日本人の親切は、勝手な思い込みによるものです。想像力や共感に欠けているので、常に自己中心的です。相手の欠点を細かくあげつらう事を親切だと思っている人もいます。
彼らは「日本人は世界一親切で、礼儀正しい国民だ」などと自分で言ってしまう人々です。身の回りに「俺は優しいだろう?」などと言う人間が居たら、そんな人を信用できるでしょうか。
アラン・デュカスが日本に来た際、「料理店とは(良い)思い出の商人である」と語ったことがあります。ところが昨今の日本では、ホスピタリティをはき違えており、結果として悪い思い出を客に与えています。
映画「ブレードランナー」では、屋台の日本人が、客の注文を素直に聞かずに「二つで十分ですよ」と説教する場面があります。日本では店の主人が、ウンチクを垂れたり、客に食べ方を指示したりすることがありますが、彼らはこれをプロとして当然許される権利であり、「おもてなし」だと考えているのです。
地方の旅館に行くと、大して旨くもない「活き造り」が出て来たりしたものでした。料理人の腕によって多少レベルは上下しますが、どこに行ってもワンパターンの食事が出てきます。ところが、食事込みの宿泊料金なので客に選択の余地はありません。
日本人は客が本当に求めているものを与えずに、自分たちの利益を上げることだけに目がくらみ、自分勝手な「おもてなし」を繰り返しています。
第一次世界大戦の時、日本は好景気でにぎわいましたが、欧州戦線で日本製の缶詰を開けてみたら石ころが詰まっていたというエピソードがあります。儲けられるうちに、どんな汚い手を使ってでも儲けてやろうというのが日本人なのです。信頼を築いて長期的にお客を確保しようという考えはありません。
何かが流行るとみれば、猿真似でコピーを作り、儲けられるだけ儲けて早々に撤退します。とりあえずその場その場で、カネが得られれば良いのです。日本にはそんな業者が沢山いるのです。
それに対して、末端の人々はサービス精神があり親切なのかというと、そんな事はありません。
神奈川県南西部の外資系ファーストフード店で、仕事で日本に来たらしい外国人が、注文で立ち往生している所を見たことがあります。外人は顔を紅潮させながら英語で注文を繰り返していますが、言葉が全く通じず店員は固まったままです。日本人は学校で教わらなかったこと、マニュアルに載ってないことに直面すると、思考停止に陥り、行動も止まってしまいます。語学力ではなく、柔軟に解決策を見出す能力に欠けているのです。しかも「相手が困っているから何とかしよう」という気持ちはなく、単に「運悪く面倒な客に当たったなァ」という感覚なのです。
そんな彼らが、客の存在を無視した巨大なプロジェクトを立ち上げると、目も当てられないような悲惨な状況になります。
旅客機を作ろうと試みていた企業が、コ○ナ禍を機に、大幅な予算や人員の削減に踏み切りました。これからも時々「試験飛行をやります」と言ってニュースに載ることはあるでしょう。しかし実質的な撤退です。ところが失敗したとはいえ、多額の補助金を国から頂ける安定したビジネスでもあったのです。
振り返ると、役に立たない巨大戦艦や植民地経営、超高速鉄道とか、スパコンとか、復興計画などなど、誰も止められないおかしなプロジェクトで、この国は溢れかえっています。そもそも明治以降の国家運営自体が、失敗だったのかもしれません。それらには安価な労働者や兵士が湯水のように使われ、彼らから搾取したカネが投じられています。
これらは特定の人々の自己顕示欲の現れであったり、彼らの面子を保つものであったりします。また、成果をあげられなくても、関係者がうまい汁を吸えるビジネスでもあります。利用者や国民を豊かにする事など、もとから眼中にないのです。
いまやメイド・イン・ジャパンは粗悪品の象徴です。あいかわらず労働者を劣悪な環境や給与水準に置いたまま、ダンピング製品をばら撒く事で利益を食もうとしていますが、質の良い外国人労働者は来ず、まもなモノも作れなくなりました。
その代わりに「インバウンド」と称し、外国人観光客を呼び込もうとしています。しかし、その「おもてなし」とやらは、日本人が作るモノ以上に、杜撰で酷い代物なのです。「お上」から言われるままの行為に、心などこもっている訳がないのです。