しかし、いくら先の先まであらゆる局面を想定して考えてみても、賽子の目ひとつでどうにもならなくなる。予定通り、思い通りに事が運ぶ方が少ないのです。どうしたって勝負は運に左右されるのが、この六博という遊びの面白いところ。
そういえば、驍宗様も今日は「運がなかったということだろう」と仰っていたなあ、と思い出す。
「麒麟って、賽子みたいなものなのかな」
私が思わずぽつんと呟くと、銖利は笑って「そうかもな」と言いました。
「案外、あんたたちは、天と博打をしてるのかもしれないな」
いかにも黄朱らしい物言いです。
そういえば、この六博の盤は、黄海に似ていなくもない。四つの門から出発して、お互い二色の手駒石を使い、中央の陣地を目指す遊戯なのですから。
驍宗様とは、かつて黄海を放浪していたときに、天意というものについて話し合ったことがあります。
やはり私たちにとって、黄朱という「天と王を必要としない」存在が、黄海でたくましく自由に生きている様を目の当たりに見るのは、本当に色んなことを考えさせられる経験だったのです。
翻って、なぜ「国と戸籍」というものを持つ私たちには、天の摂理が必要なのか。
それはもともと、農耕を基盤とした人間の集団生活を、効率よく統べるための概念であり理屈なのだと思う、と驍宗様は仰いました。
すなわち、天が原初から我々を作り統べているのではなく、むしろ我々の方が天という「我々を支配する」概念を欲することを自ら選んでいるのだ、と。
生命の誕生と死、自然災害、あらゆる資源の有無、そうした民自身では為せぬこと覆せぬことについて責任を転嫁するために、おそらく天という概念があり、王がある。民はそれによって「天意によるものだから、天が選んだものだから仕方ない」と考える。それが「天と人との契約」だ。
だから、天というのは、それに向かって祈ったところで、実際どうなるものでもない。もともとが自分たちが欲した概念にすぎず、本来の責任は実質人の方にあるからだ。
だが、今さらそんな概念はいらない、とするのは我々の社会全体にとっては非常に難しいことだ、と驍宗様は言っていました。
私には、あの時驍宗様の仰ったことの全てが、正確にわかったとは到底言えません。
でも、本質的に天は人に対して無責任だし、王という存在についても、決して正解はない、というのは自分の経験上の実感として理解できる。
そして、民は「麒麟の選択による王の決定」という博打を打つのだという感覚もわかる。これは、我々という天意の世界に住む民が、唯一自ら振る機会のある賽子です。
戴が、民が、こんなに困窮しているのに博打なんかしてる場合じゃないだろう、賽子任せになんかしないでちゃんと助けてよ、と言いたいところではありますが、驍宗様に言わせると「それこそが、我々が天意を欲することを選んだ」結果の業なのでしょう。
だから、賽子を振るしかない。
でも期待しない目が出たとしても、そこで諦めたら勝負は終わり。
思うようにいかないからこそ、次の手立てを考える甲斐があるというものじゃないですか。
「お前さんは、やっぱり強いなあ」
銖利に苦笑するようにそう言われて、ぼんやりしていた私はようやく、すでに自分がほぼ勝負に勝っているのに気がつきました。
「いや、銖利のほうこそ適当にしてたんでしょう」
そう言うと、銖利は「まさか、そんなわけねえよ」と言って笑い、勝者には特別にもう一杯、とお酒を注いでくれました。
でもきっと、銖利は私を勝たせてくれようとしたんだと思います。普段だったらそんな情けは無用と怒るところですが、今日という日はその気遣いに感謝したい。
「しかしな、あんたらの天との博打勝負はともかく、蓬山の女仙には気をつけろよ」
銖利は突然、真顔で言いました。
「あれもまた、人間の『天の摂理』という決め事からは離れた、黄海の生き物の一種なんじゃねえかな、と俺は思うのさ」
それは私自身、蓬山に到着してからずっと違和感を覚えていたことそのものでもある。
詳しく聞かせてくれ、と頼むと、銖利はさらに声をひそめて言いました。
「だから、あいつらは俺たち剛氏には手出しはしない。同じ黄海の生き物だからだ。でも昇山者は違う。どういうわけか、時々『消える』んだよ、昇山者とか、その随従が。でも消えた人間がその後どうなってるのかは、俺にはわからない」
ええ…… なにやら、恐ろしげな話になってきました。
「俺たちも、昇山者がダチだなんてのは、あんたらが初めてだからさ。今まではこんなことは、わざわざ喋ったりしなかった。でもあんたたちは違う」
なるほど、きっと銖利が私を招いてくれたのは、慰めるためだけでなく、忠告を与えてくれるためでもあったのでしょう。
「とにかく、臥信さんも皆さんも、できるだけ一人では行動しないこった。特に水辺には一人で行かないように、と忠告しておくぜ」
「み、水辺でいったい何があるんですか」
思わず、どもってしまったじゃないですか。
「……髪の長いお化けがあんたらを拐かしにくるのさ」
銖利、顔も声も怖いですって。
怒濤のように色んなことが起こった挙げ句の果てに、夜中の怪談みたいな話に背筋が凍りついちゃったんですけど。
しかし貴重な怪談を聞かせてくれた銖利に、本当にありがとう、と感謝して、私の長い長い蓬山一日目は、ようやく終了という次第になったのです。
ここはどこ。私は誰。
翌朝、誰もいない天幕で目を覚ました私は、ずっと長い悪夢を見ていたような気分でした。
しかしここは魔の山、蓬山。
悪夢のように脳内に去来するあれこれはすべて夢ではなく、現実に起こったことなんだっけ、と思い出す。
確か昨夜の私は、結局静之と二人で使うことになった小さい天幕へ戻ってきてそのまま、倒れ込むように寝てしまったのでした。
天幕の布越しにも外はすでに明るく、もう日が昇っている時刻なのがわかります。
すっかり寝過ごしてしまったようではありますが、別に起きて仕事に行かなくちゃならないわけでもなし、静之もそのまま寝かせてくれたものなのでしょう。
ほんとに特に予定はないんだよな、とりあえず驍宗様の朝ご飯の支度でもするかな、と思いながら起き上がって寝具をたたみ、髪を括り直して身繕いをしていると、水の入った桶を手に持った静之が天幕に戻ってきました。
「臥信様の洗顔用に水を汲んできました」
水、え、水!?
まさか静之お前、一人で川に行ってきたのか、と私が動揺していると、静之は「自分も寝坊しちゃったんですけど、臥信様はよくお休みのようでしたので、一人で行ってきましたよ」と、きょとんとしています。
大丈夫だったのか、お前、何もなかったか、とうろたえる私を「何もあるはずないでしょう。臥信様も顔洗ってさっぱりしたほうがいいですよ」と、この人まだ寝ぼけてるのか? みたいな憐れみのこもった目で見る静之。
いや、そうだね、後で説明するけど、とにかく川や泉にはお化けが出るから、一人では行かない方がいいって銖利が言ってた……みたいなことをぶつぶつ言う私を、ますます「この人いったい何言ってんだ」みたいな目で見る静之。
そんな静之の冷たい視線を断ち切るようにして顔を洗っていると、ふいにひょいと持ちあげられた天幕入口の垂れ布から、巌趙の顔がのぞいている。
巌趙は「朝ご飯のお粥ができたから、二人とも早くおいで」と言っています。
ぎょっとしてお互いに顔を見合わせた私と静之が、巌趙を突き飛ばす勢いで驍宗様の天幕に走って行くと(とはいってもすぐ隣なんですが)、なんと、驍宗様が銘々のお椀にお粥をよそっているではありませんか。
静之は「わああ、申し訳ありません」みたいに慌てたあげく、けつまずいてその辺のものをひっくり返したりしているけど、私は大変微妙な気分でした。
普段の驍宗様は、確かにやろうと思えばなんでもお出来になるし、ご自分の身仕舞いはご自分でされる方ではありますが、手伝いや分担が必要な場合を除いては「本来部下や使用人がやるべき仕事」には手を出す方ではないのです。
それは決して偉そうにふんぞり返っているという意味ではありません。
そうした振る舞いは、禁軍の将という立場にある者の義務としてつけるべきけじめであり、自分が何でもかんでもやってしまったら、部下や使用人たちの立場をなくし面子を潰してしまう場合があることを、きちんとわきまえていらっしゃるからなのです。
だから通常は例え空腹だったとしても、自分でさっさと食事を作ってしまうような真似や、料理番を急かすようなことは決してなさらない。そもそも空腹を訴えるということがあり得ない。ましてや、給仕を待たずに自ら料理に手を出すなどもってのほか。
それを知っているだけに、驍宗様はきっともうご自分が戴の禁軍将軍であるつもりがないのだろうな、と感じて、私はなんだかやるせない気持ちで、湯気の立つ美味しそうなお粥を眺めていました。
「臥信、そんな顔をするな」
おそらく私の勘繰りに気がついたのであろう驍宗様は、そう言って笑っていますけれども、私にしてみれば、その「ああよく寝た」とでも言いたげな、さっぱりと爽やかな笑顔自体が恨めしい。かといって、朝っぱらから身も世もなく「王じゃなかったなんてもう死にたい」みたいな顔をされていても困るわけですが、そもそもそういう方ではないからお仕えしているのだとも言う。
「静之もいいから、座って食べなさい」
そう言って促され、私たちは納得がいかないなりにも着席して、ありがたくも驍宗様御手ずからご配膳のお粥を頂くことにしました。
まあ、なんにせよ、朝からできたての温かいお粥が頂けるなんて、この二週間の黄海生活を思えば夢のような話です。
熱々のお粥を食べているうちに心も満ちて、見てろよ、明日からは絶対寝坊しない、という闘志も沸いてこようというもの。
「そういえば、臥信。昨夜銖利は何を言っていた?」
まったく驍宗様の目敏いことったら。普段から口に出すことはなくても、実はいろいろと見逃してはいない人なんですよねえ。
朝っぱらから怪談みたいなのはちょっとなあ、とは思ったのですが、いずれは皆に伝えなくてはならないことなので、私は、昨夜銖利から受けた忠告について、その場で話してしまうことにしました。
蓬山の女仙には気をつけろ、一人で行動するなと言われたのだ、という次第を説明すると、静之は呆気にとられた顔をしていましたし、巌趙も意外そうな顔をしていましたが、驍宗様はさすがと言いますか、やっぱりな、という顔をしています。
「蓬山の女仙については、そういう類いの記録をいくつか目にしたことがある」そうなのです。
曰く、彼女らが男と出会える機会は、昇山者がいるときのみ。彼女らが親しくなる意思をもって、自ら昇山者の男達に近づいているのは誰の目にも明らかだ。それ故、伴侶となる男と出会って下山しているのだ、とも言われているが、ところが実際に蓬山の女仙が下山したという実話としての伝聞はない。一方で「昇山したが、帰国しなかった」者の記録は歴然とした事実として随所に残っている。
「たとえ帰国しなくても、道中の黄海で死んだ、と推測されるだけの話。仮に蓬山が昇山者を拐かしているのが本当だとしても上手いやり方だ」
水辺が危険、というのもおそらく、昇山者や随従が無防備に水浴しているところを狙われているのだろう、と驍宗様はこともなげに仰いました。
「す、水浴してるところって」
そうだね、静之君。ちょっと君には刺激が強い話かもしれないね。
でも、私だって、うっかり裸で水浴びしてるところを、女仙に襲いかかられるなんてまっぴらごめんですよ。こっちにだって選ぶ権利があると主張したい。
「まあ、襲われる男の方もまんざらでもない、といった話なのであろうな」
まさか、驍宗様の口からそんな言葉を聞こうとは。
まったくこの方は、うんとお若い頃から、降るように持ち込まれてきた縁談全てを断り続けてなおかつ、浮いた話のひとつもないっていう難物のはずなんですけどね。しかし、主公のそうした個人的なあれこれについては素知らぬふりをするのが、部下としての嗜みですから。
「しかし、そうやって拐かした者を、蓬山はいったいどうしているのだろう」
そう言う巌趙の疑問はもっともです。
「食べちゃうんでしょうか」
いやいや、静之君、いくらなんでもそれは怖すぎる。
「誰かが囮になって引っかかってみたら、はっきりするんでしょうけど」
うっかりそう口にした私を、なぜか驍宗様も巌趙も静之も、じっと見つめています。
何ですか、その視線。
「臥信の得意分野だな」
巌趙、私に変な特技を付加しないで下さい。
「臥信様はモテますもんねえ」
静之君、おだてようったってそうはいかないですよ。
「私はよい部下を持った」
驍宗様、いい上司面したいなら、そこは「お前をそんなことの犠牲にはできない」って仰って下さるはずの場面じゃないんですか。
ちょっと勘弁して下さい、と私は必死で訴えました。引っかかった私が二度と戻って来れなかったら、囮調査もへったくれもないでしょうが。
まあ、それもそうだな、と皆さん一応納得して下さったようです。
私は、蓬廬宮付近の迷路とその向こう側の、とにかく昇山者立ち入り禁止になっている区域を調査してみるのが先決だと思う、という自分の意見を必死で述べました。
「そもそもおかしいと思うんです。この環境、この黄海のど真ん中で、女仙たちはいったいどうやって、これだけの食べ物を手に入れてるんですか。彼女らは、あの豪勢な衣服をどこで手に入れているんでしょう?」
私の訴えに、驍宗様も「その通りだ、臥信はよいところに気がついた」と同意してくれています。
私たちも確かに仙と呼ばれる者のはしくれではありますが、それはしょせん役職手当のようなもの。拝領したお役目を遂行するために、ちょっとばかり体が丈夫で長生きなのにすぎない。何か特別な、あるいは妖しげな呪術が使えるなんてことはありません。
しかし、天仙の中にはそういう者もいるという話は聞いたことがある。しかしあくまでそれは幻術妖術の類いであって、いかなる仙であっても、無から有を生み出すことはできないはずです。私たちがもらった食物は幻ではなくれっきとした本物でしたし、あの女仙たちにすでにベタベタ触られたことがあるから言えるのですが、彼女ら自身も幻ではなく、きちんと実体のあるおねえちゃんであったと断言できます。
「蓬山にいる女仙は、およそ五十名程度とされている」と、琅燦からは聞いています。
たった五十人の、しかもあのいかにも非力そうな女性達で、一斉に昇山してくる何百人もの人を養うだけの食料を調達し、彼女らのあの衣装をまかなえるものなのでしょうか? 強いてはあの宮殿建築や生活に必要な品を作りだして維持するなんていうのは、到底不可能な話ではないですか?
「だからきっと、あの迷宮の中か向こう側に何か秘密があると思うんですよ」
私は再度主張しました。
迷宮の中には騎獣では入れないから、歩いてこっそり忍び込んで、とにかく左手進行か糸を使う方法か何かで迷路内を調査して……と私は思い巡らしていたのですが、そんな思案は、驍宗様の一言であっさりと片付けられてしまいました。
「蓬山の頂上まで騎獣で飛んでみればよい」
またまた大胆なことを仰いますね?
「そこから見下ろすことができるだろう。蓬廬宮付近の迷路に立ち入ってはならないのは承知しているが、山頂に行ってはならぬという禁則は聞いていない」
驍宗様は、しれっと主張なさいます。
そりゃ普通に考えて、蓬山のてっぺんに行ってみようという人はいないはずです。
まさか誰もそんな場所に用事があるわけないし、女仙たちもそんなことを禁止しようとは思わなかったのでしょう。
ちなみに蓬山へは、私たちが辿ってきた昇山口からしか上がることができません。その他は結界が張り巡らされていることになっているからです。
「その結界というのも、いかほどのものかはわからぬがな」
なんだか、驍宗様がとっても楽しそうなんですけど。
「でも、見つかって、蓬山からつまみ出されたらどうするんですか」
「放り出されたところで、ちっとも困ることはあるまい」
確かにそうですね。もう、基本的にここには用事がないですもんね。
「じゃあ、今夜か明日あたり、私と静之でこっそり探検を……」
そう言う私を遮って、いや、私と巌趙も行く、四人で一緒に行こう、と驍宗様は仰いました。
「放り出されるにしても、囚われるにしても、四人一緒のほうが心強かろう」
驍宗様はそう言って、さも愉快そうに笑っています。
なんだか思いもよらぬ展開になってはきましたが、いつだって冒険には心が浮き立つもの。
巌趙と静之も、わくわくしたような顔をしています。
ではさっそく今夜にも決行ということで、と心づもりを話し合い、楽しい朝餉の場は終了したのです。
それから、私たちはそれとなく「今夜は我々四人で、付近の黄海の下見に行くつもりだ」というようなことを幾人かに言って回りました。
深夜に武装して騎獣に乗って出かけるにしても「黄海に狩に行く」のであれば、何ら不信感は抱かれないはずです。もし仮に女仙達に「あいつらはどうしたのだ」と訊かれることがあったとしても、黄海へ出かけたのだということにしてもらえるでしょう。
ただし、私たちがもし戻って来れなかった場合、という懸念がある。とにかく、ここは何があるかわからない魔の山なのです。
そうした場合に、剛氏たちに無駄に黄海を捜索するような真似はさせられないと思った私は驍宗様と相談し、銖利にだけは本当のことを言っておくことにしました。
今夜、蓬山の山頂に上がって、蓬廬宮迷路の向こう側の様子を見てみるつもりだ、と告げると銖利はしばらく絶句した後「そりゃまあ、あんたたちなら大丈夫だと思いたいが……」と呟きました。
そして「ここだけの話、おそらく蓬廬宮へ忍び込もうとした連中なんだが、もうすでに十名ほどの人間が消えている」と耳打ちするのです。
えええ……もう十人も。
今度は私の方が絶句する番です。
本当に、なんて恐ろしい山なんでしょう。
「だから、念には念をいれて、頼むから無茶はしないでくれよ」
そう言って武運を祈ってくれる銖利と固い握手をし、私は「必ず戻ります」と約束して別れました。
そして私たちは日中の内に仮眠をとり、夜の冒険に備えました。「いつでもどこでも瞬時に眠れる能力」は左軍に所属する者に必須の技能です。
日が暮れてからは、じっとあたりが静まりかえるのを見計らいます。
そろそろかという頃合いで、私たちは静かに天幕を出て各々の騎獣を連れ、昇山口の方へ向かいました。
人の気配はまったくなかったものの、念のために昇山道をしばらく下ってから騎獣に乗って道を逸れ、あとは一気に山頂を目指します。
今夜は下弦の月ですが、今はうまい具合に雲が出ています。
明るすぎもせず、また雲間の闇に紛れることもできるという、夜の冒険行にはまたとない絶好の天候に恵まれたのは、幸先がよいというものでしょう。
私たちは甫渡宮前の広場を大きく迂回する進路をとり、驍宗様と計都を先頭にして、でこぼこと連なる巨大な岩石群の間を縫うようにして駆け抜けていきました。
蓬山は決して大きな山というわけではないので、実際に移動しなくてはならない距離はそれほどではありません。
驍宗様は、蓬廬宮側から見て山陰になる位置まで回り込んだところで、私たちを振り返って合図をされました。
ここから一気に山頂まで飛ぶのです。
ちょうど月が雲間に隠れたところで、私たちは騎獣を高く舞い上がらせました。
どうやら、山頂に近づいた侵入者が突然雷に打たれるような仕掛けなどはないようでした。私たちはあっけないほど何事もなく、蓬山山頂に着いてしまったのです。
蓬山はそれ自体が、巨大な岩山のようなもの。
その山頂付近は、ほんの少しの灌木と下草があるのみ。まったく巨大な岩石の上にいるのと変わりません。
そして、そこから見下ろして見ると、蓬山のみならず黄海中央の五山はことごとく雲海の上に浮いている。
「なるほど、結界は雲海だったのか」
少し考えればわかることだったな、と驍宗様は呟きました。
雲海の上にあるから、妖魔は五山へは現れない。タネが知れてみれば、あっけないほど当たり前のことなのでした。
おそらく蓬山の昇山口は、私たちの国の凌雲山を燕朝へと昇る理屈と同じようなものなのでしょう。昇っていると、途中で不可抗力ともいえる妖力が発動して、人は知らず知らずのうちに山上にいるというあの理屈です。
山頂から蓬廬宮のあたりを見下ろすと、複雑な岩石の迷路になっているのがよく分かります。岩石の間を縫うようにして走る細い道。そしてその所々に宮殿がある。あれらを総称して蓬廬宮と言うのでしょう。複数の同じような宮殿があるのは、実際に大事な麒麟がどこにいるのかをわかりにくくするためなのだろうと思われます。
その蓬廬宮のある迷路の向こう側は、断崖絶壁と言ってもよいほどの急な崖になっており、その崖は雲海の下に向かって続いているのでした。
「降りてみるか」
驍宗様はそう言って私たちの方を見ましたが、今さらここまで来て引き返すつもりは誰もありません。
私たちは一様にうなずき、山頂から飛び降りた驍宗様と計都に続いて雲海の中へ飛び込みました。雲海もまた、私たちの国の雲海と同じような類いのもので、特に侵入者を阻む仕掛けはないようです。
雲を突っ切り下界が見えてくると、そこには「ああ、やっぱり」としか言えない光景がありました。
蓬廬宮の向こうの雲海の下は、山間の大きな盆地状の地形になっていました。
そして、月星の明かりに照らされたそこには、到底黄海の中央だとは信じられないような田園風景が広がっていたのです。
飛び降りた崖の下は、山頂付近と同じような岩場です。
私たちはその岩の上に騎獣を降ろし、無言で目前に広がる風景を眺めました。
美しい水田が山裾からなだらかに段をなし、またたわわに穂付いた小麦畑が無数にあるのもわかります。盆地の中央を穏やかに蛇行する川の辺には、無数の水車が回っています。そして随所に見える瓦葺きの民家の集落。その小綺麗な家々の付近にも、整った道の端にも果樹と思われる木々が連なっています。当然家畜も飼育されており、蚕も飼われているのでしょう。
これだけの生産能力のある集落に支えられているのであれば、あの女仙達の様子も、私たちへの大盤振る舞い振りも納得がいく。
正直言って、私は、こんなにも豊かで美しい田園風景は見たことがない、と素直に感嘆していました。
誰も口には出さなかったけれども、考えていたことは皆同じだっただろうと思います。
おそらく「消えた」昇山者たちは、ここで暮らしているのに違いない。
何百年も、いや、へたしたら何千年もの間、蓬山は麒麟を擁して「王の選出」という博打に参加する無数の昇山者を集め、ほかならぬ彼ら自身の身の代を、その所場代として払わせてきたのです。あの手厚いもてなしぶりだって、考えてみたら、賭場が客に気持ちよく賭けさせるために、豪勢な食事を出すようなものと言えなくもない。
そういうことであれば、国を守護する存在であるはずの麒麟自身が、なぜ王を探すために故国に帰って大勢の民と対面しないのか、なぜ私たち自身がわざわざ黄海を越えて蓬山まで来なくてはならないのか、その理由もわかろうと言うもの。
また蓬山の女仙たちが、麒麟をして全き貴いものとして崇め大切にするのも自明の理。
まさしく、麒麟は彼女らにとって、なくてはならない大事な賽子そのものなのです。
「桃源郷、ってこういう風景のことを言うのでしょうか」
静之がぽつりと呟きました。
「あの、おとぎ話によくある、女仙と夫婦になって桃源郷に住む男の話は、本当だったんですね」
私は、ほんとにそうだ、だからそういうおとぎ話があるのかも、と静之の言に同意つつも、なんとも言えない複雑な心境であるとしか言えません。
これは桃源郷のおとぎ話であると同時に、天と人との壮大な博打の話に違いないのです。
「人がいる」
ぼんやりとしていた私たちは、低く呟いた巌趙の声に注意を促され、瞬時にさっと身構えました。
見れば、岩の間を通って崖を登っていく細い道を、粗末な格好をした男が天秤を担いで登っているのです。
ずっしり肩に食い込む重い荷によろめきながら、男はゆっくりと坂を上がっていきます。
「あれは、文州師の方款ではないか」
本当に驍宗様の記憶力には驚くしかありません。あんなに変わり果てた姿を見て、かつて面識を得たことのある文州師の軍吏だという判別がつくとは。
「方款」
驍宗様は静かに声をかけ、その男に近づきました。
私たちは驍宗様の周囲に騎獣を寄せて後に続きます。
「なんと、驍宗様ではないですか」
男は顔を上げ、うつろな目をこちらに向けました。
「そうか。驍宗様も昇山なさったんですね」
「方款、いったいその有様はどうしたのだ」
文州にいた頃の方款は、非常に真面目で清廉な能吏でした。
それが今は、方款だと言われなくては私にはわからなかったほど、かつての彼の姿からはかけ離れた様子をしているのです。本人の顔も着ている衣服も垢じみており、下ろした髪はぼさぼさ、粗末な草鞋を履いた足にも、天秤が食い込んだ肩にも血が滲んでいる。
「驍宗様こそ、こんなところにいらっしゃるとは。あなたが王ではなかったのですか」
「どうやら、そのようだ」
あっさりとうなずく驍宗様は、そんなことはすでに関心事ではないとでも言いたげです。
「驍宗様が王ではないなんて……では、ほんとうに、戴はもう」
そう言って深いため息をつく方款に、驍宗様は「して、お前はここで何をしているのだ」と、再度詰問されました。
「あの桃源郷に住むために、私は頑張っているのですよ」
方款は足下に広がる村に向かってあごをしゃくり、力なく笑いました。
驍宗様は「とりあえずその荷を降ろして、いったいどういうことなのか話を聞かせてくれ」と仰ったのですが、方款は首を横に振り「早くこの荷物を上に上げてしまわないといけませんから、放っておいて下さい」と言う。
「荷を運んでいるのは、私だけじゃないのです。私が遅れたら他の者にも迷惑がかかります」
「いや、そんな有様のお前を見過ごせるわけがなかろう」
「かまわないで下さい」とつぶやいて立ち去ろうとした方款の前に、驍宗様は容赦なく立ちふさがりました。
驍宗様と計都に進路を絶たれたら、誰だって立ち止まらないわけにはいきません。
方款は驍宗様の凝視を避けるようにうつむき、しばらく黙りこくっていたのですが、やがて根負けしたように顔を上げました。
そして「仕方ない、驍宗様になら語りましょう」と、ようやくぽつぽつと訳を話してくれたのです。
曰く、自分が王の器だとは到底思えなかったが、文州のためには自分のような者でも昇山を試みてみるべきだと思ったこと。蓬山には早々に着いたものの、まだ進香も始まっておらず暇を持てあましたこと。そして、本当に単なる出来心で蓬廬宮を見たいと思い、数人の仲間と結託し、数を恃んで迷宮に忍び込んだこと。
「本当に、蓬山公を拐かそうなどという、そんなつもりはまったくなかったのです。私たちはただ、戴を救ってくれるはずのお方を一目見てみたいと思っただけなんです。でも、私たちがあの岩の迷路に入った途端、いきなり岩が動いて巨大な化け物に変化した。当然私たちは簡単に捕まってしまいました。そしてその化け物に黄海まで連れ降ろされ、そこで放り出されたのです。何人かはそこで妖魔に食われて死にました。でも、恐ろしい思いをしながら黄海をさまよっているうちに、女仙が迎えにやってきたのです」
苦悶の記憶を語っていた方款の顔がみるみるうちに、魅入られた者の陶然とした表情に変わっていく。
「優しい言葉と共に私を救い出してくれたのは、それはそれは美しい女だった。彼女と過ごした一夜はまさに夢のようでした。あの村は本当に素晴らしい場所なのです。一年中絶えることなく作物が実り、家畜は肥り、穏やかな気候の中で人々は農作業をして絹を織る。様々な技能を持った職人たちももちろんいます。あそこでは、誰もが満ち足りた暮らしをしているのです。そして私は彼女から、秋分までの間、この荷物を運ぶ仕事をやり遂げることができたら、あの村で共に幸せに暮らせるのだ、と言われたのですよ。どうです、素晴らしい話でしょう?」
方款が淡々と語る言葉を聞きながら、私は腹の底に重い氷の塊を飲み込んだような思いでした。
「私は、あの美しいひとと、この豊かな村でずっと一緒に暮らせるようになるのです。この荷を運び続けることさえできたなら」
うっとりと夢を見るような表情で、抑揚のない言葉を語り続ける男。
「いや、お前、目を覚ませ」
もう、聞くに耐えなかったのでしょう。駆け寄った巌趙は、その血が滲んだ肩から重い天秤を奪い降ろさせようとしたのですが、方款はしっかりと天秤を掴んで離しません。
「目を覚ますんだ。一緒に戴に帰ろう」
巌趙は天秤ごと、方款の体を揺さぶります。
巌趙のような巨漢に揺さぶられたら、誰だってひとたまりもないはずです。
それなのに方款は、ただでさえおぼつかない足をがくがくとさせながら踏みこたえ、天秤を握りしめて離さない。
見れば、彼のうつろな目からは涙が流れているのです。
「私は帰らない」
汚れた顔をくしゃくしゃに歪めながら、彼が口にしたその言葉は、もはや慟哭そのもののように私には聞こえました。
「あんな寒い、貧しい国にはもう帰らない。王もいない、何の希望もない。あんな呪われた、冬に閉ざされた国には二度と帰りたくない」
方款は泣きじゃくりながら、自分はこの暖かい、美しい土地で暮らしたい、と訴える。
「ここでは、春になったら、辺り一面に桃の花が咲き乱れるのだそうです」
方款は天秤を握りしめたまま、たらたらと涙を流しながら笑っています。
「私は、絶対にその光景を見ると決めたんだ」
そう言って狂ったような笑い声をあげる、かつて文州を支える能吏だった男。
その様子を見つめている驍宗様の茫然とした表情は、私が未だかつて見たことのないものでした。
私は自分の荷から傷薬と英章がくれた馬油を出し、塗れば少しは肩や手足の傷も楽になるから、と方款に渡してやりました。
そして、できれば肩には清潔な布を当てて傷口を保護したほうがいい、と助言した後、私は驍宗様を振り返り、その腕を掴んで促しました。
「行きましょう、驍宗様」
驍宗様は、色をなくしたような表情のまま私を見やり、やがてかすかに頷いて計都に騎乗されました。
私たちに、いったい何が言えたでしょう。
私はもう、よろめきながら岩壁を登り続ける方款の姿を見ないようにするしかなかった。
おそらく私たちは皆、同じ思いを抱えていただろうと思います。
私たちは交わす言葉もないまま、雲海の下の黄海をひたすら駆け続け、やがて昇山口から蓬山に上がって、自分たちの天幕に帰り着きました。
夜明けまでは、まだ間があります。
静之と私は、どちらが言い出すことなく寝具を持って驍宗様の天幕に移動し、驍宗様と巌趙の間近で寝させてもらうことにしました。
自分でも子供みたいだとは思いますが、でも、今夜だけは彼らから離れていたくなかったのです。
しかし今日という日、私にはわかったことがひとつある。
それは「人の幸せとは何か」、私がその問いに確信を持って答えられる日は永遠にこないだろうということです。
人にとって、戴にとって、何が、どういうことが「幸せ」なのかはわからない。
でも、それでも、私は泰麒に問いたいのです。
なぜあなたは、驍宗様が王であるという目を選ばなかったのですか?
「でも、つまりですよ、私がもし囮捜査に成功していたら、私はおねえちゃんもとい女仙とちょっといい思いをして、そしてあの桃源郷とやらで幸せに暮らしましたとさめでたしめでたし、みたいなことになってたわけですよね。けっこうな話だな」
そんなことを呟きながら、天幕の外で私が朝ご飯のためのお粥を煮ていると、隣で菜を切っていた静之が、猛然として包丁をまな板に振り下ろしました。
「そんなのダメですよ、ダメダメ、絶対ダメです」
ちょっと静之、私に向かって包丁振り回すのは止めて下さい。
「臥信様がそんなことになったら、もし戴に帰ってこないなんてことになったら、自分は、自分は、みんなに会わせる顔がないです」
いや、いいから包丁置きなさいって。
「証博様も、霜元様も英章様も、ええと左軍のみんなも、芭墨様も、琅燦様も、臥信様の行きつけの飲み屋や賭場の人たちも、みんな心配するに決まってるじゃないですか」
静之、君が羅列してる、私を惜しんでくれる予定の人たち、ちょっと納得いかないんだけど。
「いや、大丈夫ですって。前にも言ったとおり、私、ああいうの好みじゃないですし」
私は静之をなだめようとしたのですが、静之は「じゃあ好みだったらどうだって言うんですかー」と言って、さらに包丁を私に突きつけてくるのです。
天幕から顔を出した巌趙に「どうした?」と聞かれ、私たちは「何でもないです」と笑ってごまかし、真面目に朝ご飯の支度に取りかかりました。
さすがに今朝は、驍宗様を大人しくお膳の前で待たせることには成功したわけですが、昨夜のあの光景を見てしまうと、どうにもここの食べ物を口にするのはためらわれます。
私がお粥の椀を持ったまま、食べあぐねているのを見た驍宗様は「あの者たちが作り、ああやって運んでくれている食物だからこそ、ありがたいと思って食すべきだ」ときっぱり仰いました。
ほんと、この方の精神は鋼でできてるな、と感心します。
「俺はああいうのは好かん」
そう言って巌趙は、むっつりとした顔でお粥をせわしなくかきこみました。
「桃源郷、という言葉は俺は使いたくないが、ああいう土地で暮らしたい、という者の気持ちはわからいでもない」
巌趙はお粥の椀を置き、皆の顔を見渡しました。
「しかし、あの女仙どもは、人の弱みにつけこんでおるのだ。人の抗いようのない欲に、弱さにつけこんでおるのだ。だから好かん」
昨夜の方款のことは仕方がないとあきらめはしたが、もしお前たちの誰かが女仙どもに浚われるようなことがあったら、俺は、お前たちが泣こうが喚こうが断固として連れ戻しに行くからな。巌趙はそう言って、私と静之を睨みます。
そんな怖い目で睨まなくても大丈夫……大丈夫ですって。いや、もし大丈夫じゃなかった時は助けに来て下さい。
「でも自分は、臥信様だけじゃなくて、ここにいる戴の人たち全員が、もうこれ以上浚われたり、あんなふうにされたりするのは許せません」
静之、君の熱い気持ちには同意するけど、そこでどうして、私が浚われる前提。
「ここにいる皆は、あんなおかしな桃源郷に連れて行かれるために、はるばるここまで来たんじゃないです。戴を、私たちの故国を桃源郷にするために、来たんです」
そう言って拳を握る静之は、本当にかっこよかった。
巌趙は、然り然り、と大きくうなずいていましたが、私は、驍宗様が微妙な表情を浮かべているのを見逃しませんでした。
そうですよね、あなたはもうその戴を、私たちを見捨てて逃亡しようとしているんです。
でも、それも元はと言えば、賽子のせいに他ならない。
「もはや私には、何も言う権利はないが」
驍宗様は静かに仰いました。
「だが、戴の者たちがこれ以上拉致されるのは見過ごせぬ。戴の民は女仙ごときのために在るのではない。一人一人が戴という国に欠かせぬ存在なのだ」
そう、もし驍宗様が王であったなら、何の問題もなかったのです。
王でありさえすれば、驍宗様は「戴の民に手出しは無用」と女仙を一喝なさったことでしょう。
しかし、驍宗様は王ではない。
だいたい、とにかく皆が暇なのがいけないのだ、と私は思いました。
秋分に向けて下山するまで、ここでは本当にやることがないのです。こんなことでは、色仕掛けで話しかけてくる女仙と話すのが唯一の娯楽というような雰囲気になってしまっているのも、仕方がないというもの。まあ、それもあの人達の戦略のうちなのかな、と思いますが。
「そうだ」
私は、ふいに思いつきました。
「みんな暇だから女仙にうかうかとつけこまれるんです。だったら『やること』を提供すればいい。皆を、どんどん騎獣狩りに誘いましょう」
すでに一緒に騎獣狩りに行ってみたい、と言ってくれている人も何人もいるわけです、と私は言いました。
「確かにちょっと危険ではありますけど、もはや私たちは、蓬山でぶらぶらしてたって危険だということを知っています。剛氏たちも協力してくれるでしょうし、私たちで守り切れるくらいの人数を順番に誘って連れて行けばいい。そして運良く捕まえられたら、騎獣の馴らし方も教えます、というのをうたい文句にすればいいんですよ」
というより、黄海での娯楽と言えばそれしかない。
なるほど名案かもわからぬな、と言って笑っている驍宗様に、私は「驍宗様も率先して協力して下さらなきゃ困りますよ」と釘をさしました。
驍宗様は「当然だ」と言って、不敵な笑みを浮かべました。
まあ、それもそのはず、そもそも驍宗様ご本人が大好きなことですからね。
巌趙も「よし来た」という顔をしていますし、静之は目をきらきらさせて「みんなに声をかけて回ります」と言っています。
そう、そして私たちがやらなきゃならないのは、とにかく女仙が取り入ろうとしてる相手と女仙の間にすばやく割って入り、注意をそらすことですね。
はあ、なんて忙しい。
「昇山」がこんなものだって、誰か知ってた人います?
その後私たちは手分けして、広場にいる昇山者全員の天幕の位置と、所有している騎獣、わかる者については名前と職業を、大きな紙に順次書き込んでいきました。
すでに驍宗様のところに挨拶に来て下さった方もかなりいる。その中で、すでに妖獣狩りに興味のある人、誘って脈のありそうな人、妖獣狩りは無理そうな年配者などに分けて名簿を作っていきます。
しかし「妖獣狩りは無理そうな年配者のみなさん」は、もともと女仙に労働力として拉致される可能性も低いので、お暇ではありましょうが、とにかくここでごゆるりと過ごしていただくほかありません。女性も対象外ですが、決して「女性には妖獣狩りは無理」だからではなく、女性は女仙に浚われないから、というのがその理由です。女性でも希望する人がいれば、来て下さってかまわないんですけどね。
まるで面識がない人たちについては、順次これから調査していくわけですが、こういう時、驍宗様の驚異の記憶力が役に立つ事ったら。「なんでそんな人のことを知ってるんですか」みたいな人のことまで「あれはどこそこの誰々」と、さらっと仰るんですから、まったく意味がわからない。
知らない人を妖獣狩りにお誘いするにしても、女仙との間に割って入るにしても、突然「禁軍左軍の臥信と申しまーす」なんて言って私が登場したら、いくらなんでも不審者丸出しなので、そこは慎重な事前調査が必要です。
しかしこういうのは、割とお手の物。
知り合いになった人からさらに紹介して貰う心づもりにしたり、静之にはおつきの随従たちとの友達の輪をどんどん広げてもらう段取りにしたりして、だんだんと目処がたってきそうな気配になってきました。
やれやれ、なんとかなりそうかな、と一息つけば、そろそろお昼ご飯の時間です。
驍宗様にはああ言われはしたものの、やはりまだ蓬山から提供されている食べ物に屈託を感じていた私は、大事にしまってあったとっておきの干魚を出してきて焼くことにしました。阿選殿がもたせてくださったあの干魚です。そう、私はどっちかっていうとおいしいものとか好きなものは大事にとっておく傾向の人間なんですよね。
黄海でならそのまま食べるしかないけれど、せっかくだから少し火に炙ったほうが絶対においしい。というか、友尚がそう言ってた。
私は天幕の外のかまどに火をおこし、串にさした干魚をじんわり炙り始めました。
あたりには、およそ嗅ぎ慣れない、えもいわれぬ強烈な匂いが漂います。まあ、でも内陸部の人間でも塩漬けの川魚は食べることもあるので、一瞬「いったい何?」という顔をした人も、ああ、魚を焼いているのか、と合点して通り過ぎて行く。
ところが、通り過ぎてくれない人が一人?いた。
それこそ私は思わず「ぎゃ」という声を上げてしまったのですが、先方が女の子だと気がついて「失礼しました」とすぐに謝りました。
一心に魚を焼く私の手元を見つめていたのは、ふたつのまん丸な目。そして上体は人間の少女の姿をしているのですが、下半身が豹、しっぽは蜥蜴。
明らかに女怪です。
おかしいな、ふつう女怪が姿を見せることはないはずなんだけどな、と思いつつ、私はじっと私の手元を見つめる女怪の口元から、よだれがたれているのに気がつきました。
「魚、好きなんですか?」
と聞くと、女怪は「タベタコトナイ」と言いましたが、その目は食い入るように魚をじっと見つめ、その口からはよだれが出ているのです。
「食べてみます?」
「ヒトノタベモノ、タベタコトナイ」
女怪は悲しそうに首をふります。
ええ……いくら女怪とはいっても、何も食べたことがないなんてかわいそうすぎます。
蓬山は女怪に食べ物も与えないんですか。
私たち「仙」も、実のところ普通の人に比べれば、多少食べなくてもすぐに死にはしないのです。でも基本的な身体構造は仙ではない人となんら変わらない。
生きていくのに必須でなくても、やっぱり食べる楽しみというのはあるじゃないですか。それは女怪だって半分くらいは人型をしてるんだから、同じことだと思います。
「じゃあ、ちょっと食べてみましょうよ」
私はそう言って安心させるようににっこり笑い、こんがりと焼けた魚の身を少しちぎって、ふうふう冷ましてから、女怪に渡してやりました。
女怪は、その白い手で受け取った魚肉をおそるおそる口に運び、ほんのちょっぴりかじりました。
とたんに、ぱああっと輝いた笑顔の可愛いこと。
なんておいしそうに食べるんだろう、と感心しながら私はさらに魚の半分をほぐして冷まし、女怪に渡してやりました。
頬を染めてもぐもぐと咀嚼している女怪に「名前はなんていうんです?」と尋ねると、女怪は「サンシ」と答え、私の脳裏に「汕子」という文字の画像を送ってよこしました。
もっと食べる? と聞くと、汕子ははっと後ろを振り返って「モウイカナキャ」と言いました。
「じゃあ汕子ちゃん、また魚焼いてる時においでよ」
私が言うと汕子は嬉しそうに笑い、遠慮がちにちょっとだけ手を振ってくれてから、ぱっとその姿を消しました。きっと遁甲していったのでしょう。
怖い女仙のおねえちゃんたちとは違って、なんだか可愛い女怪だったな、と思いながら私がもう一枚魚を焼いていると、背後には静之が立っていました。
「臥信様、いくらなんでも魚半分は、つまみ食いしすぎだと思います」
いや、それは誤解だって。
「ところで、耳寄りな情報を聞いてきたんですよ」
ちょっと聞いて下さいよーと、静之が語ったところによると、蓬山公はどうやら承州師の劉将軍がお気に入りで、昨日も今日も天幕を訪ねて来られたらしい。しかも、劉将軍の乗騎である飛燕という天馬をたいそう可愛がっておられ、天馬も蓬山公によくなついている様子で、とにかく親しげにされているということなのです。
「いったい何なんですかー。あっちが承州師将軍なら、こっちは禁軍将軍じゃないですかー。それにあっちが天馬なら、こっちは騶虞じゃないですかー」
いやいや、静之君、そんなふうに人や騎獣を比べてはいけません。
「だからって劉将軍が王だってわけじゃないんだそうなんですよ。なんでも蓬山公は『劉将軍が王だったらよかったのに』みたいなことをケロッと平気で仰るそうなんですね。劉将軍は王じゃないのに」
それは……劉将軍が、そういうことは気にされない方だといいですね、としか私には言えない。
どうやら公はずいぶん天然というか、天真爛漫な方でいらっしゃるようです。
ともあれ「こっちだって負けてらんないですよー」と主張する静之の意見を一応聞き入れて、私は、ためしに計都を驍宗様の天幕前に繋いで見せびらかしてみることにしました。
おわかりかとは思いますが、普通は、多少なりとも人の往来のあるところに計都を放置するなんてありえないですし、こっちもわざわざそんなことをしてみようとは思いません。形だけ繋いであったとしても、実際のところ、本気を出した計都にとっては、そんな杭やら綱程度のものなんてまったく意味がないからです。計都がおとなしく繋がれてくれていたり、獣舎にいたりしてくれるのは、本来計都様ご自身のご厚意によるものだと言っていい。
計都をはじめ、私たちの騎獣は人々の往来のあるところからはほんの少し奥まった静かな場所、剛氏たちの天幕の影になるところに繋いであったのですが(騎獣たちだってそっちのほうが落ち着きます)、私はそこへ、計都を連れ出しに行きました。
「計都、いっしょに来てくれる?」
と、声をかけて計都の綱を杭から外します。計都は決して私になついてはくれませんが、少なくとも「驍宗様の手下」だとは認識してくれているようで、そっけなくはあるものの、いちおう世話はさせてくれるし、言うことは聞いてくれるのです。
天幕前まで連れてきて「計都、これは静之と言って、この人も驍宗様の部下なので、君のオモチャってわけじゃないから、そのへんよろしくね」と、あらためて静之を紹介しながら計都を杭に繋いでいると、驍宗様がやってきて「どうしてそんなところに計都を繋ぐのだ」と言いたげな目で、まじまじと私を見ています。
げっ。どうしよう。
まさか蓬山公をおびき寄せて、計都を見せびらかすためだなんて言えない。
「いえっ、ほらっ、計都なら女仙を威嚇して追い払ってくれましょうし、それに、この静之が『いつか自分も騶虞に乗りたいです!』などと、いっちょ前なことを言うもんですから、騶虞のお世話に慣れといた方がいいかな、って思いまして」
言いながら自分でも、なんて説得力のない言い訳なんだとは思ったのですが、どういうわけか驍宗様はかまわないことにして下さったらしく、「では静之、計都をよろしく」と言って計都を撫で、天幕の中に入っていかれました。
そうしてその日の午後、静之は計都にじゃれつかれ、もてあそばれながらも必死で、全身を拭いてやったり毛並みに刷毛をかけてやりました。そして私たちは、早くも翌日「その甲斐があった」ことを知る展開となったのです。
翌日の朝の遅い時刻、というよりはお昼前に近い時間帯だったでしょうか。
私と巌趙はちょうど、お昼に使うための薪を割って運んできたところだったのですが、そこへ慌てて静之が走ってきました。
「大変です、蓬山公がこっちへ向かってきています」
警報発令。
私と巌趙は薪を置き、ただちに警戒態勢に入りました。
驍宗様はどこにおられるのかわかりませんが、探して引っ張ってくるわけにもいかないのでここは放置することにして、私たち三人はそっと天幕の影に身を潜めます。
「わあ、李斎殿、とても綺麗な獣がいる」
来た! 引っかかった!
私たちは固唾を飲みました。
なんと、承州師将軍李斎殿というのは女性なんですね。それにしてもずいぶんキリッとした感じの立派な体格の方ではあります。私なんか、腕相撲したらコロッと負けちゃいそうな雰囲気とでも申しましょうか。ほら私、別に腕力自慢ってわけじゃないですし。
そして、そこはさすが承州師将軍、うかつに騶虞に近づいたりしてはならないのは承知しているようで、李斎殿と公は計都からは少し距離を取った場所で、しばらく騶虞について会話をしておられました。
そのうち李斎殿が天幕に向かって「失礼をつかまつる。表の騶虞の主はおいでか」と声をかけられ、私たちが「やべ。驍宗様いない」と思った瞬間、驍宗様がどこからともなくひょっこり帰ってこられたのです。
「計都のことなら、私の乗騎だが」
突然背後から声をかけられた驍宗様に、公も李斎殿もびっくりしたらしく、いきなりの威圧感にドン引きしている様子。
驍宗様、相手は将軍といえども女性、麒麟といえどもお子さんなんですから、お願いですから、優しく、優しく。
そして、名乗ろうとされた李斎殿に、驍宗様はご自分のほうから「承州師の李斎殿であろう」と言い当てられました。
出た。驚異の記憶力。
「将軍は高名であられるのをご存じないらしい」って、いや、あなたの記憶力の方がおかしいと思うんですけど、その驍宗様の珍しい「ヨイショ」が効いたのかどうなのか、三人は割と和やかな雰囲気で、しばらく挨拶を交わしておられました。
しかし、なかなかいい感じなのでは、と思ったのもつかの間。
それから三人は計都に近づき、驍宗様が自ら捕らえられて馴らされたことなどを話しているようだったのですが、驍宗様が何か言うたびに、蓬山公はいちいちビクッとして怯えているのです。
そんなんじゃダメです、驍宗様、もっと優しく柔らかく! と心の中でじたばたしているうちに、李斎殿が驍宗様の寒玉に話題を振ってしまった。
そういう話題はやめて下さい、というこちらの願いも空しく、驍宗様は先王御前での延帝との余興の一番のことを得々と話され、よりにもよって「私に五百年の寿命があれば、延帝に遅れはとりません」とかなんとか言っちゃってドヤっているではありませんか。
だから「剣技しかとりえがない」系の話はやめてくださいって言ってるでしょうが。
ほんと、公が怖がって涙目になってるのに、なんで気がつかないんですか、もう、驍宗様のわからず屋。
「ふええ……」みたいな顔をしている小さな蓬山公をよそに、驍宗様と李斎殿は騶虞狩りについて和気藹々とした会話を続け、驍宗様が李斎殿を「騶虞狩りにおつれしよう」とお誘いしたところで、その場は解散になったようでした。
確かに「皆さんを妖獣狩りにお誘いしてくれ」と驍宗様にお願いしたのはこっちですけれども、そこでどうして公を蚊帳の外においてんですか、あなたたちは。
私は驍宗様をひっつかんで天幕の中に入り「蓬山公とお話されるときには、もっと優しい態度、柔らかい話題でお願いします。端から見てると公は、驍宗様にすごく怯えてらっしゃいますよ」と説教をさせて頂きました。
なにしろ驍宗様自身がうまくやって下さらないようじゃ、私たちが「計都でおびき寄せ作戦」を必死で画策している意味がありません。
驍宗様は「心外な」という顔をして「では、いったい何を話せと言うのだ」とむくれています。
「こう、おいしいお菓子のこととか、かわいい動物とのふれあいとか、普段は何をして遊んでいますか、とか、なかよしのおともだちはいますか、とか、そういう」
そう言いはしながら私自身、驍宗様が子供とそんな話をされている場面は全く想像がつかないとは思ったのですが、仕方がない。
呆気にとられている驍宗様に「少なくとも、剣技自慢、力自慢系の話と政治の話は禁止」と言い渡し、どうにか驍宗様に「善処はしてみる」と約束させたのでした。
しかし「怖い驍宗様」に懲りていないのか、いったいどういうつもりなのか、蓬山公はその後もしげしげと李斎殿と共に、あるいは一人でやってくる。
驍宗様のほうも私の説教が効いたのか、それなりに頑張っておられるようではありました。
ところが、私たちの方は、ずっとお二人を見守っているわけにはいかない。
なぜなら蓬山公接近と共に、公のお付きの女仙達が一斉に散らばって、彼女らの「狩」を開始するのです。
これでは驍宗様は李斎殿とともに、体のいい子守をおしつけられているようなものじゃないですか。
はっきりいって、驍宗様が子守をしておられる間が私たちの正念場なのです。
私たちはあたりを駆け回り、女仙が話しかけている相手との間に「○○さん、今日もいい天気ですね! 洗濯物がよく乾きますよね!」と唐突に割り込んでみたり、「そういえば、今度の妖獣狩の予定なのですが」と食い込んでみたり、巌趙にはそういう器用な芸は期待できないものの「おいそこのねえちゃん俺のダチに何の用だい」という威圧感を持って近づいてもらったり、ひたすら必死にがんばりました。
私たちは、おそらく女仙の幻術は「コトにおよんだ時」に発揮されるのだろうと推測していました。ですから、少なくとも、そういうしっぽりとした事態にまで間柄を進行させないことが重要なのです。
もし「コトに及んでも幻術にかからなかった場合」のことを考えると、その時は女仙に不埒な行為をした不届き者として放り出され、方款のような運命になるのだろうとしか思えない。
ここは魔の山、恐ろしい無法地帯。
私たちは戴の同胞のことはどうしたって守らねばならない。
「女仙とちょっとばかりいい思いするくらいかまわないんじゃないの」じゃすまないのです。
そして妖獣狩りの方は綿密に予定を組み、順次少人数で実行していきました。皆さんとても楽しんで下さってはいるのですが、私たちだって、いくらなんでも毎晩というわけには行きません。
その間は、薪割り大会(一定時間で割る薪の量を競います)や、州対抗餃子包み大会(一定時間で包む餃子の数を競います)や、魚釣り大会(たくさん釣った人が優勝です。それを焼いているときには、汕子ちゃんがこっそり食べにきてくれました)を催したりして、皆さんの暇を解消することにつとめました。
長年、左軍の宴会係を承ってきた経験が生きたかな、と思います。
それにしても、蓬山公は毎日毎日、飽きもせずに驍宗様のところへやってきます。
「これって、あれですね、自分はもちろんそういう経験はないですけど、結婚申し込んだら断られてフラれたはずなのに、なぜかその相手が毎日うちに遊びにくるような感じですよね」
自分は見てて切なくなってきましたって、静之君、ほんとにそうですね。
君、なかなかうまいこと言うわ。
蓬山公が何を考えておられるのかはさっぱりわからないけど、とにかく私たちは、お二人をそっと見守っているしかないのです。
しかし、公に再び問いたい。
どうしてそんなに驍宗様のことが好きなのに、驍宗様はあなたの王じゃないんですか?
そうこうするうちに、蓬山にやって来てから一ヶ月が過ぎようとしていました。
涼風至、秋分までの折り返し地点です。
そろそろ下山のことを考えたいけど、長期間黄海をうろつくのも危険だし、用意もかさばるしどうしようかなあ、と、皆さんが思い始める時期でもあります。
私たち(特に驍宗様)としては、とっとと出発して、黄海でゆっくり狩をしながら秋分の令巽門を目指したいところなのですが、やはりまだ蓬山に多くの同胞が残っている状況では立ち去りがたい。
ちなみにここまでで、最初に消えた十名を除いて失踪した昇山者はおりません。私たちの努力の甲斐がちょっとはあったのかな、と思いたいところです。
そして蓬山公は相変わらず、毎日のように驍宗様に会いに来られます。
当初怖がっておられたように見えたのも過去の話、今や驍宗様とお話をされている時の公は、本当に楽しく嬉しそうな様子に見えるのです。
驍宗様に「いったい毎日何話してるんですか」と聞いたら、「特に何ということはないが、公が何か喋っているのを聞いている」とのこと。
そう、ご存知のとおり驍宗様は決して、小さな子供と仲良く楽しく遊んでくれる愉快なお兄さんという人じゃありません。ほんとに、ご本人が言うように「話を聞いてるだけ」なんだろうな、と思います。
そんな驍宗様に毎日会って嬉しいという公の気持ちも謎です。
いったい何なんでしょうね。
そして、これだけ謎に懐いておられるのに驍宗様が王ではないというのなら、本当に王じゃないのだろうな、というあきらめの境地にも至ってくるというものです。
じゃあ、あなたにとっては、どういう人だったら王としてふさわしいのですか、大好きな?驍宗様の何がいったい不満なのですか、と聞けるものなら聞いてみたい。
少なくとも、麒麟が「王」を選ぶ基準というのは、どうやら好き嫌いではなさそうです。
もし驍宗様が白圭宮に残られるなら、この麒麟が台輔となられたあかつきには、お気に入りの寵臣として重用されもするのでしょうが、驍宗様には全くそんな気はないですからね。驍宗様は一度「戴を出る」とはっきりと口にされたのですし、決して前言をくつがえすような方ではないのです。
この状況もなんだかなあと思いつつ、また、これからの予定を決めかねながらも、私たちは、少人数での妖獣狩りに出かけたりということを続けておりました。
驍宗様が李斎殿を騶虞狩りにお声がけしたのはずいぶん前になりますが、その李斎殿をお誘いする順番がなかなか回ってこなかったのは、申し訳ないけれども、彼女が女性であったというのが理由です。
しかし驍宗様がじきじきにお声がけをした約束を反故にするわけにはいかない。
一ヶ月近くが経過して、ようやく李斎殿を念願の騶虞狩りにお連れするということになったのですが、そこへきて「公が騶虞狩りに一緒に来たいと言っている」と驍宗様が仰るのです。
なんでも、李斎殿が騶虞狩りに行くのを知った公が、あまりにもうらやましがるので、根負けした李斎殿が「一緒にいらっしゃいますか」と口にしてしまったということであるらしい。
なんとまあ。
蓬山公はお二人と親しんでらっしゃるから、一緒に遊びに行きたい気持ちもわからなくはないですし、どういうわけか騎獣が大好きなのも存じてはいますけれども、たいそう無邪気なお考えではあります。
夜の黄海行きに関して「公は女仙の許可を取る、とは言っていたが、間違いなく我を通すだろう」と驍宗様は仰っておられましたが、私もそんな気がします。
か弱そうな愛らしい見た目の方ではありますけど、あの毎日毎日驍宗様のところにやってくる根性……いや失礼、熱心さには相当なものを感じざるを得ない。
蓬山公に関しては「あの見た目に騙されてはいけない」、私の本能がそう言っています。
使令もおられるのでしょうし、大丈夫なのかなとは思いますが、それにしても「黄海にお連れして万が一何かあった時」のことを考えれば、こちらの責任は重大です。
そして巌趙と私はやはり、今後に及んで公の前に顔は出したくない。
もはや念のためというよりも、ここまで爆死することなく生き伸びてこれたんだから、どうせなら最後まで頑張りたいという意地のようなものかもしれません。
蓬山公がご一緒ということであれば剛氏に頼むのもためらわれるし、いったいどうしましょうか、と話し合っていたところ、結局驍宗様が「他人がいるより、公さえ守ればいいという方がよい。今回は三人で形だけ騶虞を狩る真似をして、短時間で帰ってくる」と決定されました。
本気で騶虞が欲しいらしい李斎殿には気の毒な話かも知れませんが、うっかり公を誘ってしまったツケは払って頂かないといけません。それに、少なくとも李斎殿は、ご自分でご自分の身くらいは守れるでしょう。
それにしても、よりによって黄海でまで子守をしなくてはならないなんて、お二人には気の毒な話です。
巌趙と私は、驍宗様には特に何も言うことなく、後から付いていくことにしました。
驍宗様が付いておられるのだから心配することはないのは承知していますが、それでも何があるかはわからないからです。黄海には、まだまだ私たちの知らない巨大妖魔がいたりするかもしれないのです。
静之はお留守番です。
蓬山の方だって、まだまだ何が起こるか分からない。見張り役として、しっかりと人さらいに目を光らせていなくてはならない静之の役割も重要です。
私たちは、夜明け前に李斎殿の天幕に向かわれた驍宗様の後を、こっそりつけていきました。そして、もはや私たちの定位置である天幕の影に隠れて見守ります。
「李斎殿!」
やっぱりきた!
行ってもいいんだそうです、と嬉しそうに走ってくる蓬山公の後ろからは、えらく怖い顔の女仙がずかずかやってくる。いつもはうじゃうじゃといるおとり巻きがいないのは、たぶんまだ寝ているからなのでしょう。
怖い顔の女仙は、李斎殿の天幕のあたりをじろじろと見回し「随従はおつれにならないのですか」と、さも不満げな様子でのたまいました。
そして、李斎殿が「随従の馬では午までに行って帰って参れません」と困り顔で説明すると、公には傷一つつけるなだの、とにかく公の安全第一だの、私たちがついて行ければいいのにだの、万が一の場合はどっちかを見捨ててでも公を連れて逃げろだの、キーキーと言いたい放題にわめくのです。
私は普段は決して、女性のことをババアだのオバサンだのとは呼称しない主義の人間なのですが、ほんと、この女に対しては、主義信条を曲げてでも「うるせえクソババア」と掴みかかりたくなりましたね。
だいたいあんたたち、普段はその大事な蓬山公をうっちゃって、李斎殿と驍宗様に子守を押しつけて、自分たちは好き放題に男を追っかけ回してるくせに、いまさら何言っちゃってるんですか、ってな話ですよ。
そりゃ、黄海と蓬山上では事情は違うにしてもです。そこまで公が大事だと言うなら、普段からしっかりお側についていて差し上げるべきだろう、話はそれからだ、と言いたい。
「我々は物見遊山に参るわけではない」
驍宗様が静かに、しかし厳しく仰いました。
「妖獣を狩るとなれば、黄海の縁ばかりを往くわけにはまいらぬ。多少の危険はないとは言わぬ。お守り申し上げる自信があればこそ、お誘いしたまで。そこまで重々の念のおしようは、いかな蓬山の女仙方とはいえ無礼に過ぎよう」
正論です、驍宗様。
私だったら「そっちが子守を押しつけてるんでしょうが。じゃあ黄海なんか行かせないで、あんたたちでしっかり面倒見てて下さいよ」とか言っちゃってたかもしれない。
「……たいした自信じゃが、奢りでないと申せるかえ」
そう言ってせせら笑うオバサンに、驍宗様は冷ややかに言い放たれました。
「たかが女仙にご心配いただくまでもない」
たかが女仙! 「うるせえクソババア」の上品な言い換え! さすがです驍宗様!
「公は我が戴国の麒麟。公のお身の安全を願うに、戴国の民以上の者があってとお思いか。それこそ女仙方の奢りと思うが、いかが」
そうですよ! あんたたちが男を追っかけ回してる間、うちの驍宗様はずっと公の子守をしてきたんですよ! この一ヶ月!
女仙にとってしょせん麒麟は自分たちのための道具にすぎなかろうが、戴の民にとっては、ようやくのことで得た希望そのものなのです。
その切ない「希望」を人質にとって、平気で博打の餌にするあなたたちに、この小さな希望を必死に守ろうとする私たちの気持ちがわかるか。
バチバチとにらみ合った結果は驍宗様の勝ちでした。
オバサンは「確かにお任せしましたよ」と捨て台詞を吐いて、逃げ去って行きました。
そんなオバサンに対して「しかと承りました」と、それでも礼儀正しく頭を下げる李斎殿を促し、驍宗様は計都に騎乗されました。
そして公を李斎殿の天馬に乗せ、三人は夜の黄海へと出かけて行ったのです。
騶虞狩りの場所はいつも恒山の麓と決まっていますので、慌てなくても見失うことはありません。
ひょっとしたら驍宗様のことだから、巌趙と私の挙動に気がついているかな、とも思いますが、付いてこられるのも仕方ないとは判断されていることでしょう。
私たちも決して、邪魔をするつもりはありません。
充分な距離を取って恒山麓に到着したのは、もう東の空が白み始めようかという頃合いでした。
すでに騶虞狩りをするような時間帯ではないのですが、いちおう罠は張ってある様子です。まあ、ちょろっと狩の真似事をしてみせるだけなので、これも仕方がないと言ったところでしょう。
遠目から見ると、岩陰で小さく焚き火をして休憩をされているようでしたが、李斎殿の姿は見えません。
驍宗様と公は、なかよく並んで計都にもたれて座ってらっしゃいます。
それにしても、距離が近い。
ずいぶん仲がよさそうですよね、とひそひそ呟くと、巌趙も困ったような顔をしてうなずきました。
私たちにはお二人が何を話しているのか、まったく聞き取ることはできませんが、驍宗様は公の髪をなでたり、肩を抱いたり…… あれは、おじいさんと孫? いや、そう言うと間違いなく怒りますね。父と息子、あるいは、ずいぶん年が離れた兄と弟? しかし、そういう近しい人間関係でも滅多にないような親密ぶりです。
強いて言えば、驍宗様と、驍宗様が愛する騎獣たちとの関係に近いように見える。
やっぱり驍宗様にとって、公は「麒麟」という動物の一種なのかもしれません。
だとしたら例えまったく会話が成立していなくても、愛着があるのもわかろうと言うもの。
私がそんなふうに勝手に納得することにしていた時、松明を持った李斎殿が天馬とともに戻ってきました。
正直言って松明を持ったまま騎獣に乗るというのも、ちょっと変わった人だな、とは思ったのは確かです。手元が狂ったら騎獣が火傷しちゃうし、ど派手な標的になっちゃいますし、危ないですよ、それ。
ともあれ、どうやら李斎殿は何かを見つけたらしく、そこへ一緒に行きましょう、と驍宗様と公を促しているようです。
巌趙と私も騎乗し、見失わない程度の距離を保ってそっと付いていきます。
李斎殿が連れてきたのは、山麓の岩山の連なりがちょうど途切れて平らな草地となるあたりでした。
その岩山の端に大きく開いた洞穴が気になるようで、そこに入ってみようとしているらしいのです。
岩山が連なる地形の中なら、まだ出現する妖獣妖魔の類いも限られていますが、この場所は、ちょうど平地に向かってひらけている、つまり周囲から丸見えだし、何が来るかわからないのでたちが悪い。
また、すぐ近くには大きな沼もある。
見るからに飲めるような水ではないので、水を飲みに来る妖魔や妖獣のことは気にしなくてよさそうなものの、水妖のことは警戒しなくちゃいけない、いかにもイヤな場所だな、と私は思いました。
自分だったら、こんな場所にはいたくないし、あんな場所にある穴には近づきません。どうせろくなものがいるはずないからです。
というより、明らかに危険です。
黄海では、あんな閉鎖された場所に踏み込まないのは、自分がうっかり餌にならないための基本です。
しかし驍宗様は、先に中に入って行ってしまった李斎殿に続いていくことにされたらしく、公の背を軽く押すようにして、中に入って行ってしまわれました。
驍宗様なら警戒されないはずがないのですが、李斎殿が先に入って行ってしまわれたから、仕方がないのかも知れません。
計都も天馬も、つなぐこともなく入り口に置きっ放しなので、本当に「ちょっと見てくるだけ」のつもりなのだろうと思われます。
しかし、それだって本来危ないんですよ。
もし、ちょっと見て帰ってくる一瞬で、大事な天馬がすでに何かどでかい妖魔に食われてたらどうするんですか、李斎殿。
今は、私たちが見守ってるからいいようなものの。
そういう状況なので、私たちは「入り口だけ探検するふりして、すぐに出てくるでしょう」と高をくくって眺めていたのですが、そろそろか、という頃になっても出てこない。
巌趙と私は「どうする?」と、顔を見合わせましたが、彼らの騎獣も置きっ放しだし、判断に迷うところではあります。
もし沼地から巨大な水妖が現れたりしたら、計都はすぐに逃げるでしょうが、あの天馬の能力がいかほどのものかは私たちには分からない。
それに、何事もないのであれば、巌趙と私はうかつに姿を見せるわけにはいかないのです。
じりじりと時間は経っていき、太陽がその姿を現し始めています。
「どうして出てこないんだ」
声に出して呟く巌趙に、私はうなずきました。
いったい何をしているんだろう?
途端、中から聞こえた微かな悲鳴。
巌趙と私は、同時に洞穴の入り口に向かって騎獣を走らせました。
目顔で合図し合い、ひとまず騎獣たちのために私が入り口に残って、巌趙が中に飛び込もうとした、その時です。
「汕子ちゃん!」
洞穴から飛び出してきた汕子は、背中に傷を負い血塗れで気を失っている李斎殿を抱えています。
汕子は私の声に立ち止まり、震える声で「ナカニトウテツガ」と言いました。
「饕餮」という文字の画像を受け取り、私は「いったい何その伝説級」と一瞬気を失いかけましたが、いや、気を失っている場合ではない。
「タイキガトウテツトタイジシテイル」
いったいどういう状況なのか、私の脳みその理解の範囲を超えてはいるものの、おそらく洞窟の中では蓬山公が饕餮と一戦を交えており、驍宗様もその側にいるということなのでしょう。どうやら今のところ、驍宗様は無事らしい。
巌趙は再び中に入っていこうとしたのですが、汕子はそれを「ナカニハイッテハダメ」と止めました。麒麟が妖魔折伏の体勢に入ったら、決して邪魔をしてはならないのだそうです。
それにしても饕餮て。
汕子は、驍宗様に、怪我をした李斎殿を蓬山に連れて帰れと言われたとのこと。
「巌趙、私は汕子といっしょに、いったん蓬山に戻ります」
とっさの判断でした。
李斎殿を抱えていては、途中で汕子が妖魔に襲われでもしたら二人ともひとたまりもありません。
それに、この李斎殿の怪我を女仙達が手当てしてくれるとは思えない。いや、あの人達には無理でしょう。背中の傷は、肩からほぼ腰にかけて大きく裂け、ぱっくりと口を開けているのです。いくら仙であっても、この傷を放置はできません。そう簡単にはふさがらないし、下手すれば膿む。
「承知した。ここは任せろ」
そう言ってくれた巌趙に入り口の警戒をお願いし、私は白玖に騎乗して、李斎殿を汕子から受け取りました。
「いったん一緒に蓬山に戻りましょう。妖魔が来たら汕子がなんとかして」
「ワカッタ」
その方が分担としては正しいと思います。
どう考えても、蓬山まで李斎殿を運ぶのは、汕子には荷がかちすぎる。女性の体格や体重のことに言及するのは大変不本意ですが、非常事態のこととて許して欲しい。李斎殿はけっこうしっかりとした大きさと重さがあるのです。
私は血塗れで気を失っている李斎殿を抱え「この出血量じゃ、普通の人ならまず助からないな」と思いながら、白玖を全速力で走らせました。
汕子が導いてくれた進路がよかったのでしょう。途中で大きな妖魔に襲われることもなく、小さいのは汕子が蹴飛ばして簡単に排除してくれました。
そうして、我ながら記録的な速さで走りきることができたのですが、私たちが蓬山に着いた頃にはすっかり太陽が姿を現していました。
私は李斎殿を担いで自分の天幕に飛び込み、ぎょっとしている静之に「水と清潔な布!」と頼みました。
静之は即座に状況を理解したらしく、迷うことなく水瓶から桶に水を移し、手巾を出してくれています。
「汕子は、ちょっとだけ待っていて」
なぜなら、私が李斎殿を彼女の天幕に運ぶわけにはいかないからです。今は女仙につかまって、ことの次第を説明している場合ではない。
私は、うつぶせに寝かせた李斎殿の背中の衣服を少し裂き、傷をざっと水で洗って消毒してから、できるだけ表面からは見えない方法で縫い始めました。
大量出血のせいでしっかり気を失ってくれているので、麻酔をする必要がないのは助かります。ちょっと縫い目が雑になってしまったかもしれないけど、それはこの際仕方ない。それに、この糸は抜糸の必要がないという、琅燦特製の貴重な糸なんですよ。本当は包帯も巻いてしまいたいんですが、そのくらいは女仙か、李斎殿の随従がやってくれるだろうと思いたいところです。
そして、私は傷の縫合が終わった李斎殿を天幕に運ぶように汕子にお願いし、静之には女仙がいない頃合いを見計らって、李斎殿の随従に傷薬と痛み止めを届けるように言いました。「怪我をされたと聞いたので」と言えば、怪しまれることはないでしょう。
私自身、血塗れの李斎殿を抱えていたせいで、けっこう血だらけで悲惨な姿でしたが、着替えている場合ではありません。
そのまま、再び白玖に飛び乗ります。
気が利く静之は、私が縫合をしている間に、白玖に水と餌をやってくれていたようでした。
本当に得がたい部下を持ったものだと思います。
驍宗様は、巌趙は無事だろうか、そして蓬山公は、と気持ちばかりが焦るものの、今は白玖にとって無理のない速度で行くしかありません。
白玖はすでに往復の距離を走り抜いてくれており、しかも片道は李斎殿も乗せて全力疾走をしてくれたのです。
そうして私が再び恒山麓に戻り着いたのは、すっかり陽が高く昇っている頃合いでした。
「巌趙!」
私は思わず叫びました。
見れば、洞穴がある岩山の上で、巌趙が二体の褐狙を相手にしているのです。
汕子はおそらく遁甲して、私より先についたものなのでしょう。彼女は心配そうに巌趙を見上げながら、洞穴の前で騎獣たち、特に臨戦態勢で唸る計都を抑えているようでした。
褐狙一体を斬り倒している巌趙に、飛びかかろうとしているもう一体に向かって、私は白玖を走らせながら迷わず矢を放ちました。
うまい具合に眉間を射貫き、即死させることができたようです。
「どういうわけか妖魔が来る」
白玖から降りて岩の上に上がった私に、巌趙は剣についた血を振るい落としながら言いました。
見れば、傍には馬腹の屍体もある。
すでに陽が高く上がっている時間としては奇妙ですが、やはり人間と騎獣たちがいるので、その匂いをかぎ付けた妖魔が寄ってくるのは仕方がないのかもしれません。
「汕子とやらは俺を助太刀してくれようとしたが、俺はいいから、騎獣たちを抑えていてくれと頼んだ」
私が渡した水筒から一口飲んで、巌趙は言いました。
「この状況では、復路で公は驍宗様と共に計都に乗らざるを得ない。その時計都が血塗れではまずかろう。なので、汕子は控えて計都を抑えていてくれと」
剛胆であると同時に、こうした細やかな判断もできる巌趙には、いつも頭が下がる思いです。
そしてその剛毅な物言いは、驍宗様と公の「復路」があると信じて、まるで疑うことがない。
そうこなくっちゃとは思うものの、私には、洞窟の中であの小さな蓬山公が饕餮と対峙しているという状況がどういうものなのか、想像もつかないのです。
饕餮のことは文書で読んだことがあるから、そういう名の強大な妖魔がいるらしいと知っているだけです。それが実際にどのような妖魔なのか、私たちには具体的なことは何もわかっていない。
また、麒麟が妖魔を折伏して使令として従える、ということも単なる知識として知っているだけ。物理的に交戦するわけではなく、互いに睨み合って念じることで勝負がつくものであるらしい、というような程度のことしか私にはわかりません。
汕子には邪魔をしてはならないと言われたものの、本当に助けになれることは何もないのか、何かできることはないのか。
例え時間がかかったとしても、公が無事に饕餮を使令として下すことができれば何も問題はないのですが、もし、使令に下せない、もしくは形勢が悪くなった時にはどうなるのだろう。他の使令が公を援護してくれたりはしないのでしょうか。
そういえば公の使令というのは、公の女怪である汕子以外に姿を見ない。
巌趙と私は岩を下りて、汕子のもとに行きました。
「汕子、公の使令は?」
尋ねると、汕子は悲しそうに首を横に振りました。
「タイキハシレイヲモタナイ」
巌趙と私は唖然として、思わず顔を見合わせました。
「使令がいない?」
汕子は無念そうにうなずきましたが、詳しい事情を語ることはありませんでした。
麒麟なのに使令がいない、というのも、どういうことなのかわからない。まだ小さくていらしゃるからなのでしょうか。
しかし、そんなことを気に病んでいても仕方がありません。
何がどうなったとしても、公の使令の助けはない、ということだけを頭に入れておくしかない。
つまり、とにかく勝敗がつくまで公は一人で饕餮と戦い続けねばならないのだし、何が起こったとしても、私たちは自分たちの力のみで持ちこたえなくてはならない、ということです。
それにしても、せめて驍宗様だけでも洞穴から出てきて頂けないものなのだろうか、とは思いますが、今は公の集中を削がないために、迂闊に身動きできないのかもしれません。
私たちの武芸でも、ここ一番の弓射をしようという時や、真剣勝負を競う場では、不用意に動くものが視界に入れば集中が削がれることがあるものです。自分が経験上推測できる範囲としては、きっとそういうことだろうと思うしかない。
「待つしかないな」
巌趙はそう言って、首を振りました。
私もそう思います。
いつでも中に飛び込めるように心の準備をしつつ、ひたすら待つしかない。
せめて饕餮がどういう標的なのか、中の状況はどうなっているのか確認したくはあるものの、他ならぬ私たち自身が公の邪魔になってしまうことがあっては元も子もない。
ただじっと待っていることしかできない、というのはなかなか辛いものがあります。
それにしても、もう正午も近いと思われるのに、次々と妖魔がやってくるのはどうしたことでしょう。
本当は飛鼠なんか殺したくないのですが、やってこられたら始末せざるを得ない。
このまま妖魔の屍体を放置していれば、さらにそれ目当ての死肉喰い連中が来るかもしれない。しかし、屍体を遠くに捨てに行こうにも、当面ここを離れることはできません。
八方塞がり感、この上なし。
計都と吉量たち、そして李斎殿が残していった天馬が汕子の言うことはよく聞いて、落ち着いた状態でいてくれているのがせめてもの幸いと言ったところです。
騎獣たちには水でも飲んでこい、と言ってやりたいのですが、瞬時に飛び立てるよう待機してもらわないといけないので、ここを離れてもらっては困る。とりあえず飛鼠の屍体くらいは食べていいよ、と与えましたが、計都もほんの少し囓ってみるだけでした。きっと彼らも、私たちが緊張状態にあるのをわかっているのでしょう。
「待て」の体勢でじっとしている状況も辛いものですが、正午を過ぎたあたりから、ほぼ途切れることなくやってくる妖魔を相手し続けるのも、けっこう辛い。
戦うのがイヤ、というより、ひたすら殺し続けるのが辛い。
迎撃しているという状況は同じですが、妖魔がやってくる量は令坤門で一日持ちこたえた時の比ではありません。
お願い、もう来ないで、と叫んだところで言葉は通じるわけもない。
どんどん屍体は増えていく。
屍臭はすごいし、巌趙も私も気分が殺伐としてくるし、なんだかもう、最悪な気分です。
いったいどうしたらいいんだ。
こんな状況じゃ、晴れて饕餮を折伏した公が出てきたところで、公は血の海と屍臭にあたって倒れてしまうんじゃないでしょうか。
巌趙と私も、大きな傷は負っていないものの、返り血とかすり傷だらけで悲惨です。額から流れる血が目に入るのが鬱陶しいけど、もはや布を頭に巻いている余裕すらない。
こういう時は、何か明るい、どうでもいいことを考えるに限ります。
そうだ、驍宗様ご登極のお祝いはなくなってしまったけど、鴻基に帰ったら大餃子宴会は絶対にやるぞ、と私は心に誓いました。そして、静之のやつにはお腹いっぱいで倒れるまで餃子を食べさせてやるんだ、ざまあみろ、と思いながら、巌趙と二人がかりで窮奇を始末した時のことでした。
「あれを見ろ」
巌趙が、上空を見上げています。
ひええ。
令坤門に引き続き、蠱雕の大群再びですか。
黄海の道中で射た矢をそのままにせず真面目に回収しておいてよかった、えらいぞ自分、と自分を褒めたくはあるものの、それでも矢には限りがあります。
矢をつがえては放ち、つがえては放ち、巌趙も傍で剣を振るい続けているけど、切りがない。
矢を使い切ってしまえば、剣で応戦するしかありません。
せめて槍があったら楽なのですが、そんな甘い夢を見たところで、巌趙も私も槍なんぞ持ってきているはずがない。今度黄海に来るときには、邪魔だと笑われようが槍を持ってくるべし、と私は心に誓いました。
だって、次々に上から突っ込んでくる蠱雕って、至近距離でお相手するとかなり怖いんですよ。「そんなもんたいしたことなかろう」と疑う人は、いっぺん自分でも体験してみて下さい。
もう、控えてもおれなくなった汕子も交戦状態で、騎獣に向かってくる蠱雕を蹴り殺しています。計都は低く唸りながらも我慢をしてくれている。賢い彼は自分の役割をわかっているのでしょう。騒ぐことなくじっと耐えてくれている吉量たちと天馬も立派です。
しかし無様な私は、交わしきれなかった蠱雕のかぎ爪に肩を引っかかれて、迂闊にも剣を取り落としてしまいました。
もうだめかな、と一瞬覚悟はしたのですが、哀れな私を今にも喰おうとしてたやつは、すばやく反応した巌趙が斬り殺してくれ、私は事なきを得たのです。
だからほら、私、巌趙さえいれば大丈夫っていつも言ってるじゃないですか。
そんな不死身の巌趙も、さすがに肩で息をしています。
なんかもう、二人でこの場をどうにかするのも限界なんですけど、いったいいつまでやってればいいんですかこれ、と思いつつようやく蠱雕を始末しきったところへ、再び上空に現れたでかいやつ。
わあ…… 何あれ。
普通の酸與の軽く倍はありそうな個体が、うねうねと体をくねらせながら、こっちに向かって元気よく飛んできているじゃありませんか。
あんなでっかいの、巌趙と私が二人がかりでお迎えしても無理なんじゃないの。
巌趙はもちろん、変わらず闘志たぎる姿勢で剣を構えていますが、見るからに固そうな鱗に覆われた太い首は、そんな巌趙でも一撃では落とせなさそうなくらいご立派です。
一撃で倒すことができなければ、あのとんでもなく長い尻尾に二人いっぺんに薙ぎ払われるか、かぎ爪に体をえぐられて終わりでしょう。
はあ。
せめて、あのでっかい口に放り込む爆竹でもあったらいいのに。
そう、やっぱりどんなときにも息を吐いて、体の力を抜いてみるって大事なんですね。ため息をついた瞬間、私はいいことを思いついたのです。
あるじゃないですか、いいものが。
私はすばやく蠱雕の屍体から矢を抜き、その矢尻に、肌身離さず携帯している大事な琅燦特製丹薬を結わえつけました。とりあえず飛んでいる最中に落ちなきゃいい、くらいの結び方です。巌趙は私のやっていることを見てすぐに意図がわかってくれたようで、了解した、というように頷いています。
その矢をつがえ、慎重に射程距離を測りながら、巨大酸與がこちらに食らいつこうと口を開ける瞬間を狙います。
私の放った矢は、見事に酸與の喉の奥につき刺さりました。
酸與にとって一本の矢なんて、いかほどのこともありません。矢は直ちにかみ砕かれ飲み込まれてしまったのですが、それこそがこっちの思う壺。
巌趙と私が、一目散に酸與の進路から飛びすさって逃げた、その瞬間。
やった!
やったよ、琅燦!
すごい! 琅燦の爆弾丹薬は本物だった!
狙い通り、酸與の体は見事に内部から爆発したのです。
四散して飛び散る臭い細切れ酸與を、頭からびっしゃりかぶっている気分はなんともいえないものの、とりあえず一難は去った……自分自身があれを飲み込む羽目にならなくてよかったな、と、へなへなと座り込みたいような気分になったその時でした。
再び上空に現れた影があったのです。
またか。まだ、なんか来るのか。
今度は何。
いい加減うんざりして上空を眺めていると、どうやお次は天犬らしい。
そして、その天犬の背には騎乗する人の姿が見える。
天犬に乗ってやってくる人って誰よ、って、それはもちろん、あの方をおいて他にありません。そんなのは誰だって知ってます。長い被巾で頭と体を覆った、その姿。
黄海の守護神、犬狼真君です。
私たちのそばにふわりと降り立ち「ずいぶん派手にやってくれたね」と非難がましく言う真君には、「そっちこそ、来るならもうちょっと早く来て下さいよ」と言いたいところですが、巌趙と私は、礼儀正しく膝をついて頭を下げました。
当然ですが、犬狼真君にお目にかかるのは初めてです。
「もう、これ以上皆が殺されるのは看過できなかった」
真君はそう言って、両手をひらひらと差し伸べながら短い呪文を唱えました。すると、あたり一面に散らばり積み重なっていた妖魔の屍体が、みるみるうちに、さらさらと細かい砂に変わっていくではありませんか。
私たちが血塗れなのは変わりませんが、少なくとも頭から被っていた細切れ酸與は、砂となってはがれ落ちていっているようです。
便利な術もあるものだ、いいなあ天仙の皆さんは、と感心していると、真君は「でも君たちも、君たちの王を守って戦ったのだから仕方ないね」と、悲しそうに言いました。
王?
「何か誤解をしてらっしゃるようです。驍宗様は私共の主公ではありますが、王ではありません」と、私は跪いたまま答えました。
そんな私を訝しげに見、巌趙と共に立つようにと促しながら、真君は「しかし麒麟は王のためでなければ、饕餮などとは戦わない」と呟きました。
「麒麟が饕餮と戦っている、どちらが勝つかわからない。あの麒麟は使令を持っていないのだろう? だから妖魔達は麒麟が負けた場合のおこぼれに預かろうとやってきた」
なるほど。
この大惨事はそういうわけでしたか。
「間違いない。あの中にいるのは、君たちの王だよ」
いや、そう言われてましても。
「しかし蓬山公は我らが主公に、中日までご無事で、とはっきり挨拶をされたのだ。つまり王ではないと」
巌趙の言葉に、真君はもう一度「麒麟は王のためでなければ、饕餮と戦うような無謀な真似はしない。彼らは基本的に臆病な生き物だから」と首を振りました。
「もし、あの麒麟が自分が守っているのが王だ、と本当に知らないというなら、その理由は私にはわからない。でも使令を持たないという変わった麒麟だから、王気がわからない、ということもあるのかもしれない。おそろしく奇妙なことだが」
そう言って、真君は首を傾げています。
「気の毒だが、今自分が守っている王気が、それとわからないのであれば、あの麒麟は永遠に王を選べない。君たちの国は長い空位時代を迎えるだろう」
真君の言葉は、私たちにとってあまりにも残酷なものでした。
つまり、あの泰麒が王を選べないまま寿命が尽きるのを待ち、次の胎果が実るのを待ち、さらに誕生した麒麟が成長するのを待たねばならないということです。
その何十年もの間に、戴ではいったいどれだけの人が死ぬのでしょう。
「真君からそのことを、なんとか蓬山公ご自身か、せめて女仙に話して頂くわけには参りませんか」
そんなお願いはあつかましいのも、無礼千万なのも百も承知でした。
でもその時の私は、藁にも取りすがる思いだったのです。
「私は蓬山には関われない」
真君の答は、きっぱりとしてにべもない。
そして私たちにはまさか犬狼真君をしょっ引いて、無理矢理蓬山へ連れて行くような真似はできるはずもないのです。
がっくりと首をうなだれる私たちに向かって、犬狼真君は、ふっと微笑みました。
「麒麟が勝った。今、饕餮は使令に下った」
きっと、天仙には分かる気配なのでしょう。
「では、私は行くよ。天帝のご加護があらんことを」
そう言って、真君は天犬に騎乗して行ってしまったのです。
その後ろ姿に向かって、天帝のご加護っていったい何さ、そんなものどこにあるんだよ、と叫びたい。
蓬山公が饕餮を従えたことだって、もはや喜んでいいのかどうかすら、わかりません。
「臥信、俺たちは血塗れだ。公が出てこられるなら、ここから離れねば」
茫然と立ち尽くしていた私は巌趙の言葉で促され、自分たちの吉量をつれて、巌趙と共にとぼとぼと近くの岩陰まで移動しました。汕子はさっと遁甲したようです。
ややあって、洞穴から姿を現された驍宗様は、ぐったりとした公を腕に抱いておられました。公の腕の中には小さな子犬の姿が見えます。子犬とはまた意外ではありますが、きっとあれが変幻自在と聞く饕餮の変化した姿なのでしょう。
ともあれ驍宗様がご無事であったことだけは、喜びたい。
心の底から胸をなで下ろす思いで、しっかりと歩いて計都に向かわれるそのお姿を見ていると、ふと、驍宗様は私たちが隠れている岩陰の方に視線を寄越し、ほんの少し頭を下げられました。
やはり私と巌趙のことには、気付いておられたということでしょう。
はい、確かに私たちは、主公たちが置き去りにされた乗騎のお守りをするべく、割と頑張ったんじゃないかな、と思います。
驍宗様が公を抱いたまま計都に騎乗し、李斎殿の天馬を従えて帰途につかれるのを見送ったあと、私と巌趙は無言のまま、しばらくその場所に座っておりました。
確かに、疲れていた。
疲れ切ってはいました。
でも、もうそれ以上に、もう立ち上がる気力がなかったのです。
それから約十日間ほどの間、公の姿を蓬山でお見かけすることはありませんでした。
なんでも疲労がたたって、蓬廬宮にてずっと寝込んでおられたとのこと。
重傷を負った李斎殿も、意識が回復した後も高熱を出したりして、しばらく身動きができなかったようでした。あの傷では仕方がないと思います。しかし、次第に床の上に上体を起こされる程度には回復されてきているということを聞き、ほっと安堵をしたものです。
驍宗様はご無事でしたし、私と巌趙も傷だらけではあったものの、まあ、そんなのは唾つけときゃ治る程度のもんです。と言いたいところなのですが、実際、巌趙と私の傷にはちゃんと驍宗様と静之が傷薬を塗ってくれました。ものすごく沁みて痛かったです。
そんなボロボロの巌趙と私に驍宗様は何も仰らなかったし、私たちも、もはや何も言うつもりはありませんでした。
結局、あの日のことは誰一人口に出さないままでした。
いまさら、いったい何をどう話せばいいのかわからないのです。
静之も私たちのそういう雰囲気を感じ取ったのか、特に何があったかを聞くこともなく、彼もまた黙って、淡々と身の回りのことをしてくれていました。
そんな微妙な空気の中で、私たちは「一緒に下山して妖獣狩りをしたい」と希望する人たちの予定をとりまとめ、下山の準備を進めていきました。
いよいよ出立するという間際、驍宗様は私たちにちょっと待つようにと言い、李斎殿に挨拶に行かれました。李斎殿は、長らくの間子守仲間でしたからね。
その間に、ちょうど李斎殿をお見舞いに来られていた蓬山公と言葉を交わされたようではありますが、何をお話になったのかは私たちは聞いていません。
聞くつもりもありません。
むしろ、聞きたくありません。
王と麒麟が今ここに、二人してここに揃っているのに、麒麟がそうだと決められないために、私たちはこれからずっと、彼が死ぬ日を待ち続けなくてはならないのです。
誰にとっても残酷すぎる話です。
できれば、蓬山公のあの小さな体を掴んで「なぜわからないのですか」と揺さぶりたい。
でも、王気というものは、麒麟にしかわからない。
麒麟自身が決めるしかないのです。
なぜ、わからないのですか。
あんなに嬉しそうに頬を染めて、毎日驍宗様と話してらしたじゃないですか。
あんなに近く、二人で寄り添って、語り合っておられたじゃないですか。
そして、あなたがあの長い長い一日を饕餮と戦い抜いたのは、いったい誰のためですか。
それが、なぜわからない?
私はゆっくりと山を下る白玖の背につっぷして、もう泣きたいような気分でした。
できればとって返して、もう一度、もう一度だけ蓬山公に問うてみましょう、何度そう口にしかかったかわかりません。
私たちは、蓬山に向かってきていた時に最後の野営をした場所で、再び天幕を張りました。
秋分まではまだ日にちがあるので、ひとまずここを拠点にすることにしたのです。
私たち四人以外の皆は、これからの狩に向けての期待に満ちた、あるいはようやく故国へ帰れるという喜びを胸にした、和やかな雰囲気で焚き火を囲んでいました。
しかし、その故国にはもう、絶望しか待っていない。
約二ヶ月前にはここで、希望を得るために失う自由を嘆いて泣きたいような気持ちだったのに、今は自由を得たかわりに希望を失ったことを嘆いている。
人間って、ほんとに愚かな生き物だな、と思います。
今宵もあの時と同じような、大きな月が出ています。
くよくよとしていても仕方がない。月があるうちにひと狩してこようと、皆で騎獣に鞍を置いていた、その時でした。
ふと、何かに気付いたように計都が空を見上げました。
見れば、真っ黒な美しい獣が月を背に、軽やかに夜空を駆けてこちらに向かってくるのです。その角は、月の光に溶けるような真珠色。
「これは、見事な麒麟だ」
降り立った黒麒に、驍宗様は笑顔でお声をかけられました。
続いて、お見送りを嬉しく思うが、夜のこととて早く宮へ帰られよ、というようなことを優しく諭されたのですが、美しい獣はそんな驍宗様をじっと見つめたまま、身動きひとつしません。
やがて驍宗様が荷物から袍を出し、広げてさしあげると、黒麒は小さな蓬山公の姿に戻られました。
そして、公はゆっくりと驍宗様の前に跪き、頭を下げられたのです。
その誓約の後、許す、と仰った驍宗様の足の甲に額付いた公、いや、台輔を驍宗様は高く抱き上げられました。
「礼を言う──泰麒、お前は小さいのに見る目がある」
驍宗様、突然呼び捨てでの「お前」呼びは、あまりにも我を忘れすぎじゃないですかって感じですし、巌趙、あなたがそんなに力一杯抱きしめたら、いくら驍宗様でも骨折しますって、静之、いきなり顔中から水分吹き出したぐしょぐしょ状態で私にくっつくのはやめなさい、こら、私の服で鼻水を拭くな、いや、でもこれで私もようやく証博の餃子
「あ、雀さん!」
長い長い旅を終え、ようやくのことで最後の場面を書き取っていた正頼は、背後にそっと、彼の小さな台輔が忍びよって来ていることに気がついていなかった。
突然の声に、ぎょっとする。
「これ、台輔、この雀に触ってはいけません」
「雀さん、白圭宮では初めて見ました!」
「いえ、台輔、この雀は」
「正頼だけ雀と遊んでるなんてずるいです!」
「おやめ下さい、台輔、ああっ」
『まず初めに、驍宗様の御昇山にあたって、御協力・御餞別を賜りました方々への御礼を申し述べたいと思います』
「わあ、この雀さん、お話するんですね!」
『しかし皆様ご存知のように、御昇山を控えた今、驍宗様はいたって不機嫌で気が立ってらっしゃいますので』
「しかも、驍宗様のお話ですね!」
「台輔、この爺を哀れと思し召して、ここはお見逃しを」
「いやです、驍宗様のお話なら、ぼくは絶対聞きたいです!」
何故、冒頭にあのような罰則を自ら書いてしまったのか。
そんな自分の仕業を悔やんでみてもすでに遅いが、しかし、この愛らしい麒麟が、今、ここに、白圭宮にいる。
なんだかもう、それだけで充分です、と、正頼は微笑んだ。
了