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60/70年代 日本の歌手・バンド 増幅中 |
私の音楽体験を振り返ると、最初は歌謡曲だったと思います。次いでビートルズ、ベンチャーズ、さらにグループ・サウンズ、そしてフォークやハードロックへ移行していきました。このコーナーはそうした体験を振り返りながら、可能な限り、当時の動画を探し出して紹介していきます。なお動画は、「白文字」は動画です。「黄色文字」は画像と曲のみです。最新リンク切れチェックは09年09月21日。 |
岡林信康 | 高石ともや | 浅川マキ | カルメン・マキ | 由紀さおり |
石川セリ | 藤 圭子 | 北原ミレイ | フォーク・クルセダーズ | トワ・エ・モア |
RCサクセション | リッキー&960ポンド | 青い三角定規 | ペドロ&カプリシャス | テンプターズ |
タイガース | 倍賞千恵子 | 井上陽水 | ズー・ニー・ブー | ザ・リガニーズ |
アン真理子 | りりィ | モップス | フォー・セインツ | ソルティ・シュガー |
中島みゆき | ビリー・バンバン | はしだのりひこ | 杉田二郎 | 藤 正樹 |
中村晃子 | フラワートラベリンバンド | はっぴいえんど | タージマハル旅行団 | 奥村チヨ |
小川知子 | 園 まり | 伊東ゆかり | 中尾ミエ | ブレッド&バター |
赤い鳥 | キャンディーズ | 山口百恵 | ピンク・レディ | ザ・ピーナッツ |
佐良直美 | 弘田三枝子 | 坂本 九 | 黛 ジュン | 南 沙織 |
森 進一 | 石川さゆり | 加山雄三 | た ま | かぐや姫 |
御三家 | 新御三家 | 美川憲一 | サーカス | 昭和ブルース |
印象に残る歌手 |
岡林 信康 | ||||||||||||||||
様々なシンガーがいましたが、のめり込んだのは岡林信康さんです。そう、「フォークの神様」です。かれは滋賀県の牧師の息子に生まれ、信仰と現実との間で悩みを持ち、歌うことを通じて悩みを表現し、生き方を模索していたような、そんなシンガーでした。 70年安保を目前に控えたこの頃は、社会を変革しようとするパワーが若者の間にみなぎっていた時期でした。フォークソングはそうした時代を象徴する、いわば「市民運動」のような側面を持っており、岡林さんは「山谷ブルース」でその旗手に祭り上げられてしまった感がありました。 その後、ボブ・ディランと同じく、アコースティックギターをエレキギターに持ち替え、フォークロックと呼ばれたジャンルに踏み込んでいきましたが、「はっぴいえんど」を従えてロックを歌う岡林さんには、従前のファンから罵声が浴びせられたものでした。私はロックに移行した後も変わることなく、岡林さんの曲を聴き続けていました。 しかし岡林さんはそのあとも変わり続け、韓国のリズムを採用したり、日本のリズムを取り入れたりするようになりました。1980年代の後半だったと思いますが、「ベアナックルコンサート」を全国で行い、津市の教育文化会館でも開催され、私も聞きに行きました。
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高石 ともや | ||||||||||||||||
高石ともやさんは岡林さんより前からフォークシンガーとして活動していた人です。日本のフォークソングをジャンルとして作り上げた人だと言っても過言ではないと思います。でも本当に少ないですねぇ、動画が。高石さんの70年前後の動画は全く見つけられませんでした。まあ、深夜放送を聞いている気分で歌だけお楽しみ下さい。動画は新しいものばかりです。
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浅川 マキ | ||||||||||||||||
浅川マキさんは「孤高の歌手」と言われることがあります。何しろマスコミに出ることが無く、自身のスタイルを守り続けており、知る人ぞ知る、知らない人は名前を聞いたこともない、そんな人ですから。私は70年前後、深夜放送を通じて何曲かの彼女の歌を聴き、ファンになりました。物憂げな歌い方が印象的でした。 想像はしていましたが、やはり動画のほとんど無い人でした。ここに挙げたのはいずれも私が大好きだった曲です。しかしながら、そして今更ながら、よくもあんなに気だるく歌えるものだと感心してしまいます。尤もそこが好きだったんですけど。
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カルメン・マキ | ||||||||
カルメン・マキさんを初めて聞いたのはテレビでした。そう、ご存知の「時には母のない子のように」という、それまでのテレビでは放送されることの無かった驚くべき曲でした。放送されるのは愛だの、恋だの、振られただの、逃げただの、これがテレビの歌でした。そこにあの寺山修司の歌詞を引っさげて登場したのが弱冠17歳の女の子だったのです。 さらっと長い黒髪のハーフ(アイルランドとユダヤ系アメリカ人の父と日本人の母、日本国籍を取ったのは1993年)の17歳、とても17歳とは思えない妖艶さと、とんでもない投げやりな歌いぶり。テレビにかじりつきましたねぇ。 なお「昭和40年代歌謡曲」には数曲の歌謡曲が出てきますが、カルメン・マキさんは中程で、貴重な69年のカラー映像です。
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由紀 さおり | ||||||||
「時には母のない子のように」と同じ時期にテレビに登場したのが、「夜明けのスキャット」でした。この歌も、別の意味で驚くべき曲でした。歌詞の大半が「ルールールルルー」とか「パーパーパパパー」が占めていたからです。それと歌声の美しさが飛び抜けていました。
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石川 セリ | ||||||||
石川セリさんは、率直に言って一般的ではありません。私の世代の中でも、映画好きの物好きな連中にインパクトを与えた、「8月の濡れた砂」の主題歌を歌った歌手です。そして井上陽水さんの奥さんです。 当時、今の言葉で言えば「インディーズ系」の「ATG(アート・シアター・ギルド)」が製作した映画がいくつものヒットを飛ばしていました。その一つが「8月の濡れた砂」です。私はこの映画のビデオも持っているのですが、残念ながらビデオの機械そのものが故障したままなので、テープを見ることもできません。下に紹介した最初の「8月の濡れた砂」の映像は映画の冒頭のシーンです。
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藤 圭子 | ||||||||
宇多田ヒカルさんの母、そのほうが若い世代の方には分かりやすいのかも知れません。しかし年齢の割に驚くべき存在感を持って、私たちの前に立ち現れましたから、私にとって藤圭子さんは藤圭子さんとしかとらえようがありません。 特に印象的で、彼女の特質が発揮されているのが、「圭子の夢は夜ひらく」だと思います。あの端正で整った顔立ち、そこからの予感を裏切って絞り出されるハスキーボイス、そして投げやりなイメージを与える歌い方、歌詞と相俟って最高の作品になっています。 下に4本も「圭子の夢は夜ひらく」を紹介しましたが、いずれも「こぶし」の強弱やテンポなどに違いがありますし、ロングからショートへの髪型の変化もあり、聞き比べ・見比べが楽しいです。
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北原 ミレイ | ||||
初めてラジオから北原ミレイさんの「ざんげの値打ちもない」が流れてきた時に感じたのは、まさに「衝撃」以外の何物でもありませんでした。というのは、歌詞が違うのです。当時、全盛だった作詞家は「石坂まさを」さんでした。石坂さんの特質は、そのまま演歌の特質でもあるのですが、情念の言葉で世界を描くのが通例でした。ちなみに藤圭子さんの歌は石坂作品です。 ところが、「ざんげの値打ちもない」には情念の言葉が無かったのです。若い娘が、夏の夜の闇の中で細いナイフを光らせている、その映像がくっきりと浮かんでくるのです。つまり、情景を淡々と描くことで、聞いている人の想像力を刺激し、映画的に歌を理解させる、結果的に情念の世界が描かれている、そういう手法の新しいタイプの歌謡曲が登場したのでした。その作詞家の名は、「阿久悠」。 衝撃を受けたのは私だけではなかったようです。当時、私が購読していたもうひとつの音楽誌「新譜ジャーナル」には、「ざんげの値打ちもない」の歌詞について、複数ページにわたる論評を載せていましたから、おそらく音楽界全体として、阿久悠さんの登場に注目していたのだと思います。 下の動画のうち、最初の「ざんげの値打ちもない」には阿久悠さんが登場します。2番目の「ざんげの値打ちもない」では「幻の4番(レコーディング時に3番と4番の間にあったらしい)」が歌われます。3番目の「ざんげの値打ちもない」は映画「ズベ公番長」のオープニングです。
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フォーク・クルセダーズ | ||||||||||||
67年、解散記念に作った自主制作アルバムに入っていた「イムジン河」と「帰ってきたヨッパライ」がラジオを通じてヒットし、プロデビューしましたが、メンバー間の約束で、1年間の活動と取り決めてあった通り、68年10月に解散しました。同年12月に最後のレコード「青年は荒野をめざす」が発売されました。アマ時代を除けばわずか1年余りのバンド活動で、日本の音楽シーンを大きく塗り替えてしまいました。 私が小学校の6年生から中学の1年生だった時しか活動していなかったわけですが、中学の3年間を通して、彼らの曲は頻繁に深夜放送のラジオから流れていました。しかし60年代末だけに、当時の動画はほんの少ししかネット上に見つけることができませんでした。
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トワ・エ・モア | ||||||
フォークソングのデュオとして登場してきたように記憶していますが、どちらかというと歌謡曲に聞こえますね、今聞くと。でもきれいなハーモニーでした。当時、森山良子さんなど一部の例外はありますが、フォークシンガーの歌声は美しくありませんでしたし、自分にも歌えると思われる必要もあったのだろうと思います。
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RCサクセション・古井戸 | ||||||
当時の日本語のロックシーンでは極めて異質な感じのバンドでした。その歌も「2時間35分」というような奇妙なタイトルでしたが、覚えやすいメロディで、「さなえちゃん」とか「僕の好きな先生」などついつい口ずさんでしまいました。 下の動画はかなり初期のライブで、忌野清志郎さんは「おかっぱ」というか「マッシュルーム・カット」というようなヘア・スタイルをしています。「さなえちゃん」については、正確にはRCサクセションではなく、メンバーの仲井戸麗市さんが作っていた「古井戸」というバンドの作品です。
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リッキー&960ポンド | |
「リッキー中山&960ポンド」と覚えていたのですが、検索してみると、どうも「リッキー&960ポンド」のようです。しかしウィキペディアにも「リッキー&960ポンド」の項目はありませんでした。リーダーのリッキー中山も出てきませんでした。ヴォーカルの亀渕友香さんや前野曜子さんはあるのですが、動画となると、「リッキー&960ポンド」時代のものは見つけることができませんでした。 しかしせっかく時間をかけて検索したのですから、何かないかと探して、「リッキー&960ポンド」に在籍していた「マジョリー」さんのサイト「夢見る魔女」を見つけました。失礼にならないようにトップページにリンクしました。プロフィールへ進み、アルバム13、14、15を見ていただくと「リッキー&960ポンド」時代の話と写真が紹介されています。 「マジョリー」さんにリンクの了承をお願いするメールを送信した所、丁寧に返信を頂きました。ありがとうございます。「リッキー&960ポンド」のレコード・ジャケットの写真も頂きました。ただし、マジョリーさんはこの時のメンバーにはいらっしゃらないようです。マジョリーさんのお顔を拝見したいという方は、上記の「夢見る魔女」のサイトでどうぞ。マジョリーさんは「西口久美子」さん(青い三角定規)のマネージャーをなさっているそうです。西口久美子さんのサイトにも、下の「青い三角定規」に項目でリンクさせていただきました。
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青い三角定規 | ||||||||||||
作曲家「いずみたく」氏のプロデュースで1971年に結成され、73年に解散。有名なのは「飛び出せ!青春(主演:村野武範)」の主題歌「太陽がくれた季節」でしょう。エンディングで流れた「青春の旅」も聞けば思い出す人が多いでしょう。2008年1月に西口久美子さんと岩久茂さんの二人で再結成され、活動を再開しています。 この項目を興すにあたって調べてみて、岩久さんが秋吉久美子さんと結婚していたことを初めて知りました。岩久さんのブログでは秋吉さんのサイトへのリンクがされていますから、関係は悪くないようですね。 前述のマジョリーさんに教えていただいた「西口久美子さん」のサイトは下からどうぞ。
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ペドロ&カプリシャス | ||||||||||||
ペドロ&カプリシャスのヴォーカルと言うと「高橋真梨子」さんを思い浮かべると思いますが、彼女は2代目のヴォーカルで、現在は3代目のヴォーカル松平直子さんが歌っています。では初代のヴォーカルは誰かと言うと、上の「リッキー&960ポンド」に在籍していた前野曜子さん(故人)です。彼女が歌った「別れの朝」が71年にヒットし、グループの存在がメジャーになりました。 73年に高橋真梨子さんがヴォーカルとして加入し、「ジョニィへの伝言」「五番街のマリー」が大ヒットしました。 動画の内、「別れの朝」は前野曜子さん、「ジョニィへの伝言」「五番街のマリーへ」は高橋真梨子さん、映画「蘇る金狼」のテーマとアニメ「コブラ」は前野曜子さんです。前野さんは人気絶頂時の73年に理由不明のままペドロ&カプリシャスを脱退して渡米、その後帰国して「蘇る金狼」などを歌い、「野獣死すべし」に出演していましたが、1988年に亡くなられました。しかし逝去が分かったのは数年後で、正確な死亡年月や墓所は不明です。
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ザ・テンプターズ | ||||||||||||
テンプターズは人気グループサウンズの中ではやや異色なイメージがありました。子供の時には分かりませんでしたが、今思えば、自ら曲を作っていた珍しいバンドだったからなんですね。当時は歌手と同様、作詞・作曲家に曲を提供してもらうのが、グループサウンズとして当たり前のスタイルだったのです。 このバンドでは、何と言っても「ショーケン」こと萩原健一さんの存在が大きいでしょうね。彼の個性に支えられ、タイガースと並ぶ人気バンドになりました。しかし1969年にはグループサウンズというジャンル自体の人気が低下しており、タイガースと全く同様、1967年レコードデビュー、1971年解散という道を辿ります。 下のタイガースでもそうですが、映画以外に動画が殆ど残っていないようです。「愚か者よ」はショーケンのライブです。
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ザ・タイガース | ||||||||||||
ウィキペディアによれば、「1967年2月に『僕のマリー』でデビュー、「モナリザの微笑み」「君だけに愛を」などのヒット曲を生み、グループサウンズ最盛期を支えた。1971年の日本武道館コンサートを最後に解散」ということになります。また、「1966年10月9日にナンバ一番で行われたオーディションに合格し、11月9日、新幹線で上京。11月15日、初出演のテレビ番組「ザ・ヒットパレード」収録当日、関西出身ということから、すぎやまこういちによってバンド名をザ・タイガースに変更させられる」ということもあったそうです。
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倍賞 千恵子 | |||||||||
この人のことは大半の方が「寅さん」の妹として考えているのではないでしょうか。「故郷」「家族」「幸せの黄色いハンカチ」などなど、「寅さん」映画以外にも、山田洋次作品には欠かせない女優さんです。もともとは松竹歌劇団(SKD)に所属し、映画「班女」でデビューしますが、翌年「下町の太陽」で歌手としてもデビューしました。 この方は年齢を重ねるほど美しくなっていくような気がします。女優としても歌手としても大好きです。
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井上 陽水(アンドレ・カンドレ) |
井上陽水―――この人も私の中では別格的な存在です。はじめて歌声を耳にしたのは中学の2年生、1969年のCBCラジオか東海ラジオでした。曲は「カンドレ・マンドレ」、歌うは「アンドレ・カンドレ」、まずはこれで「?」という印象でした。この「アンドレ・カンドレ」が井上陽水さんのデビュー時の名前です。 その後、その存在は忘却の彼方に飛び去っていたのですが、高校生になってから、2年生の時でしょうか、突然、「井上陽水」なるミュージシャンが「人生が二度あれば」「傘がない」で脚光を浴びました。それが「アンドレ・カンドレ」と同一人物だと知るのは、しばらくのちのことでした。 曲を並べてみると、いえ、掲載しなかった曲も含め、ほぼすべての曲になじみがあることに驚かされます。あれだけ好きだった岡林信康さんでも「金色のライオン」のあとは、殆ど知らない曲なのですが、陽水さんに限っては、曲名に聞き覚えがなくても、聞き始めれば「ああ、あの曲だ」と、すぐ分かるのですから、それだけ偉大なアーティストだということでしょう。 陽水さんは今でこそ、まれにテレビに出演することがありますが、ポリドール時代は一切テレビに出ることがなかったことから、初期の動画が少なくてごめんなさい。 |
ズー・ニー・ブー | ||||
「ズー・ニー・ブー」は68年から71年にかけて活動していたバンドで、グループサウンズの中でもひと味違ったイメージがあります。私が知ったのは「白い珊瑚礁」という歌です。非常に伸びやかな高音に特徴があって、日本の歌ではないような感じがしました。「未青年」(確か未成年でなく)という歌もあったような気がするのですが、調べても出てきません。よく聞いた気がするのですが。 「ひとりの悲しみ」は尾崎紀世彦さんの「また逢う日まで」の元歌で、歌詞はかなり違うけれども全く同じ曲です。そう言えば尾崎さんもよく伸びる声をしていましたよね。「戦士の休息」は映画「野生の証明」の主題歌で、「ズー・ニー・ブー」の町田義人さんが歌っています。
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ザ・リガニーズ | ||||
「ザ・リガニーズ」は特別に大ヒットした曲があるわけではありませんし、超有名になったわけでもありません。しかしこの1曲、「海は恋してる」はそこそこヒットし、あま~い内容のラブ・ソングで、途中に入るセリフも素人っぽい所に好感が持てて、私は妙に気に入っていました。ラジオでも結構頻繁に流れていました。 早稲田大学のフォークソングクラブの5人で結成されたグループで、活動期間は68年から70年までと短いものでした。知りませんでしたが、ザ・リガニーズが再起動しているのですね。公式サイトにリンクしておきましたので、興味のある方はどうぞ。
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アン真理子 | ||||||||
歌手もタイトルも思い出せないけど、歌詞は知ってると言う時に、歌詞を入力すればちゃんと検索できる所がネットのすごさですね。「若いという字は苦しい字に似てるわ」と入力したら、アン真理子さんの「悲しみは駆け足でやってくる」がヒットしました。すごいですねぇ。そうそう、木枯らしの音から始まるんでした。 「出門ヒデ」さんと「ユキとヒデ」のボサノバ・デュオを組んでいたこともあるそうです。「ユキ」は本名です。「ヒデとロザンナ」に歌詞の提供もしています。 これは私の勘違いかも知れませんが、確か「第3章 涙」というタイトルの曲もあったように思うのですが、「アン真理子」さんのディスコグラフィには見あたりませんし、「第3章 涙」で検索しても出てきません。どなたか、ご存知の方があれば教えてください。メールはこちら。
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りりィ | ||||||||
色の白い綺麗な人でしたねぇ。そしてハスキーボイスが素敵だったですねぇ。テレビに出る歌手としてはあまり活動していないようですけど、時々、女優としてドラマに出演している姿を見かけます。私より4歳年上の方ですから、それなりに歳月が刻み込まれていますが、姿を見かけると今でも画面に釘付けになってしまいます。 改めて聞いてみると、最初のレコード音源の「私は泣いています」のハスキーボイスが最高に思えるのは私の個人的な趣味でしょうか。「騒がしい楽園」は映画「人間の証明」の挿入歌、「ホールズ」は「りりぃ」出演のCMです。
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モップス | ||||||||
モップスは私にとっては「月光仮面」と「たどついたらいつも雨ふり」に尽きます。「たどついたらいつも雨ふり」は疾走感はありませんが、ロックの名曲(吉田拓郎作詞作曲)だと思います。 「月光仮面」は間奏部分のせりふを今でも言うことができます。馬鹿馬鹿しいと言えば馬鹿馬鹿しいのですが、音楽的にもかなり面白い音を出していた曲です。ただ、この曲の印象が強すぎて、相当損をしている部分があるように見受けられます。日本最初のロックバンドとの評価がある一方で、一般的には「いろものバンド」のような扱いだったのではないでしょうか。いい音だったのですが。 「朝まで待てない」は映画の1シーン(野良猫ロックのシリーズだと思います)です。「Blind Bird」は放送禁止用語が入っているため、ベストアルバムにも収録されず、今ではなかなか聞けない作品です。両作品とも阿久悠さんの作詞です。「パーティシペイション」は映画「女番長 野良猫ロック」からです。
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フォー・セインツ | ||||
フォー・セインツはやはり「小さな日記」です。調べてみると、68年から72年まで活動し、レコード会社を移籍して「フォー・クローバーズ」と改名したものの、73年に解散したようです。「小さな日記」はデビュー曲で、「冬物語」はフォー・クローバーズでの曲です。 「小さな日記」は多くを語らぬ叙情的な歌で、定かには歌われていないけれども、「山に初雪が降る頃」に愛する人が亡くなったと歌っていますから、山で亡くなったものと私は思っていますが、他の受け取り方もあるでしょう。ただ、高校に入って山岳部に所属した背景には、この歌の影響があるかも知れません。美しいハーモニーでした。
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ソルティ・シュガー | ||||
ソルティ・シュガーの名前の由来は有名です。「佐藤敏夫」というメンバーがいて、「さとうとしお」→「さとう」と「しお」→「砂糖」と「塩」→「ソルティ・シュガー」です。そして中心メンバーの山本厚太郎は山本コータローとして超有名になります。バンド自体は69年から71年までと短いものでした。 中学校の体育の時間、サッカーをしながら、「鼻毛が伸び~る~」と口ずさんでいた記憶が、この歌の背景に浮かんできます。あのグランドも今や広大になり、目下、校舎の西側に、さらに現在の敷地面積と同じ35,000㎡のグランドが造成されつつあります。私の学んだ高田中学の話ですが、もはや、中学は存在せず、6年制と高校のみになってしまい、6年制は三重県下一の東大進学者数を誇っています。私は日芸ですが。
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中島みゆき |
私が一番よく音楽を聴いていたのは中学、ついで高校の時です。大学生になってからはテレビもない、ラジオもない、金もないですから、情報から孤絶した生活で、ベ平連系の友人が来て「おい、佐藤栄作がノーベル賞を受賞したの知っとるか」と言われたのが、受賞2~3日後だったりしたものです。中島みゆきさんのデビューがその頃なのですが、そんな事情からワンテンポずれて聞き始めたと思います。 練馬区練馬、駅から2~3分の狭い路地、深夜0時前後だったでしょう。道路に打ち伏し、両手で不安定に上体を支える若い女性、相当に酔っていました。その女性を立たせようと懸命の若い男性。どうでしょう、ともに25~6歳というところでしょうか。男性は飲んでいたとしても、酔ってはいません。いや、とても酔っていられるような事態ではなかったのです。 どうして、あなたはいつもそうなのよ! 深夜の住宅街に、明らかに酔っていると分かる大きな声が響き渡ります。男性は必死に女性を立たせようとするのですが、自らを支えようとしない人間の身体は、たとえ女性の軽さでも、簡単に立ち上がらせることはできません。 「放してよ」 「あっちへ行って」 その横を私は申し訳ない気持ち一杯で通り過ぎました。あれから30年の歳月が過ぎ去りました。でも鮮明に蘇ってきます。夜ですから顔はよく見えませんが、まるでドラマの場面です。 中島みゆきさんの「わかれうた」を聞いたとき、『道に倒れて誰かの名を呼び続けたことがありますか』という歌詞が、現実にあり得るものとしてすんなり受け入れられたのでした。聞こえたのは上の三つのセンテンスだけでしたから、「どうして、あなたはいつもそうなのよ!」が意味することは分かりません。でも、どの殿方に対しても通用する言葉ですよね。思えば怖い場面です。願わくば、あの男性の立場に我が身がおちいらんことを。 |
ビリー・バンバン | ||||||||||
あの歌声は今も耳に残ります。そして、あの歌声は前世紀の終わり頃から、焼酎「いいちこ」のCMで、お茶の間(こういう言い方は今でも通用するでしょうか)に再び届くようになりました。小生意気な中学生の頃の、懐かしい歌声です。 66年に4人で出発したグループは、驚くべきことに、「せんだみつお」のパーカッションと菅原兄弟の3人組になり、そして今の兄弟デュオに落ち着きました。「せんだみつお」がビリー・バンバンの前身のパーカッションだったなんて、少し意表をつきますよね。
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はしだのりひこ | ||||||||||
「はしだのりひこ」と言えば「フォーク・クルセダース」の次に取り上げた方がよかったのかも知れません。いささかでも系統的ですから。でもその日その日の気分で作成しているため、ふっと思いついた歌手・バンドを取り上げることになり、散漫で申し訳ありません。 「シューベルツ」は「フォークル」解散後に結成され、やがてバンドは「はしだのりひことクライマックス」、「はしだのりひことエンドレス」と変遷していきます。なお、「端田宣彦とシューベルツ」「井上博とシューベルツ」など4人のメンバーそれぞれの名前を冠したシングルレコードがあります。
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杉田二郎 | ||||||||
杉田二郎さんは杉田二郎個人の名前で知られていますが、元々は「ジローズ」というバンドで活動し、ヒット曲も持っていましたが、上述の「はしだのりひことシューベルツ」を結成する時に声をかけられ、シューベルツの4人のひとりになりました。シューベルツの曲の殆どの曲でメインボーカルを取っているため、私が杉田二郎さんに出会ったのは、この時だったはずです。 ですから杉田二郎さんと言えば、やっぱり「戦争を知らない子どもたち」になるでしょうね。
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藤 正樹 | ||||||||
藤正樹さんは本来、知る人ぞ知る的な存在であるべきなのですが、恐らくかなり多くの人が知っているのではないでしょうか。テレビ番組「スター誕生」からデビューを果たした歌手です。山口百恵さんや森昌子さんなどと同様なのですが、その歌唱力は、私の知る限り、同番組史上最高だったのではないでしょうか。 高校生で演歌、そして群を抜く低音の歌唱力、しかし悲しいかな、甘い歌とはミスマッチなルックスが人気につながりませんでした。持って生まれたものが「才能」であるならば、ルックスの才能に恵まれなかったとも言えるでしょう。しかし藤さんは今も歌手として活動しています。
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中村晃子 | ||||||||
一身田小学校では卒業式の直前(もしかしたら直後?)に「謝恩会」というのが開かれていました。全体像が浮かんでこないのですが、私は友人の練木君とトリオ・ザ・スカイラインのネタを演じました。3人のネタを二人で演じるとは随分画期的なことで、従って無理もあったと思います。ということは受けなかっただろうと思うのですが、練習が楽しみだったことを思い出します。その時から、舞台に上がるのが性に合っていたのでしょう。 「謝恩会」で覚えているのは、須藤くんや森川くんがボクシングのコントを演じた場面です。ダウンしたのは誰だったか、審判(これが須藤くんだったか)が駆け寄り、カウントを取るのですが、「ワン・ツー・スリー」から一気に「テン」に飛んで勝利が決まる場面が、やけに面白かったことを覚えています。 突然「謝恩会」を持ち出したのは、中村晃子さんの「虹色の湖」を聞くと、どういうわけか、小学校の講堂で行われた、あの「謝恩会」の風景が浮かんでくるからです。なぜかは分かりません。もしかしたら、みんなで歌ったのかも知れませんが、記憶にありません。しかし、その頃に流行った歌であることは確かだと思います。 それに私は「虹色の湖」という曲が大好きでしたし、中村晃子さんも大好きになりましたので、後年、彼女が「プレイボーイ」だったか、「平凡パンチ」だったかでヌードになった時、そのページを切り抜いて大切に持っていたものでした。あれはどこへ行ってしまったのか、残念ながら今、手元にはありません。
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フラワー・トラベリン・バンド | ||||||||
このバンドを語る時には、必ずと言っていいほど「伝説の」と形容されています。このページを見ていただいている方々の中にも、聞いたことのない名前だとおっしゃる方もたくさん見えるでしょう。大阪万博での演奏で「ライト・ハウス」に見出され、カナダで活躍したのちに日本で知られるようになったものの、70年結成、73年解散という活動時期の短さから、「知る人ぞ知る」的な、いわゆる「伝説の」バンドになったのでしょう。 しかし「ジョー山中」と言えば思い当たる人もいるでしょう。そう、映画「人間の証明」に出演した黒人ハーフで、主題歌も歌いました。あの人が「ジョー山中」で、フラワー・トラベリン・バンドの中心的メンバーでした。 あらためて「さとり」を聞きました。なんと「人間椅子」(下のイカ天に紹介)の音に似ていることか、いや、逆ですね、「人間椅子」の音は、明らかにフラワー・トラベリン・バンドの影響下にありますね。この「さとり」を日本のロック史上最高の名曲と評価する人もいます。
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はっぴいえんど | ||||||||
初めて「はっぴいえんど」を知ったのは、中学校の時、多分「新譜ジャーナル」誌でだったと思います。それもバンド単独ではなく、岡林信康さんのバックバンドとして名前を知りました。フォークソングからフォークロックへの岡林さんの転身の時期に、古くからの岡林ファンに罵声を浴びせられながら、「それで自由になったのかい」などのバックをつとめていました。 今思えば、バックバンドとは信じられないほどの超大物たちでした。細野晴臣さん、松本隆さん、大瀧詠一さん、そして鈴木茂さん。岡林信康さん自身よりも、遙かに大物になった人たちですが、私が買った岡林さんのアルバムの最後は、「金色のライオン」でしたが、確かこのアルバムにも松本隆さんの名前があったと思います。「はっぴいえんど」以後も音楽的交流を保っていたようです。 私は鈴鹿サーキットで行われた岡林信康さんのコンサートのアルバイトをした時に、「はっぴいえんど」の生演奏を聴きました。
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タージ・マハル旅行団 | ||||||||
このバンドも、いやグループと言うべきか、知る人ぞ知る存在です。1969年に結成された集団で、電子音を駆使した即興音楽のグループです。 名前から想像すると、インド音楽かと思いますが、その要素はあるものの、無国籍と言った方が適切でしょう。下に紹介した「自由広場の若者たち」はNHKの番組の一部で、タージ・マハル旅行団を紹介した動画ではありません。しかし一部に映っているようで、音楽も細切れながら入っているようです。 電子音を使うにもかかわらず、屋内だけでなく、野外でのコンサートにも積極的に参加していました。私は1974年か75年だったかに、埼玉の河川敷で行われた野外コンサートを聞きに行き、そこでタージ・マハル旅行団を初めて生で見て、生で聞きました。
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奥村チヨ | ||||||||
今まで取り上げてきた歌手とは少し毛色の違う路線に踏み込みました。中村晃子さんや由紀さおりさんも取り上げましたが、ポップスの香りの強い歌手でした。しかし奥村チヨさんは純然たる歌謡曲と言っていいでしょう。この時代(70年前後)はテレビの歌謡番組の最盛期で、カルメンマキさんや由紀さおりさんを聞けば、必ず歌謡曲も聴かざるを得ませんでした。 奥村チヨさんを代表するのは、「恋の奴隷」でしょう。この曲がヒットした時、音楽雑誌では、それまでの男女平等の波に逆行することによって生み出されたヒット、みたいな解説があり、女性の自立との関係で論じられていました。 ウィキペディアによれば、和製シルビーバルタンとして、小悪魔的な魅力で売り出したそうです。そう言われればその路線が見えますが、私が奥村チヨさんのヒット曲として印象に残っているのは、「終着駅」です。歌詞がよかったんですね。彼女の持ち味がよく引き出された曲です。
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小川知子 | ||||||||
小川知子さんは東芝3人娘のひとりです。あとの二人は、奥村チヨさん、園マリさんです。この人のヒット曲は「ゆうべの秘密」ですが、歌謡曲の歌詞が危なくなってきたのはこの曲や、伊東ゆかりさんの「小指の思い出」辺りではないでしょうか。 下の動画を見て貰うと分かりますが、髪型に大きな変遷があり、オードリー・ヘップバーンを思わせるショートヘアーは、かなりのインパクトがあり、私はそれに惹かれていたように思います。後年、景山民夫さんとともに、似非科学・似非宗教の「幸福の科学」の広告塔になってしまったのは残念でした。
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園 まり | ||||||||
園まりさんは「逢いたくて、逢いたくて」や「夢は夜ひらく」などのヒットがありますが、小学生の時の歌手、という印象が強く、また、ふっくらとしたイメージから、随分年上のおばさんだったような気がして、同時代的に聞いた歌手とはちょっと印象が違います。しかし、今回アップするにあたって調べてみると、そうおばさんだったわけではありませんでした。中尾ミエさん、伊東ゆかりさんとともに3人娘として売り出していたことはしっかり覚えています。
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伊東ゆかり | ||||||||
3人娘のひとり、伊東ゆかりさんはウィキペディアによると、「幼少期から進駐軍キャンプで唄い始め、11歳のとき『クワイ河マーチ』(映画「戦場に架ける橋」テーマソング)でキングレコード(後に移籍)より本格デビュー。これは美空ひばりのデビュー年齡(12歳)よりも早い。」と紹介されています。 小川知子さんはちょっと気の強そうな顔立ちで、そこに惹かれていたのですが、伊東ゆかりさんの場合は、少し愁いを含んだ眉を中心にした哀しげな風情を気に入っていました。でも彼女の歌は「小指の思い出」以外はあまりよく覚えていません。「テネシーワルツ」を聞くと、進駐軍で歌っていた時は、幼いながら、こんな風に歌っていたのだろうと感じさせます。
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中尾 ミエ | ||||||||
今ではすっかり「態度の大きいおばさんキャラ」で売っていますが、3人娘として売り出した時期があったんですねぇ。それが15歳の時なんですね。そして翌年、16歳で「可愛いベイビー」を大ヒット(ミリオンセラー)させます。 ウィキペディアにはこのように書かれています。「一時期は歯に衣着せぬ物言いでならし、美川憲一に『和田アキ子と中尾が口喧嘩をすれば中尾が勝つ。』と言わしめるほどであった」 「メドレー」はコニー・フランシスの曲を伊東ゆかりさんと歌っています。「花の3人娘」は渡辺プロダクションの社長宅に3人が住んでいた頃の映像です。
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ブレッド&バター | ||||||||||
中学の英語の時間、ブレッドゥンドゥバター(カタカナ表記は難しい)と習いました。「ブレッド&バター」の名前はしっかり刻まれているのですが、どんな曲を歌っていたのか、記憶が蘇りません。しかし「ブレッド&バター」というと、一生懸命にラジオの深夜放送にリクエストのはがきを書いていたことを思い出します。 CBCラジオの深夜放送のファンクラブに入っていて、確か会員番号が「301040」だったと思うのですが、定期的に会報誌が送られてきました。そこにはイラスト入りのリクエストハガキを紹介するコーナーがあり、「ブレッド&バター」と同じ印象を与える「パンとミルク」さんという常連さんがおり、その絵に感心したことを覚えています。残念ながら若き日の「ブレッド&バター」の映像は見あたりませんでした。
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赤 い 鳥 | ||||||||||
美しい歌声のグループでした。当時の他のフォークグループとはひと味もふた味も違う歌でした。特に各地に残る子守歌などを取り上げていましたから、民俗的という意味ではフォークなのですが、一般に言われていたフォークグループとしては一括りにはできないようです。「竹田の子守歌」はヴォーカル山本潤子さんのものです。
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キャンディーズ | ||||||||||||||||||||
キャンディーズは高校時代に登場してきたアイドルグループで、個人的には藤村美樹さんが好きでしたが、意識的に曲を聴いていたわけではありません。その後、爆発的に売れ始め、解散発表以後は社会現象的なブームを巻き起こしたグループとして、70年前後の日本の歌のコーナーとしては外すことができません。 実は伊藤蘭さんは、日本大学芸術学部演劇学科の1年先輩でした。ただし、大学では一度も姿を見たことはありません。当然と言えば当然です。何しろ絶頂期に向かって急上昇中ですから、授業に出席する余裕はなかったと思います。そのため、演劇学科の掲示板には、常に伊藤蘭さんに教官室に来るように、との張り紙が掲示されていました。 下の動画の「微笑みがえし」から「つばさ」まではNHKの番組です。これを見ると歌が上手くなっていく様子がよく分かります。「ラストステージ」から「つばさ」まではファイナルコンサートの模様です。終わり方は後の山口百恵さんとは随分違いますね。
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山口 百恵 | ||||||||||||||||||||
山口百恵さんはテレビ番組「スター誕生」から生まれた歌手です。その時の番組を私はリアルタイムで見ていました。当時から、いわゆるアイドルとは少し印象の違うものを感じさせる歌手でした。ウィキペディアでは、歌詞の内容と純朴な少女というビジュアルのギャップ、そこから来るある種の背徳感、と表現しています。 当初、歌唱力に心配がありましたが、アイドル路線を脱却して、宇崎竜堂夫妻に曲の提供を求める頃からは、そんな心配も吹き飛びました。ファイナルコンサートでの去り方は、そんな彼女に相応しいものに思えました。 1978年にキャンディーズが解散し、1980年に山口百恵さんが引退したことによって、私たちの世代は、1970年代が終わったことを実感したのです。勿論、遅れてきた70年代後半のスーパーアイドル「ピンク・レディ」は健在でしたが、その人気は退潮しつつあり、1981年にはピンク・レディも解散しました。
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ピンク・レディ | ||||||||||||
ピンク・レディは既に大学生だった私には、いかにも「お子さま」向けで、関心の対象ではありませんでした。しかし、多くの歌詞を提供したのが、阿久悠さんでしたから、その歌詞には興味を持っていました。北原ミレイさんの項で書いたように、「ざんげの値打ちもない」で受けた「衝撃」が大きかったですから、阿久悠さんの歌詞は無視できなかったのです。そのようにしてピンク・レディの曲を聴くのも面白いかと思います。
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ザ・ピーナッツ | ||||||||||||
ザ・ピーナッツは物心ついた時から、シャボン玉ホリデーなどのテレビ番組で活躍しており、そこにいるものとして、当たり前の存在でした。そのためか、子どもの頃は歌手としてよりも、映画でのモスラの小さいお姉さんたち、という印象が強かったように思います。いわゆる「モスラの小美人」です。そして「小美人」は歌も歌うんだよ、というような受け止め方だったのです。 後年、あらためて聞く機会を持ってみると、「情熱の花」や「恋のフーガ」は古い印象も与えない、素晴らしい歌だったんだと、認識を新たにしました。とりわけ「恋のフーガ」に入るティンパニの音がいいですね。
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佐良 直美 | ||||||||
佐良直美さんはいつも「紅白」の司会をしていたようなイメージ(実際は5回)があります。歌唱力のある歌手でしたが、今なら特に問題にはならないようなことで芸能界を干されてしまいました。残念です。 当時よくラジオにリクエストしていました。時には歌謡曲の分野もリクエストしていて、確か「いいじゃないの幸せならば」だったと思うのですが、日曜日の午前中の番組にリクエストしたハガキで「お食事券」があたりました。「一宮飯店」の食事券でした。田舎の中学生は、せっかく当たっても一宮まで行くことは叶わず、結局ムダになってしまいました。
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弘田 三枝子 | ||||||||
弘田三枝子さんは私には「人形の家」で出てきたような気がしますが、よく考えると、それ以前からテレビで見ています。それほど印象の違う別人のような変身を遂げて「人形の家」をヒットさせました。この曲を歌う彼女には凄い迫力を感じたものです。とは言え、実はテレビ草創期から子役でスタートした芸歴の長い方なんですね。
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坂本 九 | ||||||||
坂本九さんは、私の世代にとっては「夢で逢いましょう」のお兄さんで、あまり同時代的な印象はありませんが、「上を向いて歩こう」をアメリカでも「Sukiyaki」としてヒットさせた歌手として、なんだか不思議な存在でした。当時は、中村八大さん、永六輔さんと一緒にテレビに出ていましたから、「6、8、9」のトリオみたいな感じでした。
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黛 ジュン | |||||
中尾ミエさんなどをアップしたのに、黛ジュンさんがないのはダメですね。この人も中学卒業後(1963年から)、米軍キャンプを回っていたそうです。キャンプ回りって、いつ頃まであったのでしょうか。あるいは今でもあるのでしょうか。のちに黛ジュンさんは日活ロマンポルノに出演しました。
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南 沙織 | |||||
南沙織さんはのちに写真家の篠山紀信さんと結婚しますが、篠山さんが「返還を目前とした沖縄のイメージ・アップのための国策歌手かと思ったくらい」と書いているように、突然現れて一気にスターダムに上り詰めました。 このように書いて、ふと思いました。「沖縄の返還」を知らない世代が多くなっているかも知れません。かつて沖縄がアメリカの施政権下にあった時期があるのです。1968年に小笠原諸島が返還され、続いて72年に沖縄が返還されました。こうした事情から沖縄には今でも沖縄だけの政党、社会大衆党があったりするのです。ひたすら可愛かった南沙織さんは、その沖縄から本土の芸能界にやって来たのです。
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森 進一 | |||||
森進一さんは究極とも言うべきハスキーボイスで衝撃的なデビューを果たし、「港町ブルース」などで「ブルース」の代表的な歌手として知られるようになりました。しかし1971年には「おふくろさん」で新境地を開き、さらに74年の「襟裳岬」で演歌の枠を飛び出しました。その後「冬のリヴィエラ」で新しいファン層を開拓するなど、演歌というジャンルでは括れない幅広い活動を続けています。芸能界以外でも社会福祉活動、カンボジア地雷除去キャンペーンなどの活動をされています。 「おふくろさん」はのちに、勝手に変えて歌ったとして、作詞家の川内康範氏(月光仮面の脚本家、福田赳夫・鈴木善幸両首相のブレーン)に著作権侵害で訴えられまし(遺族との間で和解済み)。下の「おふくろさん」はレコード大賞でのもので、その絶唱は番組史上の名場面と言われています。
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石川 さゆり | ||||||||||||||||||||
石川さゆりさんは、とてつもなく歌の上手な歌手です。彼女の歌には明確に表現があり、聞く人を感動させる芸術性が感じられます。私がかつて自分の劇団「パイプハウスシアター」のために書いた「がんばれ ビンちゃん 魔界の協奏曲」で「津軽海峡冬景色」を使わせて戴きました。 「ビンちゃん」は郵便屋の「ビンちゃん」です。ビンちゃんが配達する一通の手紙が元で巻き起こる、「無関心帝国」の魔王との闘いを描いた作品でしたが、ベートーベンの「ベンちゃん」の個性に振り回される出演者一同、そして私が演じた魔王との、切なくもセコイ闘いの物語は、リージョンプラザお城ホールの「こけら落とし」の一環として上演され、ありがたいことに、そしてお客さんにとっては迷惑なことに、受付が捌ききれず、一日2回の公演は開演時間を遅らせなければならないほどの客の入りでした。 こうしたことから「津軽海峡冬景色」には、私は特別な思い入れがありますが、それにしても石川さゆりという人は、年を重ねれば重ねるほど美しくなってゆくような気がします。そして、「天城越え」は絶品です。昔、沢田研二さんが「墜ちてゆくのも幸せならば・・・」と歌いましたが、「天城越え」こそそう思わせる傑作だと思っています。
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加山 雄三 | ||||||||||||||||||||
加山雄三さん―――この方も説明するまでもありません。「若大将」として60年代を席巻した湘南サウンドの雄です。その人生は決して順風満帆ではなく、ホテルの倒産で23億円、今で言えばいくらになるのか分かりませんが、莫大な負債を抱え、夫婦で1個の卵を分け合って、卵かけご飯を食べた話が知られています。その負債を10年で返済し、今でも元気に音楽活動をされています。
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た ま | ||||||||||||||||||||
「平成名物TVいかすバンド天国」――通称イカ天は最初の頃から見ていましたが、こんなに驚かされたバンドはありません。私の中でイカ天史上、ぶっ飛んだバンドは「たま」と「ビギン」のたった二つです。 「たま」は実は一身田に来たことがあります。イカ天出場前ですが、岩崎病院の近くにあった「転石舎」という喫茶店でライブをやっているのです。「たま」と仲の良かった「友部正人」さんが、転石舎の主人、故宇佐美和彦さんと親しく、転石舎に出演もしていた関係から「たま」の出演になったようです。 私が好きだったのは「らんちう」「悲しいずぼん」、この2曲が最高だと思っています。「学校に間に合わない」も捨てがたいのですが。
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南こうせつとかぐや姫 | ||||||||||||
ポピュラーになったバンド名は「かぐや姫」ですが、最初は「南高節とかぐや姫」、ついで「南こうせつとかぐや姫」でした。私の印象に残る最初の曲は、「南こうせつとかぐや姫」になった最初の曲、「変調田原坂」でした。「雨は降る降る 布団は濡れる」で始まる4畳半フォークの嚆矢のごとき作品でした。当然、これによって「正調田原坂」の存在も知ったわけです。(聞いてみるとデビュー曲の「酔いどれかぐや姫」もしっかり覚えていることが分かりました) 以後、「神田川」や「赤ちょうちん」、「妹」などがヒットし、次々に映画化されていきました。当時、神田川のすぐそばに住んでいましたので、ロケも見に行った記憶があります。調べてみると、「神田川」以前に、アニメ「海のトリトン」のオープニング(第7話からエンディング)を演奏しており、アニメに挟まって映像も流されていたのですね。
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御三家 橋幸夫・舟木一夫・西郷輝彦 | ||||||||||||
小学生の時、すでにこの3人は御三家と呼ばれており、いやでもテレビを通じて歌を覚えてしまいました。橋さんは暴漢に襲われたり、舟木さんは自殺を何度か図ったり、西郷さんはいつの間にやら俳優になったり、それぞれに苦しい時代があったのだろうなと思いを馳せます。舟木一夫さんの「学園広場」は映画からのもので、トニー谷司会の「アベック歌合戦」に舟木さんと吉永小百合さんが出て歌うという設定です。「学園広場」に続いて「高校3年生」も歌っています。西郷さんは意外に動画が少なく残念です。
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新御三家 西城秀樹・野口五郎・郷ひろみ | ||||||||||||
「御三家」が60年代なら、「新御三家」は70年代のアイドルです。3人とも同学年(私とも同学年)です。ただ、この時期には既に私の関心は歌謡曲を離れていましたから、歌はよく知っている、という程度です。
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美川 憲一 | ||||
下の動画では昭和48年の「さそり座の女」が一番古いものです。本来なら「柳ヶ瀬ブルース」当時の古いものが欲しかったのですが、あまり古すぎてYouTubeには見当たりませんでした。まあ、それもそのはずで、1966年、昭和41年のヒット曲ですから、ビデオは残っていないのでしょう。私自身は10才、この曲を聴くと、どういうわけか夏休みの子供会のラジオ体操を思い出します。係りの子供が持ってくるトランジスタラジオから、ラジオ体操の前だったか、後だったかに柳ヶ瀬ブルースが掛かっていたのを思い出すのです。下の「さそり座の女」はデビュー当時に近いキャラクターで、今とは全然違います。
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サーカス | ||||
就職活動というものは一切したことがなく、それゆえ東京から帰ってきても仕事はありません。友人に勧められ、喫茶店でアルバイトをしていました。それは津市では珍しかったピザやグラタンを出す、当時ではおしゃれな「マンセット」という店でした。カウンターにはブランコ式の椅子があり、ブランコの店として知られていました。 そのうちに東洋軒の向かい、青色申告会館1階のウエストマンセットを任されることになりました。表にはかなり立派な蒸気機関車の模型がガラスケースに収められており、その機関車が引っ張っている客車というコンセプトで、内装やテープルの配置が仕上げられた店でした。そしてウエストマンセットにはTeackのオープンリールのテープレコーダーがあり、何本かのテープの内の1本の片面はサーカスの歌が収められていました。 Mr.サマータイムは実はコピー曲で、動画の最後の「Une belle histoire」は本家本元のmichel fugainが歌っている映像です。
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昭和ブルース | ||||
「生まれた時が悪いのか それとも俺が悪いのか 何もしないで生きてゆくなら それはたやすいことだけど」で始まる昭和ブルースは、74年のテレビ「非情のライセンス」のエンディングで天知茂さんが歌っていたものです。しかし70年安保を前にして盛り上がった学生運動が次第に追いつめられ、安田講堂が陥落し、東大の入試が中止になった69年に、ブルーベル・シンガーズが最初に歌い、映画「若者はゆく」の主題歌に使われました。 世相が世相だけに、そして歌詞が歌詞だけに、閉塞感に苛まれる当時の若い世代には深く静かに染み渡る歌でした。なお、モップスの項で紹介した「月光仮面の歌」は元々、ブルーベル・シンガーズの歌です。
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印象に残る歌手の方々 増殖中 |
長谷川きよし | 別れのサンバ | 忍冬・黒の船歌 | 死んだ男の残したものは |
あがた森魚 | 赤色エレジー | 赤色エレジー | 昭和柔侠伝の唄 |
ベッツィ&クリス | 白い色は恋人の色 | ベッツィ&エマ(娘) | 花のように |
千賀かほる | 真夜中のギター | 遠藤 賢司 | カレーライス |
西田佐知子 | アカシアの雨がやむとき | 女の意地 | コーヒー・ルンバ |
ゴールデンハーフ | 黄色いさくらんぼ | バナナボート | 太陽のかなた |
シモンズ | 恋人もいないのに | ひとつぶの涙 | ふりむかないで |
五つの赤い風船 | 遠い世界に | 恋は風に乗って | まぼろしのつばさと共に |
高田 渡 | 三億円強奪事件の唄 | 自衛隊に入ろう | 自衛隊に入ろう |
新谷のりこ | フランシーヌの場合 | フランシーヌの場合 | フランシーヌの場合 |
森山 良子 | この広い野原いっぱい | 禁じられた恋 | 悲しき天使 |
じゅん&ネネ | 愛するってこわい | 愛するってこわい | みずいろの世界 |
左 朴全 | 老人と子供のポルカ | ザ・ダーツ | ケメコの歌 |
ザ・キングトーンズ | グッド・ナイト・ベイビー | グッド・ナイト・ベイビー | 夢の中で会えるでしょう |
ハニー・ナイツ | オー・チン・チン | つボイノリオ | 金太の大冒険 |
Kとブルンネン | 何故に二人はここに | あの場所から | 雲の上の城 |
ヘドバとダビデ | ナオミの夢 | ナオミの夢 | ナオミの夢 |
湯原 昌幸 | 雨のバラード | 青山 和子 | 愛と死をみつめて |
石橋 正次 | 夜明けの停車場 | 雪国へおいで | 鉄橋を渡ると涙がはじまる |
田中 のり子 | 鳥になった少年 | 三善 英史 | 雨 |
いしだ あゆみ | あなたならどうする | ブルーライト・ヨコハマ | ブルーライト・ヨコハマ |
ちあき なおみ | 喝采 他 | 四つのお願い | 朝日楼 |
梓 みちよ | こんにちは赤ちゃん | メランコリー | 二人でお酒を |
中原 理恵 | 東京ララバイ | 東京ララバイ | マギーへの手紙 |
安西マリア | 涙の太陽 | 涙の太陽 | 恋の爆弾 |
森山 加代子 | 幸福のしっぽ | じんじろげ | 白い蝶のサンバ |
笠置 シヅ子 | 買い物ブギ 東京ブギウギ 銀座カンカン娘 | 歌う明星 1 2 | |
平田隆夫とセルスターズ | ハチのムサシは死んだのさ | 悪魔がにくい | |
ディランⅡ | 時は通り過ぎて | プカプカ | 男らしいって・・・ |
ベッドで煙草を吸わないで | 沢たまき | 西田佐知子 | 梓みちよ |
あのねのね | 赤とんぼの唄 | 丸山 圭子 | どうぞこのまま |
ヴィレッジ・シンガーズ | 亜麻色の髪の乙女 | パープル・シャドウズ | 小さなスナック |
ジャガーズ | キサナドゥーの伝説 | 君に会いたい | 映画「敵前上陸」 |
ゴールデン・カップス | 愛する君に | 長い髪の少女 | I'm So Glad |
ワイルド・ワンズ | 思い出の渚 | ブルー・コメッツ | ブルー・シャトー |
ピンキーとキラーズ | 恋の季節 | 恋の季節 | 涙の季節 |
ジ・オックス | スワンの涙 | カーナビーツ | 好きさ好きさ好きさ |
ザ・スパイダース | 夕陽が泣いている | 風が泣いている | あの時君は若かった |
ザ・サベージ | いつまでもいつまでも | 寺尾 聡 | ルビーの指環 |
渡辺 真知子 | ブルー | 迷い道 | かもめが翔んだ日 |
山崎 ハコ | 望郷 | 織江の唄 | 飛びます |
城 卓矢 | 骨まで愛して | 三田 明 | 美しい十代 |
嘉門 達夫 | ゆけゆけ 川口浩 | 鼻から牛乳 | 河内のオッサンの歌 |
日野てる子 | 夏の日の想い出 | 高田 恭子 | みんな夢の中 |
瀬間 千恵 | 倖せな愛などない | 黒いオルフェ | イスラエルの子守歌 |
加川 良 | 教訓 I | 下宿屋 | こがらし・えれじぃ |
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