ほぼ日刊イトイ新聞

2020-06-23

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・じぶんでも、わかっている。
 ぼくは、ふだんは着ない服、捨ててもいいような服を、
 けっこう多めに溜めこんでいる。
 靴も、そうかもしれない。
 ある程度の期間ごとに、家の人から、
 「何分の1にせよ」というような指示が飛ぶ。
 ときには、期待される分量以上に処分して、
 ほめられたりもするのだけれど、
 いずれまた、あふれだすことになる。

 どうしてそうなるのか、じぶんで知っているのだ。
 ふだんは着ないけれど、
 なにか汚れてもいいような場面に着ていく服、
 寝るときにパジャマの下に着るTシャツ、
 そういうものをストックしてあるからなのである。
 とてもわかりやすい例で言えば、
 目黒のさんま祭りなどで、さんまを焼く手伝いをする。
 そういうときに着た服は、どれだけ洗濯しても、
 絶対に匂いが落ちないので、処分することになる。
 あるいは、ぼくは、ずいぶん昔のことだけれど、
 埋蔵金発掘のテレビ番組に参加していたことがあった。
 ああいうときに、汚れても惜しくない服は必要だった。
 行ってないけれど、きのこ狩りなんかにも、
 汚れてもかまわない服を着ていきたいと思う。
 そういうさまざまな起こりうるシチュエーションで、
 わりとどっちでもいい服は必要になるのである。

 ただ、ここに挙げたような汚れる場面は、
 実を言えば、ほとんどないのである。
 多少、土やら緑やらの自然とつきあうことがあっても、
 バリバリにきれいな服を着ていくのはちがうとしても、
 それほど気をつかわずに、いつもの服でかまわない。
 だから、うちにある「どうでもいい服」は、
 ほんとうにどうでもいいということになるのである。
 それを知ってて、どうして、不要のものを溜めこむのか?

 おそらく、その答えは、こういうことだと思う。
 「不要」と「捨てる」が、つながってないのだ。
 「不要」であるけれど、「そこにある」ということが、
 ぼくにとっては自然に感じられるんだろうなぁ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
ぼくはいつか、不要の人型のゴミとして処分されると思う。


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